月鏡の畔にて

ruri

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第一話 北嶺の薄明

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 ○

 そんなふうにして毎日が過ぎていった。
 冬の初めのある日、私は出勤中に月鏡の湖に氷が張っているのを見た。例年よりも早めだ。この辺りは地形の関係でそんなに雪は降らない気候だが、冬はかなり冷え込む。
 今年は覚悟がいるなあとか思いながら、一般利用者立ち入り禁止の薄暗い書庫で本の整理をしていたときだった。

「ここなら書架や共有スペースのように声は響くまい……寒い中精が出るな」
「あんたのせいで気温下がったわ。えて」

 悪態をつきながら横に目線をやると、白コートに身を包んだ彼が立っていた。
 予感はしていた。彼の雰囲気が冬の凍てつく空気に似ていたからだと思う。他の司書には未だ見つかっていないのだと言って、彼は少年のように悪戯いたずらっぽく笑う。
 久しぶりに蒼い目がこちらを捉えたと気づき、私は思わず顔を背けた。姿を見たくないなんて思いつつ、いつも通りのトゲトゲ口調で会話を繋ぐ。

「あんたさぁ、毎度毎度私と喧嘩しにきてんの?」
「まあ、そんな所だ」
「ふーん、暇ねぇ。っていうか、ここ立ち入り禁止なのよ。入ったら犯罪だしさ、そもそもどうやって入ってきたの?」
「答えたとして僕に得はあるか? それに君が真相を知る必要はないし、返答不要の話題だな」
「……やっぱりムカつく」
「しかし君は通報しないじゃないか。この月鏡じゃ、図書館関連は首が飛ぶ例があるほどの重罪だというのに」

 横で、彼が白い息をつく気配。

「目の前にいる僕を告発してやれば君は大手柄だろうな。だから、君は不思議だ」
「…………え?」
「君には第三者的な善悪の概念がないのだろう。好奇心が湧くかいなか。それが君を突き動かす大元だ」
「……ぜんあく」
「僕は悪だ。しかしそれは、君を突き放す理由にはなり得ないのかもしれない。残念だよ」
「…………何を、って」

 白い裾がはらりと視界の隅をひるがえり、消えていく、ような気がした。はっと顔を上げる。

 彼は居ない。
 どこにも。

 つい先ほどまで会話して気配も確かに感じ取れていたのに。嘘のように消えている。ただでさえ低い書庫の気温が急激に下がった。
 背中が冷えて、そのまま顔が、手が、足が凍って固まっていって……それを振りほどくように駆け出す。足音を殺し、書庫をうように彼の姿を探して回る。
 上がった息の音と加速しきった心音が、耳の奥で大音量で反響している。体が熱く、冷たい。
 名を呼ぼうとしてさらに焦った。

 彼の名前を、知らない。
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