朝焼色の悪魔 Evolution

黒木 燐

文字の大きさ
上 下
105 / 138
第三部 第三章 暗雲

5.道化師の恋

しおりを挟む
 斉藤孝治の前代未聞の篭城現場で、警察官たちは頭を悩ませていた。致死性ウイルス感染者が人質を取って立て篭もるなどということは、日本警察史上でも、いや、おそらく世界でも例を見ない事件だろう。
「完全防護の突入班を裏口に待機させたものの、さて、どうするかな。このままだと、おばあさんの感染率があがる一方だけど、かといって、下手に動いて彼を刺激したら、何をしでかすかわからないし」
「しかし、早瀬さん、あんな状態の斉藤の間近におるとですから、ばあさんも既に感染してますよ。強行突破すべきです」
 早瀬の慎重論に富田林がもどかしそうに言ったが、葛西がすぐに反論した。
「富田林さん、そりゃ乱暴ですよ。感染しているかどうかなんて、今の時点で判断することは出来ません。現に、発症した子供を抱きかかえて病院に連れて行った父親が、感染を免れています。濃厚な接触をしたとしても、感染発症するとは限らないんです」
「葛西君の言うとおりだ。富田林君、気持ちはわかるが……」
 九木ここのぎが言った。
「我々は市民の安全を優先せねばならないんだ。感染していない可能性があるなら……」
 と、九木が言いかけたところで、窓が開いて孝治が顔を出した。相変わらす祖母の絹代を羽交い絞めにして盾にしている。
「あれから三十分ほど経ったけど、どうなった? 歌恋は連れて来れそうか?」
「今まだ問い合わせ中だ」
 早瀬がすぐに答えた。
「しかし、笹川歌恋の容態はかなり厳しいらしい。良い返事は期待出来そうにないが」
「それを交渉するのがあんたの仕事だ。こっちには人質がいることを忘れないようにな」
「それより、君は大丈夫なのか? 顔の傷もひどいし、かなり熱もあってきつそうだが、医者を派遣させてくれないか? ご高齢なお婆様の健康状態も心配だ」
「来るのは医者のふりをした警察官だろ」
 孝治はからかうように言った。
「俺らの心配はいい。あんたらは俺の言ったことを叶えてくれればいいんだ。それより、あんたさっきのオバちゃん刑事だろ? ずいぶんと重装備になったもんだな。そんなに怖いのか?」
「当然だ」
 早瀬は挑発に動じず毅然として言った。
「君の病気がそれだけ危険だということだ。これが現実なんだ。斉藤孝治君、目を覚ましなさい。半端な療法でなんとかなる病気じゃないんだ。一刻も早い治療を……」
「うるせぇ!! 御託はいいって言ってんだろ! 早く歌恋を連れて来い! 一時間待ってやる」
 そう言い捨てると、孝治はまた家の中に姿を隠した。
 美波は隣家の生垣から目を覗かせて、孝治の立て篭もった二階を注視していた。そこに、いきなり窓を開けて出てきた孝治の顔を見て声をたてそうになり、慌てて口を押さえた。
(何、あの顔! ひどいわ。血だらけじゃない……って、いけない、カメラ回さないと……)
 美波は慌てて手持ちのビデオカメラを回した。
「F市の立て篭もり現場です。ご覧下さい。今、窓から顔を出した犯人に、防護服の警察官が交渉しています。犯人はかなり病状が悪化していると思われます……」
 美波は気付かれないように小声で解説を入れた。しかし、解説が調子良くノリはじめた頃、容量オーバーのサインが出て映像が止まった。
(くそ、こんな時にSDカード切れ? もう、仕方ないわね。でも、こんなこともあろうかと……)
 美波は一人でにんまりしつつ、上着の胸ポケットから未使用のSDカードを取り出し、交換した。
(で、この撮り済みのカードは……)
 美波は一瞬悩んだが、躊躇無くそのままジーパンの後ポケットに入れた。カメラマンの赤間が見たら引きつりそうな行為だったが、美波はそういうことに無頓着だった。美波はすぐに撮影を再開した。
 孝治は警察とのやり取りを終え、窓を閉じると壁を背に座り込んだ。苦しそうに肩で息をしている。
「コウちゃん、大丈夫かい? 具合がだいぶ悪かとやろ?」
 ひどい目に遭いながら、絹代は震えながらも孫を気遣っていた。
「大丈夫だ、ばあちゃん。……俺が助かる方法はこれしかなかっちゃ……。だけん、ばあちゃんも逃げたらいかん。ばあちゃんだってここから出たらあの病院に隔離されるっちゃけん。あそこに入ったらもう死ぬしかないとやけん……」
