朝焼色の悪魔 Evolution

黒木 燐

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第三部 第二章 焔心

9.ブルー・フレイム~沈黙の怒り

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 北山紅美の容態が再び急変し、感対センター内に緊張した空気が広がった。
 高柳は仮眠からたたき起こされたにも関わらず、スタッフに的確な指示を与えている。F市内の母方の祖父母宅に来ていた紅美の妹も祖父母に連れられて駆けつけた。それは紅美の容態の深刻さを物語っていた。そんな中、園山を呼びに行った横井咲子の緊迫した声が内線から響いた。
「高柳先生、大変ですっ。すぐ来てくださいッ! 園山さんが、園山さんが……」
「何かあったらしい。山口君、後はお願いする」
 高柳はそういうと、近くにある内線の受話器を取った。
「横井君、どうした。どこにいる?」
「仮眠室です。なんだか寝ている園山さんの様子が変なんです」
「どういう風に?」
「なんか苦しそうに唸っていて、声をかけても反応が無いんです」
「彼の傍に近づいたのか?」
「いいえ、なんだか恐ろしくて、とても……」
「それでいい。絶対に近づくな。急いで君はそこから離れなさい。そこにはすぐに誰か行かせるから」
 高柳は受話器を置くと駆け出しながら言った。
「塚本君、吉井君、すぐに防護服を着て仮眠室にストレッチャーを運んでくれ。園山君が発症したらしい」
「えっ、園山さんが?」
「とうとう、スタッフに感染者が……」
 スタッフたちに動揺が走った。
 
 囚われの美葉は、ベッドの上で膝を抱えて座っていた。横には憎むべき男が正体なく眠っている。
 最近美葉が従順にしているため、結城の束縛が少し緩くなったように思われた。あの夜から数日間、美葉は寝るときに逃亡を図らないように、両手をベッドに括られるという憂き目にあっていたが、ここ数日は結城の機嫌も良く、拘束は免れた。しかし、それでも外の情報には一切触れさせようとはしなかった。ホテルではテレビやラジオを一切つけず、有線で曲を流すのみ、車で移動する場合でもラジオの類をつけることは、一切許されなかった。
 それで、美葉は今世間がどうなっているかさっぱりわからなかった。普段から、あまりニュースの類を真剣に見るほうではなく、ましてや行政関連のニュースなど敢えて見ることはなかったが、こうも世間から隔絶されると流石に不安になった。特に自分をこういう状況に追い込むことになったウイルス騒ぎがどうなっているのかが、心配でたまらなかった。だが、今結城を刺激することは出来るだけ控えようと考えていた。出来るだけ従順に振る舞い、とにかく結城を油断させよう。
 結城が美葉の逃亡を警戒するのには訳があり、美葉はそれに気がついていた。結城は常用する薬のせいか、夜、事の終わった後、死んだように眠るようになった。しかも眠ったら数時間は全く目を覚ますことがなかった。おそらく、美葉にウイルス散布をほのめかせて逃げられないように脅していなければ、彼女は容易く逃げることが出来ただろう。
「おまえが逃げたら容赦なく街中でウイルスを撒く」
 その見えない束縛が、美葉を今の屈辱的な立場に甘んじさせていたのだ。
 しかし、美葉はただ諦めて結城に従っていたのではなかった。彼女はそれとなく結城の様子を観察していた。結城が美葉を監視するということは、逆に美葉も結城を監視出来るということになる。
 そして美葉は、ある仮説を立てるに至った。
 それは、実は結城が毎日仲間と連絡を取ってはいないということ。結城は自分に何かあって定期連絡が途切れたときは、仲間がウイルスを撒くと言った。しかしここ何日かの間、連絡を入れた様子がない日が2日ほどあったのだ。それで、結城は実は仲間の中で孤立しているのではないか、最悪、裏切り者あるいは邪魔者扱いされているのではないかと考えた。もしそうならば、『結城に何かあったら仲間がウイルスを撒く』ということ自体が単なる脅しということになる。もしそうなら、美葉が結城を倒して『ウイルスの卵』入りカプセルを奪って逃げることが出来るだろう。
 しかし、それはまだ確定ではない。美葉のわからない方法で連絡を取っているかも知れないからだ。それならば、なんとかしてギルフォードや由利子に結城たちの目的を知らせねばならない。1日でも早く。ひょっとして、死んだように眠る今なら、何か連絡する方法があるかもしれない。
 美葉は、結城の様子をしばらく伺い、起きそうもないことを確認すると、そっとベッドから降りようとした。それでも結城は目を覚ます様子がない。美葉は思い切ってベッドを降り室内を見回すと、そっとその場から離れようとした。その時、美葉の左手がガッと掴まれた。
「ひっ!」
 美葉は息を呑み振り向いた。そこには横になったままカッと目を開けた結城の顔があった。結城は目を見開いて美葉を凝視し、彼女の手を鷲づかみにしていた。
「いっ、痛い! 痛いわ、手を離して!」
「何をしようとしている?」
「トイレよ。それくらい許してよ」
「そうか。じゃあ行け。だが、……わかっているな」
「わかっているわよ」
 美葉は、平静を装いトイレまでゆっくりと歩いて行った。だが個室に入りカギを閉めると、美葉はドアにもたれてへなへなと座り込んだ。そして、美葉は結城に掴まれた左腕を確認してゾッとした。白い肌に、赤い手の跡と共に食い込んだ爪痕が5箇所、くっきりと残り血が滲んでいた。
 
