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第三部 第三章 暗雲
7.由利子
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近くの100円駐車場に車を止めて、三人は多美山の家に向かった。
多美山家の玄関前にはテントが立っており、妙に姿勢のいい男女が二人、受付に立っていた。ギルフォードの姿を見ると、女性の方が親しげな笑顔で会釈した。
「おや、ミドリさん、こんにちは」
ギルフォードは、女性の顔を見るなり言った。その女性は少年課の堤みどり巡査だった。
「まあ、ギルフォード先生、いらしてくださったんですね」
「はい。この度はホントにご愁傷さまでした……」
「多美山は私も尊敬していました。刑事の中の刑事でした。未だ亡くなったなんて信じられません」
「ミドリさんも事件の時あの公園にいらしたんですよね」
「はい。でも、まさかあの時が多美山との最後の別れになるなんて……」
堤はそう言うと、少し涙ぐんだ。
ギルフォードたちは、記帳を済ませると玄関に向かった。
「一番乗りみたいですね」
と、ギルフォードが玄関の靴の数を見て言った。ギルフォードたちが玄関に入ると、すぐにタタタと軽い足音がして「アレクおじちゃま~~~っ」と言いながら孫の桜子が出迎えた。
桜子は、初めて会う紗弥に少し驚いて立ち止まり、少しおずおずとしながら言った。
「いらっしゃいませ、こんにちはっ」
「こんにちは」
その仕草がかわいかったので、3人は笑顔で返した。ギルフォードは桜子の戸惑いに気付いてすぐに紗弥を紹介した。
「サクラコちゃん、この人は僕の秘書でサヤっていいます。サヤさん、タミヤマさんのお孫さんで、サクラコちゃんです」
「桜子ちゃん、はじめまして」
と、紗弥が笑顔で言ったが、若干笑顔がぎこちない。由利子はそれに気づいて(あら?)と思ったが、口に出さなかった。
「はじめまして!」
桜子はぺこりとお辞儀をすると、改めて言った。
「アレクおじちゃま、そして、おねえちゃんたち。きょうは、おじいちゃんのためにどうもありがとうございます」
「Oh,サクラコちゃん」
と言いながら、ギルフォードは桜子を抱き上げた。
「おじいちゃんのこと、ザンネンでした。悲しかったでしょう。僕も悲しかったです」
「はい。さ~ちゃ……わたし、いっぱいないちゃったです」
「僕もいっぱい泣きました。死んでほしくなかったです」
「おじちゃま、おとこでおとななのに、なくのですか?」
「はい。大人の男は見えないところで泣くんです。さ~ちゃんのおとうさんもきっと……」
「ちちは、みんなのまえでないてました」
「桜っ。もう、余計なことを言っちゃだめでしょ」
母親の梢が出てきて、焦って言った。
「この子ったらもう、先生から下りなさい!」
母に怒られて、桜子はぴょんとギルフォードから飛び降りた。
「あんたはあっちへ行ってなさい」
梢は娘の背を軽く押して言うと、ギルフォードたちの方を向き、膝をついて座りお辞儀をしながら言った。
「先生方、その節はお世話になりました。おかげで義父が亡くなる前にあの子を会わせることができました。
……さ、皆様、どうぞ、おあがりください。お坊さんが来られるまでもう少し時間がありますから、お茶でも……」
梢はそう言いながらスリッパを並べると、立ち上がり居間の方に案内した。その後ろ姿を見ながらギルフォードが言った。
「キモノの喪服って、なんかいいですね」
「不謹慎やろっ!」
「不謹慎ですわよ」
由利子と紗弥が、左右からほぼ同時にギルフォードの背中をはたいて言った。
三人は居間のソファに並んで座ったが、いろいろ忙しい大人の中で、閑を持て余した桜子はちゃっかりギルフォードの膝の上に座った。しかし、何となく浮かない顔をしている桜子に、ギルフォードが事情を聞くと桜子が悲しそうに答えた。
「おじいちゃん、おコツになってかえってくるって……。いつかえってくるかもわからないんだって……」
「え? どういうこと?」
と、由利子が驚いて言った。ちょうどお茶を運んで来た梢が、由利子の問に答えた。
「そうなんですよ。なんでも斎場近隣の住民の反対にあって……、って、こら、桜っ! あんた、どこに座ってるの? お客さまに失礼でしょ、降りなさいっ!」
「ああ、お母さん、僕はいいですよ」
「そうはいきません。先生もそんな狭いところにお座りにならないて、前の方にどうそ」
「いえ、ほかの方が来られたら……」
「その時に移動すればよろしいでしょう。さあ……。桜もさっさと先生のお膝から降りなさい」
梢に促されて、ギルフォードは桜子を膝から降ろし、前のソファに座りなおした。その膝にまた座ろうとした桜子は「桜っ!!」と怒られて、仕方なく自分用の小さい椅子を持ってきて、ギルフォードのそばに座った。
(この子ったら、なんでこの変な外人をこんなに気に入ってるのかしら? ビジュアルはいいんだけど、なんか怪しいのよね、この人……。ひょっとして、将来、こんな人を『結婚します』なんて連れて来たらどうしよう……)
梢がついそんな随分と先のことを考えながらお茶を配っていると、由利子がさっきの件で質問してきた。
「あの、梢さん、近隣住民の反対って? 斎場ってわりと山の中にあるし、それに確か自治体の管轄下じゃあ……」
「はい。そうなのですが、住民の反対は無下には出来ないので……」
「それは、あの告知の放送以後からですの?」
と、今度は紗弥が聞いた。
「そうらしいです。危険な遺体を持ち込むなと……。確かに、近くに住む方や普通に火葬される方のご遺族にとっては恐怖なのはわかりますけれども……」