「コウちゃん……。ばってん……」
「ばあちゃんは俺の言うことを聞いとったらよか。もし、ばあちゃんが逃げたら俺はしまえたも同然やから、俺、この場で目かのどを突くか、窓から飛び降りるかして死ぬからね」
 孝治はそう言いながら、鋏の片刃の先を自分の首に近づけた。
「コウちゃん、あんた正気ね?」
「至って正気だよ。でね、ばあちゃんにはたびたび申し訳ないけど、手を縛って目隠しと猿轡もさせてもらうから」
「コウちゃん……」
 孝治の目を見て、それが脅しではないということを察した絹代は、彼の言うとおりにするしかないことを悟った。
「あの状態じゃあ、ほっといても今日中にはぶっ倒れそうだし……」
 孝治が姿を隠してすぐに九木が言った。
「……あんな迷惑野郎は放っておきたいところだが、そうはいくまいなあ」
「そうね。自業自得な困ったやつだけど、おばあさんのこともあるし、私たちまで自己責任とか言い出す訳にもいかないものね。さてどうしたものか……」
 早瀬はそう言いながら両手を腰に当ててため息をついた。その横で葛西が九木に尋ねた。
「九木さん、さっき、気になることがあるっておっしゃいましたよね」
「ああ、さっき早瀬さんとの会話を聞いていてちょっとね……」
 九木が語尾を少しぼかして答えたが、早瀬がすぐに興味を持ってたずねた。
「あら、なにが気になったのかしら?」
「僭越ながら……」
「いいわよ、そんな堅いこと言わなくても」
「恐れ入ります。早瀬さんが説得している時、奴は『万能薬の水がある』とか言ってましたね。いったい、そんな情報をどこから仕入れたんでしょう?」
「あら、『ルルドの泉』とかホメオパシーとか、水系の怪しい万能薬の話って沢山あるじゃない。単にそれ系の信者なんじゃないの?」
「その可能性もありますけどね。とにかくあいつは本気で特効薬があると思っているようですし、祖母の絹代さんに逃げる意思があまりなさそうなのも気になります」
「孝治に協力しているってこと?」
「ええ、多分、無意識にでしょうけれど。聞くところによると、一人暮らしで、いつも軽トラを運転してバリバリ畑仕事をこなしているそうですから、あんなフラフラな孝治の目を盗んで逃げることくらい造作ないことでしょう」
「なるほど」富田林が、うんうんとうなづきながら言った。「孫が自殺するかもしれないから心配で逃げられんということですな」
「まあ、それは人情を思えばありうることですが、問題は万能薬の情報源です。報告書を読んだのですが、先週事件を起した秋山美千代は誰かに操られていた可能性があるそうですね」
「ええっ」
 美千代と関わった葛西が真っ先に驚いて言った。
「じゃあ、孝治にもその可能性があるということですか? 治療薬の情報を餌に事件を起す様仕向けられたと」
「まあ、本人に聞かない限りなんともいえませんがね。奴がテロリストと関係しているとは思えませんが、ひょっとしたら、何らかの方法でテロリストと接触している可能性があります。それを知るためにも、とにかく孝治が死ぬことだけは避けなければなりません」
「もちろん、そういうことが無くたって死なせられないわ。あの大馬鹿野郎を逮捕して、笹川歌恋に対して詫びのひとつくらい入れさせてやらなきゃ」
 冷静に構えているが、早瀬は本気で怒っているようだった。しかし、富田林は腑に落ちない表情で言った
「しかし、もしそうだったとして、感染者を操って事件を起させて、テロリストに何のメリットがあるんです?」
「あるわよ。今は潜在している恐怖を引き出すことが出来るじゃない」
 早瀬が肩を叩きながら言った。
「あ~、久々に交渉なんてやるもんだから、肩がこったわ。ま~、防護服越しじゃ応えないこと」
「潜在する恐怖? どういうことです?」
 富田林の問いに、九木が答えた。
「『Sーhfウイルスの感染者は危険だ』ということが世間に誤って認知されてしまうだろう。彼らは自分の手を汚さずにパニックを演出できるんだ。他ならぬ被害者を利用してね。美千代の事件はまだ世間に知れてはいないが、この前のF駅での事件で感染者の危険性がクローズアップされてるんだ。もしあれが『自爆』だと知れたらなおさらだろう。多分、この事件はそのダメ押しになりかねん」
