朝焼色の悪魔 Evolution

黒木 燐

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第三部 第五章 微光

4.インフォーマー

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 放課後、タミヤマ・リーグの四人は例によって連れ立って下校していた。相も変わらず彩夏と良夫は半分口げんか状態で議論を交わしている。祐一は時折口を挟みながら、二人がヒートアップしないようコントロールしていた。勝太はその中にいまいち入り込めず、やや遅れて歩いていた。話が高度な上に二人が早口すぎてついていけなかったのだ。
 そんな勝太に声をかける者がいた。勝太が振り返ると、そこには例の転校生がいた。
「やあ!」
 と、転校生、月辺城生は親しげに手をあげて言った。対して勝太は不審げに答えた。
「? 月辺君、何か用?」
「いや、何か面白くなさそうに歩いていたからさ」
「そんな風に見えたかなあ」
 と、勝太は心外だと言う表情で言った。しかし、城生はそれに構わず続けた。
「そりゃ、面白くないだろ。だってさ、錦織さんみたいなかわいい子が、西原君ならともかく、よりによって佐々木みたいな冴えないチビと仲良さそうにしててさ」
「おれ、そんなこと気にしてないよ」
 勝太はそう言いながら、立ち止まった自分に気付かずどんどん先に行ってしまう友人たちの後ろ姿を少しさびしそうに見た。
「だってほら、現に置いてけぼりにされてるじゃない」
「そんなことないっ! ちゃんと気が付いて待っててくれるから」
 勝太は強い口調でもう一度否定した。しかし、自分が敢えて気付かないようにしていたことを、昨日転校してきたばかりの級友に指摘されて、内心うろたえていた。
「何でそんなこと言うのさ」
 勝太は、東京から来たばかりの級友に馬鹿にされないよう、勤めて標準語を使って言った。城生はふっと笑って答えた。
「僕は君たちに興味があるんだ。だって、なんかチグハグでさ、共通点がなさそうじゃない? どうして君たちがツルんででいるのか知りたくてさ」
「ツルむってなんだよ! それからそんなこと、君に言う必要ないから。じゃっ」
 勝太はそうつっけんどんに言うと、城生に背を向けようとした。しかし、城生は勝太の肩を掴んで引き戻し、じっと目を見て言った。
「君、ムリしない方がいいよ」
「月辺君……」
 勝太は城生に心を見透かされているような気がして、うろたえて目をそらした。
 確かに、美少女の彩夏が良夫と腹蔵なく言い合っているのを見て、羨ましいと言うより妬ましいような気持ちになっている自分に気が付いていた。勝太はやや目を泳がせて、三人の方を見た。その時、彩夏が振り返り勝太に気が付いた。彼女は眉をひそめるとツカツカと城生に近づいて言った。
「田村君に何か用?」
「いや、なんかつまらなさそうにしてたからさ」
「そんなことない! 行こ、田村君。じゃ、ね、月辺君。ごきげんよう」
 彩夏は城生に向かって挑戦的な微笑みを投げかけながら言うと、勝太の手を引っ張って行った。
 城生から去って行く二人に残りの仲間が駆け寄っていくのを見ながら、城生はシニカルな笑みを浮かべていた。その横に、すうっと一台の車が止まり、後部座席の窓が開いた。下校中の生徒たちが少しざわめいて言った。
「うわ、ハイブリット・カーやん」
「びっくりした。ほんっと静かやねえ」
「エコカーやもん」
「あれ? あの車の中の人、テレビでちょっとだけ見たことある」
 城生はその声を耳にしながら誇らしそうに言った。
「長兄さま。どうしてここへ?」
「講演でこの街に来ていたので、せっかくだから様子を見に来たのです。どうぞお乗りなさい。いろいろお話をお聞きしたいと思います」
 すかさず運転手が降りてきて、ドアを開け、城生は悠々と車に乗った。その様子に周囲の生徒のみならず、一般の通行人も羨ましそうにそれを見ていた。

