月鏡の畔にて

ruri

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第四話 霞立つ湖

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「ダウト」

 地理学の書架の前、すらりと立つ男に私は声をかける。
 相手は、並んだ本の背表紙を順に眺めていた青年だ。漆黒のさらさら髪はセンター分けで、両耳には銀のリングピアス。そしてアーモンド型の瞳は深淵《しんえん》のような黒だ。少し高い位置にあるその双眸が、こちらに気づいて眠たげに私を見下ろす。

「オレに何か用ですか」

 他人行儀な反応だ。それも無駄な足掻きだっての。

「なーんか前も見たわ」
「以前に会ったことあるかな。すいません、記憶になくって」
「その黒っぽい姿、確か私を泣かした時と同じよね。病んでるの見て、焦ってたアレでしょ!」

 私はずばっと強気で指を差して、勝ち誇った笑みを浮かべる。

「……参ったな。君にはお見通しか」

 ほら、『彼』だった。やれやれと溜め息をつかれる。なんか心なしか嬉しそうだ。それにしても、なんで変装しているのだろう。
 小言を連ねているけどギリギリ聞き取れない。彼は必要最小限の動きで辺りの様子を窺うと、口元に手をやってどうしたものかと唸った。
 あ。私がぼんやりと彼を観察してる内に、いつの間にか普段の銀髪の白装束姿に変わってる。浮世離れしたこの姿を目にするたび、私の心臓がこの男の手に軽く握られるような錯覚に陥っている――ことに頭の片隅で気づいて、慌てて振り払う。

「や、やっぱ当たりだったか。つめが甘いのよあんたは! 馬鹿の御影みかげでばかげって呼ぶわよ」
「なんだそれは。容認しかねる渾名あだなだな……撤回しろ」
「嫌だ! あんたの言いなりなんてごめんだっての!!」
「静かにしないか」

 うきうきで反論すると、『彼』が気だるげに顔を近づけてきた。体温が急上昇する感覚。こうして改めて至近距離で見ると、蒼い両目に被さる長い睫毛は雪のように白い。あとシンプルに顔が良い。ユーリじゃないけど私も結構器量好みだと思う。
 それに、左耳の月形の耳飾りばかり目に入っていたけど、右耳にも銀のリングピアスがついていることに初めて気がついた。……さっきの黒髪男のものに似ているような。

「なんかあったの?」と声を落として訊いてみる。すると『彼』は、少しためらいながらこう答えてくれた。

「……仮病だよ。休みを取って新刊漁りをしに来たんだ。読みたかった本が入架すると聞いたんでね」
「え、じゃあ、そのためにわざわざ変装してここに? 間抜けじゃん。面白い、ふふ」
「単なる気分転換だ、何も面白くなんてない。まあ君は気づいてくれると思っていたが、君以外に目撃されるとまた説教されてしまうからな」

 馬鹿にして笑ってみても『彼』の口調は平静そのものだ。ていうか『気づいてくれると思ってた』、だなんて。

「あんた、常に私待ちよね」
「……そうかもな」

 微笑する気配に思わず手が出て、彼の腹を殴る。はっとして身構えたけど、特に何も起きなかった。
 見上げると、冷徹なはずの顔がほんの少しだけ弱気に見える。「どうかしたのか」と訊く声も珍しい声音で、拍子抜けする。

「わっ、わかんないの? 私は不満なのよ」
「不満……やはり僕が逃げてばかりいるからか」
「自覚あんなら改善しなさいよ。でもそんだけじゃなくて消極的すぎるっていうか。私から話しかけなきゃ、私にどうこうする気もないみたいじゃん」
「僕が積極的になったとして、君はもつか?」

『彼』はニヤリと不敵に口の端を上げている。想像してみると語彙が消滅して、ヤバいという感想しか出てこなかった。けど私は強がって、「絶対大丈夫だわ」と笑ってやる。

「そうか、君の心情が直接聞けて良かったよ」

 平然と言われた。やっぱり嫌な予感しかしない。

「えっ、ちょっと。私この先あんたにめちゃくちゃされるの?」
「どんな手を打てばいいか迷ってたんで待ちの姿勢を貫いていたが、もう抑制するのはやめにするか……」
「こわっ。そんな独り言みたいに言うな! てっ……撤回しろ!!」
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