一人語り

木ノ下 朝陽

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駅前のカラオケルームにて(六)・祖母の発症

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あの日、祖母の具合が悪くなった日のことは、異常にはっきり覚えています。大学院一年目の冬、私が二十三になる直前で、ちょうど建国記念日だったことまで覚えているんです。私、自分の二十三歳の誕生日のことなんか、ひとつも覚えていないんですけれど、…当然ですよね。本当に、あの日を境に、それまで私が当たり前だと思っていた生活の、その何もかもが、丸々全部ふっ飛んでしまいましたから…。だからこそ、なのでしょうか?…あの日のことだけは、海馬、…ご存じでしょうけれど、脳内の、記憶を特に司るって言われる部位に、映像データを焼き付けでもしたかように、異様なくらい鮮明に、それはもうはっきりと覚えているんです。
夕方四時過ぎ…って言うより、もう五時近くのことでした。表はそろそろ夜になりかけていて、私は、取り組んでいた課題を一区切り付けて、家中の雨戸を立てて回った後、夕飯の献立を考えながら、冷蔵庫の扉を開けたところでした。
…ええ、その頃、もう祖母は、台所に立つのも億劫がっていました。それだけじゃない、お稽古を付けるのも本当に大儀そうで、新しいお弟子さんも、お断りしたり、別の方に紹介したり…。
私、病院で診てもらえばって、それまで何回か口に出したこともあるんですけれど、病院嫌いの祖母は、その度に笑って「大丈夫、年のせいだから」って。
私も、そう言って笑う祖母の首根っ子掴んで、引き摺って病院に連れて行くほどには、勇気も度胸もありませんでしたし、ついそのままにしていたんですけれど、…今思えば、早いうちにそうしておけば良かったって…。
すみません、愚痴になりましたね。…とにかく、そう言った事情で、私が台所にいた時のことでした。お手洗いから、「…葵、葵、来とくれ!」って、祖母のただならぬ声がしました。何事かとびっくりして、私が慌てて飛んで行くと、裾もまともに整えていない祖母が、冷たいお手洗いの床に蹲っていました。
…ええ、祖母は多分、必死でお手洗いの鍵を開けて扉を開いて、その上で私を呼んだんだと思います。今から思うと、良く出来たな、良くそこまで気が、頭が回ったな、って…。鍵の掛かったお手洗いで倒れて、鍵を開けるのが間に合わなくて、手遅れでそのまま亡くなる方、少なくないらしいですね。
それはともかく、私が、お祖母ちゃん、どうしたの!?…って、顔を覗き込もうとしたら、「…何だかおかしいんだ…。こっちの目の前が真っ暗なんだよ…」って言いながら、自分の左目を指で示して、「…葵、…何処にも行かないどくれ、後生だから…」って、伸ばしたままの私の右手にすがりついてきました。
その時私の頭の中をよぎったのは、『太功記』の十段目、俗に言う『太十』の十次郎…ごめんなさい、お分かりになりませんよね?…え、ご存じなんですか!?…ええ、初陣の戦場で大怪我…って言うよりも、致命傷を負った光秀の息子、若武者の十次郎が死んで行く場面です。その十次郎が死ぬ前に叫ぶんですよね、『もう目が見えぬ』って…。正確な演出は違ったかも知れないんですけれど、客席にいた私には、悲痛な叫びにしか聞こえなくて、それこそ、『ハムレット』の大詰よりも、ある意味悲痛で生々しい、と思った覚えがあります。…ごめんなさい、呑気に脇道に逸れている場合ではありませんでしたね。
とにかく、私はその時、このまま祖母が死んでしまうと思いました。大丈夫、何処にも行かない、電話して救急車を呼んで来るだけだから、すぐ戻るから、って言っても、耳に入っていないみたいで、ただ「…葵、葵…」って、余計にすがりついてくるんです。
私、そこでやっと自分の上着、…その時着ていた綿入れの、そのポケットに、携帯電話…スマートフォンを入れてあったのを思い出しました。気が動転するって、ああいうことを言うんですね…。あの時まで、私、自分では、本質的には割と冷静…って言うよりも、はっきり言って非常に醒めた、…歯痛が酷いと、歯の神経を取りますよね?あんな具合に、私の場合、父と母の両方からいらないって言われた時に、その痛みにまだ子供だった頃の私が耐えられなくて、感情を感じる機能を自分から止めて、結果そういう感覚が極端に退化した、ちょうど『オズの魔法使い』のブリキの木こりみたいな人間だって思っていました。…いえ、ブリキの木こりと違って、私はそれで構わないって、…感情なんてものは、自分にとってはむしろ邪魔な代物だ、祖母と、祖母が大切にしているあの家、…「立花家の血筋」なんていう大時代なものなんかじゃなくて、文字通りのあの家、…当時、祖母と私が暮らしていた、現在も私が住んでいるあの場所の、その家と土地とを問題なく維持していくための、冷静な判断力と充分な行動力さえあれば、人間としては欠陥品でも一向に差し支えない、何しろ自分は、あの家から一瞬出た外の世界では、祖母以外の全人類にとって、「いらない子」に他ならないんだからって…。
……ええ、でも、…こんなことを申し上げると、お言葉を返すようで本当に申し訳ないとは思いますけれど、その「『いらない子』なんていない」っていうお言葉は、私にとっては単なる建前でしかないんです。何しろ七つの時に、両方の親から棄てられるっていう体験をしているものですから、それは一生消えない古傷、…って言うより、いっそもう呪いみたいなものなので…。ですから、私は感情の欠落した「ロボット」で構わないと思って、むしろそうで在ろうとしてきましたし、実際そうやって生きてきたつもりでした。でも、そういう人間でも、例外の場合はあるんだな、って、…後からですけれど、しみじみそう思いました。
…ええ、そうですね。本当に、セルフイメージなんてあまり当てにはならないものですね。
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