月鏡の畔にて

ruri

文字の大きさ
上 下
65 / 96
第七話 天泣

3

しおりを挟む
 ○

 水の神さま。君は我々ヒトについて知りたいんだってね。ではこの俺が、いちばん好きなこの本を君に捧げよう。そして君の名を、君へ。

 まずは、小降りの雨や雪を意味する『ヒ』。君には繊細で恩情おんじょうな神であってほしい。

 そして、気高く、賢明で、強く、美しい。すべてを包含した『タカ』。我が祖国レダの紋章しるしにも用いられている、俺のお気に入りの生き物さ。

 あわせて、『ヒヨウ』。どうだ、水の神さま。結構良いだろう。


 ――ありがとうカイル。今から我が名はヒヨウだ。



 この文言もんごん。聞いたことがある。
 あ。幼い頃に母が読んでくれた絵本だ。母の優しく語る声に、私はよく微睡まどろんでたっけ。ということは、この記憶メモーリアは私のものだろうか。

 それは、私のご先祖様である渡来の王子カイルが独りぼっちの神さまに出会い、共に過ごし、名前をつけてあげる話。月鏡――いや、母の一族に伝わる昔話だ。
 絵本は今どこに眠っているのだろう。捨てちゃったかな。


 明日は休みだ。
 目が覚めたら、図書館を探してみようか。

 *

 街並は暖かな春の日が差す夕暮れ。最近は晴れの日が続いたせいか、遠目に見た月鏡の湖は少し水位が下がってきていた。こんな細かい変化まで分かるのは、きっと毎日の湖観察を欠かさない私くらいだろう。
 その私は図書館を手ぶらで後にし、がっくりと肩を落としていた。目当ての本は天下一の所蔵とうたわれる月鏡の図書館にも無かったのだ。今日は御影に会うこともなく、なんか憂鬱ゆううつだ。つまんない。

「あれっ」
「あっ」
「暁ちゃんだ。今日はお仕事休み?」

 生気ゼロでふらふらと歩いていると、この季節なのにファー付きジャケットを着込んだ北方きたかたさんと遭遇。意外とこの人は可愛い顔の造形してて、記憶の中のユーリがはしゃいでる。いや、あれって身内も判定に入るのか? 謎だ。

「こんばんは北方さん。私は休みです。北方さんも?」
「ううん、今日も仕事。朝早くて疲れちゃった」
「『御影さん』はちゃんと働いてますか?」
「いやあ、流石に最近はね、真面目にやってるよ。逃げ癖も大分マシになったし、暁ちゃんのお陰だね」

「私の?」と声を裏返しながら聞き返すと、にこやかに同意してきた。なんとも信じられない。

「嫌われ作戦ももうやめたらしいし、暁ちゃんが好きすぎてずっと一緒に居たくなってるみたい。良かった良かった」
「えっ!? それは流石に誇張ですよね?」
「俺がそう言ったら御影さんね、『近くに居たほうが何かと都合が良くなってきただけさ。あの作戦は彼女には通用しないし徒に気を悪くしてしまうだけで、やってるこちらも良い気はしなかったから切り上げた』……だってさ。言い訳してた!」

 絶妙に似てないモノマネを披露してくれたが、御影が渋い顔をしてそう宣う様子は簡単に目に浮かぶ。ついくすっと笑ってしまった。北方さんも満足そうにニンマリする。

「馬鹿ですね~~って笑ったら、御影さんがっくりしてたよ。自覚あるのかもね。だってあの人メンタル激弱なんだから、無理せずふつうに向き合ってあげればみんなハッピーだったのに」
「毒舌ですね」
「いやいや、本人にも言ったってば」
「つよい」
「最近御影さんは優しく流してくれるからねぇ。遠慮が足りなくなったらまた注意されちゃうよ。でも、やっぱり丸くなった気がするなぁ」


 と、感心するような口振りでこう言い出す北方さん。

「今さらだけど、暁ちゃんは不思議だね。異性の俺に恋愛相談するなんて。普通は悠璃ゆうりあたりでしょ」
「おだてられるというか、茶化してくるので」

 納得したのか「確かにぃ」と大振りに頷かれる。過ごした日が浅い北方さんでも、私の親友ユーリの面倒な性格はとうに理解しているらしい。

「もっと恥ずかしくなっちゃうんです、ユーリに話すと。あの子イケメンだったらすごく騒ぐし。そこが可愛いんですけどね」
「他に友達は?」
「いますけど、なんでも話せる友達や先輩は中々」
「なるほどねぇ。だから俺なんだ」
「北方さんて、女子力高いですから。話しやすいです」
「あ、ありがとう。よく言われる……」

 北方さんが苦笑いしたところで図書館の前での談笑は一段落つき、私たちは互いに手を振った。

「お疲れ様。なんか最近物騒だから、気をつけてね」
「はい。北方さんも」



 ――そのまま私は、夜の街を散策することにした。最後には湖畔に辿り着いて、揺れる水面を眺めて帰るのだ。それはこの心を保つための時間のひとつである。
 しかし、ある集合住宅の前を通りかかった時。視界の端で光が弾けた気がした。私はその方向を見やる。あかつき色と橙の混ざる虹彩の中に、鮮烈な光景が映る。


