朝焼色の悪魔 Evolution

黒木 燐

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第三部 第二章 焔心

4.アレックス~中編~

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「あの、アルさん」
 アレックスは作業中のアルに声をかけた。
「『さん』は要らない。アルでいいよ」
「じゃあえっと……アル、今何をしているの?」
「水洗が終わったんで、水切り液に浸けているところさ。フィルムを乾燥する時、フィルムについた水滴が乾いて出来る、まだらな汚れが残らないようにするんだ。さて、後はこれを乾燥させるだけだよ」
「へえ、面白いですね」
「じゃ、俺、ちょっとこいつを下の乾燥機で乾かしてくるからな」
 アルはそう言いながら、濡れたままクリップに挟みぶら下げたフィルムを持ち上げアレックスに示すと、ドアに向かった。彼はドアに手を伸ばし開けながら、アレックスの方を振り向いて言った。
「ジュニア、鍵をかけておくからね。俺が帰って来るまで、絶対に開けるんじゃないよ。いいね?」
「はい」
 アレックスは、ベッドの中から返事をした。
「じゃ、すぐに帰ってくるから。俺とオヤジ以外、この部屋の鍵は持ってないはずだからね。いいかい、絶対に開けちゃあだめだよ」
 アルは念を押して言うと、部屋から出て行った。アレックスはアルが去ったドアの方を見ていたが、床になにか小さい黒いものが走ってドアの隙間から出て行った。アレックスは不審に思ってベッドから起き上がってドアの方に行くと、走り去った先を確認しようと隙間を覗こうとしたが、話し声がし始めたのが気になってドア越しにそっと聞き耳を立てた。
「……だろう? だいたいジャコボ、キサマ、何でそんなとこに立ってるんだよ」
「何、オヤジからおめぇを監視するように言われてな」
「オヤジが?」
「ああ、おめぇが妙な行動をしねえように見張っておけってな。おめぇは気に入られているようだが、信用はされてねえみてぇだな」
「はっ、こんな商売をやってりゃあ、誰も信用出来なくなるさ。俺もキサマもな」
「あのガキを見つけたのは俺だぞ。返せよ」
「俺は、オヤジから直接頼まれたんだ。キサマに預けるよりもはるかに安全だってな。同じ信用されていなくてもな、キサマとはレベルが違うんだよ。悪いな」
「てめえッ!!」
「猛獣の檻に兎を入れるようなもんだろ。違うか?」
 アレックスは、それを聴いて一瞬体が縮み上がった。
「てめえ……、許さねぇ……」
「おっと、やるか? 俺がボクシングで何回か地域優勝をしているのは知っているな?」
「くそ、ふざけやがって……」
「うるせえ。ほざいてねえで、さっさと行け。オヤジに伝えろ。あいつの面倒は最後までちゃんと俺がみるから心配すんなってな」
「手を出したら承知しねぇからな」
「俺にはそーゆー趣味はねえ!! クソッタレが、さっさと失せやがれ!!」
 アルの怒鳴り声の後に「くそ、覚えていろ!」という捨てゼリフが聞こえ、ばたばたと足音が遠ざかっていった。
「ふん。下衆野郎が……。ま、俺も五十歩百歩か」
 アルは、自嘲気味に言うと歩き出したようだった。
 ドアの向こうが静かになったのを確認すると、アレックスは体中の力が抜けたような感じがした。彼は、ドアにもたれながら、その場にへたへたと座り込んだ。
 
 
「……アレックスは、アルのおかげで危険を免れたって、その時初めて実感したわけだ。ほんだで、あいつはなんとか自分を落ち着けて、ベッドに戻って横になっとった。そうしておったら……」
「ちょっと待って」
 由利子が話に割って入った。
「なんか、映画みたいな話がずっと続いてて半ば信じがたいんだけど……。それに、あのアレクがそんなえーとこのボンボンだなんて、ますますピンと来ないわよ」
「まあ、事実は小説より奇なりってゆーじゃにゃーか」
