朝焼色の悪魔 Evolution

黒木 燐

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第三部 第二章 焔心

3.アレックス~前編~

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 以下の話は、ジュリアスが由利子に話したギルフォードの過去に、いくつかの事実を補充したものである。話の進行上、特に中編後半以降に一部残酷な表現が入ることを前もっておことわりしておく。
*****

「ぼっちゃま、どこでございますかー?」
 森の中を年老いた教育係が、虫を追い掛けて遠くへ行ってしまった跳ねっ返りの小さな御曹子を探していた。
「じいは隠れんぼが嫌いでございますよ。もし、ぼっちゃまに何かあったら、じいは御館様に八つ裂きにされてしまいます~。後生ですから出て来てくださいまし」
「シーッ、静かにおし!」
 少年ギルフォード……ここではジュリアスに倣ってアレックスと呼ぼう。彼は、崖の近くに生えた大木の陰に身を潜め、虫取り籠の中で騒ぐ虫たちに言った。
「出てなんか行かないよ。今日こそは母様に青いチョウを採ってさしあげるんだから。ポールなんかに付き合ってたら、また日が暮れちゃうじゃないか」
 アレックスは口を尖らせながらつぶやいた。
 さっきまですぐ傍で探していたらしいポールの声も今は遠く響き、アレックスはクスリと笑った。
「ようやく行ったね。でも、もう少し遠くに行ってからここを出るとしよう」
 そういうと彼は捕虫網を持ち替えた。
「ぼっちゃまぁぁぁ……・」
 ポールの声が風に紛れる程になったので、アレックスは立ち上がった。
「やった~! これで自由だぞ!」
 しかし、あまりにも勢いよく立ち上がったので、アレックスは半ば森の腐葉土になりかかった落ち葉の層に滑ってバランスを崩した。
「あっ!」
 アレックスは短い悲鳴を上げると、そのまま崖を転げ落ちて行った。
「ポール、ポール、助けて!!」
 しかし、ポールを撒いてしまったのは他ならぬアレックスである。彼は空しく助けを呼びながら崖下まで落ちていき、途中、気を失ってしまった。
 数分経っただろうか。アレックスは目を覚ました。崖が比較的緩やかだったのと、共に落ちた落ち葉の山がクッションになって、奇跡的にかすり傷程度で済んだアレックスだったが、服はよれよれになり、全身泥まみれになってしまった。これでは彼がギルフォード家の御曹子とはだれも思わないだろう。
 アレックスは身体を起こしたが、地べたに座り込んだまま周囲を見回した。
(ここはどこだろう?)
 彼は最初混乱し、何があったか判らない状態であったが、徐々に自分の置かれた状況がわかってきた。アレックスは自分の落ちた崖の上を見た。かなり高く滑りやすそうで、とてもそこを登って帰ることは不可能に思えた。彼の居る場所はまだギルフォード家の敷地ではあったが、がけ下の山道は、ギルフォード家が厚意で民間に解放しており、誰でも通ることが出来るようになっている。