「なんか思うほど腹が立ってきます」
 葛西が言った。
「でも、それと同時に彼らの目的がさっぱりわからなくて気味が悪いです。未だ公の犯行声明も要求もないんですから……」
「ウイルスの恐怖が広まるまで待っているのかもしれんね。その上で首都圏にばら撒くと脅す、いや、世界中に撒くと脅す。その方が効果的だからね」
「くそっ、そんな連中に利用されとるかも知れんのですね、あのドあほうは……」
 富田林が腹立たちそうに孝治のいる部屋の窓を見上げた。その時、葛西が電話を受け言った。
「笹川歌恋がこん睡状態になったそうです。もう時間の問題だと……」
「そうか……」
 早瀬の顔に一瞬影がよぎったが、すぐに警察官の顔に戻った。
「よし、頃合を見計らって突入部隊を宅内に潜入させよう。屋根の方からも攻めた方がいいか。さあ、これから先、どう転ぶかわからないわよ」
 早瀬は吹っ切るようにして言ったが、ふっと空を見て言った。
「雲が出てきたわね。夕方からまた雨っていってたけど……」
「ええ」
 九木が相槌を打つ。
「それに風も強くなってきましたな」
「なんか荒れそうですね……」
 葛西が不安そうに空と二階の窓を見上げて言った。
 歌恋は高柳が来るのを待たず、こん睡状態に陥った。由利子の横で、義姉の美紗緒ががっくりとうなだれて座っていた。ギルフォードは、講義はとっくに終わっているはずなのに未だ姿を見せていなかった。それで、由利子は不安になっていた。彼女は場違い感をぬぐえないでいた。自分が何故ここにいるのか、居ていい存在なのか。何かが由利子の心に影を落としつつあった。しかし、由利子はまだそれに気が付いていなかった。
 ギルフォードが紗弥とともに研究室に帰ると、如月が彼の帰りを待っていた。
「キサラギ君、お待たせしました」
「先生、ども。ちょっとこの画面を見てくれまへんか?」
 と、如月が挨拶もそこそこに、 ギルフォードをパソコンの前に呼んだ。ギルフォードは、如月のほうに向かいながら怪訝そうな表情で言った。
「なんです?」
「これです。昨日、なんとなくM町発のインフル感染発症者マップとSーhfウイルス感染発症者マップを重ねてみたんですわ。そしたら……」
「勝手にデータをいじくっちゃダメでしょ。万一の時のために、君を信用してパスワードを教えているんですから」
「すんません。つい。ほんまは保存せずに消すつもりやったんです。せやけど、これ見たらそうはいかんと思うて……」
「まあ、やってしまったことは仕方ないですね。……おや、いくつかのI(インフル)マークとSマークがずいぶんと近いですね」
「そうでしょ。インフル発症者の情報が性別と大方の年齢のみ、そして住所も番地まではないので合致はせんのですが、かなり近いところにあるんですわ」
「君が言いたいのは、M町発生のインフルエンザとサイキウイルスの感染者が被っていると言いたいのですね」
「そうです」
「では、そういう考え方で検証してみましょうか。K市A団地 五十代男性……。これは多分タミヤマさんです。確かに彼はユリコに、自分もインフルエンザに罹ったとか、そんなことを言ってたようですが……」
「それからH区M町……これは地理的にO市やKa市に近いですが、この50代女性、秋山珠江さんやないでっか? それからこのK市K町の30代と40代男性二人やけど、二人の古賀さんと住所も近いでっしゃろ。たしか、この二人いとこやったそうですね。近くに住んでいる親戚やったら、同じような感染症に罹る可能性も高いんやないでっか?」
「う~ん、確かに、サイキウイルスに感染して劇症化、あるいはその疑いで亡くなった方たちと被っているように思えますね。そういえば、この前ジュリーが気になることを言ってましたが、それと関係しているのかもしれません」
「気になること?」
「あ、すみません。今はまだ詳しいことがわかってないので教えられないのです」
「じゃあ、仕方ありまへんな」
「とにかく、このインフル感染後のSーhfウイルス感染が劇症化と関連するかどうかは、インフルエンザ感染者の詳しいデータをもらわない限り確認のしようがありません。事情を説明して、出来るだけ早くデータをもらえるようにしなければなりませんね」