 北山紅美は、苦しい息の中で死神と必死で戦っていた。
 既に自傷したり苦しさに暴れたりする体力も失い、拘束からは解放されていた。呼吸は人工呼吸器のおかげで何とか出来ているのに、この苦しさはなんだろう。しかも、すでに五感のほとんどが失われ、思考力もかなり落ちているのに、意識だけがはっきりしていた。いっそ、意識なんて失ってしまったほうが楽なのにと、窓の向こうの家族のおぼろげな姿を見ながら思った。
 まるで水の中にいるようだった。息をしても息をしても酸素が肺にいっぱいにならないような気がした。事実、彼女の肺は血液に満たされ、自分の血でおぼれている状態になっていた。窓の向こうで医師らしき人が家族に何か告げていた。母親らしき影が父親らしき影にすがりつき、顔を覆う仕草をした少女の影を祖父母らしき影が抱きしめた。
(ああ、もうすぐラクになれるんだな……)
 紅美は妙に冷静にそう思った。ここ数日間に自分に襲い掛かった悲劇と苦痛に、紅美は疲れ果てていた。一昨日の夜見た自分の顔。看護師が治るまで見ないほうがいいと言ったが、何度も頼み込んで見た己の顔。やつれ果て、何箇所も出来た内出血の染みだらけの顔は、皮膚が妙にぶよぶよしているように見えた。こんなになっても病気が治ったら元に戻るのか、と看護師に聞くと、彼女は笑顔で言った。「もちろんよ」
 
