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消えぬ存在を、知る
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どうせ、一月もすればいなくなる。
そう思って新たな近衛騎士を傍らに迎え入れた王太子・イグジリスは、不意に気づいた。既に、その一月が過ぎ去っている、と。けれど近衛騎士・シュライトは、変わらずイグジリスの傍らにはべり、今までのどの近衛騎士よりも忠実に任務を果たしている。主である幼い王太子を敬い、その身の安全に気を配るだけでなく、……イグジリスを一人の人間として扱っている。
護衛対象としてだけではない。王族としてだけではない。一人の人間として、親にすら疎まれ厭われ、忌まれ、他者に恐れられるだけの存在であるイグジリスを、普通に見ている。そういう意味では、希有ではなく、異質と言えた。
だがそれでも、どうせ三月もすれば、これまでの近衛騎士と同じように、彼もまた去って行くだろうと幼い王太子は思っていた。今までずっと、そうだった。最初は職務に忠実にイグジリスに仕えていた者達も、彼の精神性や周囲との対応などを見ているうちに、恐れを抱いて去って行く。そうやって去って行く騎士達を、イグジリスが引き留めたことは無い。彼にとって近衛騎士とは、いずれ己の傍らから去って行く、つかの間の護衛でしかなかった。
けれど、その思惑は、裏切られる。
二月が過ぎたとき、イグジリスはよく粘る、と感心した。少なくとも表面上、シュライトは何一つ態度を変えなかった。他の者達は二月もすれば、イグジリスの幼さを払拭した異質性に気づき、恐れおののく。人形めいて美しいなどと言われるイグジリスであるが、その言葉が褒め言葉では無いことぐらい解っていた。むしろ、血色の右目と闇色の左目を持って生まれた彼を、魔物のようだと恐れる者が大半であることも知っている。
だからこそ、粘るな、と素直に感心したのだ。自分が異質である自覚は、イグジリスにはある。だが、他人がどんな反応をしようと、今更己を変えることは出来なかった。幼さなど不要だった。弱さなど邪魔だった。彼に出来るのは、次期国王として完璧であることだった。そうすることで、彼は己の居場所を確立してきた。
愛された覚えはない。慈しまれた覚えもない。病弱な我が身を恨み、それでも次期国王としての責務を果たせる程度の頑丈さが残されていることを、何より呪った。いっそ病弱ならば、この異形に相応しく、一生幽閉されるほどのか弱さがあれば良かったものを、と。弟王子が生まれたときに、彼は誰よりそう願った。どうか、誰か、己から次期国王としての役目を奪ってくれ、と。
だがその願いは叶わず、愛されぬまま、慈しまれぬまま、必要とされぬまま、それでも役目だけは求められてきた。だからイグジリスは、誰かを頼ることを知らない。誰かを慕うことを知らない。それらは、与えられて初めて、知ることが出来るのだ。
乳母も、侍女も、近衛騎士も。誰一人として、イグジリスを見てくれなかった。己の異質さが原因だと解っていても、ほんのわずか、それを寂しいと思う感情ぐらいは、育っていた。本当に幼い頃は知らなかったそれらは、両親が弟妹に向ける柔らかな笑みを見たときに知ったのだ。アレは決して自分には与えられない温かな陽だまりだと。そして、それを愛というのだと、そう知った。
……だからイグジリスには、解らなかった。己の異質さを知っていく筈だというのに、変わらず傍らにはべろうとするシュライトの気持ちが。役目としてでは無いように見えた。これまでの近衛騎士達と、シュライトは何かが違うと感じてしまった。けれどその答えを、イグジリスは知らない。
そして、三月が過ぎ、半年が過ぎ、一年が過ぎても、シュライトは何も変わらず、むしろより献身的にイグジリスの傍らにあった。
これは、何だろう。この男は、何だろう。
そんな疑問が、イグジリスの幼い心に芽生えていく。こんなものは知らなかった。自分の傍らで、変わらず存在する他人など、イグジリスは知らなかった。少なくとも、イグジリスの傍らにいることを、自ら望んでいる人間など、初めてだったのだ。
「……お前は」
「殿下?」
「……お前は、何故」
だから、問いかけてしまった。言葉を最後まで紡ぐことが出来なかったのは、答えを聞くのが恐ろしいと思ったからだ。問い掛けて、明確にして、そして。……そして、シュライトが己の側を去って行くとしたら、と。そんな埒もないことを、イグジリスは考えた。考えた己に気づいて、愕然とした。