「あの、教授」
 横で聞くとはなしに話を聞いていた紗弥が口を挟んだ。
「もしそれが関係するとしたら、由利子さんがこの事件に関わるには危険ではありませんの?」
「確かにそうなりますね。って、僕、困るじゃないですか」
 ギルフォードは、そう言いながらも予想外の弊害を予想して頭を振った。それを見ながら、如月が少し言いにくそうに言った。
「それからもうひとつあるんですわ。これなんですが……」
 そう言いながら如月が一冊の雑誌を出した。
「あ、サンズ・マガジン!」
 ギルフォードと紗弥が見るなり同時に言った。ギルフォードが会議でつるし上げになりかかった要因を作ったタブロイド誌だ。
「そうでした。こっちでの発売日は今日でしたね」
「ご存じやったんですか。うちの研究室の常葉ときわが持ってきたんですわ。これに教授に似た人の写真が載っとるて言うて……」
 ギルフォードは一瞬戸惑ったが、意を決して言った。
「上の方から否定しろ、と言われてますが、君には言っておきます。この写真は間違いなく僕です。しかし、記事の内容は、正確な部分もありますが、僕のことを含む大半は悪意が潜んだでっち上げです。この汚名は必ず晴らします。トキワさんや他のみんなにも心配するなと言ってください」
「ほんまにほんまのガセネタなんですね」
「ややこしい表現ですが、ホントにホントのガセネタです」
 如月の目に安堵の色が見えた。
「僕は教授を信じとります。そして、教授に教わることや教授のお手伝いが出来ることを誇りに思うとるんです。他のみんなもそうやと思います。せやから、教授も変な中傷や妨害にまけんといてください」
「オー、キサラギ君……」
 ギルフォードは感動して言った。
「ありがとう。君たちも僕の誇りです」
「へへ……」
 ギルフォードに言われて、如月は照れながら頭を掻いていた。
 高柳は、なんとか時間を作って歌恋の病室に急いで入ると、開口一番に言った。
「敏江、遅くなってすまなかった。笹川さんの容態はどうかね?」
「あなた……」
 敏江は力なく夫の方を向いて言った。
「あなたを待っていたけど、大分前からこん睡状態になったわ。呼吸もこんなに浅くなって……」
「そうか……」
 高柳はそう言ったきり黙って妻の横に立った。敏江は歌恋の頭をそっと撫でて言った。
「私ね、なんかこの子が本当の娘のように思えてきたの。変かしら?」
「いや、変じゃないよ。だけどおまえ……」
 高柳がそう言いかけたとき、歌恋がうっすらと目を開けた。
「おとうさん、きてくれた……の?」
「ああ、待たせちゃったね。ごめんよ」
「ううん……。わたしこそごめんなさい。ほんとはおとうさん、おかあさんじゃないって……わかってた……の」
「判っ……てた?」
 と、敏江が驚いて聞いた。
「うん。とちゅうからわかっちゃった。だってかれんのおとうさんもおかあさんも、かれんにはやさしくなかったもの。ムリさせてごめんなさい。やさしくされるのがうれしかったの、だから……」
「歌恋ちゃん」
 敏江は歌恋の手をそっと掴んで言った。
「いいの、いいのよ。あやまらなくてもいいの。私たちには子供がいなかったから、娘が出来たみたいで……私もうれしかったの。だから、もしよかったら、これからも私たちを両親だって思っていいのよ。ね、あなた」
「あ……? ああ、もちろんだ」
「うれしい。うれしいなぁ……」
 歌恋はそう言った後、窓の方を向いて言った。
「そこのおねえさんたちも、ごめんなさい。かれん、だれかよくおもいだせないの。でも、すごくやさしくしてくれたようなきがする……。だから、あ……りがと……」
「歌恋ちゃん……」
 美紗緒はそれ以上何も言えなくなり、顔を覆った。肩が震え口からは嗚咽が漏れた。
「おねえさん、なかないで……。それから、かんごふ…さ……も、ありがと……」
「かれんちゃん、もういいわ、しゃべらないで……」
 敏江は話すごとに息の荒くなっていく歌恋を制止した。歌恋は痛々しい赤い目で高柳夫妻を見ながらつぶやいた。
「おか……さん……、おと……さ……、あ……」
 しかし、それが限界だった。歌恋は苦しそうにあえぎ始めた。
「いかん!」
 高柳はあわただしくマイクに向かい、看護師の応援を呼びかけた。しかし、歌恋はその間にあえぎ、のたうち、ひきつけ反り返った。敏江が悲鳴に近い声で歌恋の名を呼んだ。