   治ったら……。
 
(なおれば……。なおらなかったら……)
 紅美は絶望して目を閉じた。看護師の春野が傍に来てたずねた。
「どうしたの? 大丈夫? 苦しいの?」
 (ええ、ずっと……)
 紅美は心の中で答えると、ふっと長沼間の薔薇の方に視線を向けた。
「あの薔薇が見たいのね」
 春野はそういうと、サイドテーブルからローズキューブを手に取り紅美に見せ、それを彼女の胸の上に乗せた。紅美はゆっくりと両手でそれを抱いた。
(きっと この ばらは、あのときの まま きれい……)
 紅美はそう思いながら静かに目をつぶった。意識が暗闇に沈んでいく……。
 気が付くと、何故か紅美は水中のようなところをたゆたっていた。水中なのにさっきまでの苦しさは全く感じなくなっていた。周囲は真っ暗だが遠くに青くきらめく水面のようなものが見える。今まで不吉な赤い世界に居たせいか、紅美はその色に心安らぐものを感じた。
(ここはどこかしら? ゆめ? それともわたしはしんじゃったの?)
 紅美は漂いながら周囲の様子を伺った。すると、さっきから付かず離れずについてくるものがあることに気が付いた。手を伸ばすと何かが触れた。長沼間がくれた薔薇だった。
(そうか……。いきているようにみえたけど、このこはとっくに……)
 紅美は愛おしそうに薔薇の花を胸に抱いた。この花が先に逝ってしまった子の魂のように思えた。
(いっしょに、いこうね)
 紅美の身体は、彼女の意思と関係なくあの青く輝くものに迫っていく。
(おじさん、ごめんなさい。やくそく……)
 紅美の意識はそのまま青い光に包まれ、何処かへ消えていった。
 病室内に緊張が走る。なんとか正常値を保っていた紅美の心拍数が急に乱れ血圧が急激に下がり始めた。山口が緊張した表情で言った。
「まずいわ。強心剤! 早く!」
「はいっ」
 春野の後ろに立っていた看護師の田中が急いで強心剤を打つ。病室の緊張した様子に、家族が息を呑んでそれを見守った。
 その後、一瞬それが回復したように思えたが、数分後、心拍数がみるみる下がって波形が一本の線になった。ピーーーーという空しい音。
「あっ……」
 病室のスタッフの顔色が変わった。同時にローズキューブを抱いていた紅美の手がぱたりと下に落ちた。それとともに紅美の胸から転げ落ちた薔薇は、動かなくなった彼女の手のひらにひっかかり止まった。それは、意図的に紅美が薔薇を受け止めたように見えた。
「紅美ちゃん!」
「紅美!」
「おねえちゃん!」
 窓の外で家族が口々に彼女の名を呼ぶ。
「先生、心マを!」
 看護師の田中が言うと、山口がそれを止めた。
「やめましょう。おそらく多美山さんと同じように、内臓からの大出血が起きたのよ。全身に広がったウイルスのために、もう臓器も骨も表皮も昨日よりずっとボロボロなの。それにもし戻っても……」
 山口はそこまで言うと口をつぐんだ。そして静かに紅美に近づくと瞳孔の状態を確認して言った。
「残念ですが、亡くなられました。……申し訳ありませんが、人工呼吸器を外しますので……」
「だけど、息をしているじゃないですか」
 紅美の父、紀夫が、未だ規則正しく上下している娘の胸を見て言った。
「それは、人工呼吸器で強制的に呼吸させているからです。でも、心臓が止まったんです。心肺停止状態なんです。お嬢さんは亡くなられたのです」
「それでも息をしているんです。娘は息を……」
「残念ですが……」
「呼吸器を止めたら……・」
「呼吸は止まります」
「そんな……、だって娘は息を……」
 そこまで言うと、紀夫は涙声で続けた。
「今だって息をしているのに……」
「お父さん」
 母の真澄が涙をこらえて言った。
「紅美はすごく苦しんだとですよ。もう楽にさせてやりましょう」
「だって、おまえ、あれが死んどるごと見えっとか?」
「そんでも、あの子は死んでしまったとですよ、お父さん……。このままやったら余計にかわいそうやないですか。……先生、お願いします……」
「はい」
 山口がうなづいて言った。
「春野さん、お願い」
「はい」
 春野はそういうと人工呼吸器のスイッチを落とした。紅美の呼吸が止まり、彼女はそのまま動かなくなった。山口がもう一度瞳孔と、さらに心臓の鼓動を確かめて言った。
「死亡時刻は、午前5時32分です。力が足らず、申し訳ありませんでした」
「いえ、危険な病気なのに、みなさん、本当に娘に良くして下さって……」
 真澄はそういうと深々と頭を下げた。
「うおおお……」
 紀夫の慟哭がステーション内に響き、それととも家族が啜り泣きを始めた。
 しかし、スタッフ内には別な緊張が走っていた。看護師の園山の発症によって受けたショックを皆隠せずにいた。園山は多美山にほとんど付きっ切りだった。それで体力を消耗した上に背後から多美山の断末魔の血を浴びてしまったのだ。おそらく感染したのはその時だろうと思われた。防護服は必ずしも安全ではない。そして、患者に尽くすほど、感染のリスクは高まっていく。最悪の場合、センター職員全員がセンター内から出られない半隔離状態に置かれるかもしれない。感染と自由を奪われる恐怖。それは、今までの漠然とした不安が形を成したということであった。
 その後、田中が事務的に紅美の口から人工呼吸器のチューブを抜き取った。同時に口から血が溢れた。急いで春野がその血を拭った。清拭にとりかかった看護師等を見つめながら、山口は今から家族にする気の重くなる内容の説明を思い、ため息をついた。
  
