月鏡の畔にて

ruri

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第九話 彼は誰 時の渡り鳥

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 ○

 親友との時間はあっという間に経つ。ユーリと別れた私は、世界の終末みたいな色合いの夕焼け空の下、帰宅時間の人の群れに飛び込む。
 昼と夜の狭間にはいくつも名がある。例えば逢魔おうまとき。この世とあの世が繋がって化物がうごめきだし、災いが起こるのだとか。私は足先に延びた人影のおどろおどろしさに気を取られつつ、ゆっくりと家へ向かう。

「暁」

 前方から聞こえた声に足を止め、顔を上げる。
 舗道の真ん中に斜陽を浴びた御影が立っていた。魔法で姿を隠さず素顔で出歩いてるのは珍しい。会うのは今朝けさぶり――なのに何年も顔を見てなかった心地がした。
 ある言葉を思い出す。『彼誰時かわたれどき』。傾いた太陽の影になって、かの人の正体がわからなくなる時間帯。

「仕事帰りか? いや、その可愛らしい格好から察するに別の用か」
「あ、えっと……」

 私がどもる中、御影は黒手袋に覆われた手でひさしを作り、暗い場所へ退避しないかと言った。了承して細い路地に入ると、地面に落ちた二人分の影は日陰に紛れる。視界はぐっと暗くなって、彼の表情も窺えなくなった。

「……ねえあんた」
「ん?」
「今から何すんの」
「帰宅して論文に目を通そうと思ってるが」
「嘘ね」
「ああ」
「レオナさんたちと話しに行くんでしょ」
「……そうだね」

 潔い声に私は目をきゅっと瞑り、下唇を噛んだ。それを見ていた御影はいやらしい嘆息もなく私をなだめる。「これは最優先事項だから」と落ち着いた口調で。

「僕は水神の巫だ。月鏡を侵す者を見逃すことはできない」
「そんなの肩書きだけなんだし、警察とか軍に任せとけば」
「否だ。紅華ホンファは……アレスは僕にしか止められない」
「アレス、さん……?」

 現れた名前に怯む。今思い浮かぶのは、子どものような癇癪かんしゃくを起こして図書館内で刃物を手に暴れ回る姿。返り血の頬が美しくも恐ろしかった。レオナさんとの邂逅かいこう時だって、御影に逃がされて身を隠す私の横を、彼女が凄まじい速さで駆けて行くのを見た。
 戦闘を好む人種。麗しき獣。そんな人と敵対しようだなんて。私とあの人は、友達だったのに。

「彼女は本を正せば僕の相手だ。人知の範疇はんちゅうに無い存在をどうにかできるのは、彼女と同等のくらいなものだろう?」
「……」
「そういうことさ。暫し僕は消えるよ」

『消える』。御影なら本当にやれてしまうのだろう。けど……。

「私は見失わないわよ。普通に追っかけるし」
「命知らずだ。君は引き際もわからん愚者だったか」
「は? 勝手に居なくなんなってだけよ。ただのお願いも聞けないの?」
「情に憑かれてるんだな。実にくだらない」
「それはあんたもでしょ」
「……僕には君が何かを恐れているように見えるがな」

 その通り。私は、逃亡とは違う喪失の感覚に怯えている。御影の居ない日常なんて容易に想像できてしまう。でもそんなの受け入れられる訳が無い。このわがままだけは絶対に通したい。

「ええそうよ。あんたが怖い。てか、あんたを失うのが怖い!」

 正真正銘のエゴを言い放つ。御影の瞳ははらりと伏せ睫毛に隠された。それは彼が物想うときのサイン。時間を呑むように深く思慮するのだ。そして次にあらわれた蒼眼は、寒気さむけがしそうに冷えきって、浮世離れした覚悟の光を宿していた。

「死なないよ、は」

 御影は自らの腰に着けた革ポーチに目線を移す。中身は手帳、調査道具、筆記具――透明な水の入った小さなガラス瓶。ラベルの日付は今日だ。
 水神さまもあんたも私のことは拒んでいたのに、どうして。

「それって、まさかそんな……」

 言葉の先を紡げない。どうして口に出せない。私の頭と体は正常じゃなくて、目の前の事実から逃避しようとしてる。いや、こんなことはたったの一瞬でも思い描きたくないし味わいたくない。
 彼が命を懸けて傷つき、再び水の副作用で『忘れる』相手は誰だ。 

 私かもしれない。
 そして、私じゃないかもしれない……。


「これは保険だ。手は慎重に打つ」
「……」
「俺に従って」

 彼の声はいつも以上に柔らかく、不折の意志に満ちている。何も言わせない気だ。でも、彼よりもっと頑固で幼稚な弩級どきゅうの厄介者がいる。

「従えない」

 私のことだ。

「意味がわかんない。なんであんたが命を懸ける必要があんのよ」
「何故って……俺はここに居てはいけないから……」
「私が不幸になるから?」
「…………」
「じゃあっ、ずっと私のそばに居ろ!!」

 私は踏み出した。胸の奥で真っ赤な火がぼっと勢いを増す。明るく熱く燃え上がって、つい彼がたじろぐくらいに。

「私にとっては、あんたのこと知れないほうが不幸よ」
「!」
「だってまだ2年よ。短過ぎるっての。これ、2世紀生きてるあんたなら尚更だと思うんだけど」
「そりゃ違いないけどさ……」
「いいから無事で戻って来て。じゃないと本気で嫌いになってやるわ。し、下の名前だって呼んでやんない」
「…………俺を止めないのかい?」

 蒼く吸い込まれそうな双眸が私を見る。その眼差しがいくら真剣で切ない想いを乗せていようとも、私はもう揺るがない。
 そうやって引き留められる前提で私に会いに来たって、思い通りにはなってやらない。代わりに私は笑ってやるのだ。

「知らないわ」



 夕焼けの光を遮った路地で、御影は眩しそうに私を見下ろす。そこに居るのは等身大の飾らない彼だ。いつもみたいに名を呼べば、深いまばたきが返ってくる。

 ああ。やっぱり抜け駆けは性に合わない。アレスさんと仲良くなってた私だって火種だし、好んで首を突っ込んだことから抜け出す気は無い。よくあるファンタジーのような、大人しく王子の救いを待つお姫様にはなれない。『行かせてからが本気の勝負』だ。

 白服の胸に私の握り拳をとんと差し出して。銀糸のかかる影を帯びた端整な顔を、眺め入るように焦がれるように、この両の目で見据えた。

「大丈夫。あんたには私がついてる」

 一瞬、御影の瞳孔がきゅっと小さくなる。それから彼はふっと笑って、私の髪を優しくくように撫で――白い上着の裾を翻して路地の外へ飛び出して行った。
 私がすぐに路地裏から顔を出しても、もう彼の姿は無い。あるのは、日の暮れた人混みの繁華街だけだった。
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