朝焼色の悪魔 Evolution

黒木 燐

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第三部 第二章 焔心

5.アレックス~後編~

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 アルの恐ろしい勢いに驚いて、反射的にアレックスから飛びのいたジャコボだが、アルの拳を完全には避け切れず側頭部を打たれ床に倒れた。一瞬気を失ったジャコボは頭を振りながら起き上がり眼を目を開けた。すると、目の前でアルがアレックスを抱き抱えて行こうとしていた。
「畜生ッ! 殺してやるッ!!」
 そうわめきながら立ち上がったジャコボは、ジャケットに隠し持っていたナイフを握り締めていた。それを聞いて振り向こうとしたアルの左わき腹をジャコボのナイフが襲った。
「うおぉぉぉーッ」
 アルは叫ぶと凄まじい形相で振り向いた。あごに見事なストレートをくらい、ジャコボはもんどりうって床に倒れた。もし、アルが負傷していなければ、致命的な打撃だっただろう。
 気がつくと、アレックスはアルに抱き抱えられていた。アルに助けられてほっとした途端、痛みで気を失ってしまったのだ。
「気がついたか?」
 アレックスを抱きかかえて走っていたアルが言った。
「はい……あっ……イタ……ッ」
「足が痛いか? だいぶ腫れてきた。多分骨折している。一刻も早く医者に行かないと……」
「でも……」
「おまえが気になって、一足先に帰って来たんだ。間に合ってよかった」
「アル、ぼく、ぼく……」
「もう気にするな。……が来るまで待つつもりだったが、そうはいかなくなった。今、ここから出してやる」
「だめだよ。アルや家族が……」
「ジュニア、聞け。世の中には仕方なく悪い道に入るヤツが居る。だがな、根っこから腐ったヤツもいるんだ。ジャコボは真性の狂犬だ。このままじゃおまえは殺される。おまえは生き延びることだけを考えろ。いいな」
「は、はい……ゥッ」
「痛いのは生きている証拠だ。とりあえず安全なところまで逃げ切ったら、応急処置をしよう」
「はい……」
 アルの走る振動でそのたびに激痛が右足を襲った。アレックスは、アルのシャツを握りしめて耐えていたが、アルの動きがおかしいことに気がついた。息も妙に荒い。見ると、左のわき腹あたりのシャツに血が滲んでいた。
「アル! 血が……!」
「致命傷じゃないから安心しろ。だが、正直……どれくらい逃げ切れるかわからん……」
 アルは厳しい表情で言った。一瞬アルの腕に力が入り、アレックスは抱きしめられたような気がした。
 玄関近くまで来た時、アルが呪いの声を上げた。
「クソッ! 先回りされている」
 そこには、手に鍵を持ったジャコボがドアに寄りかかり立っていた。アルはきびすを返すとまた走り出した。もつれる足で、なんとか自室に逃げ込み鍵をかけた。
「おまえの応急処置をしたら、おまえを背負って窓から逃げる」
 アルはアレックスを抱いたまま、ドアにもたれかかり床に座り込みながら言った。
「その傷じゃ、無理だよ。僕はいいから、アルの手当てをしないと……」
 アレックスは、そう言いながら床に下りた。右足に激痛が走る。歯を食いしばって耐え、何とか床に座った。悲しくも無いのに痛みで涙が流れた。
「アル……、傷を見せて」
 アルのシャツをめくると、左のわき腹がザックリと切れて血が流れていた。良く見ると、黒いジーンズにも流れ出た血が大きな染みを作っていた。
「ひどい傷じゃない!」
「大丈夫だ。その辺には大した臓器は無いから」
「でも、血が……。とにかく血を止めないと……そうだ」
 アレックスは、シャツとアンダーシャツを脱ぎ、アンダーシャツを折りたたんでアルの傷口を強く抑えた。アルは痛みに顔をしかめると同時に驚いて言った。
「圧迫止血法……どこで覚えた?」
「父さまがやってるのを見たことがあるの。でも、僕の力じゃだめだ。何かで縛らないと……」
 アレックスは自分のシャツを手に取った。だが、どう考えても布の量が足らない。
「俺が自分のTシャツで縛る。おまえはシャツを着ろ。すっぽんぽんじゃないか」
 アルは言いながらTシャツを脱ぎ、アレックスのアンダーシャツをパッド代わりにして腰に巻き強く結んだ。
「よし、おまえもシャツを着たな。急いでおまえの足を……」