 その光景は、由利子に多美山の死の記憶を鮮明に思い出させた。あの時は横に心強いギルフォードやジュリアスがいた。だが、今は一人だった。それは、由利子に言いようのない不安を感じさせていた。ひざが震え、心臓がドキドキし始めた。しかし、悲痛な悲鳴で由利子は我に返った。悲鳴の主は美紗緒だった。彼女は蒼白な顔をしてガタガタと震え、倒れそうになってよろけた。
「美紗緒さん!」
 由利子は急いで彼女を抱きとめた。美紗緒は由利子の腕の中で震え、怯えていた。
「だめ……。怖くてもう見ていられない……。酷すぎる……」
「美紗緒さん、ムリしないで……」
 由利子は美紗緒の背を撫でながら言ったが、自分は何故か病室から目が離せないでいた。病室に看護師たちが駆けつけ、苦しさで暴れる歌恋を押さえ込んだ。高柳が甲斐看護師とともに、処置をするためにせわしく動き、敏江が何度も歌恋の名を呼んでいた。しかし、歌恋の発作は治まらなかった。ついには鼻と口から血が溢れ出して、激しくひきつけた。由利子は声もなく瞬くのも忘れたようにそれを見つめていた。目をそらしたいのに体が動かない。由利子は無意識のうちに、美紗緒を抱きしめていた。歌恋は、反り返ったまま大量に放血したが、急に全身の力が抜けすとんと体がベッドに落ちた。歌恋を抑えていた看護師達は、彼女に覆いかぶさった状態のまま、顔を見合わせた。一瞬、何が起こったかわからなくなったのだ。
「歌恋ちゃん!」
 敏江が驚いて歌恋の手を握り声をかけた。しかし、歌恋は目を見開き口を少し開けたまま、ピクリとも動かなかった。敏江は看護師を押しのけるようにして、迷わずに心臓マッサージを始めた。
「歌恋ちゃん、戻って、お願い、歌恋ちゃん!」
「敏江……、もうやめなさい」
 高柳が見かねて制止した。敏江は我に返ると、そのまま床に座り込みそうになった。しかし、気丈にも立ち上がって歌恋に向き合った。そんな妻をいたわるようにして高柳が言った。
「僕がやろう」
「いいえ、私の患者よ。私がやるわ」
 敏江はそう言うと、歌恋の瞳孔と心音を確認し、開いたままの彼女の目を閉じながら言った。
「残念ですが、亡くなられました……。死亡時刻は午後2時13分です……」
「歌恋ちゃん……」
 美紗緒は由利子から離れ、フラフラと窓に向かって歩いた。そして、窓にすがりつくようにして歌恋を見ると、そのままよりかるようにして座り込んだ。
「うそ……、歌恋ちゃん、歌恋ちゃん……。いや……、いやぁあああ……」
 泣き崩れる美紗緒の後ろで、由利子はそのまま突っ立ったままでいた。由利子の心には悲しみと怒りと恐怖が同時に渦巻き、無意識に両手を握り締め下唇を噛みしめていた。全身が小刻みに震え、唇には血が滲んでいたが、気付く様子もなく、由利子はそのまましばらく立ち尽くしていた。
 その頃、早瀬たちは交渉の真っ只中に居た。孝治は祖母を自分の前に座らせて交渉に臨んでいる。美波は一人密かにビデオを撮りながら一部始終を見聞きしていた。
(なによ、あの男! 聞いてたら無理ばっかり言ってから、自己チューにもほどがあるわ! その上、実のおばあさんをあんな目にあわせて! そもそも感染は自分のせいなんじゃないの。しかも要求が、自分が乱暴した女の子を連れて来いたって? それも、その人は今危篤なんだっていうじゃない、馬鹿じゃないの!!)
 美波はだんだん腹が立ってくるのを覚えた。しかし、その一方で、男が言っている『万能薬』のことが気になっていた。
(そんなものあるのかしら? ワクチン……でもなさそうだし……。でも、あのオバサンはまっこうから否定してたわよね。でも、あるとしたら……、って、今はそんなことよりこっちだわ)
 美波はいよいよ緊迫しつつある現場の撮影と状況説明に徹することにした。
 早瀬がやや苛ついた様子で言った。
「だから、1時間やそこらじゃ結論は無理だ。いや、君の要求自体が無理なんだ。笹川歌恋は既にこん睡状態だそうだ。歌恋さんに会いたいなら、早く投降したほうがいい。そして、一刻も早く感対センターに行くんだ。今ならまだ間に合うから。さあ……」
「騙されないぞ! 一時間だって? うそをつくな、もう夕方じゃないか! 部屋にガスかなんか入れて俺を眠らせただろう? その間になにか細工をしたに違いないんだ」