 彩夏は勝太の手を引きながら、足早にずんずんと歩いていた。勝太は半ば引っ張られたように歩いている。他の2人も早足で後を追った。勝太は不安げに彩夏に聞いた。
「錦織さん、どうしたの? 怒ってるの?」
 ひょっとして、話の内容がわかったのかな……。勝太は思った。しかし、彩夏は違うことに怒っていた。
「田村君、あんな奴と話をしないで! あいつ、転校したてであんなことを言ったのよ。ろくでもないヤツだよ」
 彩夏は、城生が死んだクラスメートの存在を事実上無いものにしたことに腹を立てていた。あれから彼は雅之の席に座り、その上教室に残った雅之の名前をすべて消し、そこに自分の名前を書いてしまったのだ。しかも、彼の行動に同調する生徒たちが少なからずいたことも気に食わなかった。
「確かに、秋山君ってやな奴だったと思うわよ。でも、死んだりしなかったら、ひょっとしたらいつか仲良くなれたかもしれないのよ。それを、あいつは……。しかも、みんなもそれに賛同するなんて、友達甲斐なさすぎるわよ。月辺君と違って、みんな秋山君を知っているのよ」
「確かに、それは僕も思うよ。雅之、本当はすごいさびしがり屋だったし、みんなに溶け込めなくて悩んでいたんだと思う」
 と、祐一が言った。その後ろで良夫が少し息を切らせながら言った。
「ボ……、ボクは正直、秋山君なんてどうでもいい……けどさ、あいつがあんなこと言うことないと思う……」
「でしょ。佐々木ですらそう思うのよ! あいつ、絶対に冷酷な奴に違いないわ」
「ボクですらって、あのね!」
「あらぁ、気に障った? ごめんなさ~い」
「このお、せっかく見直したって思ったとに」
「だって、佐々木じゃん」
「呼び捨てにすンな!」
 再び言い合いをする二人を見て、祐一と勝太はお互い顔を見合わせて肩をすくめた。

 長兄こと碧珠善心教会教主、碧珠清護は、F県支部に戻り教会参謀であり腹心である月辺洋三の息子、月辺城生を自室に迎えて、彼の話を優しい笑みを浮かべて聞いていた。
「……と言うことですが長兄さま、あの西原祐一という少年、思った以上に愚かな俗人ですね。彼と同調する者たちも、勘違いした友情に惑わされて真実が見えていません。秋山雅之は罪を犯した故に死んだのです。それを、未だに愚図愚図と引きずっているのですから」
 城生は、年の割にかなり大人びた口調で言った。清護は微笑むのを止め、真摯な表情で訊ねた。
「そうですか? でも、彼らと接触したいと言って、監視役に名乗りを上げたのは君ですよ」
「それは、長兄さまが監視したいとおっしゃった連中に興味を持ったからです。しかし、あんな奴ら、恐るるに足り得ません」
「それでも、例の件について気付いている数少ない民間人です。大事の前には微小な不安因子も警戒せねばなりません」
「大丈夫ですよ。僕は違う意味で彼らに興味を持ちましたから、監視は怠りません。お任せください」
「君は父親以上に自信家のようですね。行く末が楽しみです」
「成人する頃には父や姉を追い越して、参謀の地位に成り代わって御覧に入れますよ」
「それは頼もしい。その時を楽しみにしていますよ」
 そういうと清護は立ち上がって言った。
「今日は引き留めて申し訳ありませんでした。おかげで興味深いお話を聞くことが出来ました」
 城生は、恐縮しながら立ち上がって恭しく礼をした。
「もったいないお言葉を賜り、嬉しく思います」
「お父様がエントランスまでお迎えにいらしています。あまりお待たせするのも申し訳ないですから、早く行って差し上げなさい」
「はい、それでは失礼いたします。
 城生は再び丁寧に礼をすると、ドアに向かって進み、部屋を出る時に三度目の礼をして清護の部屋から去って行った。右掌を手刀にし掌を下にして左胸に充てながら深く礼をする、教団独特の作法だった。これは、心臓をも碧珠(地球)とその憑代の教主に捧げると言うことを意味していた。
 清護は応接セットから自分の机に戻り、腰かけると軽くため息をついてつぶやいた。
「君は少年時代の僕によく似ている……。自信家で野心家で不遜で……。母や取り巻きに囲まれて、時期教主と祀り上げられ、父にせがんで半ば強引に視察について行った。そこで僕は打ちのめされたんだよ。君もいつかそういう思いをするかもしれないね」
 清護は机の引き出しを開けて、紙切れを手に取った。昔の教会リーフレットの切り抜きで、まだ少年の清護が教祖であり前教主の父親とアフリカ現地の少年たちと共に笑顔で写っている写真がカラーで載っていた。
「僕だけ……」
 彼は苦悩と笑みの入り混じった表情でつぶやいた。その時、モニターフォンから声がした。画面を見ると、遥音涼子が立っていた。
「遥音です。緊急にお伝えしたいことが……」
「どうぞ、お入りください」
 清護はすぐに平静に戻り応答すると、すぐさま遥音涼子が部屋に入って来た。表情が心持固い。彼女はしかし、無表情を保ったまま言った。
「IMC(感染症対策センター)にいる手のものから連絡が入りました。瀬高亜由美が亡くなったと」
「瀬高亜由美……。ああ、C川のホームレスから感染したお嬢さんでしたね」
「はい。少し症状が特異でしたので、気になって追跡調査させていたのですが、2日前くらいから容態が悪化しており……」
「特異な症状?」
「特に呼吸器における症状が激しく、連日喀血を繰り返していたそうです。おそらく大量のウイルスを吸い込んだ結果だと思われます」
「それは面白い。ウイルスを空中散布することによって、より脅威が増す可能性があるということですね」
「はい。それと、彼女の夫から感染した河部千夏ですが、全身に発疹が現れた模様です。これは我々も予想していたことですが」
「改良型のウイルスを使っていたからでしたね」
「はい。ただ、あれはまだ安定していませんでしたから、今後感染者が続けて出るとは考えにくいと思います」 
「強すぎる故に長持ちしないと言う訳ですね。まるで加速する文明の進歩に振り回されている人類のようです」
「それから、これは別件ですが……」
 と、涼子は少し言いにくそうにして言った。
「神祖さまが、朝からずっと長兄さまをお呼びです。しばらくお顔を見せていらっしゃらないから……」
「わかりました。後で顔を出しますので、ご安心ください」
「それでは、これにて失礼いたします」
 涼子は、清護の温和な表情の中に嫌悪を認め、そそくさとその場を去って行った。
「母……か。あんなになっても、まだ僕を支配しようとする……」
 清護はそういうと、くっくっと嗤った。