 まだ幼いアレックスは、自分の家の敷地をまだ十分に把握していなかった。まあ、大の大人でも広すぎて迷うくらいのシロモノではあったが。30年以上前のことだから、今ほど通信機器も発達しておらず、当然携帯電話もGPSも普及していない。
 家人に連絡を取る術のないアレックスは、山道を通る車を止めて事情を話して屋敷まで連れて行ってもらおうと考えた。父親はかなり厳しかったが、それ以外の者は皆彼に優しく、従って、彼は今まで大切に育てられており、人の悪意に触れたことが無かった。それで、今回も心配することなく家に帰れると考えた。青い蝶は、また次回にしよう。彼はそう切り替えて、立ち上がった。
 そして彼の後を追うように落ちてきた捕虫網を拾って持ち、改めて虫かごの昆虫たちを見た。彼等はアレックスの落下によって激しく揺さぶられ、混乱していた。死んだようになっているものもいた。
「ああ、ごめんよ。ぼくのせいで……。すぐに逃がしてあげるからね」
 彼は再びしゃがみ込むと、虫かごの蓋を開け昆虫達を解放した。翅のあるものは飛立ち、そうでないものも一目散に逃げ出した。死んだようになっていた虫も、すぐにもぞもぞと動き出した。ショックで仮死状態になっていたらしい。昆虫には良くあることだった。
「ああ、良かった。みんな生きてた!」
 アレックスは、ほっとしながら虫かごの蓋を閉めると立ち上がった。
 ここ数日英国としては高温が続いており、この日も午後からの夏の日差しが照りつけて来たので、アレックスは日陰に入って車を待とうとトボトボと歩き出した。
 アレックスは、じりじりと日に照らされて、その暑さに目を覚ました。道路わきに出来た木陰に座って車の通るのを待っていたが、いつの間にか眠っていたらしい。その間に日が動いて木陰が移動したのだ。アレックスはヨロヨロと歩いて移動した木陰に座りなおした。
 森の方では、ポールの知らせを受けアレックスの捜索が始まっていた。しかし、だれも彼が崖下に落下してしまったなどとは考えもしなかった。森の中で人が迷うことは珍しくなかったからである。
「のどがかわいた……」
 アレックスは軽い脱水症状をおこしていた。普段ならメイドやポールが至れり尽くせりで守ってくれた。喉が渇いたといえば、すぐに飲み物が用意された。しかし、こんな道端ではそんなことは当然不可能である。頼みの車もなかなか通らなかった。既に夕方の時間帯に入ろうとしており、影が長く伸びてきた。日が落ちてしまうと、いくら夏とはいえ、アレックスの軽装ではとても辛い夜になるだろうことは彼にも想像出来た。
 不安におののきながらも気丈な彼は泣こうとはしなかった。普通の子供なら泣き喚いてそれだけで体力を消耗してしまっただろう。彼は辛抱強く希望を失わずに待ち続けた。
 日が少し傾いて来た頃、1台の車がやってきた。アレックスはすかさず道路に立って、両手を振りながら車を止めた。件の車はアレックスのすぐ前で止まった。
「なんだ?」
 車の中から助手席の男が窓を開けて、アレックスを上から下まで見ながら言った。アレックスは礼儀正しく言った。
「あの、道に迷ったんです。よかったら家まで乗せてもらえないでしょうか」
「迷子の|ヒッチャー(ヒッチハイカー》か? しっかし小汚いガキだな」
「だが、奇麗な顔をしているぜ」
 男達はアレックスを見ながらヒソヒソ話していたが、ニヤニヤ笑いながらアレックスを舐めるように見て言った。
「おう、乗せてやるよ。後ろに乗ンな」
 しかし男達の様子から、アレックスは不吉な悪意を察し数歩後退りをした。
「どうした? 乗れよ?」
「ごめんなさい。やっぱりいいです」
 アレックスはそう言うや否や、車の進行と反対方向に駆け出した。
「くそっ、勘のいいガキだ! 追え、ジャコボ!」
「承知!」
 助手席から若い方の男が飛び出して、アレックスの後を追った。その後車はタイヤの音を軋ませながら、向きを変えた。
 アレックスは捕虫網を投げ出して必死で逃げた。彼の足は同年代の子の中では早い方だったが、所詮子供の足、若い男の脚力とは比べるべくも無い。アレックスは追っ手の距離がだんだん短くなっていることを察した。心臓が破裂するかと思った時、何かが目の前を遮った。さっきの車が先回りをして通せんぼをしたのだ。行く手を遮られたアレックスは、力尽きてその場にうずくまった。
「このガキ、手を掛けさせやがって」
 追いついてきたジャコボと呼ばれた男が、そんなアレックスを片手で抱えあげながら言った。アレックスはハアハアという荒い呼吸の中で、男をにらみつけて言った。
「無礼者! 何を……!」
「はあ?」
「愚かな……ぼくを誰だと……」
 アレックスはようやくそこまで言うと、激しく咳き込んだ。
「はあ、参ったな。頭のおかしいガキかよ。綺麗な顔をしてもったいない」
「いいから、早く車に乗せろ。誰か来る前にズラかるぞ!」
「判ってるって、ステュー」
「ついでに網と籠も拾っておけよ。何で足がつくかわからないからな」
「へいへい」
 ジャコボはもがくアレックスを車の後部座席に放り込んだ。
「何をするっ、離せ! おまえたち、このままではすまされないぞ!!」
「あ~、五月蝿うるさいガキだな。ジャコボ、黙らせとけよ」
「へえへえ、おいガキ、こっちむけよ」
 ジャコボはアレックスの顔を無理やり自分に向けると、自分のジーパンのポケットからハンカチを出してアレックスの口に押し込んだ。その上から頭に巻いていたバンダナで猿轡をした。アレックスは言葉を奪われたが、怒りの表情でキッとジャコボを見据えた。
「おお、恐。気の強いガキだね、こりゃあ。普通なら泣き出すところなんだが。……おっと、逃がしゃしねぇぜ」
 アレックスは、諦めずにジャコボの脇をすり抜けて逃げようとしたが、首根っこを引っつかまれ敢え無く阻止されてしまった。アレックスはじたばたしながら何か言ったが、当然唸り声にしかならなかった。
「生きの良いガキだな。妙に話し方がお上品だったが」
「面倒だから縛っとけよ」
「可愛そうだけど仕方ないなあ」
「心にも無いことを言うなよ、ドSの癖に」
「へっへ~」
 ジャコボは笑いながらアレックスの両腕を後ろ手に掴むとガムテープで縛った。ついで、両足も拘束する。アレックスはついに諦めて目を瞑った。悔しさで涙が滲む。彼は愚かな行動をしてしまった自分を呪った。
「これ、どうするよ?」
「そこにジャガイモを運んだ麻袋があるだろ? それを被せて後部座席の床にでも転がしとけ」
「OK。悪く思うなよ、ガキ。恨むなら俺達に出会った運命を恨みな」
 アレックスは頭から麻袋に入れられ、乱暴に床に投げ捨てられた。
「おっと、いけねえ」
 ジャコボは走って道の途中に落ちた捕虫網と虫かごを拾って来ると、それも後部座席に投げ入れ、助手席に滑り込んだ。と、同時に車が発進し、あっという間に姿を消した。