「タカヤナギ先生から、そういう話を聞いていましたが、そうですか、すでにそういうことが起きているんですね」
ギルフォードが腕組みをしながら言った。由利子が心配そうに尋ねた。
「じゃあ、どうなるの? ずっとセンターの遺体安置室に置いておかれるの?」
「そんなの、やだぁ! おじいちゃん、おじいちゃん……かわいそう……」
みるみる桜子の両目に涙が浮かんだ。しかし、桜子はそのあと口を一文字にして黙り込んだ。必死に泣くのを我慢しているようだった。見兼ねてギルフォードが言った。
「大丈夫ですよ、さ~ちゃん。おじいちゃんのお骨はきっとおうちに戻ってきますよ」
「ほんと?」
「はい。ただ、もうちょっと時間がかかるかもしれませんが……」
「って、どうなるのよ?」
と、由利子が切り返した。梢がその問いに答えた。
「センターの先生にお伺いしたところ、廃止された斎場を修復して、そこをサイキウイルス感染者専用にすると……。ただ、近隣住民の反対は免れないようですから、説得が大変そうですけれど」
「ああ、それで時間がかかると」
「ええ。だから、初七日の今日、仮の葬儀をすることにしたんですの。と言っても、お坊さんを呼んで遺影にお経をあげてもらうだけですけど……」
そして、梢は改めてギルフォードたちの方を見て言った。
「あの時義父に面会させなかったら、永久にこの子を祖父と会わせてやることができなくなるところでした。ありがとうございました」
そういうと、梢は深々と礼をした。
仮葬儀は予定通り夕方六時から始まった。仮とはいえ、近隣からの弔問が絶えず、祭壇のある部屋に入りきれずに、間のふすまを開いて二部屋利用するようにしたが、それでも中に入りきらない人たちが家の周囲に並んだ。ギルフォードたちは多美山の人望の厚さを改めて認識させられた。葛西たちは六時過ぎて、読経の中駆けつけた。斉藤孝治の事件に時間をとられたからだった。
遺体もお骨もない祭壇には、多美山の礼服姿の遺影が飾られており、祭壇の周りには送られてきたフラワースタンドや、アレンジメントが所狭しと並べられていた。
由利子はギルフォードたちと一緒に中ほどに座った。僧侶が読経している間、由利子は多美山と出会ってからの短いが深い交流を思い出していた。
最初、K署でちらりと姿を見ただけだった。そして再会した時、多美山は発症していたもののまだ元気そうで、由利子との会話もさして支障なく出来た。しかし、多美山の病状は目の前で悪化し、再会した翌日、由利子たちの目の前で壮絶な最後を遂げた……。
由利子は、途中で自分の体調が良くないことに気が付いた。
心臓の鼓動が徐々に早まり、軽い吐き気を催してきた。しかし、我慢できないほどのものではない。昼間倒れたから、その延長で一過性のものだろうと判断し、由利子は黙って座っていた。ところが、由利子の体調は一向に改善されず、時折軽い眩暈さえしてきた。しかも、多美山の死に顔が頭から離れない。ここまでくると、さすがに由利子はおかしいと思い始めた。考えたら、昼間、笹川歌恋の病室の前で倒れたのも妙だ。
(まさか、ほんとに感染……?)
由利子はそう思うとぞっとして身を震わせた。額に嫌な汗がにじんできた。まずい。また、倒れるかもしれない……。由利子は思った。
だが、由利子はなんとか読経が終わって焼香まで持ちこたえた。少しふらつきながら、焼香台の前まで来た由利子は、近くで多美山の遺影を見上げた。菊の花に囲まれた多美山の遺影は、若干若い時のもののようで、警察官の礼服のせいか、由利子の多美山のイメージより精悍な感じがした。焼香を終え、由利子は改めて多美山の遺影を見上げた。その時、再び多美山の最後のシーンが由利子の頭の中でフラッシュバックした。それに触発されたかのように、歌恋や駅で『自爆』死した男の死に関する数多の映像が一瞬の間に由利子の脳裏に流れ込んできた。由利子は一瞬気が遠くなって、ふらつき一歩後退った。バランスを崩しよろけそうになった由利子を、ギルフォードが支えた。
「どうしました? また具合が悪いですか?」
「たいしたことないよ。でも、ちょっと外に出た方がいいみたい……」
「そうですね。……サヤさん、ユリコの調子が悪そうなので、ちょっと外に行きましょうか」
「一人で大丈夫だって。 アレクたちは最後までいてあげて」
由利子は、ギルフォードの申し出を断ると、一人で家の外に向かった。その由利子を呼び止める声がした。振り返ると梢が心配そうに立っていた。
「あの、ひょっとしてご気分がお悪いのでは……?」
「大丈夫です。人いきれに酔っただけでしょう。少し外の空気を吸えば治ると思います」
「そうですか。では、玄関を出て中庭の方に入られてください。縁側がありますので、そこでお休みになるといいですわ。庭もきれいですし、人もそこまで入って来ませんから、気兼ねなしで休めますわ」
「え? いいのですか?」
「ええ。本当は家の中で休んでいただくべきなんでしょうけれど、今日はいろいろ取り込んでて……」
「そんなご迷惑をおかけすることは出来ません。では、お言葉に甘えて……」
「先生には私からお伝えしておきますわ」
「ありがとうございます」
由利子は一礼してから玄関に向かった。
(最初、やな感じだったけど、いい人じゃん)
人ってわからないものだと由利子は改めて思った。
外に出た由利子は、庭に入って中を見回した。少し歩いたところに、梢の教えてくれた縁側があった。風はあるが通り雨はすでに止んでいて、ところどころ濡れてはいるものの縁側はだいぶ乾いていた。少し蒸し暑いので強めの風がかえって心地よい。由利子は良く乾いた場所を選んで腰かけた。
