月鏡の畔にて

ruri

文字の大きさ
上 下
39 / 72
第四話 霞立つ湖

【御影の過去】

しおりを挟む
 御影公慈は、水神に仕える巫女の母と軍人の父との間に生まれた。上流階級の身で立派な邸宅暮らし、生活には困らなかったが、彼は束縛を嫌い、常に欲に餓えていた。

 出産後すぐに母は体を壊して帰らぬ人となったので、多忙な父に代わり彼を育て愛を注ぎこんだのは、血の繋がらない兄と姉だった。
 黒髪黒目の兄。常に無表情だが、しっかり者で義理堅く、情にあつく博識。
 亜麻色髪の姉。礼儀正しく強くまっすぐで、おっちょこちょいだが繊細。
 御影は二人を心から敬愛し、替えの無い存在だと認識していた。しかし、父のことはどうも好きになれなかったようだ。父はことあるごとに『国のために軍人になれ。無理なら巫女を継げ』と云って、生活の自由を奪い、未来への道を狭めた。彼にはそれが許せなかった。本当は学者になりたくて、勉学に励みたいと思っていた。知識欲こそが、聡く秀でた頭脳を持った彼の飢えを満たすものだったのだ。

 生まれながらに孤独と疎外感を感じ、友人は滅多につくらなかった。この頃から記憶に現れ始めるのが、回想の中では靄がかかっている人物。曖昧で、正体はわからないが多分少女だ。御影の生来の寂しさを埋め、多くの時間を過ごしたのがこの人なのだろう。でも、癒しと呼べる存在は家族やこの少女くらいしかなく、彼は他にも数々の高い障壁を前に生きていたらしい。

 御影は神の声をまったく聞けなかった。祈りの才能はあったようだが、巫女をやるにあたっては致命的な欠陥だった。それでも父は譲らず、しきたりに従って神に仕えろと強く云い、時たま罵った。だから御影は、ゆっくりと死に向かいながら生きる心地だった。死んだほうが楽になると考える夜も数えきれぬほどあった。
 彼は幼い頃から病弱で、白肌を太陽が焼いて体を蝕むので、日中はろくに出掛けられなかった。カーテンの閉じきった部屋で積み上がった本を順に読み、紙に知を書き付けて、己の学習欲が充足するのを楽しむ日々。それでも彼は外に出なければ知れないことがあるのを悟っていて、密かにその願望を胸の中に抱いた。しかし、ついに12歳のときに病は悪化し死の危機に瀕した。眠ることが増えた彼はなおも気丈に振る舞うが、限界はもうそこまで来ていた。

 命を救うべく、家族は禁忌をおかすことを選択した。月鏡の東にある森、その奥に湧き出る霊泉―――そこの水を口にすれば、あらゆる病が治るのだという。この話は巫女の一族しか知らないことだった。
 霊水が禁忌と謂われるのは、ひとたび飲むと老いるスピードが恐ろしく緩やかになってしまうためだ。まさしく水神の呪い。不老不死は人間の夢なんて言うが、いずれは飽きて退屈し、後回しばかりで何もできなくなり、いつ来るかも分からぬ終末の影に怯え続けなければならない――この言葉は、彼の溢した独り言だ。時間が生を急かさないのだ。そして、大切な家族と時を共に刻めないことは、とんでもない苦痛になる。
 それでも彼は、水を飲んだ。出来損ないの自分が、出来損ないに見合うように自ら縛られる未来を選べば、皆にきっと幸せが訪れるのだと信じて。


 二十歳になっても子供の姿のまま変わらない彼を、周りは避けたがった。もともと頭が恐ろしく良く、作り物のように美しい顔立ちに、銀髪と淡い赤の双眸、目立つ容姿。ようやく太陽の元で歩けるようになっても、化け物呼ばわりされることはままあった。しかし、彼は人にどう思われても気にしなかった。むしろ願い下げというふうに、距離を置き、感情が欠落していますよというように厄介な性格を演じた。ただ、学者の仲間たちや、たったひとりの親友――そしてその親戚の女性なんかは彼を遠ざけず、優しく輪へ迎え入れてくれた。

 そして彼は父と姉の死を経験した。父は殉職。姉は父に恨みを持つ者からの復讐で、御影を庇って亡くなった。それでも彼は生きた。人を痛めつけることを嫌うあまり、復讐の心は持てなかった。不老とはいえど不死ではなくて、いつだってこの世界との別れを選べた。もう枷は無く自由になった彼はそれでも生きた。理由は既にわからなかった。



 ある日、彼はこの世界から逃げ出すかのように、とある少女と約束を交わす。心の欠片ひとつを残さず呑まれるような夜の湖の畔で、ささやくように、子守り唄を歌うように、静かな永遠の契りを。

 腰まで届く髪の濡羽色、あおいあおい瞳のこども。深い霧の向こうに、幻のように影が揺らぐ。この記憶の中で唯一、靄や霧のように姿を掴めず、はっきりしない謎の存在。感情を失ったみたいに呟く高いソプラノ。


「うん。わかった。………必ず、まもろう」


 そこで、彼の記憶は途切れている。
しおりを挟む
1 / 5

この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!

うちの聖女様は規格外のようです。

恋愛 / 連載中 24h.ポイント:3,173pt お気に入り:411

私は『選んだ』

恋愛 / 完結 24h.ポイント:3,445pt お気に入り:495

どうしようもない幼馴染が可愛いお話

恋愛 / 完結 24h.ポイント:2,584pt お気に入り:69

裏切りのその後 〜現実を目の当たりにした令嬢の行動〜

恋愛 / 連載中 24h.ポイント:49pt お気に入り:5,340

転生令嬢と疲れた執事

恋愛 / 完結 24h.ポイント:1,917pt お気に入り:73

王妃となったアンゼリカ

恋愛 / 連載中 24h.ポイント:126,658pt お気に入り:8,158

わからなくても

ライト文芸 / 完結 24h.ポイント:3,834pt お気に入り:10

【完結】 嘘と後悔、そして愛

恋愛 / 完結 24h.ポイント:6,411pt お気に入り:331

処理中です...