 ギルフォードたち三人は高柳から緊急に呼ばれ、美月をギルフォードのマンションに置いてから感対センターに向かった。そして、着いてから新たな死者のことを知った。しかも、病院内が妙にざわついていた。
 ギルフォードは首をかしげながら紗弥と由利子に言った。
「何があったんでしょう。今まで死者が出てもここまで混乱したことなどなかったのに……」
 混乱……。まさに混乱と言うにふさわしい状況だった。
(”まさか、ウイルスが漏れ出したんじゃねぇだろうな”)
 しかし、ギルフォードは一瞬浮かんだその不安を一蹴した。その場合、すぐさまこの病院は封鎖され、自衛隊第4化学防護隊の監視下に置かれるだろう。それよりも、三人は病院に広がる異様な空気を感じ取っていた。ちょうどそこに通りかかった春野看護師を、ギルフォードが呼び止めた。彼女は何かに夢中になっているようで、まったくギルフォードたちに気付かなかったので、声をかけられたあと、飛び上がらんばかりに驚いた。
「あ、アレク先生」
 春野は声の主を確認すると、ほっとしたように言った。
「瀬高亜由美さんが亡くなられたのですが、どうやらウチの看護師が見かねて生命維持装置を切ってしまったかららしいんです。今、センター長と山口先生がその看護師から事情を聴いているところなんです」
「え? それはマズイです。殺人罪で逮捕されてしまいます」
「教授、今回のような事例に関しては、容認される場合がありますわ」
 と、紗弥が付け加えた。由利子が間を置かず質問した。
「で、その看護師さんって誰ですか?」
「あの、多分みなさんご存知かと思いますが、甲斐……甲斐いず美です」
「え? 甲斐さんが?」
 由利子と紗弥はほぼ同時に声を上げた。彼女とは先週親しく話をし、二人が親近感を持った看護師である。
「いったい、なんで……」
「わかりませんが、気持ちは想像つきます。特に、甲斐さんは瀬高さんと仲良くなっていたみたいですから、見兼ねてというのはよくわかります。もともと患者さんに対して、感情移入するタイプでしたから。咳は異常に激しいし、呼吸すること自体が苦痛だなんて……。あ、そろそろ行かないと……。みなさんすみません」
 そういうと、春野はパタパタと駈け出した。
「看護師が死なせることを選ぶなんて、どんなに……」
 由利子はそこまで言うと、言葉を詰まらせた。
「僕はどちらも経験しましたから、どちらの気持ちもわかります。どうせ死ぬならいっそ殺してくれと。それに、感染末期の断末魔の中、それでもなかなか死にきれない患者の苦しみを目の当たりにすると、自分の中でドクター・キリコの言い分が正当化されてしまうこともあります。僕はそこでナントカ踏みとどまりました」
 ギルフォードはそこまで言うと、困った顔をした。
「それはそれとして、高柳先生が僕を呼んだのはこの件なのでしょうが、呼んだ本人の手が離せないんじゃ、こっちも動きようがありませんね」
 そう言って肩を竦めた時、山口医師がギルフォードを見つけて足早によってきた。
「アレク先生。高柳先生が助手の方たちと一緒に至急センター長室に来てほしいと……」
「わかりました。すぐに行きます」
 そう答えると、ギルフォードは紗弥と由利子に「いきましょう」と合図して歩き始めた。