 その時ドアがドン!と音を立て、だみ声が響いた。
「てめえら、そこにいるのはわかってるんだ! 出て来な。ドアをぶち破るぜ」
 声の終わらないうちに、ドン!ドン!とドアを何かで叩きはじめた。
「ジュニア、負ぶされ! 急いで窓から出るぞ」
「えっ?」
「一かバチかだ。ここは2階(事実上は3階※)だが下は舗装されていないから、万一落ちてもなんとかなるかもしれない。早く乗れ!」 
 だが、その時ドアノブが破壊され、バン!と勢い良くドアが開いた。ドアが危うくアレックスに激突しそうなのを見てとっさに彼を庇ったアルが、彼を抱きかかえたまま吹っ飛んで気を失った。
「このニグロがぁッ! 今まで散々っぱら俺の邪魔をしやがって」
 ジャコボが叫びながら部屋に入ってきて、気絶したアルを蹴り始めた。
「アル!!」
 アレックスがアルの下から飛び出して、彼の上に覆いかぶさり全身で庇った。
「どけッ! このクソガキがぁっ!!」
 激高したジャコボは、容赦なくアレックスごとアルをけりつける。それでもアレックスは必死でアルを庇い続けた。右足の痛みは限界を超え、むしろ麻痺したように痛みを感じなくなっていた。
 ふと、ジャコボが蹴るのをやめた。アレックスは、恐る恐る振り向いた。
「そんなにアルがいいか?」
 ジャコボはアレックスの左手をつかんでひねり上げ持ち上げた。左腕がミシミシというのがわかる。
「あっ、あーーーーッ!」
 アレックスは激痛に悲鳴を上げた。
「いい声だ。そうやって俺を楽しませな」
 ジャコボはアレックスをそのまま小脇に抱えて連れ去ろうとした。しかし、アレックスはその腕に思いきり噛み付いた。
「オウッ!!」
 ジャコボは悲鳴を上げるとアレックスを床に放り出した。
「てめえ、また食いつきやがったな!? 今度と言う今度は許さねえ!!」
 激昂したジャコボは、床から起き上がろうとしていたアレックスに向かってナイフを振り下ろした。そのアレックスの上を何かが覆った。同時にアレックスの耳にブツッという鈍い音が聞こえた。
「ぐ……はッ……」
 アレックスを庇って背に刃を受けたアルは、胸の辺りを押さえ二・三歩よろけて立ち止まった。口から血が糸を引いて落ちた。
「アルッ!!」
 アレックスはとっさにアルの方に手を伸ばしたが、その手をすり抜けてアルの身体は床に崩れ落ちた。背にはナイフが突き刺さったままで、その場所はほぼ心臓の真上だった。
 アレックスは右手と左足で這うようにしてなんとかアルの傍に行き、取りすがって叫んだ。
「アルッ、アルッ、しっかりして!!」
 うつ伏せに倒れたアルは、顔を上げアレックスに手を伸ばした。彼は、血と汗と涙で汚れたアレックスの頬に触れ、微かに笑顔を浮かべて何か言おうとしたが、不意に痙攣が襲い口からは言葉の変わりに血が溢れた。アルの手から力が抜けてぱたりと床に落ちた。
「アル……ウソでしょ……。返事をして……お願い……」
 アレックスは彼を何度も揺すぶりながら言った。だが、アルの反応はなく両目からは生きた光が失われていくのがわかった。
「そんな……。アル……。アルってばあ……アルゥ……。……うわぁーーーー」
「あ~あ、残念だったなあ、ちび」
 ジャコボは、アルに取りすがって泣くアレックスを引き剥がすようにして抱きかかえた。
「はなせ! 許さない! よくも、よくもアルを……!!」
「おめぇに何が出来る。アル、ご苦労だったな。コイツが今からおめぇのベッドでどんな目に遭うか、そこでゆっくり見てな」
「はなせ、はなせえ!!」
 アレックスは出来る限りの抵抗を試みたが、その甲斐なくベッドに放り投げられた。折れた手足にまた激痛が走る。アレックスは歯を食いしばり、右手でシーツを掴んでそれに耐えた。それを眺めながら、ジャコボが野卑な笑みを浮かべて言った。
「う~ん、ゾクゾクするねえ」
「黙れ! 僕に触るな、外道!!」
 アレックスが怒りに身を震わせて叫んだ。が、次の瞬間彼の頬を容赦ない平手打ちが襲った。
「ご主人様に逆らうんじゃねえ! もっと酷い目に遭いてぇのか!」
 だが、アレックスは冷ややかな眼をして言った。
「ご主人様? 誰が! 傍によるな、汚らわしい!!」
「て、てめぇッ!! もう容赦しねえぞ!」
 ジャコボはアレックスのシャツの胸元を掴むと、高々と持ち上げ殴りつけた。アレックスの身体が宙に浮き、2mほど先の床に投げ出された。アレックスは壊れた人形のように床に転がりそのままピクリとも動かなくなった。