 火の手が上がっていた。
 
 集合住宅の部屋の一角からおびただしい黒煙がもくもくと生まれ、辺りを飲み込みそうに広がっていく。窓の中でまばゆいオレンジ色の炎が燃え盛って、時おり外へ火花が散り、風に焦げ臭さが混じり始める。
 だんだんと立ち止まって様子を窺う人が増えてきた。騒ぎはどんどん大きくなる。体が焼けるように熱いのは、感情からなのか、その場の気温が上昇しているからなのか分からなかった。

 私は立ち尽くし、火事になった部屋を凝視し続けるしかない。耳には辺りの喧騒けんそうは全く届いていなかった。ただ絶句し、自分の体の動かせることを忘れていた。


 燃えているのは、ユーリの家だったからだ。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

愛する貴方の心から消えた私は…

矢野りと
恋愛
愛する夫が事故に巻き込まれ隣国で行方不明となったのは一年以上前のこと。 周りが諦めの言葉を口にしても、私は決して諦めなかった。  …彼は絶対に生きている。 そう信じて待ち続けていると、願いが天に通じたのか奇跡的に彼は戻って来た。 だが彼は妻である私のことを忘れてしまっていた。 「すまない、君を愛せない」 そう言った彼の目からは私に対する愛情はなくなっていて…。 *設定はゆるいです。

【完結】もう無理して私に笑いかけなくてもいいですよ?

冬馬亮
恋愛
公爵令嬢のエリーゼは、遅れて出席した夜会で、婚約者のオズワルドがエリーゼへの不満を口にするのを偶然耳にする。 オズワルドを愛していたエリーゼはひどくショックを受けるが、悩んだ末に婚約解消を決意する。 だが、喜んで受け入れると思っていたオズワルドが、なぜか婚約解消を拒否。関係の再構築を提案する。 その後、プレゼント攻撃や突撃訪問の日々が始まるが、オズワルドは別の令嬢をそばに置くようになり・・・ 「彼女は友人の妹で、なんとも思ってない。オレが好きなのはエリーゼだ」 「私みたいな女に無理して笑いかけるのも限界だって夜会で愚痴をこぼしてたじゃないですか。よかったですね、これでもう、無理して私に笑いかけなくてよくなりましたよ」

立派な王太子妃~妃の幸せは誰が考えるのか~

矢野りと
恋愛
ある日王太子妃は夫である王太子の不貞の現場を目撃してしまう。愛している夫の裏切りに傷つきながらも、やり直したいと周りに助言を求めるが‥‥。 隠れて不貞を続ける夫を見続けていくうちに壊れていく妻。 周りが気づいた時は何もかも手遅れだった…。 ※設定はゆるいです。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

三度目の嘘つき

豆狸
恋愛
「……本当に良かったのかい、エカテリナ。こんな嘘をついて……」 「……いいのよ。私に新しい相手が出来れば、周囲も殿下と男爵令嬢の仲を認めずにはいられなくなるわ」 なろう様でも公開中ですが、少し構成が違います。内容は同じです。

後宮の胡蝶 ~皇帝陛下の秘密の妃~

菱沼あゆ
キャラ文芸
 突然の譲位により、若き皇帝となった苑楊は封印されているはずの宮殿で女官らしき娘、洋蘭と出会う。  洋蘭はこの宮殿の牢に住む老人の世話をしているのだと言う。  天女のごとき外見と豊富な知識を持つ洋蘭に心惹かれはじめる苑楊だったが。  洋蘭はまったく思い通りにならないうえに、なにかが怪しい女だった――。  中華後宮ラブコメディ。

どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします

文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。 夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。 エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。 「ゲルハルトさま、愛しています」 ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。 「エレーヌ、俺はあなたが憎い」 エレーヌは凍り付いた。

【完結】番である私の旦那様

桜もふ
恋愛
異世界であるミーストの世界最強なのが黒竜族! 黒竜族の第一皇子、オパール・ブラック・オニキス(愛称:オール)の番をミースト神が異世界転移させた、それが『私』だ。 バールナ公爵の元へ養女として出向く事になるのだが、1人娘であった義妹が最後まで『自分』が黒竜族の番だと思い込み、魅了の力を使って男性を味方に付け、なにかと嫌味や嫌がらせをして来る。 オールは政務が忙しい身ではあるが、溺愛している私の送り迎えだけは必須事項みたい。 気が抜けるほど甘々なのに、義妹に邪魔されっぱなし。 でも神様からは特別なチートを貰い、世界最強の黒竜族の番に相応しい子になろうと頑張るのだが、なぜかディロ-ルの侯爵子息に学園主催の舞踏会で「お前との婚約を破棄する!」なんて訳の分からない事を言われるし、義妹は最後の最後まで頭お花畑状態で、オールを手に入れようと男の元を転々としながら、絡んで来ます!(鬱陶しいくらい来ます!) 大好きな乙女ゲームや異世界の漫画に出てくる「私がヒロインよ!」な頭の変な……じゃなかった、変わった義妹もいるし、何と言っても、この世界の料理はマズイ、不味すぎるのです! 神様から貰った、特別なスキルを使って異世界の皆と地球へ行き来したり、地球での家族と異世界へ行き来しながら、日本で得た知識や得意な家事(食事)などを、この世界でオールと一緒に自由にのんびりと生きて行こうと思います。 前半は転移する前の私生活から始まります。

処理中です...