「夕方? 寝ぼけていないか? まだ昼の二時だぞ。それにガスを入れたならとっくに君を確保……」
「二時だって? うそをつくな! こんな夕焼けがしてるのにそんなわけないだろうがッ!!」
「夕焼け?」
 早瀬は怪訝そうな表情で空を見た。しかし、鉛色の曇天が広がっているだけである。葛西ははっとして言った。
「早瀬さん、赤視です! 斉藤孝治は今周囲が赤く見えているんです」
「これが赤視状態になった感染者……」
「早瀬さん、これからが厳重注意です。あの多美山さんすら錯乱状態に陥ったんですから」
「わかった。九木さん、『頃合』よ。突入部隊に次を指示して」
「了解」
 九木は無線を手に取り言った。
「一部屋根側から二階の窓付近に、他は速やかに宅内に潜入し、気付かれることなく斉藤孝治の居る二階の部屋の前に、それぞれ待機せよ」
「何をこそこそやってるんだ!」
 孝治がイラついた様子で怒鳴った。
「作戦がバレたので焦っているのか? それともまだ何か小細工をしようとしているのか? だが、俺は騙されないぞ」
「そうじゃない。いいか、今はまだ午後二時だ。夕焼けには早い。それは君の病気の症状なんだ。夕焼けが見えているのは君だけなんだ。時間がない、はやく……」
「うるせぇっ! 早く歌恋を連れて来い!! いいか、今すぐにだ!」
「わからず屋め!」
「早くしないと、この場でのどを掻っ切ってしまうぞ。ばあちゃんはもちろん、この高さと風だ。俺の血はひょっとしたら周囲の野次馬にも届くかもしれないぜ」
 孝治はそう言いながらのどに鋏を突き立てる仕草をした。
「いかん! やめろ! 孝治君、落ち着くんだ!」
 早瀬が叫んだ。絹江も目隠しで周囲の状況が飲み込めないものの、会話で危機を察したのか、何度もうめいている。
「見物人たちや報道陣を二百メートル先の公民館に避難させろ! 防護服未着用の署員も共に退避! 避難した市民の保護に当たれ!!」
 九木が怒鳴った。その横で早瀬が必死で説得に当たっていた。
「孝治君」
 早瀬は言い方を和らげて言った。
「落ち着きなさい。私の言うことをちゃんと聞いて。せめてお婆様だけでも解放してあげて。そのままだと、感染より先にショックを起すかもしれないわ。歌恋さんについては、もう一度交渉してみるから……」
 葛西が早瀬と孝治のやり取りを心配そうに見ていると無線連絡が入った。それは、歌恋の死を告げるものだった。
「そうか、だめだったか……。これからが正念場になるな」
 早瀬がいっそう険しい表情で言った。
「いよいよですね」
 富田林がわくわくした面持ちで言った。それを見て九木がたしなめた。
「人がひとり死んだんだ。あまり嬉しそうにするな」
「はっ、申し訳ありません」
 その二人を尻目に、早瀬は孝治に向かって沈痛な面持ちで言った。
「孝治君。落ち着いて聞いてほしい。今、歌恋さんが亡くなったという連絡があった……」
「うそをつくな!!」
「誰がこんな嘘をつくものですか!」
「うそだーーーーーッ!!」
 孝治が叫んだ。早瀬は話し方をさらに和らげ、なだめるように言った。
「落ち着いて、孝治君。ね、もうやめましょう。これ以上は空しいことだわ。さあ、降りてきてちょうだい。はやく治療をしないと……」
「うそだ! ……うそだ、うそだっ!! うそ うそ うそ ………」
 孝治は現実が認められずに混乱しているようだった。九木がつぶやいた。
「いかん、タイミングが悪すぎる……」
「九木さん、突入部隊の指示、任せるわ」
 早瀬が孝治から目を離さないままで言った。
「了解」
 九木が無線を取って待機した。
「うそうそうそうそうそうそ…うそ…うそだ、うそだ……、おれは、かれんを助けようと思って……かれんを……かれん、かれん、かれん!!」
 孝治は頭を抱えて呟いていた。その呟きは徐々に大きくなってついには叫び声になっていった。
「かれん!! かれーーーーん!!! うわぁぁぁあああああ!!」
 とうとう孝治は窓際を叩きながら泣き叫んだ。
「孝治君、しっかりしなさい」
 早瀬が叫んだ。横で九木が冷静に状況判断して言った。
「突入、用意」
 その時、生垣から誰かが飛び出してきた。美波だ。