何も願わないと決めた筈だった。何も望まないと定めた筈だった。願っても、望んでも、求めても、それらはイグジリスの手をすり抜けて、消えていく。初めから存在しないのだというように、彼の小さな掌には、何も残らない。何も、掴めない。それが彼の、7年の人生における、現実だった。
けれど、シュライトは言葉に出来なかったイグジリスの感情を理解したのか、幼い主の前に跪き、その小さな手を取った。お許しくださいと一言断ってから触れてくるその大きな掌の温もりに、イグジリスの喉が、ひくり、と鳴った。
「申し上げた筈です、殿下。お許しいただけるならば、お側に、と」
「……何故」
「貴方様こそ我が主。私の全てを捧げると定めたお方です」
「……だから、何故……ッ!」
悲鳴のような叫びが、イグジリスの唇から発された。感情を乱すことの無い王太子の吐露したそれは、今の今まで、誰にも見つけられることなく封印されてきた、彼のむき出しの心だった。大人びていようと、その内面が異質であろうと、彼はまだ、齢7つの、幼子なのだから。
今にも泣きそうに顔を歪めた幼い主を、若き騎士は柔らかな笑みで見上げた。困惑しているイグジリスに、シュライトは告げる。それはまるで、神聖な儀式のように、大切な言葉であった。
「私の目に映る殿下は、いつも、凍えておられるようでした。叶うならば、お側でお守りしたいと思ったのです。……身体だけでなく、その、気高きお心も」
「……――ッ!」
真っ直ぐとした瞳で、静かに告げられた言葉に、イグジリスは声にならない悲鳴をあげて、崩れ落ちた。幼い身体は、跪いた騎士の腕の中に転がり落ちる。慌ててその小さな身体を抱き留めたシュライトは、愕然とした。震える指先が、まるで縋るように、シュライトの服を握っていた。肩口に埋められた頭から、押し殺した嗚咽が聞こえた。
幼い身体を、シュライトはそっと、抱き締めた。労るように背を撫でる大きな掌に、知らず、イグジリスは声を出さずに泣いた。その温もりを、生まれて初めて知った優しさを、噛みしめるように。
その日、孤独な王太子は、己を慈しむ存在を知った。傍らを離れぬ存在を知った。その優しさは彼を生かす唯一の光で、……そして、たった一つの、罪深い、恋の芽生えだった。
そう思って新たな近衛騎士を傍らに迎え入れた王太子・イグジリスは、不意に気づいた。既に、その一月が過ぎ去っている、と。けれど近衛騎士・シュライトは、変わらずイグジリスの傍らにはべり、今までのどの近衛騎士よりも忠実に任務を果たしている。主である幼い王太子を敬い、その身の安全に気を配るだけでなく、……イグジリスを一人の人間として扱っている。
護衛対象としてだけではない。王族としてだけではない。一人の人間として、親にすら疎まれ厭われ、忌まれ、他者に恐れられるだけの存在であるイグジリスを、普通に見ている。そういう意味では、希有ではなく、異質と言えた。
だがそれでも、どうせ三月もすれば、これまでの近衛騎士と同じように、彼もまた去って行くだろうと幼い王太子は思っていた。今までずっと、そうだった。最初は職務に忠実にイグジリスに仕えていた者達も、彼の精神性や周囲との対応などを見ているうちに、恐れを抱いて去って行く。そうやって去って行く騎士達を、イグジリスが引き留めたことは無い。彼にとって近衛騎士とは、いずれ己の傍らから去って行く、つかの間の護衛でしかなかった。
けれど、その思惑は、裏切られる。
二月が過ぎたとき、イグジリスはよく粘る、と感心した。少なくとも表面上、シュライトは何一つ態度を変えなかった。他の者達は二月もすれば、イグジリスの幼さを払拭した異質性に気づき、恐れおののく。人形めいて美しいなどと言われるイグジリスであるが、その言葉が褒め言葉では無いことぐらい解っていた。むしろ、血色の右目と闇色の左目を持って生まれた彼を、魔物のようだと恐れる者が大半であることも知っている。
だからこそ、粘るな、と素直に感心したのだ。自分が異質である自覚は、イグジリスにはある。だが、他人がどんな反応をしようと、今更己を変えることは出来なかった。幼さなど不要だった。弱さなど邪魔だった。彼に出来るのは、次期国王として完璧であることだった。そうすることで、彼は己の居場所を確立してきた。