「そうだけどさー。それに……」
 口ごもった由利子にジュリアスが先を促がした。
「何かね」
「まさか、この先ちびアレクが……」
「あはは、ちびアレクかね。えーことゆーにゃー。おみゃーさんが心配しとるのは、アレックスの貞操のことだろ?」
「貞操って……、まあ、そうやね。だったら聞くのがかなり辛いなって……」
「う~ん、レイプのほうがまだましだったかも知れんて」
 と、ジュリアスが、すこし表情を曇らせて言った。
「なんか嫌なことを言うなあ。余計恐くなったじゃない」
「ほんだから、最初にゆーただろ。聞いたら後悔するかもしれにゃーて」
「そうやった。腹を決めたんだったね。話をぶった切って悪かったよ。続けて」
「おっけー。……で、そうこうしておったらアルが急いで部屋に帰ってきた……」
 
 アルは息を切らして帰って来た。彼は部屋の鍵を開けるのももどかしく、部屋に入ると開口一番に言った。
「ジュニア、大丈夫だったか?」
「はい。誰も来られなかったです」
「そうか……」
 アルはほっとした様子でベッドに近づき、傍に椅子を持って来て座った。
「あの……」
「なんだ?」
 アレックスはさっきの話声について聞こうと思ったが、思い直して質問を変えた。
「さっき、床を何か黒い小さな生き物が通って行ったのだけど……」
「あいつらめ、部屋にまで出てきだしたか!」
「あいつら?」
「ああ、ここら辺は港が近いんで、船に乗ってきた小さい密航者が昨今の温暖化で繁殖を始めたみたいでなあ。さすがに冬は越せないようだが」
「密航者?」
「小さい昆虫だよ。まあ、気持ち悪いだけで今のところは無害だけど……、ああ、オヤジが一度足の指を咬まれたって言ってたな」
「咬むの?」
 咬むと聞いてアレックスは不安そうに聞いた。
「あはは、大丈夫だよ。オヤジの奴が足を不潔にしているから食えるとでも思ったんだろ。きっとそいつはオヤジの足の毒気に当たって昇天してるよ」
 そういうと、アルは笑いながらアレックスの頭をぽんぽんと軽くたたいた。アレックスはそんな彼を見て、彼について質問することにした。
「アルは良い人そうなのに、何であんな恐い人たちと居るの?」
「俺がいい人だって? 買いかぶりすぎだよ。俺はね、なんとなく言葉で判ると思うけど、もともとアメリカ人なんだ」 
「アメリカ人?」
「そうだよ。子供の頃、母が再婚してこっちに来たんだ。それで、こっちの話し方にはすぐに慣れたけどね。で、新しい父さんはすごく良いヤツでさ、俺にもすごくやさしくてね。趣味で写真をやってたんだ。で、俺も古いカメラをもらってね。撮影が面白くてすっかりそのカメラに夢中になった。賞を取ったこともあったんだぜ。よく父さんと色んなところに撮影しに行ったなあ。でも良いヤツって早死にするのかね、再婚してから4・5年であっけなく病死してしまった。大した遺産もなかったんで、俺が働かなきゃならなくなってね。学校を出てからわりと有名な写真スタジオで働いてたんだ。問題は」
 アルはそこでいったん言葉を切って、一息ついて続けた。
「そこのセンセイがトンだレイシストでね」
「レイシスト?」
「人種差別する連中さ」
「人種?」
「俺とおまえは肌の色が違うだろ? 人種ってのはそういうことさ。おまえ、何にも知らないんだなあ。ま、まだ小さいから仕方ないか」
「だって、ぼくの父様は、そんなことでは差別しません。優秀な人なら肌の色が違ったって、採用してます」
「へえ、で、何の仕事をしてるんだ?」
「まだ早いって教えてくれません。でも、みんなが銃を撃つ練習やナイフで戦う訓練をしているのを見せてもらったことがありますけど」
「おまえんち、なんかヤバそうだなあ。まあいいや。で、ヤツは俺のことは弟子ではなく、召し使い程度にしか思ってくれなかった。それでも何とか技術を覚えた俺は、独立しようとしたんだ。そしたら、徹底的に妨害されてね。で、俺は職を失ったってわけ。