 会議は朝から行われた。
 これは、各セクションの代表が集まったSVサイキ・ウイルス対策本部(実質SVテロ対策本部)の合同会議でだった。SV対策本部は、行政や民間の各組織から選ばれたセクションから成る、森の内知事をリーダーとしたタスクフォースだ。会議には警察からは県警テロ対策本部部長の松樹と葛西、そして警視庁から共同捜査のために来た九木の3人が、医療チームからはセンター長代理の三原と、ギルフォードそしてジュリアスが参加していた。ジュリアスはまだ正式にチームには加わっていないが、メガローチ捕獲作戦の報告のための出席である。
 各セクションの経過報告が終わり、ジュリアスと葛西が壇上に上がった。
 ジュリアスは流暢な標準語で、わかりやすく捕獲の経過を説明した。
「何か、ご質問等はありませんか?」
 説明を終えて、ジュリアスが皆に尋ねた。すぐさま、良く肥えた黒髪の髭達磨のような老人が手を挙げた。
「はい、えっと……」
「F県昆虫研究センター教授の漆黒うるしぐろです。遠慮なく質問をするがいいかね?」
「どうぞ、ご遠慮なく」
 漆黒は、おもむろに立ち上がって言った。
「研究者の私からして信じられないのだが。このメガローチとやらは、本当にウイルスによる突然変異で生まれたものなのかね」
「遺伝子の調査がまだなので、確定はできませんが、状況からかなり高い確率でそうだと思われます」
「外来種が在来種に混ざって発見されたと考えるほうが、常識的だと思われるが」
「もちろんおれ……いえ、私も、そしてQ大のギルフォード教授も、最初はありえないと考えていました。しかし、発生や捕獲状況等を考慮すると、どうしてもその可能性が高いという結果になるのです」
「ふん。キング博士……でしたかな、後ほどそれを見せてもらえるかね?」
「はい、もちろんです。あなたの意見をお聞きしたくてあなたにお越し願ったのですから。私はこの後感対センターにおります。標本もそこに保管しておりますので、後ほどご足労願えますか?」
 ジュリアスの言葉を聞いて、漆黒は悪くない表情をして答えた。
「よろしい。午後にでもお伺いしましょう」
 そういうと、漆黒は着席した。
 その後、いくつか質問が出た。だが、それらは虫に対する常識的なものばかりだったのでジュリアスは難なく説明を終えた。
「えっと、他にご質問は……」
 ジュリアスが締めくくろうとした時、手が上がった。九木だった。
「九木さん、どうぞ」
「重要な質問ですがね。その巨大ゴキブリに対しては……」
「我々は蟲あるいはメガローチと仮称していますので」
「おっと失礼。そのメガローチですが」
 巨大ゴキブリという言葉を聞いて、さっきからゴの字の出るたびに憂鬱そうな表情をしていたギルフォードが、ビクッとした。由利子が紗弥をつついて小声で言った。
「あれ、絶対にわざとよね」
「そうですわね……」
 紗弥も同意した。九木は質問を続けた。
「普通のゴキブリと同じ退治法が通用するのですか?」
「答えは多分、イエスです。メガローチは変異体ですが、生物であることには変わりません。ただ、サイズが大きいので、普通のものより殺虫成分は多く必要と思われます。それから、これはまだ未調査なのでなんともいえないのですが、K製薬のハーブを使った虫除けが、偶然ゴキブリに協力な回避作用があるらしいことがわかっています。ただ、この場合、防御にはなりますが、攻撃には役に立ちません。ただ」
「ただ?」
「遺体に蟲を寄せ付けないことが出来るので、メガローチの増殖を防ぐ効果は大いにあるでしょうね」
「なるほど。わかりました」
 九木が納得して席に着いた。
「他に何かありませんか?」
 ジュリアスは周囲を見回した。特に挙手は無い。
「では、これで終わります。ありがとうございました」
 ジュリアスはそういうと壇上を降りた。出番の無かった葛西が後に続いた。
「合格ですね」
 ギルフォードが嬉しそうに言った。
 だが、次のサンズマガジンの記事については、会議はかなり荒れた。当然のこと、ギルフォードに疑問が集中した。
「ですから、僕は米軍とは関わりはありません。第一、僕はイギリス人ですよ。イギリスもグリニャード島で代表されるように、かつては生物兵器の研究をしていましたが、かなり早くから核にウエイトを置き、BC兵器に関しては1956年に開発を放棄しています。第一、アメリカが生物兵器を開発してた頃は、僕はまだ赤ん坊でしたよ」
「だが、あなたは一時フォート・デトリック、米軍のBC兵器研究の総本山にいたことがありますよね」
 一人の若い男が言った。ギルフォードが声の方を見ると、スーツ姿がバッチリ決まった、背の高い細面の男が立っていた。
「あなたは……?」
「失礼。厚生省から派遣された、速馬そうまといいます」
「ソウマさん、そのことは……」
 ギルフォードが言いかけた時、助け舟を出したのは、なんと、九木だった。
「ギルフォード教授は、学生時代ボランティアで行ったアフリカでラッサ熱に罹って、その時に米軍に保護され、そのままフォート・デトリックに運ばれて治療されたんでしょう? あなただってそれくらい調べているのではないですか?」
「確かに、あなたの言うとおりです。だが、ギルフォード先生が米軍に全く関わっていないということは事実に反するわけですから、それをご指摘させていただいたのです」
 速馬は、そういうとふっと笑って着席した。
「何、あれ? やな感じね」
 由利子がムッとして言った。紗弥は黙っていたが、速馬の顔を鋭い目つきで見ていた。
「議長」
 九木が議長に向かって言った。
「この件に関しては、言論の自由を尊重される我が国では発行の中止を求める訳にもいきませんから、様子を見る以外ないと思われます」
「確かに、それ以外無いでしょう。では、この件については、これで終わりますがよろしいですかな? 異論のある方は挙手をしてください」
 と、議長の犬塚が会場を見回して言った。
「無いようですね。では、今回の議題はこれで終了になります。他に何か?……無いようですので、これで第1回合同会議を終了いたします」
 