「あんた、馬鹿じゃないの!!」
 美波は大声で言った。
「女性に乱暴して勝手に病気になって、勝手に大騒ぎして、おばあちゃんにひどいことして!!」
「あっ、こいつ、どこから!!」
 富田林が叫んだ。九木がため息混じりに言った。
「富田林君、葛西君。取り押さえて」
「やめてよ! いいから一言言わせて!!」
 美波は二人を振り切りながら言った。
「あんたのすることはひとつよ! いい? 今すぐ病院に行って亡くなったカレンさんって人に謝って! 謝りなさい!!」
(こいつ、いつ頃からあそこに居て、話を聞いてたんだよ……)
 葛西はゲンナリしながら思った。二人に取り押さえられながら、そんなことは構わずに美波は更に大声で怒鳴った。
「謝れーーーーーっっ!!」
「ミナミサ……? なんでおると?」
 予期せぬ人物の登場に孝治は面食らった様子で言った。
「そうだな、君の言うとおりだ……」
 孝治はよろよろと立ち上がった。それを見た九木が指示を急いだ。
「突入!!」
「ばあちゃん、ごめんな。 いままでありがとう」
 そう言うと孝治は絹代を立たせ、ドアの方へ軽く突き飛ばした。同時にドアを破って防護服の警察官たちが突入してきた。彼らはすぐに絹代を保護し、その勢いで孝治も保護しようとした。しかし、孝治はそれを制した。
「寄るな!!」
 孝治は叫びながら窓際に寄りかかるように立ち、のどに鋏の片刃をつきたてた。
「彼女の言うとおりやね。謝っても許してもらえるとは思えんけど……」
 孝治は力なく笑った後半泣きで言った。
「歌恋、ごめん。でも、君への気持ちは本当やった。本当に好いとったとに、なんでやろな、おれ……。ごめんな、歌恋……」
 そして警察官たちの方に向かって言った。
「ばあちゃんをお願いします」
 孝治はそのまま後ろ向きに倒れた。戒めを解かれた絹代が悲鳴に近い声で孫の名を呼んだ。
「コウちゃん、やめてーーーっ!!」
 それとともに警察官たちが駆け寄ったが、窓の向こうに孝治の姿が消えた。
「きゃあっ、馬鹿っ、何するの」
 と、窓から落下しようとする孝治を見た美波が悲鳴混じりに叫んだ。
「孝治君、やめなさい!」
 早瀬も必死で制止しようとしたが、空しく孝治の体は窓から落下していった。追って窓から数人の警察官が体を乗り出したが、彼らの手は孝治を掴み損ねていた。しかし、孝治の体が落下途中で止まった。窓の外にぶら下がり待機していた警察官が、孝治の腕を掴んで落下を止めたのだった。しかし、掴んだのは左手で、刃物を持ったほうの手は両足と共にまだばたばたと空をかいていた。
「離せっ! 離してくれ!」
 孝治は暴れた。他の警察官が加勢をしようとしたが、孝治が刃物を振り回して近づけないでいた。孝治は宙吊りで暴れながら、彼を支えている警察官の手を狙って攻撃を始めた。
「大人しくしなさい」
 警察官は制したが孝治は一向に暴れるのをやめなかった。ついに刃が警察官の手をかすった。警察官が一瞬ひるんで手の力が抜けかかった。その隙をついで、孝治は一際暴れ、ついに警察官の手を振り払ってしまった。周囲の見守る中、孝治は落下し、エアクッションの上にボスンと落ちた。とっさに葛西が無防備の美波の前に立ちはだかり、富田林が彼女をかばって覆いかぶさったが、その脇の横で傘がぽんと開いた。富田林は傘の下で美波を押し倒した形となり、ぽかんとしたが、美波は照れくさそうにえへへと笑った。しかし、富田林が起き上がって傘を見たところ、何かが点々と付着しているのに気がつき、はっとして孝治の落ちたほうを見た。
 孝治は落下したものの、レスキューの敷いたエアクッションの上に落ちて事なきを得たと思われた。しかし、彼を保護しようとして近づいた救急隊が驚いて言った。
「あっ、これは……」
「死んでいるぞ!」
「何だって!!」
 と、早瀬と九木が急いで駆け寄った。
「刃物がのどに突き刺さっています。落下時の衝撃で刺さったのだと思います。ほぼ即死だったでしょう」
「なんてこと!」
「馬鹿な……」
 早瀬と九木は孝治の姿を見て愕然とした。仰向けに反された孝治の喉には裁断バサミの片刃が突き通らんばかりの深さで突き刺さっており、既に虚ろに開いた彼の目は、焦点の合わないまま空しく曇天を映していた。
しおりを挟む
感想 2