 その頃は結婚して子供もいたし、妻のパートの収入もたかが知れてるんで、無職でいるわけにも行かず、また、拾い仕事をしながら片手間で写真を撮って暮らしてたんだ。そんな時、女性を撮る腕のいいカメラマンを探しているって聞いて、応募したんだ。そしたら社長に気に入られて合格。俺は喜んだね」
「良かったですね」
「それが良くなかった。蓋を開ければそのカメラスタジオってのが裏でポルノ写真、それもかなりヤバイのを撮っているってのが判ってさ。そのうえ、人身売買にも……、あ、いや、これは忘れてくれ。……で、抗議したけど、俺は既に共犯だって言われて。しかも、女房子供にるいが及びそうになった。俺の奥さん美人だから、なおさらな。でも俺が協力したら、何もしないし、むしろ十分な金をやるって言われて……」
「お金が欲しかったの?」
「ああ、子供たちにはしっかりとした教育を受けさせたかったしな……。それで、多少のことは目を瞑ることにしたんだ」
「『ぽるのしゃしん』って何?」
「あのな……。えっと、……とにかく良くない写真のことだ」
 アルは説明に窮して誤魔化した。
「じゃあ、あなたは良くないことをしているのを知っててやってるってこと?」
 アレックスは、邪気の無い顔でまっすぐにアルを見て言った。アルは、何かを見透かされたような気持ちになっていたたまれなくなった。気がついたら幼い少年に向かって怒鳴っていた。
「金持ちの家に生まれたおまえに何がわかる!?」
 今まで優しかったアルに怒鳴られてアレックスは怯え、泣きそうな顔をして彼を見た。
「すまん」
 彼は急に恥ずかしくなり、うなだれて言った。
「おまえの言うとおりだ。俺は卑怯者だ……」
 アレックスはそんな彼を見ると、今度は悲しくなってポロポロ涙をこぼして泣き始めた。アルは、ますますオロオロして言った。
「お、おい。おまえ、どうしたよ? 今までどんな目に遭っても泣かなかったじゃないか」
「ごっ、ごめんなさい………」
「それでなくてもおまえは脱水気味なんだぞ。ほら、せっかくサクランボみたいな可愛い唇がシワシワになってきてるじゃないか」
 アルは、アレックスの唇に触れながら言った。
「ちょっと待ってろ。おまえが腹を壊したんで、要るかと思って作ってたんだ。すぐに戻ってくる」
 アルは部屋を走り出て行った。アレックスは、さっきアルに触れられた唇に自分でも触れてみた。すると、何故か頬がぽっと熱くなった。彼は、それに驚いてきょとんとした。
「持って来たぞ、ジュニア。……あれ、何で赤い顔をしているんだ?」
 アルは言ったとおりすぐに部屋に戻ってきたが、アレックスが顔を赤くしているのを見て驚いた。
「ひょっとして、熱が出たのか?」
 アルは持って来たピッチャーとマグカップをサイドデスクにおくと、急いでアレックスに駆け寄り、自分の額をアレックスの額に当てて、熱を診た。
「たいして熱は無いようだけど……」
 アルは不思議そうに言ったが、アレックスの顔がさらに赤くなっているのに気がついた。
「そうか。おまえ、こういう感じのふれあいに慣れていないんだね。ごめんごめん」
 ますます赤くなるアレックスを見ながら、アルは笑い出した。笑いながら、ピッチャーの水をマグカップに注ぐ。
「これ、あまり旨くないけど飲んでごらんよ」
 アレックスは、ベッドから上半身を起こすと、言われるままにそれを一口飲んだ。甘いようなしょっぱいような、妙な味がした。アレックスは、不思議そうな顔でアルを見た。
「水に砂糖と塩を混ぜたものだよ。脱水の時、水分の吸収を良くするんだ。あと、失ったナトリウムや糖分などの補給にもなる。不味くても全部飲めよ」
「はい」
 アレックスは言われたとおりに、それを飲み干した。
「よ~し、いい飲みっぷりだ! 俺な、おまえの腹痛の原因を考えてたんだけど、多分、下手人は水道水じゃなくてジャコボの馬鹿の汚ねえハンカチだよ。あれのせいであの程度で済んだんなら、おまえ、ずいぶんと丈夫だってことになるぞ」