「はああ~、疲れたぁ~」
 由利子が机の上に突っ伏して言った。
「そうですわね」
「それにしても、あの速馬って厚労省のお役人、気になるねえ」
「ええ、何か含みがありそうですわね」
「ところで紗弥さん」
 由利子が以前から気になっていたことを質問した。
「アレクってイギリス人だから、メガローチって単語だって日本語の巨大ゴキブリと同じでしょ。何で日本語の方をより嫌悪してるの?」
「日本語の方は、濁点が多いでしょう? しかもゴキブリという語感がリアルで、生理的に受け付けないらしいんですの」
「わかったような、わからないような……」
「感受性の問題ですわね。教授はああ見えて意外とデリケートですから」
「ふうん」
 由利子は納得したようなしていないような表情で答えた。
「まあ、私だって文字で書くのすらやだもんなあ……」
「ユリコ、サヤさんも、何こんなところでいちびってるんですか。さっさと帰りますよ」
 ギルフォードが戻ってきて言った。
「いちびってなんかないわよ、って、アレク……そんな言葉、よく知ってるわねえ」
「僕はこんなげんの悪いところから早く去りたいのです」
 ギルフォードは口を尖らせていうと、さっさと会議室から出て行った。
「由利子さん、行きましょう」
「うん」
 由利子は立ち上がりながら思った。
(こんどは『験』ときたよ)
 しかし、紗弥もギルフォードを追ってさっさと行ってしまったので、急いで後に続いた。
 