「多美山さん、私、どうしたんやろ……」
由利子は空を見上げてつぶやいた。曇り空だが部分的に雲が途切れ、その雲間から薄明光線が幾筋も漏れて金色に輝き、美しかった。
「いつも思うけど、ほんと宗教画みたいだな……。誰か、あれを天の道って言ってたっけ……」
由利子はつぶやいた。その時、人の気配を感じとって、由利子が振り向いた。そこにはギルフォードが立っていた。
「アレク、来ちゃったの?」
「はい。ジュンも心配そうに見てましたから、我慢できずに来ると思いますよ。……あ、来た来た」
ギルフォードの言うとおり、葛西が姿を現し駆けつけると開口一番に言った。
「由利ちゃん、どうしたの?」
「誰が由利ちゃんだっ」
「あ、すみません、由利子さん」
二人の会話を聞いて、ギルフォードがくすっと笑って言った。
「いつも通りの会話です。ダイジョウブそうですね」
「二人とも、心配かけてごめん。でも、なんでかわからないの。さっきは否定したけど、まさかほんとに感染したんじゃあ……ないよね」
由利子は不安そうに言った。感染という言葉を聞いて葛西が驚いて由利子を見た。ギルフォードは由利子の右側に座りながら言った。
「ユリコ。センターで倒れたでしょ。あの時……」
「え、由利ちゃ……由利子さん、倒れたんですか?」
と、葛西が驚いて言った。由利子がうなずいたので、葛西は不安の色を濃くして言った。
「どうして……」
「タカヤナギ先生によれば、ユリコがササガワ・カレンを看取った時、極度に緊張したせいだろうということでしたが」
「由利子さんが歌恋さんを?」
「まあ、成り行き上そうなったというか……。でも、倒れたのはちょっとカッコ悪かったな」
と、由利子が少し照れくさそうに答えた。
「あの後、ユリコの様子が変だったので気になってたんです。無理して明るくふるまっているみたいで……」
「え? そんな風に見えた?」
「はい。思い切り変でした」
ギルフォードに変と言われて、由利子は複雑な気持ちになってしまった。葛西は、二人の前に立ったまま、二人の顔を交互に見て言った。
「あの、由利子さんが感染って……」
途中まで言いかけた葛西が、びくっとして上着のポケットを抑えた。低い振動音がしている。
「すみません、電話なんで」
葛西はそういうと、電話をとって二人から数歩離れて電話に出た。それを見ながらギルフォードが言った。
「彼、相変わらず忙しいですね。あれじゃ、デートする暇もないです」
「要らないお世話だと思うけど……。それよりアレク、何を言いかけたの?」
「ユリコ、僕が思うに、君は……」
「すみません、アレク、由利子さん」
電話を終えた葛西が二人の方に向かいながら言った。
「また、感染者の遺体が発見されたそうです。それで、例のひったくり犯の可能性が……」
「いやっ、もう、見たくない!!」
葛西の言葉が終わらないうちに、由利子が言った。葛西が驚いて由利子をまじまじと見て言った。
「由利子さん?」
「あ……、ごめん」
言った由利子自身が驚いて、両手で口を覆って言った。
「私、どうかしたのかなあ……」
「あの、遺体の状態がかなりひどいので、今回は由利子さんの確認はなしってことになったのですが……」
「あ、そうだったの」
と、由利子がほっとして言った。対して、ギルフォードが興味深そうに尋ねた。
「遺体の状態がひどいというのは?」
「はい。山中に廃棄された家電の山のなかの冷蔵庫に入れられていたそうです」
「オー、夏場に放置された冷蔵庫の中の遺体とか、考えたくないですね。しかも、死因が死因だけに」
「はっきり言って、僕も見たくないです……」
と、葛西が憂鬱そうに言った。
「そういう訳で、僕は、また行かなきゃいけないのですが、さっきアレクが言いかけた件が気になって……」
「ユリコの感染はないと思います。だけど、別なことで問題があります」
「感染じゃあないのね」
由利子は少し安堵して言った。しかし、ギルフォードが次に言ったことは、思いがけないことだった。
「僕が思うに、おそらくユリコはASDにかかっています」
「ASD……。ストレス障害ですか?」
葛西が驚いて聞き返した。
「はい。ユリコ自身が死にかかったとかいうのではありませんが、人の死……それも、もっとも残酷な死に何度も遭遇したせいで、それがユリコにとってトラウマになってしまったんです。ましてや、ユリコは人の顔を忘れないのですから、それを考えると……」
「私がストレス障害……?」
「はい。今のところ一過性だと思いますが……。僕の考えが甘かったんです。そのせいで、ユリコの心にかなり重い負担をかけてしまいました」
「由利子さんが……」
葛西はギルフォードの言葉の中から、一つの可能性を予測したが、口に出すのをやめた。
「話の途中ですが、すみません、僕、行きます。九木さんが待ってるんで……」
「そうですか。ずいぶんと忙しいようですが、体を壊さないように気を付けてください」
「僕は警察官ですから大丈夫です。それに僕、さっき多美さんに誓ったんです。必ずこのウイルスをまいた犯人を挙げて、多美さんの仇を打つって」
葛西はそう言うと、一礼した。
「じゃ、僕、行きます」
葛西はそう言うや否や、駈け出した。しかし、勢い余って数歩駈け出したところで何かにつまずき前のめりになって、おっとっとと三歩ほど走ってなんとか態勢を立て直し、そのまま走りさった。ギルフォードと由利子はその後ろ姿を見て言った。
「ホント大丈夫なんでしょうか」
「心配だなあ……」
二人はそう言うとぷっと吹きだして笑った。しかし、ギルフォードがすぐに真面目な表情に戻って言った。