 アルがそう言いながら笑ったので、アレックスも釣られてクスッと笑った。
「よし、ようやく笑ったな。じゃ、口直しだ、食えよ。出すもん出したら腹が減っただろ。俺も食うからさ、食ってみな」
 そういうと、アレックスに丸のままのリンゴを渡した。アレックスはそれを手に持ってまたきょとんとした。
「あの、これ……?」
「リンゴだよ」
 アルは、自分の分のリンゴをシャツの裾で拭きながら答えた。しかし、アレックスはやや首をかしげて言った。
「はい。それは判りますけど、あの、切ってないし……」
「かーーーーーっ、これだからおぼっちゃんは……。こうやって食うんだよ」
 アルは、手に持ったリンゴに豪快にかぶりついた。アレックスは、それを見て一瞬躊躇したが、すぐの彼のやったように借り着のシャツの裾でリンゴを拭くと、思い切りかぶりついた。勢い余って口いっぱいほおばってしまい、目を白黒させていたアレックスだが、なんとかシャリシャリと咀嚼して飲み込んだ。そして、何か再発見したような表情で言った。
「あ、おいしい。まわりもしょっぱくないや」
「切ったら酸化防止のために塩水に漬けるからな。食塩がリンゴの周りに膜を張るから、酸化が防げるんだ」
「酸化?」
「錆びだよ。皮をむくと、リンゴの成分ポリフェノールが空気中の酸素に触れて、表面が錆びるんだよ」
「鉄じゃないのに錆びるの?」
「ああ、錆びるのは金属だけじゃないんだよ。人体だって錆びるんだぜ。ま、リンゴには整腸作用があるから、しっかり食っておけよ」
「物知りなんですね。本で読んだの?」
「そうだよ。本で得た知識だ。でもな、知識は本からだけじゃない。人からも自分の経験からも得ることが出来るからね。勉強は学校でだけするものじゃない。その気があれば、どこでも勉強が出来るんだ」
「でも僕、お勉強嫌いだし。今日だって、午後からのお勉強がしたくなくて……」
「贅沢言うんじゃない。世の中には勉強したくても出来ない子がいっぱいいるんだぞ。家に帰ったら、勉強はちゃんとしなさい」
「はい」
「でもな、ジュニア。ただ勉強して知っているだけじゃ、だめだ。それをちゃんと自分のものに出来て活用してこそ、知識を得る意味があるんだよ」
「このリンゴやさっきのお水みたいに?」
「そうだよ。じゃ、さっさと食って寝るんだ。子供はとっくに寝ている時間だぞ」
「だって、さっきまで寝てたんだもん。きっと、眠れないです」
「目をつぶってりゃあ、いつの間にか眠れるって。おまえはひどく疲れてるんだから、とにかく眠るんだ」
「はい」
 アレックスはそう答えると、リンゴを口に運んだ。
 ほぼ食べ終えた頃、アレックスがまたアルに声をかけた。
「あの……」
「何だ? 食ったらベッドの傍にゴミ籠があるからそこに捨てな」
「はい。……で、あの、どうして僕の腹痛が、水道水ではなくハンカチのせいだって思ったんですか?」
「ハンカチの方に病原体が沢山いただろうって思っただけさ。水道水はそれなりに消毒してあるからね」
「病原体?」
「病原性微生物……ばい菌のことだよ。顕微鏡じゃないと目に見えないくらい小さい微生物が、生き物を病気にするんだよ」
「そんなに小さいもののせいで、病気になるんですか?」
「ま、病気の全てじゃないけどね、一部の病気はそうだよ。微生物には、原虫とか細菌とかウイルスとかいう大きなカテゴリーがあって大きさも全然違うんだよ。中でもウイルスは特に小さくて、顕微鏡でも見えないんだよ。電子顕微鏡って特殊なものを使ってやっと見られるくらいなんだ」
「そんなに小さくても生き物なの?」
「俺は専門家じゃないからわからないけど、ウイルスを生物とは考えていないやつもいるようだよ。微生物は時々生き物を殺すことすらあるんだ。猛獣すらね」
「すごい! そんな目に見えないくらい小さい生き物が、トラやライオンを殺しちゃうんだ」