 会議が終わって長沼間が携帯電話を見ると、留守録が二件入っていた。それで急いで確認すると、一件は部下の松川が入院している総合病院からで、今朝松川が意識を取り戻したから、少しだけなら話を許可するというものだった。そして、もうひとつは……、感対センターの春野看護師からだった。それを聞く長沼間の表情が見る見る恐ろしげになっていった。ギルフォードがその様子を少しばかり離れて見ながら言った。
「オー、今、ナガヌマさんの周囲にチェレンコフ光のようなものが見えたような気がしました」
「教授、そういう物騒な表現は控えてくださいませ」
 と、傍で紗弥がたしなめた。
「おっと、失礼シマシタ。おや、電話です。チョット失礼」
 ギルフォードは、皆に断りをいれ電話に出た。由利子はいまいち意味がわからなくて紗弥に尋ねた。
「何? チェレンコフ光って?」
「核分裂で臨界に至った時に発する青い光ですわ」
 紗弥が説明すると、彼女達の後ろでジュリアスと共にやってきた葛西が言った。
「因みに、ゴジラが放射能を吐く時、背びれが青く光るのは、チェレンコフ光だといわれてます」
「はいはい豆柴さん、登場早々豆知識をありがとう」由利子は肩をすくめながら言った。「それにしてもどうしたのかしら、長沼間さん。あれ、なんか足早に去っていくけど……」
「そういえば、彼にしては心なしか焦っているように見えますわね」
「たぶん、今僕にかかってきた電話の用件と同じ情報を受けたのだと思います」
 ギルフォードが電話を終えて言った。ジュリアスが心配そうな表情でギルフォードの傍に歩み寄りながら聞いた。
「何かあったのかねー?」
「はい、北山紅美さんが亡くなられたそうです」
「紅美さんって、あのタラシの彼氏から感染したっていう?」
 由利子が眉をひそめながら尋ねた。
「そうです。ナガヌマさん、ああ見えて彼女のことを気にかけてましたから。とにかく僕等も行きましょう。もっと悪いことも起きてしまったようですし」
「えっ?」
 その場に居た4人が声をそろえて言った。
「看護師の園山さんが、発症されたそうです。おそらく……」
 ギルフォードはそこまで言って言葉を切り、上を向いて一度深呼吸してから続けた。
「多美山さんから感染したと思われます」
「多美さんから? ……そんな……」
 葛西の顔から血の気が引いた。
「飛沫や軽い接触での感染確率が低いとはいえ、宇宙服タイプの気密性の高い防護服で無い限り、必ずしも安全とはいえません。しかし、その手の防護服を着ては、満足な医療活動は難しいですから……」
「そういえば……」由利子が思い出したように言った。「園山さん、あの時、多美山さんの血を背面から浴びてた……」
 それを聞いて、居てもたってもいられなくなった葛西が言った。
「急いでセンターに行きましょう」
「おい、葛西」
 ジュリアスが口を挟んだ。
「おみゃーさんは、これからまた九木さんと聞き込みに回るんだろ? そんな暇があるのかね。第一、おみゃーさんが行ったって、どーにもなりゃーせんがね」
 そこに、葛西を探していた九木が駆け足でやってきて、葛西を見つけると手を振りながら言った。
「葛西君、探したぞ。 これから本部の方で対策会議がある。行くぞ!」
「ああ、そうでした……」
 葛西は肩を落として言った。そんな様子の彼に、由利子が若干苛ついて言った。
「葛西君、多美さんが居たら怒鳴ってるわよ。きっとこう言って……」
 由利子は、すうっと息を吸ってから怒鳴った。
「葛西刑事、こげなとこで何ばしよっとか! おまえにはおまえの本分があろーが! しかっとせんか!!」
「はいっ!」
 葛西は急に直立不動の姿勢をとった。
「葛西、今から九木警部補と本部に向かいます!」
 言い終わって敬礼をしながら、葛西は少し笑って言った。
「由利ちゃん」
「誰が由利ちゃんだっ!」
「あ、すみません、由利子さん。今の、ほんとに多美さんみたいでしたよ」
 それを聞いて三人がうんうんと頷いた。由利子が赤い顔をして言った。
「ばかたれ、さっさと行けっ」 
「ではみなさん、行ってきます」
 葛西は四人に手を振ると、九木の方に走って行った。
「いってらっしゃ~い」
「See ya!」
「行っていらっしゃいませ」
「またなー」
 四人は口々に言うと、手を振りかえした。九木は、軽く会釈をすると、葛西と並んで去って行った。
 葛西と九木の姿が見えなくと、ギルフォードが言った。
「さあ、感対センターに急ぎましょう。色々気になることがあります」
 ギルフォードは言い終わるとすぐに出口の方に向かった。三人がその後を追った。
 
 長沼間は、部下の松川の病室で静かに椅子に座っていた。
 松川は、なんとか意識が戻り人工呼吸器が取れる程度は回復したが、未だ予断の許されない状態で、武邑と違ってしばらくICUから出られない状態だった。それでも、何とか短時間なら会話を許された。それで、殴られた時の状況を聞くためにやってきたのだ。しかし、生憎松川は眠っていた。仕方が無いので看護師の許可をもらって少し待ってみることにした。ぼんやりと松川の傍に座って、医療機器の規則正しい音を聴いていると、病院の臭いもあいまって、ここに来る前に寄った感対センターでのことが否応なく思い出された。
 