 途中、中年の夫婦らしき二人が何やら騒いでいる現場に遭遇した。話の内容から、瀬高亜由美の両親ということが判った。母親は泣き崩れ、それを支えながら父親が三原医師に怒鳴り散らしていた。担当の看護師を出せと言っているようだった。三人は顔を曇らせながら黙ってその傍を通りすぎた。 

 三人がセンター長室に入ると、高柳が彼らを迎えながら言った。
「呼びつけてすまなかったね。ちょっと不測の事態が起こったもので……。いや、十分想定できたことかもしれないが……」
 そう言ったあと、高柳は次に甲斐の方を見て言った。
「君の気持ちは十分にわかるよ。しかし、医療に携わる者としてはやはり越えてはいけない一線と言うものがあるんだ。わかるね?」
 甲斐は無言で頷いた。存外取り乱している様子も泣いたような形跡もない。むしろ、精も根も尽き果てて果てて無気力になってしまっているのだろう。
「君は今日はもう持ち場に戻らなくてもいい。休憩室で休んでいなさい。後で警察の……」
 高柳はここで少し言葉を選ぶように間を開けた。取り調べという言葉を使うのを憚ったのだろう。
「事情聴取がある。その時はしっかりとありのままを話すんだ。いいね?」
 甲斐看護師は、無言で立ちあがり一礼した。そのまま部屋から出ようとする甲斐を、高柳が引き留めて言った。
「ちょっと待ちたまえ。すまないが、お嬢さん方」
 と、高柳は次に由利子たちを見て言った。
「休憩室で甲斐くんに付き添っていてはくれまいか? ごらんのように、ここは手いっぱいでね。かと言って彼女を一人にするのは心もとない」
「センター長、私はだいじょうぶ……」
 と、甲斐が言いかけたが、二人は快く答え立ち上がったた。
「承知いたしましたわ」
「さ、甲斐さん、一緒に行こか」
 甲斐は二人に連れられて部屋を出て行った。

「実は、困ったことになっている」
 彼女らが去った後、高柳はため息交じりに言った。
「それは、看護師が患者の生命維持装置を切ったとなると……」
「いや、そうじゃない。それに関しては、この感染症については症状に改善がなければ患者が望まない限り延命すべきではないという方向に転換しつつあったんだ。それよりも困った事と言うのは、君が危惧していたようなことさ」
「ひょっとして、病院スタッフの間に不信感が?」
「その通りだ。お互いに疑心暗鬼になっている。もとよりこの病院のスタッフにはこのウイルスの特異性について多少は説明しているだろう? それが仇になって、内通者探しにまで発展しそうな勢いなんだ。
 そんな時に甲斐くんがああいうことをしたものだから、彼女に疑いがかかってね」
「でも、ユリコだけじゃなくサヤも彼女には好意を持っているみたいですし、そんな怪しいカンジはしませんですが……」
「僕にもそういう印象があるのだが、園山君だって微塵も怪しい様子は見せなかったんだ。厄介な話だがね」
「では、高柳先生も彼女を……?」
「いや、僕はまだ冷静だよ。それに、園山君だって患者には誠心誠意尽くしてくれたんだ。僕はスタッフを信じるよ。今まで通りにやっていくさ。しかしな、スタッフの間がぎくしゃくしてしまっては……」
「大丈夫ですよ。高柳先生にそういう気持ちがあれば、スタッフはそう簡単にバラバラになったりしないと思いますよ。……それで、用件はそのことだったのですか?」
「いや。実は、今度の患者の様子がなんか今までと違うのでね。君の感想も聞きたいと思ったんだ。ちょっとついてきてくれたまえ」
 そういうと高柳は立ち上がった。