「し、しまったぁ……」
 ジャコボは急いでアレックスを抱き上げた。まだなんとか生きているようだが、かなり危険な状態にいることは間違いなかった。
「おい、、起きろ、起きろよ!!」
 焦るジャコボの背後で怒号が飛んだ。
「ジャコボォッ!! キサマァ、何勝手なことをしてやがる!!」
「お、オヤジぃ……、いや、これはアルのせいで……」
「下手な言い訳はやめろ、クソ野郎が!!」
 オヤジは怒鳴りながらジャコボに近づくと、腹に思いきり膝蹴りを食らわせた。ジャコボは腹を押さえ、声も立てずにうずくまった。
「ステュー、アルの様子はどうだ?」
「あ~あ、ダメだなあ、こりゃあ……」
 アルの様子を見るなりステューが言った。オヤジは残念そうに首を振りながら言った。
「良い腕のカメラマンだったがなあ。また探さんとならんか。ステュー、ディエゴと一緒にアルとガキを居間に運べ。善後策を考えよう。アルは毛布にくるんどけよ。俺はコイツを引きずって行く事にしようか」
 気がつくと、アレックスは無造作に部屋の隅に転がされていた。身体のあちこちがうっ血し、右足と左手が不自然に曲がっている。顔も、原形が想像出来ないほど腫れあがっていた。彼は朧げな意識の中で、男達の会話を夢現ゆめうつつのように聞いていた。
「……キサマ、おれ達のいない間に勝手なことをしやがって! せっかくの上玉だったのにどうするんだよ! その上、仲間にまで手を掛けやがって」
「おまえの性癖にも困ったもんだな。コトに及ぶ前に相手を痛めつけないといられないなんてよ。このド変態が!」
「今回は男だからって油断してたら、これだよ。まあ、そこらへんの女よりよっぽど綺麗だったことは認めるがね。今はザマァないが」
 男達は一言言うたびに、ジャコボを殴りつけているようだった。
「もう勘弁してくれよお……。結局犯っちゃいねえんだしよぉ……」
「この大馬鹿野郎がぁあ!!」
 オヤジの声がして、ジャコボを蹴り上げる音がした。ジャコボは吹っ飛んでテーブルごと壁にぶち当たった。
「痛めつけすぎて、犯る前に死にかけたからビビッただけだろうが!! 犯るよりタチが悪いわぁ!!」
「だってよ、あのガキ、最後までオレを見下した目つきで見やがって……」
 ジャコボはオヤジの足元にはいずり半泣きで懇願した。
「許してくれよお……」
 その時、グラン・マが慌しく帰って来た。
「大変だよ、ギルフォード家の次男坊が昨日から行方不明だって大騒ぎになってるよ」
「なんだって? マジかよ、グラン・マ」
 男達はいっせいに床に転がった少年を見た。グラン・マは、アレックスより毛布にくるまれたアルを見て驚いた。
「アルッ! どうして……?」
「ジャコボの馬鹿がこのガキをハメようとして、それを止めようとしたらしい」
 グラン・マはアルの傍に座り込んで言った。
「なんてことだい! あたしゃこの子を気に入ってたのに」
「俺もさ」と、オヤジが言った。「それよりグラン・マ、ギルフォードのってな本当だな」
「なんであたしがそんなウソをつかなきゃならないんだよ」
「ギルフォードってあの、昔ワケ有りで王室を抜けたとかいう噂の、“黒い”ギルフォード家か?」
「そのギルフォード家の御曹司が、なんで山の中でたった一人で虫取りをして遊んでたんだよ、え?」
「おい、おめえら、ひょっとしてギルフォードの領地から攫ってきたんじゃないだろうな??」
 オヤジがジャコボとステューを見て言った。ステューがジャコボを見、ジャコボはおどおどしながら答えた。
「そんなの知らねえよ。ただ、車で流していたら、綺麗なガキが目に付いて売り物になるだろうって……」
「そいつをこんなにしちまったのかい?」
 グラン・マがあきれて言った。
「本当に馬鹿な男だよ、おまえは」
「どうするよ。ギルフォードの連中、絶対におれ達を探し出すぞ。この馬鹿に息子をこんな目に遭わされちまってよ、おれら八つ裂きにされっちまうぞ」
「こうなったらここをズラかるしかないね」グラン・マが無情に言った。「その前に証拠を消してしまうよ。アルはどこか山奥に捨ててくるとして、このガキは……。こいつのせいでアルが死んだようなもんだ。そうだ、食油でもぶっ掛けて地下の元食料倉庫に転がしときな。腹をすかせたネズ公や最近やたら増えてきた黒い虫共が、身元不明死体になるまで食ってくれるさ」
(いや! やめて! 殺さないで!)