 長沼間が感対センターに着いた頃には、既に紅美の居た病室は片付けられ、今朝方病状の悪化した患者を入れる準備にとりかかっていた。長沼間は病室の前に立ち中を一瞥すると、何の躊躇もなくそのままきびすを返した。彼は普段の足取りで、すたすたとスタッフステーションのドアに向かった。看護師の春野が彼に気付いて駆け寄り声をかけた。
「恐いオジサン、ちょっと待って」
 長沼間は、若干眉間にしわを寄せて振り返った。
「俺か?」
「うふふ、長沼間さん、自覚はしてるんですね」
 春野は笑って言ったが、なんとなくいつもの明るさがないように思われた。長沼間は不機嫌そうに春野を見ながら言った。
「なんだ? ひやかしか? ……だったら帰るぞ」
「いえ、違います。お待ちしていたんです。きっと来て下さると思って……」
「北山紅美のことで電話をしてきたのはおまえさんか」
「はい。アレク先生から携帯番号をお聞きしていましたので」
「あのバカヤロー、余計なことを……」
 長沼間は口の中でブツブツ言うと、春野に訊いた。
「話したいことってのは、何だ?」
「北川紅美さんからの伝言をお伝えしたかったので……」
「伝言?」
 長沼間の顔がさらに不機嫌になった。
「そんなことで俺を呼びつけるな! 第一俺は彼女に非道い事を言ったんだ。嫌われていただろうが」
「いえ、紅美さんは、あなたの『生きてくれ』という言葉を支えに、一所懸命にウイルスと戦っていました。元気になってあなたに会うんだって……」
「俺にか?」
 長沼間は、クッと笑いながら自嘲気味に言った。
「バカなことを……」
「紅美さんは、必死で生きようとしました。ご家族と、そしてあなたのために。そしてこれは、紅美さんが人工呼吸器をつける前に言ったことです……」
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「薔薇が俺からだと教えたのか?」
「当然です。それに、あなたからだと聞いたら紅美さんが喜ぶと思ったので……」
「下らん。俺は……」
「その後紅美さんが、ぼそっと言ったんです。もっと早く会いたかったなあ、って」
 そう言うと、春野は声を詰まらせた。一瞬の沈黙。しかし、春野はその一瞬の間に何か冷気のようなものを感じて身震いした。
「俺なんかに希望を……」
「え?」
 春野は聞き返したが、長沼間はつれなく言った。
「話はそれだけか? これからセンター長に用がある。もう行くぞ」
 長沼間はくるりと背を向け、またすたすたと歩き出した。
「あ、あのっ。……紅美さん、あのバラ、本当にすごく喜んでました。亡くなる間際までそれを抱いて……。……だから、一緒に荼毘に付すことになって、今はキューブから出して紅美さんの手に……」
 春野は長沼間の後を追いながら必死で伝えた。しかし、長沼間は足を止めることなくステーションを出、彼女の鼻先でドアを閉めた。
「長沼間さん!」
 ドアの向こうから自分を呼ぶ声を耳に残し、長沼間はセンター長室に向かって歩いた。
 
「あれ、長沼間さん……?」
 長沼間は、弱弱しく自分を呼ぶ声に我に返った。声の方を見ると、松川が目を覚まして不思議そうに長沼間を見ていた。
「どうしたんですか、すごい恐い顔をしてましたが」
「なんでもない。おまえが目を覚ますのを待ってたんだ。おまえには聞きたいことがある。わかる限り質問に答えろ。いいか?」
「え? いきなりですか?」
 松川が驚いて言った。その時、看護師が入ってきて松川を見るなり長沼間に向かって言った。
「あらら、松川さん起きてるじゃない。長沼間さん、松川さんが目を覚ましたら、質問の前にまず連絡くださいと言いましたでしょ。次からもう病室に入れませんよ」
「師長、それは困る」
 山村紅葉似の看護師長にぴしゃりと怒られ、渋い顔をする長沼間を横目に見ながら、松川は首をかしげていた。
(さっき一瞬、長沼間さんの顔がすごく辛そうに見えたけど……。いつもの長沼間さんだよなあ)
 その後、松川に主治医からの検査が始まったので、長沼間はいったん病室から追い出された。それで、松川にはそれ以上考える余裕がなくなってしまった。 
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 クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。  トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。  いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。  考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。  赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。  言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。  たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。

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