「ユリコ。僕は君に言っておかなければならないことがあります」
急に、かつてないような真面目な表情で言われたので、由利子は半笑いで訊ねた。
「何かな? 改まって」
「僕はこのことを、はっきりするまで黙っていようかとも思いましたが、君がそういう状態になったので、早いうちに言っておくべきだと思いました」
「ひょっとして、深刻な話?」
と、由利子が半笑いのまま恐る恐る聞いた。
「そうです。状況次第では、君にこの仕事から外れてもらうかもしれません」
「え?」
由利子は驚いてギルフォードの顔を見た。半笑いがひきつったような笑顔に変わった。
「そんな……。なんで?」
「理由は二つあります。一つは、君のASDの件です。このまま治らず悪化した場合、PTSDに移行してかなり厄介です。そして、この仕事を続けることは、悪化する可能性の方が高いと思います。もう一つは、センターで話した、キサラギ君が指摘したという問題です」
「それが私に関わってたってこと?」
由利子は、ギルフォードがはっきり言わなかった理由を理解した。
「君が罹ったのと同じインフルエンザに、多美山さんや珠江さんが罹っていた可能性があります。さらに、二人の古賀さんもです」
「古賀課長は、私と同時に感染ったから間違いないし、多美山さんもこの前話した時にそんなことを言ってたけど……」
「彼らはみな劇症化を起こしています。救急救命士の古賀さんに至っては、出血症状の出る前に心臓発作で亡くなられています。もし、そのインフルエンザ感染が原因で劇症化を起こしているとしたら、君の感染リスクは他の人たちより高いことになります。万一感染した場合、発症・死亡の確率が格段に上がるでしょう。十分な治療を受ける間もなく劇症化して死に至る可能性もあります。民間人の君を、そんな危険な仕事につかせるわけにはいきません。それに加えて君のASDです。
僕は君にこれ以上の負担をかけたくありませんし、危険な目にも遭わせたくありません」
「そんな……。いやだよ! それに、もうすでに関わってしまったんだよ。私には私なりの怒りがある。私だってウイルスを撒いた犯人の逮捕に協力したい!」
由利子は、さっきまで思いもしなかったことに動揺しながらも、きっぱりと言った。目の前で多美山が死んだ時の悲しみ、そして、今日歌恋が死んだ時の持って行き場のない怒り。それでも、この事件の捜査に協力しているということで、テロリストたちに一矢報いることが出来るという自負があった。そのスタッフから外されるなんて、考えもしないことだった。由利子はストレス障害になってしまった自分のふがいなさを呪った。
「ユリコ……。でも、仕方ないんです」
「私は怖くないわ。ASDなんか克服してみせる。私の目の前で死んでいった多美山さんや歌恋さん。お母さんになったばかりだった紅美さん。まだまだ子供だった雅之君やその家族、友だちの祐一君たち。それから、古賀課長。みんなあのウイルスのせいで死んだり人生を狂わされたりしたんだよ。そして、彼らに私は関わってしまった。これは、もはや私にとって偶然では済まされないことなんだ。それなのに、私に外れろって?」
「ユリコ、声が大きいですよ。……君の気持はわかります。でも、仕方ないじゃないですか。君の安全を考えたら……」
「アレク、あんたがこわいのは……」
由利子は声のトーンを落として言った。
「あんたに関わった人がまた死んでしまうことだろ! それを、私の安全にすり替えているだけだよ」
「ジュリーが話したんですね……」
ギルフォードが、低い声で言った。少し怖い顔をしている。由利子はしまったと思ったが、言ったことはもう取り消しができない。しかし、ギルフォードは表情を和らげて続けた。
「それなら、かえって話が早いです。僕がPTSDを克服するのに、どれだけ年月を費やしたか……。それに、出血熱の苦しさは表現しようのない地獄の責め苦です。しかも運よく助かったとしてその後の気の遠くなるような療養とリハビリが待っています。後遺症が残ることもあるんです。僕は君にそんな思いをさせたくない」
「アレク。それでもあんたはそれを乗り越えてここにいるんでしょ?」
今度は穏やかに由利子が言った。
「あんたは子供の頃のトラウマを克服して、次にラッサ熱の恐怖を克服したんでしょ。そして、何かから逃げてここに来たのかもしれないけど、結局あんたはウイルスと戦う道を選んだ、そうでしょ。なら、私だって……」
「確かに君の言うとおりです。でも、僕と君とは鍛え方が違う。君とウイルスとの戦いは、ほんの数週間です。いくら思いが強くても、体が動かなければ意味はありません。ハッキリ言いましょう。さっきみたいにフラフラされると、足手まといなんです」
「う……」
反論できずに由利子は口ごもった。
「もちろん、君の処遇は僕の一存から決めることはできません。だけど、もし、チームから外れるとしても、最初の研究室でのアルバイトに戻るだけだし、写真の確認お願いすることもあるでしょう。なんせ、君しかわからないこともあるんです。それに関しては、君の身辺に警護を付けることも検討されています」
「そっか。逆を言うと、あれを見てしまったために、私はこの事件から完全に切れることは出来ないということね」
それも複雑だな、と、由利子は思った。
「とにかく、上の判断を待ってください。出来るだけ君に不利にならないよう便宜をはかってもらいますから」
その時、いきなり二人の背後から声がした。
「あのお……、ちょっといいですか?」
驚いて振り返ると、縁側沿いの引き戸が開いて、そこに多美山の息子の幸雄が立っていた。
(聞かれた?)