「多分、T-レックスだって殺したと思うよ」
「恐竜も!?」
「そうだよ。微生物が身体に入ってしまったのを感染っていうんだ。でも、普通は感染しても体の防衛機構が働いて、微生物をやっつけるから、死ぬまでにはならないんだ。おまえがお腹を壊したのも、体が病原体や毒素を早く体外に出そうとしたからだよ。だから、下痢は出来るだけ薬で止めないほうがいいんだ。水分は補給しないといけないけどね」
「だから、あのお水を作ってくれたんですね」
「そうだ。わかったなら早く寝な。病気は寝るのが一番なんだからね」
「はい」
 アレックスは、素直に横になって目を瞑った。アルの言ったように、すぐに睡魔が襲ってきた。
 
 アレックスは、深夜、恐ろしい夢を見て目を覚ました。昼間、車の男達に襲われ誘拐された時の夢だった。だが、夢の中では巨大な捕虫網に捕獲されて、沢山の虫の入った虫かごに入れられた。捕虫網が大きいのではなく、アレックスが小さくなっていたのだ。虫かごの中で、昆虫達と一緒に虫かごにしがみついたところでアレックスは目を覚ました。
 そこは、いつも見慣れた自分の寝室ではなかった。アレックスは、昨日のことが夢ではなかったことを実感し、心細くなった。アレックスは起き上がると、父と母を呼びしくしくと泣き出してしまった。アルがそれに気がついて目を覚ました。彼は、彼の言ったとおり部屋のソファで横になっていた。
「ジュニア、どうした?」
 アルがアレックスの傍に来て心配そうに言った。
「アル……。ぼく、おうちに帰りたい……」
「無理言うな。今はだめだ。オヤジは俺を疑っているからね。でも、必ず帰してやるから、安心して寝な。寝不足は体力を失う。体力が無くなると、気力も無くなるぞ。わかるか?」
 アレックスは、こっくりと頷いて、袖で涙を拭いた。
「よしジュニア、おまえは強い子だ」
 彼は笑顔でそういうと、またソファに向かおうとした。その背中にアレックスが声をかけた。
「あのね、アル……。恐いから、一緒に寝て……」
「おいおい、赤ちゃんみたいなことを言うなあ」
「だって……」
 アルは、アレックスの頬を、ぷにっと押すと、「仕方ねえな」と言い、彼の隣に横になった。
「さあ、おまえも寝ろ」
 アルは、アレックスを寝かせると、安心させるように彼の背中を優しくポンポンと叩いた。それは、父親が幼い子供を寝かしつける仕草だった。
「アルの子供のこと聞かせて」
「なんで?」
「なんだか聞きたいの」
 アルは、少し困ったような嬉しいような表情で答えた。
「そうだな、上の子はおまえくらいの年齢としなんだが、デカい図体のくせに優しい子でなあ。理科が大好きで俺が言うのもなんだが、成績優秀な出来た子なんだ。下の子は、まだ小さいけど母親似の綺麗な子でな。その癖、兄貴よりやんちゃでいたずらばかりしてしょっちゅう女房に怒られてるよ」
「会いたい?」
「ああ、会いたいさ。いい加減こんな仕事から足を洗わないとなあ」
 アルは遠い目をして言った。
「さあ、もういいだろ。さっさと寝な」
「手を握ってていい?」
「いいけど、なんだ、寂しいのか?」
「うん、少し」
 アレックスは、アルの手におずおずと手を伸ばした。アルの黒い大きな手にアレックスの白い小さな手が重なった。信頼できる人の手のぬくもりが伝わり、アレックスは安心したように目を閉じた。そのままアレックスは、深い眠りについた。
 眠りに落ちる前だったか夢の中だったか、アルがこうつぶやくのが聞こえた気がした。
「おまえ、ひょっとしたら、俺を救うために降りてきた天使かもな……」

 翌日、アレックスは一人でアルの部屋にいた。
 
 朝、アレックスが物音で目覚めると、朝食を持ってアルが部屋に入ってきたところだった。
「お、目が覚めたか? おはよう。だいぶ血色が良くなったな。腹の方は大丈夫か?」
「おはようございます。もう、大丈夫だと思います」
