月鏡の畔にて

ruri

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第七話 天泣

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 ○

 水の神さま。君は我々ヒトについて知りたいんだってね。ではこの俺が、いちばん好きなこの本を君に捧げよう。そして君の名を、君へ。

 まずは、小降りの雨や雪を意味する『ヒ』。君には繊細で恩情おんじょうな神であってほしい。

 そして、気高く、賢明で、強く、美しい。すべてを包含した『タカ』。我が祖国レダの紋章しるしにも用いられている、俺のお気に入りの生き物さ。

 あわせて、『ヒヨウ』。どうだ、水の神さま。結構良いだろう。


 ――ありがとうカイル。今から我が名はヒヨウだ。



 この文言もんごん。聞いたことがある。
 あ。幼い頃に母が読んでくれた絵本だ。母の優しく語る声に、私はよく微睡まどろんでたっけ。ということは、この記憶メモーリアは私のものだろうか。

 それは、私のご先祖様である渡来の王子カイルが独りぼっちの神さまに出会い、共に過ごし、名前をつけてあげる話。月鏡――いや、母の一族に伝わる昔話だ。
 絵本は今どこに眠っているのだろう。捨てちゃったかな。


 明日は休みだ。
 目が覚めたら、図書館を探してみようか。

 *

 街並は暖かな春の日が差す夕暮れ。最近は晴れの日が続いたせいか、遠目に見た月鏡の湖は少し水位が下がってきていた。こんな細かい変化まで分かるのは、きっと毎日の湖観察を欠かさない私くらいだろう。
 その私は図書館を手ぶらで後にし、がっくりと肩を落としていた。目当ての本は天下一の所蔵とうたわれる月鏡の図書館にも無かったのだ。今日は御影に会うこともなく、なんか憂鬱ゆううつだ。つまんない。

「あれっ」
「あっ」
「暁ちゃんだ。今日はお仕事休み?」

 生気ゼロでふらふらと歩いていると、この季節なのにファー付きジャケットを着込んだ北方きたかたさんと遭遇。意外とこの人は可愛い顔の造形してて、記憶の中のユーリがはしゃいでる。いや、あれって身内も判定に入るのか? 謎だ。

「こんばんは北方さん。私は休みです。北方さんも?」
「ううん、今日も仕事。朝早くて疲れちゃった」
「『御影さん』はちゃんと働いてますか?」
「いやあ、流石に最近はね、真面目にやってるよ。逃げ癖も大分マシになったし、暁ちゃんのお陰だね」

「私の?」と声を裏返しながら聞き返すと、にこやかに同意してきた。なんとも信じられない。

「嫌われ作戦ももうやめたらしいし、暁ちゃんが好きすぎてずっと一緒に居たくなってるみたい。良かった良かった」
「えっ!? それは流石に誇張ですよね?」
「俺がそう言ったら御影さんね、『近くに居たほうが何かと都合が良くなってきただけさ。あの作戦は彼女には通用しないし徒に気を悪くしてしまうだけで、やってるこちらも良い気はしなかったから切り上げた』……だってさ。言い訳してた!」

 絶妙に似てないモノマネを披露してくれたが、御影が渋い顔をしてそう宣う様子は簡単に目に浮かぶ。ついくすっと笑ってしまった。北方さんも満足そうにニンマリする。

「馬鹿ですね~~って笑ったら、御影さんがっくりしてたよ。自覚あるのかもね。だってあの人メンタル激弱なんだから、無理せずふつうに向き合ってあげればみんなハッピーだったのに」
「毒舌ですね」
「いやいや、本人にも言ったってば」
「つよい」
「最近御影さんは優しく流してくれるからねぇ。遠慮が足りなくなったらまた注意されちゃうよ。でも、やっぱり丸くなった気がするなぁ」


 と、感心するような口振りでこう言い出す北方さん。

「今さらだけど、暁ちゃんは不思議だね。異性の俺に恋愛相談するなんて。普通は悠璃ゆうりあたりでしょ」
「おだてられるというか、茶化してくるので」

 納得したのか「確かにぃ」と大振りに頷かれる。過ごした日が浅い北方さんでも、私の親友ユーリの面倒な性格はとうに理解しているらしい。

「もっと恥ずかしくなっちゃうんです、ユーリに話すと。あの子イケメンだったらすごく騒ぐし。そこが可愛いんですけどね」
「他に友達は?」
「いますけど、なんでも話せる友達や先輩は中々」
「なるほどねぇ。だから俺なんだ」
「北方さんて、女子力高いですから。話しやすいです」
「あ、ありがとう。よく言われる……」

 北方さんが苦笑いしたところで図書館の前での談笑は一段落つき、私たちは互いに手を振った。

「お疲れ様。なんか最近物騒だから、気をつけてね」
「はい。北方さんも」



 ――そのまま私は、夜の街を散策することにした。最後には湖畔に辿り着いて、揺れる水面を眺めて帰るのだ。それはこの心を保つための時間のひとつである。
 しかし、ある集合住宅の前を通りかかった時。視界の端で光が弾けた気がした。私はその方向を見やる。あかつき色と橙の混ざる虹彩の中に、鮮烈な光景が映る。


 火の手が上がっていた。
 
 集合住宅の部屋の一角からおびただしい黒煙がもくもくと生まれ、辺りを飲み込みそうに広がっていく。窓の中でまばゆいオレンジ色の炎が燃え盛って、時おり外へ火花が散り、風に焦げ臭さが混じり始める。
 だんだんと立ち止まって様子を窺う人が増えてきた。騒ぎはどんどん大きくなる。体が焼けるように熱いのは、感情からなのか、その場の気温が上昇しているからなのか分からなかった。

 私は立ち尽くし、火事になった部屋を凝視し続けるしかない。耳には辺りの喧騒けんそうは全く届いていなかった。ただ絶句し、自分の体の動かせることを忘れていた。


 燃えているのは、ユーリの家だったからだ。
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