ギルフォードと由利子は顔を見合わせた。
多美山家の玄関前にはテントが立っており、妙に姿勢のいい男女が二人、受付に立っていた。ギルフォードの姿を見ると、女性の方が親しげな笑顔で会釈した。
「おや、ミドリさん、こんにちは」
ギルフォードは、女性の顔を見るなり言った。その女性は少年課の堤みどり巡査だった。
「まあ、ギルフォード先生、いらしてくださったんですね」
「はい。この度はホントにご愁傷さまでした……」
「多美山は私も尊敬していました。刑事の中の刑事でした。未だ亡くなったなんて信じられません」
「ミドリさんも事件の時あの公園にいらしたんですよね」
「はい。でも、まさかあの時が多美山との最後の別れになるなんて……」
堤はそう言うと、少し涙ぐんだ。
ギルフォードたちは、記帳を済ませると玄関に向かった。
「一番乗りみたいですね」
と、ギルフォードが玄関の靴の数を見て言った。ギルフォードたちが玄関に入ると、すぐにタタタと軽い足音がして「アレクおじちゃま~~~っ」と言いながら孫の桜子が出迎えた。
桜子は、初めて会う紗弥に少し驚いて立ち止まり、少しおずおずとしながら言った。
「いらっしゃいませ、こんにちはっ」
「こんにちは」
その仕草がかわいかったので、3人は笑顔で返した。ギルフォードは桜子の戸惑いに気付いてすぐに紗弥を紹介した。
「サクラコちゃん、この人は僕の秘書でサヤっていいます。サヤさん、タミヤマさんのお孫さんで、サクラコちゃんです」
「桜子ちゃん、はじめまして」
と、紗弥が笑顔で言ったが、若干笑顔がぎこちない。由利子はそれに気づいて(あら?)と思ったが、口に出さなかった。
「はじめまして!」
桜子はぺこりとお辞儀をすると、改めて言った。
「アレクおじちゃま、そして、おねえちゃんたち。きょうは、おじいちゃんのためにどうもありがとうございます」
「Oh,サクラコちゃん」
と言いながら、ギルフォードは桜子を抱き上げた。
「おじいちゃんのこと、ザンネンでした。悲しかったでしょう。僕も悲しかったです」
「はい。さ~ちゃ……わたし、いっぱいないちゃったです」
「僕もいっぱい泣きました。死んでほしくなかったです」
「おじちゃま、おとこでおとななのに、なくのですか?」
「はい。大人の男は見えないところで泣くんです。さ~ちゃんのおとうさんもきっと……」
「ちちは、みんなのまえでないてました」
「桜っ。もう、余計なことを言っちゃだめでしょ」
母親の梢が出てきて、焦って言った。
「この子ったらもう、先生から下りなさい!」
母に怒られて、桜子はぴょんとギルフォードから飛び降りた。
「あんたはあっちへ行ってなさい」
梢は娘の背を軽く押して言うと、ギルフォードたちの方を向き、膝をついて座りお辞儀をしながら言った。
「先生方、その節はお世話になりました。おかげで義父が亡くなる前にあの子を会わせることができました。
……さ、皆様、どうぞ、おあがりください。お坊さんが来られるまでもう少し時間がありますから、お茶でも……」
梢はそう言いながらスリッパを並べると、立ち上がり居間の方に案内した。その後ろ姿を見ながらギルフォードが言った。
「キモノの喪服って、なんかいいですね」
「不謹慎やろっ!」
「不謹慎ですわよ」
由利子と紗弥が、左右からほぼ同時にギルフォードの背中をはたいて言った。
三人は居間のソファに並んで座ったが、いろいろ忙しい大人の中で、閑を持て余した桜子はちゃっかりギルフォードの膝の上に座った。しかし、何となく浮かない顔をしている桜子に、ギルフォードが事情を聞くと桜子が悲しそうに答えた。
「おじいちゃん、おコツになってかえってくるって……。いつかえってくるかもわからないんだって……」
「え? どういうこと?」
と、由利子が驚いて言った。ちょうどお茶を運んで来た梢が、由利子の問に答えた。
「そうなんですよ。なんでも斎場近隣の住民の反対にあって……、って、こら、桜っ! あんた、どこに座ってるの? お客さまに失礼でしょ、降りなさいっ!」
「ああ、お母さん、僕はいいですよ」
「そうはいきません。先生もそんな狭いところにお座りにならないて、前の方にどうそ」
「いえ、ほかの方が来られたら……」
「その時に移動すればよろしいでしょう。さあ……。桜もさっさと先生のお膝から降りなさい」
梢に促されて、ギルフォードは桜子を膝から降ろし、前のソファに座りなおした。その膝にまた座ろうとした桜子は「桜っ!!」と怒られて、仕方なく自分用の小さい椅子を持ってきて、ギルフォードのそばに座った。
(この子ったら、なんでこの変な外人をこんなに気に入ってるのかしら? ビジュアルはいいんだけど、なんか怪しいのよね、この人……。ひょっとして、将来、こんな人を『結婚します』なんて連れて来たらどうしよう……)
梢がついそんな随分と先のことを考えながらお茶を配っていると、由利子がさっきの件で質問してきた。
「あの、梢さん、近隣住民の反対って? 斎場ってわりと山の中にあるし、それに確か自治体の管轄下じゃあ……」
「はい。そうなのですが、住民の反対は無下には出来ないので……」
「それは、あの告知の放送以後からですの?」
と、今度は紗弥が聞いた。
「そうらしいです。危険な遺体を持ち込むなと……。確かに、近くに住む方や普通に火葬される方のご遺族にとっては恐怖なのはわかりますけれども……」
「タカヤナギ先生から、そういう話を聞いていましたが、そうですか、すでにそういうことが起きているんですね」
ギルフォードが腕組みをしながら言った。由利子が心配そうに尋ねた。
「じゃあ、どうなるの? ずっとセンターの遺体安置室に置いておかれるの?」