あなたにおすすめの小説

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

【BIO DEFENSE】 ~終わった世界に作られる都市~

こばん
SF
世界は唐突に終わりを告げる。それはある日突然現れて、平和な日常を過ごす人々に襲い掛かった。それは醜悪な様相に異臭を放ちながら、かつての日常に我が物顔で居座った。 人から人に感染し、感染した人はまだ感染していない人に襲い掛かり、恐るべき加速度で被害は広がって行く。 それに対抗する術は、今は無い。 平和な日常があっという間に非日常の世界に変わり、残った人々は集い、四国でいくつかの都市を形成して反攻の糸口と感染のルーツを探る。 しかしそれに対してか感染者も進化して困難な状況に拍車をかけてくる。 さらにそんな状態のなかでも、権益を求め人の足元をすくうため画策する者、理性をなくし欲望のままに動く者、この状況を利用すらして己の利益のみを求めて動く者らが牙をむき出しにしていきパニックは混迷を極める。 普通の高校生であったカナタもパニックに巻き込まれ、都市の一つに避難した。その都市の守備隊に仲間達と共に入り、第十一番隊として活動していく。様々な人と出会い、別れを繰り返しながら、感染者や都市外の略奪者などと戦い、都市同士の思惑に巻き込まれたりしながら日々を過ごしていた。 そして、やがて一つの真実に辿り着く。 それは大きな選択を迫られるものだった。 bio defence ※物語に出て来るすべての人名及び地名などの固有名詞はすべてフィクションです。作者の頭の中だけに存在するものであり、特定の人物や場所に対して何らかの意味合いを持たせたものではありません。

サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由

フルーツパフェ
大衆娯楽
 クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。  トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。  いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。  考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。  赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。  言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。  たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。

ルーインド東京

SHUNJU
SF
2025年(令和7年) 東京オリンピックの開催から4年。 日本は疫病流行の完全終息を経て、今まで通りの日常へと戻っていった。 巣鴨に住むごく一般的な女子中学生、平井 遥は ゴールデンウィークに家族みんなで大阪万博へ行く計画を立てていたが、 しかし、その前日に東京でM8.8の大規模な巨大地震が発生した。 首都機能存亡の危機に、彼女達は無事に生きられるのか・・・? 東京で大震災が発生し、首都機能が停止したら どうなってしまうのかを知っていただくための震災シミュレーション小説。 ※本作品は関東地方での巨大地震や首都機能麻痺を想定し、  膨大なリサーチと検証に基づいて制作された小説です。  尚、この物語はフィクションです。  実在の人物、団体、出来事等とは一切関係ありません。 ※本作は複数の小説投稿サイトとの同時掲載となりますが、  当サイトの制限により、一部文章やセリフが他サイトと多少異なる場合があります。 ©2021 SHUNJUPROJECT

友達の母親が俺の目の前で下着姿に…

じゅ〜ん
エッセイ・ノンフィクション
とあるオッサンの青春実話です

だんだんおかしくなった姉の話

暗黒神ゼブラ
ホラー
弟が死んだことでおかしくなった姉の話

淫らに、咲き乱れる

あるまん
恋愛
軽蔑してた、筈なのに。

ゾンビのプロ セイヴィングロード

石井アドリー
SF
『丘口知夏』は地獄の三日間を独りで逃げ延びていた。 その道中で百貨店の屋上に住む集団に救われたものの、安息の日々は長く続かなかった。 梯子を昇れる個体が現れたことで、ついに屋上の中へ地獄が流れ込んでいく。 信頼していた人までもがゾンビとなった。大切な屋上が崩壊していく。彼女は何もかも諦めかけていた。 「俺はゾンビのプロだ」 自らをそう名乗った謎の筋肉男『谷口貴樹』はアクション映画の如く盛大にゾンビを殲滅した。 知夏はその姿に惹かれ奮い立った。この手で人を救うたいという願いを胸に、百貨店の屋上から小さな一歩を踏み出す。 その一歩が百貨店を盛大に救い出すことになるとは、彼女はまだ考えてもいなかった。 数を増やし成長までするゾンビの群れに挑み、大都会に取り残された人々を救っていく。 ゾンビのプロとその見習いの二人を軸にしたゾンビパンデミック長編。

処理中です...