月鏡の畔にて

ruri

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第八話 孤独な氷輪

【皇子と覡】

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 ★

「やられましたね。今のは御影だ」

 皇子が呟いた瞬間、店内を一陣の強風が吹き抜けた。もう隣の席にアレスの姿は無い。相変わらずの喧嘩っ早さである。
 割れた皿やらで荒れた現場を悠然と後にして、相棒アレスの行方を思案しながら、皇子は宝石の如き赤目を細める。人少なな街の舗道を支配する、かりそめの静寂を嘲笑あざわらうように。

「背後から耳打ちし、この場を離れるよう助言したのですね」

 静寂を吹き抜ける、風鳴りの音。

「お引き取りにならないとは予想外でした。折角見逃して差し上げたのに」

 周辺に人影は無い。しかし皇子の言葉はまるで相手がいるかのように放られる。その高性能な耳が、姿無き者の呼吸音や微細な衣擦きぬずれの音を拾ったのだ。

「言語堪能で聴覚に優れるにもかかわわらず、人の話を聞けないらしい」

 石畳に立ち上る陽炎かげろうの向こうから、涼しげな男声の返事が聴こえた。皇子は驚きを見せず、形良く口元に笑みを浮かべて応対する。

「おいかりですか?」
「面倒とは思ってるよ、帝国君の国は懲りないからな。で、何の用だ」
「寛容な御方ですね。手を上げないとは」
「話せと言ってる。君の身内が帰ってくる前に頼むよ」
「……。月鏡ならびに『北の水神』の支配です」
「北?」
「『四大神』をご存知ないので? 自然を司る土着神として世界各地でまつられる神々――この地に眠る水神もその一柱なのですが」

 南の火神、東の風神、西の地神、北の水神。皇子が指を折って列挙すれば、白昼の曇り空の風景、その一片が揺らぐ。何か腑に落ちたらしい。

「何故巫覡ぼくらに目をつけるのか理解したよ。賛同はできないが」
「我が国の繁栄と維持のためですから、多少は許容願います」
「話にならん。失せろ」
「そうもいきません。我々にも矜持プライドがありますので」
「なら今後一切干渉してくれるな。月鏡この国にも、僕の近辺の人間にも」
「当然。ゆえに黒廼クロノさんへ助言したのですよ。今後貴殿に関わることのないように、と」

 その時。何もない虚空こくうから、丈の長い白服――御影の長身が滲み出るように姿を現し、皇子の肩を掴んで店の壁に押し付けた。ついに皇子は笑みを消し、左腰を飾るサーベルに軽く手をかける。やがて御影の喉から発されるのは、身も心も凍らせるほどの絶対零度の声音。

ぬるい。そんな子供騙しを通すつもりか?」
「……何」

 御影は皇子を覆い隠すように見下ろして、光る蒼眼で重く威圧する。

あの子たぶらかそうとしただろう? ところが呆気なく正体を見破られ、虚実混交の昔話をぶつける脅しに切り替えた……違うかい、レオンハルト」
「フフ。ご明察」

 余裕綽々しゃくしゃくと含み笑いする皇子。まずは誘惑、それが効かないなら暴力行使も辞さない。皇子の打つ手とうごめく計画に、御影の眉がひそめられる。

「屈すると思ってるとは。なんて短慮だ」
「貴殿に掣肘せいちゅうを加えるためですよ。卑劣ひれつ狡猾こうかつ、なんとでもののしればよろしい」
「いや、僕じゃない。暁さ」

 細い肩から手を離して御影はゆっくりと距離を取る。皇子も後を追って路地の中央に踏み出した。
 どんよりと黒雲に覆われ始めた空の下、御影は腰のベルトに差した日傘を抜き、一気にひらいて自らに傾けた。白銀の前髪の奥から凍てつく眼光が皇子を貫く。

「時にレオンハルト。知ってるかい」
「……」
「月鏡では数十年のスパンで荒天期が訪れる。それがここの気候、すなわち自然の摂理だ。予兆としては渇水や氷閉の発生、近隣諸国の森林一帯での長雨が挙げられるんだが、つい先日僕がそれらを観測した……意味は解るな?」

 御影の白手袋が小さく天を指差した。

「降るぞ」

 はっとしてももう遅い。頬に冷たさが走ったなら、それは間も無くしの突く雨と化す。皇子はけたたましい雨音に耳を塞ぐほかない。髪やマントはどんどん水を吸い、行動の自由と戦意と体温をぐ。
 豪雨に打たれる皇子は深く呼吸。正面にゆらりと立つ白い影へ好戦的な眼差しを送る。

巫覡ふげきの祈りですか……!」
「先日霖羽知己に進言したのが効いたかな。『濡れ衣』を着た気分はどうだ?」

 つまり、それが意味するのは巫の雨乞い。「ようやく地金が出たか」と問う声音が、穏和な態度だった皇子のまなじりを鋭くする。

「これは最悪ですね」
「もう逃げないから、狙うなら僕の命だけ狙いなよ」
「……ほう? 三年前に逃走したのは、あえて追わせて月鏡へ誘い込み、優位を取るためでもあった、と」
「出先より生まれ故郷さ」

(そんな訳あるか。弱いだけの俺を追い回して、あの子までおびやかして。もう止して欲しいよ)
 冷ややかな瞳の奥で弱音を灯らせる――皇子には気づかれない。

「しかし、たかだか小国の老爺ろうや一人に手こずっていては帝国の皇子の箔が落ちてしまいますね」
「……何故火がついているんだ?」
「ご冗談を。けしかけたのは貴殿だ」

 やはり簡単には折れない。丁寧な口調の裏から滲み出る本性。

「私は平和主義でして本当に心苦しい限りですが……貴殿の愛する相手でさえも、地獄まで追い込む覚悟です」
「愚の骨頂だな」
「いいえ。望んで打ち負かす!」

 燃える紅の眼光。皇子の口角が嗜虐しぎゃく的に上がる。対する御影は冷然と、子どもじみた本音を隠して挑発の言葉を返す。

「出直して来い。ただし暴力は御免こうむる」
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