「そうか、良かったな。連中と食うのは嫌だろうと思って朝飯を持ってきた。俺のも持ってきたから一緒に食べよう。粗食だけどな」
 彼の持ってきたメニューは、バターとオレンジマーマレードを塗ったトーストと、紅茶、焼いたベーコンと目玉焼き、そして丸のままのリンゴだった。
 二人は食べ終えると、アルが、ハンガーにかけ壁にぶら下げたアレックスの服を指差した。
「おまえの服だ。洗っといてやったよ。いつまでも俺のシャツとボクサーパンツで居るわけにはいかないからな。フィルム乾燥機にいれて乾かしたから早く乾いたんだ。ただなあ、ちょっと縮んじまったみたいでよ……」
 アルは右手の人指し指で頬を掻きながら言った。
「大丈夫です。子供は成長が早いからって、いつも大きめのをもらうんです。たぶん、ちょうど良くなってますよ」
 しかし、手にとってみると、たしかにかなり縮んでいる。まとめて洗濯機にかけたのがまずかったようだ。ただ、下着類はまあまあ大丈夫だったし、着てみると、他もおかしい程ではない。半ズボンが若干窮屈なくらいで、全体的にむしろ昨日より野暮ったさがなくなっていた。
「そうしていると、やっぱりおぼっちゃんだなあ……」
 アルが感心して言った。その時、ステューがアルを呼びに来た。
 アルは、アレックスに待つように言って出て行った。アレックスはベッドサイドに座ってぼんやり待っていたが、30分ほどしてアルが困ったような顔をして帰って来た。
「ジュニア、俺はこれからオヤジ達と出かけなきゃならなくなった。俺が居ないと商談が進まないってさ。グランマも出かけるらしいから、ここにはおまえとあの馬鹿だけになっちまう」
 アルが説明すると、アレックスは不安そうに彼を見た。
「ジャコボのヤツめ、何でか妙におまえに執着しているからな。ま、あいつにはオヤジが釘を刺していたから大丈夫とは思うが、念のため、昨日みたいに鍵をかけておくんだよ。俺の鍵は置いていくから、おまえが持っとけな」
 アレックスは不安な目の色のまま頷いた。アルは、部屋の隅の小型テレビを指差して言った。
「退屈だったら、あのテレビを見ているといい。だけど、部屋からは絶対に出るな。トイレも我慢しろよ。どうしても我慢できなかったら、あそこの流しでしろ」
 そういうと,今度は昨日現像作業に使っていた流し台を指差した。
「え? そんなこと出来ません!」
 アレックスは半べそをかきながら言った。
「ジュニア、俺は本気だよ。俺の言いつけを守るんだ。いいな?」
「はい……」
 アレックスが下唇を少し噛みながら言った。
「とりあえず、今からトイレに行っておけ。俺がついて行くから」
「はい」
 アレックスは座っていたベッドから降りた。
 
 出掛けにアルは、部屋の戸口でアレックスの眼の高さに座って、くれぐれも言いつけを守るように諭した。そして小声で付け加えた。
「約束は覚えているな? 俺は必ずその約束は守る。俺を信じて待つんだ」
 真剣な眼だった。アレックスはアルが自分を本気で心配してくれていることが嬉しくなった。
「ありがとう。でも、ぼく、アルと一緒ならここで暮らしてもいいや」
「馬鹿なことを言うんじゃない」
 彼は両手で軽くアレックスの両頬を同時に叩いた。そのまま彼の顔を自分に向けると言った。
「ノーブル・オブリゲ-ション(ノブレス・オブリージュ)がわかるか?」
 アレックスは、こっくりとうなずいた。父親から何度も聞かされた言葉だった。
「そうか、やっぱりな。おまえはこんなところに居る人間じゃない。おまえには無限の未来があるんだ。しっかり勉強して、誰かを助けられるような立派な大人になるんだ」
「ごめんなさい……」
 アルに諭されて、アレックスはうなだれて言った。
「わかればいい。じゃ、行ってくるからな」
 アルはそう言って立ち上がろうとした。アレックスは彼にさっと抱きつくと、唇に軽くキスをした。何故、そんな行為に出たのか自分でもわからなかった。驚くアルにアレックスは、はにかみながら言った。