愛された覚えはない。慈しまれた覚えもない。病弱な我が身を恨み、それでも次期国王としての責務を果たせる程度の頑丈さが残されていることを、何より呪った。いっそ病弱ならば、この異形に相応しく、一生幽閉されるほどのか弱さがあれば良かったものを、と。弟王子が生まれたときに、彼は誰よりそう願った。どうか、誰か、己から次期国王としての役目を奪ってくれ、と。
だがその願いは叶わず、愛されぬまま、慈しまれぬまま、必要とされぬまま、それでも役目だけは求められてきた。だからイグジリスは、誰かを頼ることを知らない。誰かを慕うことを知らない。それらは、与えられて初めて、知ることが出来るのだ。
乳母も、侍女も、近衛騎士も。誰一人として、イグジリスを見てくれなかった。己の異質さが原因だと解っていても、ほんのわずか、それを寂しいと思う感情ぐらいは、育っていた。本当に幼い頃は知らなかったそれらは、両親が弟妹に向ける柔らかな笑みを見たときに知ったのだ。アレは決して自分には与えられない温かな陽だまりだと。そして、それを愛というのだと、そう知った。
……だからイグジリスには、解らなかった。己の異質さを知っていく筈だというのに、変わらず傍らにはべろうとするシュライトの気持ちが。役目としてでは無いように見えた。これまでの近衛騎士達と、シュライトは何かが違うと感じてしまった。けれどその答えを、イグジリスは知らない。
そして、三月が過ぎ、半年が過ぎ、一年が過ぎても、シュライトは何も変わらず、むしろより献身的にイグジリスの傍らにあった。
これは、何だろう。この男は、何だろう。
そんな疑問が、イグジリスの幼い心に芽生えていく。こんなものは知らなかった。自分の傍らで、変わらず存在する他人など、イグジリスは知らなかった。少なくとも、イグジリスの傍らにいることを、自ら望んでいる人間など、初めてだったのだ。
「……お前は」
「殿下?」
「……お前は、何故」
だから、問いかけてしまった。言葉を最後まで紡ぐことが出来なかったのは、答えを聞くのが恐ろしいと思ったからだ。問い掛けて、明確にして、そして。……そして、シュライトが己の側を去って行くとしたら、と。そんな埒もないことを、イグジリスは考えた。考えた己に気づいて、愕然とした。
何も願わないと決めた筈だった。何も望まないと定めた筈だった。願っても、望んでも、求めても、それらはイグジリスの手をすり抜けて、消えていく。初めから存在しないのだというように、彼の小さな掌には、何も残らない。何も、掴めない。それが彼の、7年の人生における、現実だった。
けれど、シュライトは言葉に出来なかったイグジリスの感情を理解したのか、幼い主の前に跪き、その小さな手を取った。お許しくださいと一言断ってから触れてくるその大きな掌の温もりに、イグジリスの喉が、ひくり、と鳴った。
「申し上げた筈です、殿下。お許しいただけるならば、お側に、と」
「……何故」
「貴方様こそ我が主。私の全てを捧げると定めたお方です」
「……だから、何故……ッ!」
悲鳴のような叫びが、イグジリスの唇から発された。感情を乱すことの無い王太子の吐露したそれは、今の今まで、誰にも見つけられることなく封印されてきた、彼のむき出しの心だった。大人びていようと、その内面が異質であろうと、彼はまだ、齢7つの、幼子なのだから。
今にも泣きそうに顔を歪めた幼い主を、若き騎士は柔らかな笑みで見上げた。困惑しているイグジリスに、シュライトは告げる。それはまるで、神聖な儀式のように、大切な言葉であった。
「私の目に映る殿下は、いつも、凍えておられるようでした。叶うならば、お側でお守りしたいと思ったのです。……身体だけでなく、その、気高きお心も」
「……――ッ!」
真っ直ぐとした瞳で、静かに告げられた言葉に、イグジリスは声にならない悲鳴をあげて、崩れ落ちた。幼い身体は、跪いた騎士の腕の中に転がり落ちる。慌ててその小さな身体を抱き留めたシュライトは、愕然とした。震える指先が、まるで縋るように、シュライトの服を握っていた。肩口に埋められた頭から、押し殺した嗚咽が聞こえた。
幼い身体を、シュライトはそっと、抱き締めた。労るように背を撫でる大きな掌に、知らず、イグジリスは声を出さずに泣いた。その温もりを、生まれて初めて知った優しさを、噛みしめるように。
その日、孤独な王太子は、己を慈しむ存在を知った。傍らを離れぬ存在を知った。その優しさは彼を生かす唯一の光で、……そして、たった一つの、罪深い、恋の芽生えだった。
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