月鏡の畔にて

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第七話 天泣

【天泣】

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 夜の初めの月鏡の街をかっする黒髪の青年。その手には、今年の酷い日差し対策に持ち出した黒傘。
 仕事を終え、今宵こよいも自らを偽りながら家へ帰る御影だ。

 何やら住宅街のほうが騒がしく、目をやれば一角から大きな黒煙が立っている。火事だ。温暖で日照時間が長く大気が乾燥しやすいのと、日が暮れると底冷えして暖炉を使う家が多いために、春は火災が多い。
 普段なら目もくれず素通りするところだが、何故かそれはできなかった。路地の石畳を足早に踏んでいくと耳に届く野次馬の声が大きくなる。燃え広がったら大変だ、避難しないと、あの部屋には人がいるんじゃないか、どうする、消防を呼ぶか、巫に雨乞いしてもらうか……。

 しかし、見覚えのありすぎる姿をその目に映したとき、念入りにかけた御影の幻術がいともたやすくがれ落ちた。

「暁!」

 御影のよく通る声が響き渡る。壊れたからくりのように振り向いたのは、茶髪の華奢な彼女。まるで美しい一枚絵のようだった。
 愛用の日傘を片手にぶら下げたまま、結んだ銀髪と白服の裾をなびかせ暁のもとに駆け寄る。こちらが声をかけるまで彼女は息の仕方を忘れて立ち尽くしていたようだった。呼吸は浅くリズムが狂っており、にきびひとつない額には汗が何滴も浮かび上がっている。
 焦りを極力隠そうとするも、御影の喉から出たのは高調子の声だった。
 
「暁、なぜこんな場所に居るんだ」
「ねぇ……」
「どうしたんだ。体調を悪くしているのか?」
「違う、違うの……」
「ゆっくり息を吸って話してくれ。何があった?」
「中にユーリが居るかもしれない。ぼーっとしてる場合じゃない、私が行かないと」

 御影は目を見張った。暁は『どこも見ていない』。美しく大きなあけぼの色の瞳の中で、光るほむらの赤と薄暗い闇が渦巻いている。通常の精神状態でないことはすぐ判った。
 白手袋で暁の両肩に軽く触れ、間近に目を合わせる。それでも暁の様子は変わりない。普段ならば赤面なり絶叫なり、可愛らしい反応を寄越してくれるというのに。

「落ち着かないか。君は一刻も早くこの場を離れるべきだ。風向きが変わったからじきに煙が流れてくるぞ」
「あそこは私の親友の家なの!」
「……きっと無事だ」
「こんな夜に外出してる訳ない、中に残ってるのよ。ほら、窓に!」

 暁が乱暴に指差した先を、御影はちらりと確認する。ちょうど金髪の若い女性が二階の窓から身を乗り出そうとしているところだった。部屋の奥は赤い光に満ちている。早まるな、下で受け止めに行くぞ、と興味本位で集まってきた群衆が口々に叫ぶ。
 ち、と舌打ち。騒ぐだけで何もしようとしない人だかりを睨み付けてから、御影は暁へ語りかける。

「しかし君が行くべきじゃない。犠牲を増やしたいのか」
「……るさい」
「この炎の勢いだ、大雨が降ろうと消火は難しい」
「あんた……あんたはユーリなんてどうでも良いと思ってんでしょ。だからそんなの言えんのよ! もう良い!!」

 激情が理性の器を壊して氾濫したかのようだった。肩に乗せられた腕を激しく振りほどき、暁は飛び出してしまう。頭は真っ白になって、激しく燃える火焔のほうへ駆けようとしたその時。

 暁の細い腕を掴み、引き留める手。

 炎のあかに染め上がった茶色の髪を乱して振り返り、暁は目をうるませて、ああ、とこぼす。

「僕を置いていくな……!」

 中に朱色を灯した青い虹彩が揺れた。切なる願いに時間が止まる。
 暁の世界の音が遠方からようやく帰ってくる。状況を理解して、想いが燃え尽きたように、暁は大きな目から涙をこぼし始めた。

「なによ。じゃあ、なんなの……」
「……実に利己的な願望だが、君まで居なくなるなんて僕には耐え難いんだよ」
「…………」
「燃え盛る炎に突っ込むなんて骨頂こっちょうだ。煙を吸わないようにあっちへ逃げることを優先しろ」

 至って冷静沈着なふうに御影が告げた。火事とは逆方向へ、腕をピンと伸ばして指差す。しかし、整った顔には苦渋の色が現れ、白い手袋に包まれた指先は小さく震えている。
 地面に崩れ落ちる暁。さっき強く掴んでしまった腕を、御影はそっと離した。

「無理よ。無視するなんて」

 彼女はうずくまって人目も気にせず泣き嘆き始めた。かける言葉は見つかりそうにない。逃避するように御影が天を仰いで、雲ひとつない夜空が映る紺の目を細める。


 ふと前方へ視線を戻せば、建物を焦がす炎は跡形も無く消滅し――代わりに鎮座するは、つゆしたたらせ白霧を纏う氷剣の群れ。これは幻か? だが、焼け落ちた痕、立ち上る名残なごりの煙、肌を刺す冷えた空気が現実だと主張する。
 火元の部屋の窓から女性が顔を出して、悲鳴とも歓喜ともとれる声で「凍ってる!!」と叫んだ。辺りの野次馬がどよめき、水神さまだ、助けてくださったと騒ぎ立てる。
 
「まさか。なんのために」

 御影が目を見開き低く呟けば、ぽつりと己の頬に冷たさが走る。天泣てんきゅうだ。
 慌てて布張りの傘を開いて暁へ傾けると、間もなく辺りは雨の音と匂いに包まれていく。はみ出た肩を濡らす御影がいつくしむ眼差しを注ぐと、暁はようやく、びしゃびしゃになった顔を上げる。

「……みかげ」
「無事だったようだ」
「ユーリぃい」
「ああ」

 そして、御影の持つ黒傘の下で希望の雨は降り続けた。
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