「あの、いつも母様が出掛けにしてくれるから……」
 ウソだった。母がいつもしてくれるのは、頬へのキスなのだから。
「あはは、そうか。おふくろさんがね。じゃ、行ってくるよ」
 彼は笑いながら立ち上がり、今度こそ部屋を出て行った。一人残されたアレックスは、言われたとおりドアに鍵をかけると、とりあえずテレビのスイッチを入れた。
 二人は知らなかった。ジャコボがこっそりと、彼等の様子を嫌な目で見ていたことを。
 
 午後になってもアルは帰ってこなかった。アレックスはだんだん不安になっていた。しかも、昼前から催していた尿意が限界に達しようとしていた。アルは我慢出来なければ流し台でするように言った。しかし、そんなことが出来るはずなかった。アレックスは、ウロウロして誤魔化していたが、意を決して部屋を出ることに決めた。
 彼は鍵を開けると、そっとドアを開け外の様子を見た。誰も居ない。アレックスは部屋から出ると、そっとトイレのある方向に向かった。
 その頃ジャコボは、地下の写真室でアルの焼いたアレックスの写真を整理していた。アレックスの写真はどれも妙な色気があり、しかも、彼は今までのどんな女性より綺麗だった。ジャコボは写真をまとめて重ねると、もう一度見直した。ふと見ると、アル専用の机の上に大判のパネルが伏せてあった。アルは時に、お気に入りの写真を引き伸ばして飾っていた。ジャコボはそれを表に向けた。黒い背景に白い天使が曖昧な笑みを浮かべ、眩しそうにこっちを見ていた。だが、その視線はジャコボではなくアルに向けられたものだった。彼の頭の中にはさっきの二人の行為が再現されていた。あいつら、何か囁きながら大胆にも……。
(くそ、やっぱりあいつら、出来てやがったんだ)
 彼が苦々しくそう思った時、かすかにトイレの水が流れる音が聞こえた。ジャコボはにやりと笑った。
 アレックスは、用心深く足音を立てないようにしながら部屋に向かっていた。その時、廊下の先の方に一瞬人影がサッと走るのが見えたような気がした。アレックスは立ち止まると、きびすを返して反対方向に逃げた。だが、そっちの方でも人影を見たような気がした。彼は、キョロキョロとして隠れる場所を探した。すると、昨日のキッチン兼食堂があるのに気がついた。アレックスは迷わずそこに駆け込んで、流し台の下の戸棚に隠れ、身を屈めた。そこには何かが数匹うごめいていた。彼はしゃがんだまま悲鳴を上げそうになったがその口を自分で押さえた。小さい虫はさっと逃げて行ったが、大き目のシルエットたちはアレックスに向かうと、首をかしげて彼を見た。
 しかし数分後、ジャコボはキッチンまでやってきた。
「ちび! そこにいるのはわかっているんだ。さあ、そこか? ここか? それとも……」
 ジャコボはそういいながら、アレックスを探し回った。だんだん近づくジャコボの気配と声を聞きながら、アレックスは身を縮ませ震えていた。心臓が口から飛び出しそうなくらい激しく打っていた。ジャコボの声がすぐ近くまで来たとき、アレックスは我慢できなくなって、流し台の下から飛び出した。それに続いて数匹のネズミが飛び出してきた。
「おっと、そんなところにいたのか、ネズミちゃんたち」
 ジャコボはそう言いながら逃げるアレックスを追った。アレックスは悪夢の中に居た。必死で走っているはずなのに、恐怖で足がうまく動かない。それに対してジャコボは余裕で追いかけてきた。アレックスはとうとう自ら足を絡ませて転倒した。それでも這うようにして逃げるアレックスだったが、ジャコボに襟首をつかまれて身体が浮き上がるのを感じた。
「さあ、捕まえたぞ、ネズミちゃん」
 ジャコボはアレックスを吊るし上げ、自分の目線まで持ち上げて言った。
「大人しくしてりゃ、乱暴はしねぇぜ。大人の女だったらまず、逆らえないように半殺しにしてやるんだが、おまえはそれをやると壊れそうだからな」