「そんなの、やだぁ! おじいちゃん、おじいちゃん……かわいそう……」
みるみる桜子の両目に涙が浮かんだ。しかし、桜子はそのあと口を一文字にして黙り込んだ。必死に泣くのを我慢しているようだった。見兼ねてギルフォードが言った。
「大丈夫ですよ、さ~ちゃん。おじいちゃんのお骨はきっとおうちに戻ってきますよ」
「ほんと?」
「はい。ただ、もうちょっと時間がかかるかもしれませんが……」
「って、どうなるのよ?」
と、由利子が切り返した。梢がその問いに答えた。
「センターの先生にお伺いしたところ、廃止された斎場を修復して、そこをサイキウイルス感染者専用にすると……。ただ、近隣住民の反対は免れないようですから、説得が大変そうですけれど」
「ああ、それで時間がかかると」
「ええ。だから、初七日の今日、仮の葬儀をすることにしたんですの。と言っても、お坊さんを呼んで遺影にお経をあげてもらうだけですけど……」
そして、梢は改めてギルフォードたちの方を見て言った。
「あの時義父に面会させなかったら、永久にこの子を祖父と会わせてやることができなくなるところでした。ありがとうございました」
そういうと、梢は深々と礼をした。
仮葬儀は予定通り夕方六時から始まった。仮とはいえ、近隣からの弔問が絶えず、祭壇のある部屋に入りきれずに、間のふすまを開いて二部屋利用するようにしたが、それでも中に入りきらない人たちが家の周囲に並んだ。ギルフォードたちは多美山の人望の厚さを改めて認識させられた。葛西たちは六時過ぎて、読経の中駆けつけた。斉藤孝治の事件に時間をとられたからだった。
遺体もお骨もない祭壇には、多美山の礼服姿の遺影が飾られており、祭壇の周りには送られてきたフラワースタンドや、アレンジメントが所狭しと並べられていた。
由利子はギルフォードたちと一緒に中ほどに座った。僧侶が読経している間、由利子は多美山と出会ってからの短いが深い交流を思い出していた。
最初、K署でちらりと姿を見ただけだった。そして再会した時、多美山は発症していたもののまだ元気そうで、由利子との会話もさして支障なく出来た。しかし、多美山の病状は目の前で悪化し、再会した翌日、由利子たちの目の前で壮絶な最後を遂げた……。
由利子は、途中で自分の体調が良くないことに気が付いた。
心臓の鼓動が徐々に早まり、軽い吐き気を催してきた。しかし、我慢できないほどのものではない。昼間倒れたから、その延長で一過性のものだろうと判断し、由利子は黙って座っていた。ところが、由利子の体調は一向に改善されず、時折軽い眩暈さえしてきた。しかも、多美山の死に顔が頭から離れない。ここまでくると、さすがに由利子はおかしいと思い始めた。考えたら、昼間、笹川歌恋の病室の前で倒れたのも妙だ。
(まさか、ほんとに感染……?)
由利子はそう思うとぞっとして身を震わせた。額に嫌な汗がにじんできた。まずい。また、倒れるかもしれない……。由利子は思った。
だが、由利子はなんとか読経が終わって焼香まで持ちこたえた。少しふらつきながら、焼香台の前まで来た由利子は、近くで多美山の遺影を見上げた。菊の花に囲まれた多美山の遺影は、若干若い時のもののようで、警察官の礼服のせいか、由利子の多美山のイメージより精悍な感じがした。焼香を終え、由利子は改めて多美山の遺影を見上げた。その時、再び多美山の最後のシーンが由利子の頭の中でフラッシュバックした。それに触発されたかのように、歌恋や駅で『自爆』死した男の死に関する数多の映像が一瞬の間に由利子の脳裏に流れ込んできた。由利子は一瞬気が遠くなって、ふらつき一歩後退った。バランスを崩しよろけそうになった由利子を、ギルフォードが支えた。
「どうしました? また具合が悪いですか?」
「たいしたことないよ。でも、ちょっと外に出た方がいいみたい……」
「そうですね。……サヤさん、ユリコの調子が悪そうなので、ちょっと外に行きましょうか」
「一人で大丈夫だって。 アレクたちは最後までいてあげて」
由利子は、ギルフォードの申し出を断ると、一人で家の外に向かった。その由利子を呼び止める声がした。振り返ると梢が心配そうに立っていた。
「あの、ひょっとしてご気分がお悪いのでは……?」
「大丈夫です。人いきれに酔っただけでしょう。少し外の空気を吸えば治ると思います」
「そうですか。では、玄関を出て中庭の方に入られてください。縁側がありますので、そこでお休みになるといいですわ。庭もきれいですし、人もそこまで入って来ませんから、気兼ねなしで休めますわ」
「え? いいのですか?」
「ええ。本当は家の中で休んでいただくべきなんでしょうけれど、今日はいろいろ取り込んでて……」
「そんなご迷惑をおかけすることは出来ません。では、お言葉に甘えて……」
「先生には私からお伝えしておきますわ」
「ありがとうございます」
由利子は一礼してから玄関に向かった。
(最初、やな感じだったけど、いい人じゃん)
人ってわからないものだと由利子は改めて思った。
外に出た由利子は、庭に入って中を見回した。少し歩いたところに、梢の教えてくれた縁側があった。風はあるが通り雨はすでに止んでいて、ところどころ濡れてはいるものの縁側はだいぶ乾いていた。少し蒸し暑いので強めの風がかえって心地よい。由利子は良く乾いた場所を選んで腰かけた。
「多美山さん、私、どうしたんやろ……」
由利子は空を見上げてつぶやいた。曇り空だが部分的に雲が途切れ、その雲間から薄明光線が幾筋も漏れて金色に輝き、美しかった。
「いつも思うけど、ほんと宗教画みたいだな……。誰か、あれを天の道って言ってたっけ……」