 アレックスは叫びたかったが声にならなかった。
 アレックスは抱えあげられ地下に連れて行かれ隅に転がされた。かろうじて身にまとわりついている、血と泥で汚れた白いシャツを引っ剥がされ、トドメに頭から古い食油をかけられ放置された。無情にも地下倉庫のドアが閉められ鍵のかかる音がした。男達が去ると、やがて周囲から黒いモノたちが、ガサガサと寄ってきた。
(助けて!! 父様、母様!!)
 アレックスはもがこうとしたが、身体がピクリとも動かない。痛めつけられたショックでだんだん息も苦しくなってきた。と、目の前に黒いモノが近づいてきた。痛めつけられたせいで霞んだ目にも、それが何かわかった。アレックスの恐怖は頂点に達した。
 その時、上の方がいきなり騒がしくなり、悲鳴と銃声が響いた。しばらくすると、地下倉庫のドアからドン!という音がして、武装した警察官が二人駆け込んで来た。
「あそこだ!」
「酷い有様だぞ。しかも虫だらけになっているじゃないか」
 警察官達は、アレックスに近づくと虫を追い払って一人がアレックスを抱きかかえた。
「よかった、生きているぞ! だが急いで病院に運ばないと……」
「発見しました!!」
 もう一人が無線で連絡した。
「ただし、重体です!! 急いで病院に搬送する必要があります!」
「ぼうや、もう大丈夫だ。すぐに病院に運ぶからね」
 アレックスは、力なく頷いた。
 アレックスは担架で運ばれていた。途中、例の居間を通り過ぎた。その時、さっき何が起きたかを見てしまった。男達はみな射殺されていた。薄れ行く意識の中で、アレックスはアルの遺体が検分されているのを見た。
「アル……」
 アレックスは彼の方に右手を伸ばした。当然届くわけが無い。アレックスの右手が力なく落ちた。彼の眼から大粒の涙が流れていた。
「あの人、あの人は違うの、僕を助けてくれたの……」
 アレックスはかすれた声で必死に訴えたが、そのまま意識を失った。
 
「後でわかったことだがね、アルが警察に通報しとったから、間に合ったんだ」
「なんか、すごすぎて……」
 由利子が若干鼻声気味で言った。
「なんだ、おみゃーさん、泣いとるのかね」
「チビアレクとアルがかわいそうで……」
「鬼の目にも涙だなも」
「鬼はひどいなあ」
 由利子は恥ずかしそうに言いながらハンカチで涙を拭き、続けて聞いた。
「それじゃあ、立ち直るのに時間がかかったんじゃない?」
「養生に1年程費やしたらしいて。その後もずっと悪夢に悩まされ続けたそうだ。未だに時々夢に見とるようだで……」
「三十年以上経った今でも悪夢を……。辛いね」
「聞いて後悔しとるんじゃにゃーか?」
「ううん」
 由利子は首を横に振った。
「聞いてよかったよ。そんな事情だから、ゴッキーが苦手なわけよね。このことでからかわないようにしなくっちゃ。でも、詳しいんだねえ、ジュリー」
「まあね。これに関してだけは……」ジュリアスは意味深な笑みを浮かべて言った。
「だがね、アレックスがアフリカで死にかけたっていう話は、あまり詳しく教えてくれにゃーんだ」
「え? 何で?」
「よっぽど辛い話なんだろうね。それにあいつの初カレの話だもんで、おれには言いにくいのかもしれにゃーね」
「そっかあ……」
「でもまあ、知っとる限りのことは教えてやるわ」
 そう言った後、ジュリアスは一息入れると話し始めた。
 

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(※)英国では一階をグラウンドフロアと呼び二階が一階になる。
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