 アレックスは、目の前の男の邪悪な笑みを目の当たりにしておぞましさに総毛立ったが、それでも、キッとした眼で男を見据えながら言った。
「ぼくを降ろして。アルの部屋に帰しなさい。あなたは何をしようとしているかわかってるの?」
「よ~くわかっているさ」
 ジャコボはぶら下げたアレックスを左手で抱き寄せると、襟首を離して両手で彼を抱きしめた。アレックスは、彼の顔が近づいてくるのを避ける術を失った。
「やめ……」
 アレックスは叫ぼうとしたが、その前にジャコボに口をふさがれた。アレックスは、必死に口を開けまいとしたが、彼の口をこじ開けるように男の舌が侵入してくるのがわかった。アレックスは反射的にそれに噛み付いた。
「おうっ、何をしやがる!」
 ジャコボはアレックスを床にたたきつけた。床に転がったアレックスの襟元をつかむと、平手で彼の頬を手加減無しに打った。アレックスの鼻血が彼のシャツを染めた。しかし、アレックスはそれでもジャコボをにらむのを止めなかった。
「気の強いガキめ」
 ジャコボは口の血を拭いながら言った。
「へへ、こりゃあ、調教のしがいがあるってもんだ。観念しな、子猫ちゃん。俺ンとこに行こうな。アルのとこより居心地がいいぜ」
 ジャコボは再びアレックスの襟首をつかむと、彼を引きずって自分の部屋の方に歩き始めた。
「やめなさい。ぼくをアルのところに帰して!」
 アレックスは、引きずられながらも必死で抵抗した。あまりにも激しく暴れる少年に業を煮やしたジャコボがついに怒鳴った。
「大人しくしやがれ!! どうせ誰も居ないんだ。ここでやったっていいんだぜ」
 男は暴れる少年の腕を後ろ手につかみ、うつ伏せに床に押し付けた。間髪を入れず、下着ごとズボンを引きずりおろした。アレックスは反射的に保護者の名を呼んだ。それは、意外にも父母の名ではなかった。
「いやあ、アル、助けて!!」
 アレックスは本能的に、遠い父母ではなく、現実に今助けてくれそうな大人の名を呼んだに過ぎなかったかもしれない。しかし、それはジャコボにはひとつの確信しか与えなかった。
「いいケツしてるじゃねえか。昨夜はこの体にアルの薄汚ねぇ手が這い回ったのかい?」
 アレックスは頭にかっと血が上るのがわかった。彼は押さえつけられた姿勢のまま、ジャコボの方に振り向き様に言った。
「馬鹿にしないで! アルは何もしなかった。優しく傍で寝てくれただけです。母様みたいに。それにアルの手は黒いけど、あなたの白い手の方がよっぽど薄汚いです!!」
「てめぇ……。ちったあ痛い目に遭わねえとわからないみたいだな。まず、逃げられねぇようにしてやるか」
 ジャコボは、アレックスの右足を持ち上げると、大腿部に足をかけ踏みつけた。ボキッという嫌な音がした。
「きゃあーーーーーっ……、あっ、あああ……」
 アレックスの悲鳴が家中に響いた。アレックスは床にのたうちながら痛みに耐えようとした。ジャコボはそんなアレックスの上にまたがり髪を引っ張って彼の顔を持ち上げながら言った。
「いい加減観念しな」
 その時、ばあんとドアが開く音がした。ついで、低めだがよく澄んだ声が聞こえた。
「ジュニア、どうした!? 今の悲鳴は何だ!?」
「アル! 来てくれた……」
 アレックスは痛みの中でほっとするのを感じた。アルは息瀬切って駆け込んできたが、廊下に転がるアレックスと、彼に馬乗りになったジャコボの姿を見つけ、怒りの声を上げた。
「ジャコボ、キサマァーーーーーーッ!!」
 家全体が震えたようだった。
「アル、おっ、落ち着けよ。まだやっちゃあいないからよ。ちっと逃げねえようにしてやっただけだし」
 ジャコボは、アルのあまりにも激しい怒りに鼻白んで言った。しかし、アルは雄叫びを上げながら雄牛のようにジャコボに向かって突進した。
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