月鏡の畔にて

ruri

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第九話 彼は誰 時の渡り鳥

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【湖東には『霧の森』なる森林がある。常緑の針葉樹と落葉広葉樹が鬱蒼うっそうと繁り、秋口の早朝の時間帯には深い霧を垂れ流して地域一体を包むことから名付けられた。森を北へ抜ければ水神信仰の総本山である大神殿、東へ山道を登れば深奥には誰も立ち寄らぬ秘境の社がたたずむ。そこは禁足地『龍のひとみ』。月鏡の湖の水源のひとつにして、変若水をちみづのとめどなく湧く神秘の泉である――】


 その古い本には小口に禁書の刻印。無機質な文面にときめいた私は、いざなわれるように森の中の鳥居をくぐっていた。


 緩やかな山道を登り始めてから、もう30分は自分の息遣いを聞いただろうか。脇道に見える誘惑――廃墟めいた小ぶりな建造物群を無視して、私はずんずんと進んできた。漂う朝靄あさもやは現実と幻の境目を曖昧あいまいにして、私を奇妙な感覚に陥らせている。
 なんでも水神さまは特定の姿を持たないため、『こちらが求める相手』に身をやつして現れるらしい。ある伝承では濃霧と共に顕現し、人間の記憶を読んで生者にも死者にも化けるとあった。おかげで私は自分のシルエットが霧に映る度にびびっている。しかし、この足は止まりも引き返しもせず、ただ無心に前へ前へと私を運んでいった。

 *

 噂に聞く龍の睛は森がひらけた場所にあった。木の葉は時期尚早に赤や黄に色づいており、こんこんと水の湧く岩場の沢からは小鳥が数羽飛び立っていく。水場の傍には北の神殿と同じ意匠の小さな祭壇があったけれど、捧げ物の食料はほとんど朽ちてしまっていた。
 私は服に葉をつけたまま歩み、透き通った霊泉の前に膝を折ってへたりこむ。暗い顔が水面に反射してゆらゆら揺れている。私はそれを、しばらくぼうっと眺めていた。

「ここだったか」

 背後から声が聴こえた。冷淡で抑揚の無い聞き入りそうなテノール。御影みかげだ。やっぱり追いかけてきた。
 砂利を踏む音が早足気味に近づいてくる。靴音に無視を決め込んでいると、それはやがて右後方で止まった。
 
「知ってるかい。この場所は神境で、かんなぎ以外の立ち入りは禁止されてるんだ」
「……」
「それにもかかわらず、君は何故ここへ来た?」

 淡々とした問いに私は振り返り、「あんたこそ」と吐き捨てる。
 御影は傍らで片膝を立て、冷徹に律する面持ちでこちらを見ていた。ついさっき見かけたばかりの、汚れひとつない白のロングシャツを羽織はおっている。憂いを帯びた双眸に灯る光は、まるで私を叱責するかのようだった。それが少し嫌になって、再び沢の方へ顔を逸らす。

「怒ってるでしょ」
「少なくとも良い気分ではないよ」
「……」
「この視界不良に、道中は相当足場が悪かった筈だ。森には危険な野生生物も数多く根付いてる。早いところ引き返さないと君は、」
「『月夜見つきよみの水』よ」

 そう言い放てば、たじろぐ気配。私の顔を映す水面にひとつ大きな波紋が起きた。

「ほんとに、単なる好奇心なの」
「……すすめられないな」
「置いていくなって言ったから。だから、こうしてるってのに」

 言葉を切り、深く呼吸してから私は尋ねる。

「なんで」
「不老は半永久の地獄だ。君を道連れにはできないよ」
「そんなこと言われても、キスくらいしてくんないと気は変わんないわよ」
「……。ならばどう考えてる。君が『月夜見の水』を飲んだ場合、副作用で一体何を忘れるのか」

 あれ? 違う。
 臓物ぞうもつがきゅっと縮み、湧き出る冷水に似た感じを鳩尾みぞおちに覚える。確かさえさんは御影に『あの話』はしてない。

「じゃあさ。あんたは何を忘れてたの?」

 試すように疑問を投げて待つ。彼は答えない。否、答えられないのだ。
 私の知る御影なら「そんなこと知って何になるんだ」なんて渋りながら、失っていた記憶の中身を教えてくれるだろう。もし記憶が戻っていないなら、正直に「わからない」と答えるに違いない。
 じゃあ今相対する彼が例の話題を知っていて、なお一切言葉を返さないのは何故だ。そして、ここへ来てから私の名前を全く呼ばないのは何故だ?

