一人語り

木ノ下 朝陽

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駅前のカラオケルームにて(十八)・逃走経路の選択

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このルートが、学校側から実質禁止されている最大の理由は、学校関係者の誰からも、私なんか卒業するまで一度も、その理由を説明されたことはないので、頭に「多分」だの「恐らく」だのが付く、言ってみれば、単なる一OBの、類推による考察でしかありませんけれど、…件の階段坂を下り切った後、私の在学時の最寄り駅の、一番近い駅出入り口に向かうためには、諸に繁華街の、それも,真ん中を通らざるを得ないためだと思います。駅前の辺りは勿論ですけれど、坂を下ったすぐの辺りも、料亭やら「隠れ家的レストラン」やらがあったりしますし。大体、土地柄も土地柄、そもそもが昔からの花街だった辺りですから…。その点、最初に挙げたルートは、繁華街の、いわば外縁を辿るだけで、絶対に繁華街や、そういう「お店」の立ち並ぶ界隈に脚を踏み入れることはありませんし。
さすがに、お小遣い以上のお金を持たない子供が、自分から進んで入るようなお店ではないですけれど、でも、…いわゆる「教育上よろしくない」っていうことなんでしょうね。何しろうちの母校は、表面的と言うか、対外的な売りが「お嬢さん学校」ですから。それに学校には、今も何人かいるみたいですが、当時もそれなりに「良いおうちのお嬢さん」も在籍してたみたいですし、たとえ昼間でも、人通りの少ない時間帯に、うっかり一人、または少人数で歩いているところを、もし誘拐でもされたら、または事故にでも遭ったら…という心配もあったのでしょう。
それに、お店の側にしても、そろそろお客が来るような時間帯に、お店の前の、ワンボックスの車が一台通れば一杯になってしまう程度の幅の道を、制服姿の子供、それも女の子に、大勢でうろうろされるのは、さすがに商売に差し支えるでしょうから。入学前の新入生オリエンテーリングの時点で、下校時、つまりそろそろ繁華街が稼働し始める時間帯には、その、三番目のルートは絶対に通らないようにっていうお達しが、…その理由こそ明言されませんでしたけれど、当時の生徒指導の先生と、それから学級担任の先生の二方向から、既にありました。
ただ、このルートは、実は学校と駅との間の所要時間が一番短いんです。こんなことは、入学したばかりの新入生ならともかく、しばらく学校に通ううちに自然と分かってくることです。なので、いざ遅刻間際なんていう時には、どうしたってこのルートを通ることになります。ですから、うちの学校の生徒、それに私みたいなOBなら、このルートの存在は元より、どこをどう通るかなんてことは、たとえ学校の帰りには一度も通ったことがなくても、大抵誰でも知っています。私はその、一番所要時間の短い、そして逃げ隠れの利きそうな、三番目のルートを選択したっていう訳です。
突き当たりを待たずに、最初の角を左に曲がったのは、学校の付近の一区画は、算木を…長方形を幾つか並べたような区割りになっていて、たとえ手前の角を曲がっても、目的の階段坂には出られる…という理由からでした。その、最初の角を曲がったのは、そうすれば追跡の目を少しでも誤魔化せるんじゃないかっていう、子供の浅知恵でしたけれど、さすがにそうは問屋が卸しませんでした。角を曲がって、他に曲がり角のない、ひたすら真っ直ぐの一本道を半分程走ったところで、後ろから「立花ぁー!!待てえー!!」っていう、完全に引っ繰り返った怒鳴り声が聞こえました。どうやら、押谷教職員は、学校の前の道を、私が駅の方向に走って行く後ろ姿を目撃したらしく、「お姉様方」への叱責を中断して追い掛けて来たようでした。
向こうはさすがに男性の脚力で、距離のある一本道を走るうちに、階段坂の方に曲がる角の少し手前辺りの時点で、両者の距離は先程の半分以下に詰まってきていました。思わず、どうしよう、って、切羽詰まる思いで、角を曲がる直前に天を振り仰いだ時、その角地に建っている、…ああいうのも中層マンションというのでしょうか?確か5階建ての、その集合住宅の最上階の角部屋のベランダに、私は、携帯電話を耳に当てながら、こちらに向かって軽く手を振る人影、…逆光で顔までは判別できませんでしたけれど、女性、それも恐らく私と同じくらいか、それとももう少し歳上くらいの女の子の影を目にしました。
不審に思いながらも、取り敢えずそのまま走り続けながら、その、階段坂に続く角を曲がった時でした。不意に誰かに腕を掴まれたかと思うと、そのまま肩を、固定するように強く抱き寄せられて口を塞がれ、そのマンションの、半地下になった駐車場の奥の、壁の窪みの暗がりに引き摺り込まれました。
あまりのことに、思わず手足を振り回して暴れそうになりましたけれど、幸い、そこに至る前に、私の口を押さえていた手はすぐに離れて、私の肩をしっかり押さえている、その当の人物の口元で『静かに』の形を象って、その、人差し指だけを立てた形のまま、今度はそのガレージの天井方向…私達の頭上と、続いてガレージの入り口、マンションの表の方を指し示しました。
それまで気が動転していたせいで気がつきませんでしたけれど、建物の上と、それから、私達のいる駐車場の奥の暗がりとはそれほど遠くない、恐らくは建物の前とで、言葉のやり取り、…と言うよりは、何やら舌戦めいたものが発生している様子でした。建物の前で、上に向かって甲高く怒鳴っている男性の声は、間違いなく押谷教職員で、建物の上から降ってくる、時折きゃらきゃらという笑い声の交じる若い女性の声は、どうやら、先程、最上階のベランダから、走ってくる私に向かって手を振っていた女の子のものと思われましたけれど、…どうも私は、彼女の声に聞き覚えがあるような気がしました。
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