由利子はつぶやいた。その時、人の気配を感じとって、由利子が振り向いた。そこにはギルフォードが立っていた。
「アレク、来ちゃったの?」
「はい。ジュンも心配そうに見てましたから、我慢できずに来ると思いますよ。……あ、来た来た」
ギルフォードの言うとおり、葛西が姿を現し駆けつけると開口一番に言った。
「由利ちゃん、どうしたの?」
「誰が由利ちゃんだっ」
「あ、すみません、由利子さん」
二人の会話を聞いて、ギルフォードがくすっと笑って言った。
「いつも通りの会話です。ダイジョウブそうですね」
「二人とも、心配かけてごめん。でも、なんでかわからないの。さっきは否定したけど、まさかほんとに感染したんじゃあ……ないよね」
由利子は不安そうに言った。感染という言葉を聞いて葛西が驚いて由利子を見た。ギルフォードは由利子の右側に座りながら言った。
「ユリコ。センターで倒れたでしょ。あの時……」
「え、由利ちゃ……由利子さん、倒れたんですか?」
と、葛西が驚いて言った。由利子がうなずいたので、葛西は不安の色を濃くして言った。
「どうして……」
「タカヤナギ先生によれば、ユリコがササガワ・カレンを看取った時、極度に緊張したせいだろうということでしたが」
「由利子さんが歌恋さんを?」
「まあ、成り行き上そうなったというか……。でも、倒れたのはちょっとカッコ悪かったな」
と、由利子が少し照れくさそうに答えた。
「あの後、ユリコの様子が変だったので気になってたんです。無理して明るくふるまっているみたいで……」
「え? そんな風に見えた?」
「はい。思い切り変でした」
ギルフォードに変と言われて、由利子は複雑な気持ちになってしまった。葛西は、二人の前に立ったまま、二人の顔を交互に見て言った。
「あの、由利子さんが感染って……」
途中まで言いかけた葛西が、びくっとして上着のポケットを抑えた。低い振動音がしている。
「すみません、電話なんで」
葛西はそういうと、電話をとって二人から数歩離れて電話に出た。それを見ながらギルフォードが言った。
「彼、相変わらず忙しいですね。あれじゃ、デートする暇もないです」
「要らないお世話だと思うけど……。それよりアレク、何を言いかけたの?」
「ユリコ、僕が思うに、君は……」
「すみません、アレク、由利子さん」
電話を終えた葛西が二人の方に向かいながら言った。
「また、感染者の遺体が発見されたそうです。それで、例のひったくり犯の可能性が……」
「いやっ、もう、見たくない!!」
葛西の言葉が終わらないうちに、由利子が言った。葛西が驚いて由利子をまじまじと見て言った。
「由利子さん?」
「あ……、ごめん」
言った由利子自身が驚いて、両手で口を覆って言った。
「私、どうかしたのかなあ……」
「あの、遺体の状態がかなりひどいので、今回は由利子さんの確認はなしってことになったのですが……」
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「遺体の状態がひどいというのは?」
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「オー、夏場に放置された冷蔵庫の中の遺体とか、考えたくないですね。しかも、死因が死因だけに」
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と、葛西が憂鬱そうに言った。
「そういう訳で、僕は、また行かなきゃいけないのですが、さっきアレクが言いかけた件が気になって……」
「ユリコの感染はないと思います。だけど、別なことで問題があります」
「感染じゃあないのね」
由利子は少し安堵して言った。しかし、ギルフォードが次に言ったことは、思いがけないことだった。
「僕が思うに、おそらくユリコはASDにかかっています」
「ASD……。ストレス障害ですか?」
葛西が驚いて聞き返した。
「はい。ユリコ自身が死にかかったとかいうのではありませんが、人の死……それも、もっとも残酷な死に何度も遭遇したせいで、それがユリコにとってトラウマになってしまったんです。ましてや、ユリコは人の顔を忘れないのですから、それを考えると……」
「私がストレス障害……?」
「はい。今のところ一過性だと思いますが……。僕の考えが甘かったんです。そのせいで、ユリコの心にかなり重い負担をかけてしまいました」
「由利子さんが……」
葛西はギルフォードの言葉の中から、一つの可能性を予測したが、口に出すのをやめた。
「話の途中ですが、すみません、僕、行きます。九木さんが待ってるんで……」
「そうですか。ずいぶんと忙しいようですが、体を壊さないように気を付けてください」
「僕は警察官ですから大丈夫です。それに僕、さっき多美さんに誓ったんです。必ずこのウイルスをまいた犯人を挙げて、多美さんの仇を打つって」
葛西はそう言うと、一礼した。
「じゃ、僕、行きます」
葛西はそう言うや否や、駈け出した。しかし、勢い余って数歩駈け出したところで何かにつまずき前のめりになって、おっとっとと三歩ほど走ってなんとか態勢を立て直し、そのまま走りさった。ギルフォードと由利子はその後ろ姿を見て言った。
「ホント大丈夫なんでしょうか」
「心配だなあ……」
二人はそう言うとぷっと吹きだして笑った。しかし、ギルフォードがすぐに真面目な表情に戻って言った。
「ユリコ。僕は君に言っておかなければならないことがあります」
急に、かつてないような真面目な表情で言われたので、由利子は半笑いで訊ねた。