御影あいつは副作用のこと知らないのよ」
「……」
「そうよね。水神さま……?」

 震える声で笑ってやると、切り詰まった雰囲気がふわっと緩んだ。霧が薄まり誰かの口元が歪む。そうだね、と納得する声が切なく響いた。

「流石はカイルの後胤こういん。だが、これに免じて『水』は諦めてくれ」

 肩に軽い手の感触があって思わず振り向く。温度のない柔らかな何かが、ふっと私の唇に触れた。

「…………ぇ」
「霧が落ち着くまではここに居ろ」

 低く穏やかな囁きでせつの混乱が明ける。目の前をちゃんと認識できるようになったとき――まだ彼の姿はそこにあった。
 気付けば足元に霜が薄く下りて、沢全体を無数の氷錐が覆っている。この期に及んで身震いが抑えられない。簡単な証明に恐怖しながらもたかぶっているのだ。
 が腰を上げる。私はぱっとその手を掴む。黒い手袋は凍えそうに冷たかった。

「待って」

 悲痛に訴える。返答はない。

「い……行かないで。寂しい、から」



 少しの逡巡しゅんじゅんの後、御影のかたちをしたものは音も立てずひざまずき瞼を閉じる。嘆願が意志を折ったらしい。
 私は若干躊躇ちゅうちょしたけれど、結局口を開いていた。

「あの、今までどこに居たんですか……?」
「そうかしこまる必要は無いよ」
「へ?」
「カイルの後胤。僕は君のために心の記憶メモーリアを読んだんだ。気を張らないでくれ」
「……っ」
「これでも十二分に模したつもりだったが。まだ違って見えるかい?」

 彼に化けた何かは優雅に自分の手の平や甲を眺めては、私へ涼やかな眼差しを寄越す。
 いや、逆だ。外見、口調、声の抑揚、表情、仕草、重心、果てには気配まで。完璧すぎて本物の彼ではないかと疑ってしまった。私に対する態度だけが違っていて、何と相対してるのかも分からなくなる。
 が本当に水神さまなら言いたいことは尽きないのに、ひたすら絶句して、目が離せない。

「時に何か話がある顔だね。云ってみるといい」
「えっ……と……氷閉も酷いし、いろいろ巫の人が困ってんの。『お声すら聞けないのじゃ』って」
「それは無理な願いだ」
「じゃあなんで私には会えんのよ」
「……。僕は水神に違いないが、今は名を忘れ、贖罪しょくざいのため凍った水面下を揺蕩たゆたう存在だ。知情意ちじょうい享有きょうゆうや自由の享受など、記憶を懸けて忌避すべきことに他ならない」

 封印。その二文字が思い浮かんだ。

「……私が!」

 反射的に声を上げる。蒼いひとみがこちらを捉えた。

「私が、あなたを助ける」

 いや何言ってんだ。私が好きなのは御影だ。いくら見た目が同じだからって――でもこの身体は正直で、話し始めた口は止まらない。

「力になりたいの。なんか私の問題な気しかしなくて。あの、自分でもよくわかんないんだけど」
御影このかおが君に『助けてくれ』と言ったからか?」
「そっ、それ抜きでも見えたのよ」
「しかし、これは200年解かなかった縛りだぞ。にろくに気を許せぬ小娘が、この僕を一体どう救うつもりだ」
「は? どういう意味よ」
「君は秘密を暴き、無償の愛を与えられる器なのかと訊いてる」
「馬鹿にすんな、帰る!」

 かっとなって立ち上がった。のに。


さとる


 ――怒気が途端に消え失せた。

 名を呼ぶ柔らかな声音が『そのまんま』だ。雰囲気だって彼でしかないのに、高性能の第六感は何かが違うと告げている。なんて恐ろしい。なんてわくわくするんだ。

「霧が晴れるまでは動くなと言ったろう。隣に来なよ」
「……う」
 
 返答に詰まって三角座りで膝を抱え込む。私がこうなるのをわかっているから、無貌むぼうの神は御影かれの幻を纏うのだ。
 見慣れたものと寸分違わぬ姿で、は言葉を忘れてしまったかのように黙る。銀糸のかかる横顔は亡霊を彷彿ほうふつとさせるほど静かでくらい。辺りの氷が昇華してきらきらと空中へ消えていく。
 私は唇に残る感触を確かめて、行き場のない気持ちに襲われるばかりだった。

 *

 深い白霧はいつまで経ってもれることはなかった。「麓まで送るよ」。御影の声でぼそりと提案され、私は黒手袋に引かれるまま山を下り、仄暗い森をあっという間に抜けていった。
 やがて白服の裾から出る黒ブーツが動きを止めた。私は握られていた手を離し、物言わぬ彼をゆっくりと追い越す。視界は眩しく澄みわたって、霧の森を出たこと、そして日が明けていたことを悟った。

 ――さっきまでの全ては夢や幻だったんじゃないか。

 胸の奥をつく感情にはたと振り返ろうとした、その時。


「あの子が心をひらけたのは君だけだった。今度は君の番だ」 


 心地の良いテノールの響きに聞き惚れてから、今度こそ背後を確かめる。求めた白衣の姿はもう、どこにも見当たらなかった。
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