 由利子と紗弥は甲斐看護師と共に休憩室に向かって歩いていた。二人はすれ違うスタッフたちが甲斐を見てなにかこそこそ話していることに気が付いていた。やはり気のせいじゃない。いつもと雰囲気が違う、と二人ともがセンターに漂う嫌な空気を再び感じとっていた。途中、どこかから怒鳴り声が聞こえ、甲斐がびくっとした。皆、それが亜由美の父親の声だとわかっていた。
 休憩室に着いてから、ソファに腰かけても三人とも無言だった。テレビはあったがそれを点けるのもはばかられるような雰囲気が続いた。甲斐はそれほど思いつめたような表情をしていたのだ。
 とうとう由利子がいたたまれなくなって言った。
「そうそう、今日ね、茶柱が三本立ったんだ。 ここ、ケータイつけて大丈夫かな」
「はい、ここは携帯電話可能なエリアです。院内全部で使えなかったら大変でしょ? 私も防護服の時以外ピッチ以外にもケータイをポケットに入れてますよ。もちろん禁止エリアでは電源を切っていますが……」
 と、甲斐は少し笑顔で言った。力ない笑顔だった。
 由利子は携帯電話の電源を入れると、写真データから例の茶柱画像を画面に出して見せた。
「スマホじゃないし、機種も古いんでちょっと小さいけど……」
「あ、ほんとだ。すごいですね。茶柱なんてなかなか三本も立ちませんよ」
「紗弥さんが入れたお茶だよ」
「へえ、さすが紗弥さん、職人技ですね」
「そんな。立てようと思って立てられるものじゃありませんわ」
 紗弥が珍しく顔を少し赤らめて言った。
「あら?」
 と、甲斐は何かに気付いて言った。
「これにちょっとだけ写っているのは外人さんですよね? でも教授じゃないみたいな……。あ、女性?」
「彼女ね、教授と紗弥さんの知り合いの人よ。米軍の将校さんですって。何故か教授は不機嫌だったけど」
「まあ……。素敵な赤い髪ですねえ。顔は写ってないけど、きっとお綺麗な方なんでしょうね」
「すごいの。赤い髪をポニーテールにしてて……」
「あれ、ウィッグですわよ」
「へ? ヅラ? あれが?」
「はい。もともと彼女は金髪でほぼ角刈りに近い短髪なんですが、それでは普段着で男性と間違われて公衆トイレに入るのも一苦労らしくて」
「なんで赤毛なの?」
「単なる趣味ですわ」
「赤毛のアンの愛読者とか?」
「いえ、昔のアメコミに『ローズ&ソーン(薔薇とイバラ)』というのがあったそうなんです。何でもヒロインが赤いウイッグを被って悪と戦う話で、彼女はそれが大好きで、赤のウィッグを被るのがあこがれだったそうなんです」
「へえ、面白そうだね。読んでみたいな」
「日本語版は出てないと思いますわ。本国でも多分絶版なんじゃないでしょうか」
「ちぇっ、残念。絵だけでも見たかったなあ」
 話が盛り上がってきたように思えたが、その後の会話がさっぱり続かなくなってしまった。甲斐が、また思いつめた表情に戻り、黙り込んでしまったのに気が付いたからだ。
(仕方ないか。あんなことのあったすぐ後だもんなあ)
 そう納得すると、由利子は無理に会話を続けるのをあきらめた。3人とも黙って、まるでお通夜のような雰囲気だった。スタッフの二人連れが休憩室のドアを開けたが、室内の重い空気を感じ取ったのか、慌ててドアを閉めた。由利子と紗弥はふっと顔を見合わせた。その後紗弥がつと立ち上がって、テレビ横に置いてあるマガジンラックから漫画週刊誌を一冊抜き出しソファに戻ると読み始めた。紗弥さんも間が持たないんだなと思いながら、彼女が親父向けの週刊誌ほんを手に取ったことに少なからず驚いてしまった。
 しかし、間が持たない。由利子は週刊誌にあまり興味がなく、かといってここには由利子の読みたいようなものが置いていなかった。やっぱりテレビつけようかな、と思った時、甲斐が言った。
「私、やっぱり亜由美さんのご両親と会います。会ってありのままをお話しします」
「ちょっと待ってよ」
 由利子は焦って止めた。
「聞いたやろ、あの怒号。今行ったら甲斐さん、確実に責められるよ。先方が少し冷静になるまで待った方が……」
「それでもお会いしたいんです。そして、亜由美さんのことをお伝えしたいんです」
 甲斐は、覚悟を決めたようだった。
「わかった。それじゃ、私も付き添うからね」
「私も行きますわ」
 そう言うと二人は甲斐とほぼ同時に立ち上がった。


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 初出の頃はまだハイブリッドカーは珍しかったですが、今やエコカーは電気自動車に移行しつつありますね。
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