「何かな? 改まって」
「僕はこのことを、はっきりするまで黙っていようかとも思いましたが、君がそういう状態になったので、早いうちに言っておくべきだと思いました」
「ひょっとして、深刻な話?」
と、由利子が半笑いのまま恐る恐る聞いた。
「そうです。状況次第では、君にこの仕事から外れてもらうかもしれません」
「え?」
由利子は驚いてギルフォードの顔を見た。半笑いがひきつったような笑顔に変わった。
「そんな……。なんで?」
「理由は二つあります。一つは、君のASDの件です。このまま治らず悪化した場合、PTSDに移行してかなり厄介です。そして、この仕事を続けることは、悪化する可能性の方が高いと思います。もう一つは、センターで話した、キサラギ君が指摘したという問題です」
「それが私に関わってたってこと?」
由利子は、ギルフォードがはっきり言わなかった理由を理解した。
「君が罹ったのと同じインフルエンザに、多美山さんや珠江さんが罹っていた可能性があります。さらに、二人の古賀さんもです」
「古賀課長は、私と同時に感染ったから間違いないし、多美山さんもこの前話した時にそんなことを言ってたけど……」
「彼らはみな劇症化を起こしています。救急救命士の古賀さんに至っては、出血症状の出る前に心臓発作で亡くなられています。もし、そのインフルエンザ感染が原因で劇症化を起こしているとしたら、君の感染リスクは他の人たちより高いことになります。万一感染した場合、発症・死亡の確率が格段に上がるでしょう。十分な治療を受ける間もなく劇症化して死に至る可能性もあります。民間人の君を、そんな危険な仕事につかせるわけにはいきません。それに加えて君のASDです。
僕は君にこれ以上の負担をかけたくありませんし、危険な目にも遭わせたくありません」
「そんな……。いやだよ! それに、もうすでに関わってしまったんだよ。私には私なりの怒りがある。私だってウイルスを撒いた犯人の逮捕に協力したい!」
由利子は、さっきまで思いもしなかったことに動揺しながらも、きっぱりと言った。目の前で多美山が死んだ時の悲しみ、そして、今日歌恋が死んだ時の持って行き場のない怒り。それでも、この事件の捜査に協力しているということで、テロリストたちに一矢報いることが出来るという自負があった。そのスタッフから外されるなんて、考えもしないことだった。由利子はストレス障害になってしまった自分のふがいなさを呪った。
「ユリコ……。でも、仕方ないんです」
「私は怖くないわ。ASDなんか克服してみせる。私の目の前で死んでいった多美山さんや歌恋さん。お母さんになったばかりだった紅美さん。まだまだ子供だった雅之君やその家族、友だちの祐一君たち。それから、古賀課長。みんなあのウイルスのせいで死んだり人生を狂わされたりしたんだよ。そして、彼らに私は関わってしまった。これは、もはや私にとって偶然では済まされないことなんだ。それなのに、私に外れろって?」
「ユリコ、声が大きいですよ。……君の気持はわかります。でも、仕方ないじゃないですか。君の安全を考えたら……」
「アレク、あんたがこわいのは……」
由利子は声のトーンを落として言った。
「あんたに関わった人がまた死んでしまうことだろ! それを、私の安全にすり替えているだけだよ」
「ジュリーが話したんですね……」
ギルフォードが、低い声で言った。少し怖い顔をしている。由利子はしまったと思ったが、言ったことはもう取り消しができない。しかし、ギルフォードは表情を和らげて続けた。
「それなら、かえって話が早いです。僕がPTSDを克服するのに、どれだけ年月を費やしたか……。それに、出血熱の苦しさは表現しようのない地獄の責め苦です。しかも運よく助かったとしてその後の気の遠くなるような療養とリハビリが待っています。後遺症が残ることもあるんです。僕は君にそんな思いをさせたくない」
「アレク。それでもあんたはそれを乗り越えてここにいるんでしょ?」
今度は穏やかに由利子が言った。
「あんたは子供の頃のトラウマを克服して、次にラッサ熱の恐怖を克服したんでしょ。そして、何かから逃げてここに来たのかもしれないけど、結局あんたはウイルスと戦う道を選んだ、そうでしょ。なら、私だって……」
「確かに君の言うとおりです。でも、僕と君とは鍛え方が違う。君とウイルスとの戦いは、ほんの数週間です。いくら思いが強くても、体が動かなければ意味はありません。ハッキリ言いましょう。さっきみたいにフラフラされると、足手まといなんです」
「う……」
反論できずに由利子は口ごもった。
「もちろん、君の処遇は僕の一存から決めることはできません。だけど、もし、チームから外れるとしても、最初の研究室でのアルバイトに戻るだけだし、写真の確認お願いすることもあるでしょう。なんせ、君しかわからないこともあるんです。それに関しては、君の身辺に警護を付けることも検討されています」
「そっか。逆を言うと、あれを見てしまったために、私はこの事件から完全に切れることは出来ないということね」
それも複雑だな、と、由利子は思った。
「とにかく、上の判断を待ってください。出来るだけ君に不利にならないよう便宜をはかってもらいますから」
その時、いきなり二人の背後から声がした。
「あのお……、ちょっといいですか?」
驚いて振り返ると、縁側沿いの引き戸が開いて、そこに多美山の息子の幸雄が立っていた。
(聞かれた?)
ギルフォードと由利子は顔を見合わせた。
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