 数十分後、アレックスは車から出され、袋のまま担ぎ出された。後部座席の床で、車の揺れるがまま成す術もなく体のあちこちをぶつけ、しかも車酔いまでしてしまったアレックスはぐったりしていた。昼から飲まず食わずだったので、なんとか吐くことは免れたが、具合は最悪だった。
 彼はしばらく担がれたまま、どこかに移動させられていたが、いきなり床に投げ出され、麻袋から出された。アレックスは、床に座り込んだ状態で周囲を見回した。どこかの住宅の居間の様なところだったが、周りには一癖も二癖もありそうな四十歳から二十歳代の男達が四人ほどと、六十歳くらいの太った女が居た。
「どうしたんだ、この子汚こきたねぇガキは?」
 一番年長でリーダーらしい男が訝しげな顔で二人に尋ねた。
「ああ、オヤジ、こいつは……」
 年長のステューが説明した。
「昆虫採集で森に入って迷子になったらしくてね。道にうずくまっていたんだ。自分ちも判らないようだし、少し頭もおかしいみたいだけど、上玉だろ? 高く売れそうなんで連れて来たのさ」
「どれどれ」
 太った女がアレックスに近づくと、彼のあごを掴み顔を自分に向けさせてジロジロと見ながら言った。
「ふん。ほんとに上玉だね。綺麗な子だよ。本当に男の子かい」
 女はそう言いながらアレックスの股間に手を伸ばした。アレックスはビクッとして、喉の奥で小さな悲鳴を上げた。
「あっははは。確かに男の子だ。さぁて、アル、おまえの出番だよ。その前にこいつを風呂にいれておやり。こんなに汚きゃ上玉が台無しだよ。ジャコボ、手伝っておやり」
 怒りに震えながら涙ぐむアレックスを尻目に、女は若い男二人に命令した。
「了解」
 女に呼ばれ、アルはツカツカとアレックスの傍に来ると、彼を抱きかかえて言った。
「さあ、ぼうや、おいで。小奇麗にしてやろうな」
 彼は、黒人で背が高く細身な三十歳くらいの青年だった。ジャコボのほうは中背で労働者っぽく身体のがっしりとした、二十代半ばくらいの白人だったが、少しイタリアなまりがあるような感じがした。アルという男の方も、少し言語体系が違うように思われた。アレックスは二人の男に連れて行かれながら『オヤジ』と『グラン・マ』の会話を聞いていた。
「おい、グラン・マ。大丈夫なのか、ジャコボなんかに手伝わせて」
「アルは優しい子だからね。飴と鞭でちょうどいいだろ?」
「なるほど、ちげぇねぇや」
 『オヤジ』はそういうとげらげらと笑った。
 アレックスはバスルームの中に放り込まれた。狭く汚いバスルームに驚いて、アレックスは一瞬キョロキョロした。
「何をビックリしているんだい?」
 アルは笑いながらアレックスの猿轡を解いた。ついで口に詰め込まれたハンカチを取る。
「こんな子供にひどいことをするなあ」
 アルは、唾液まみれになったハンカチを見て顔をしかめ、ジャコボの方を向いて言った。
「しかも汚ねぇハンカチをツッコミやがって……。キサマがやったのか?」
「仕方がなかったんだよ。コイツ五月蝿くてな」
「はやくぼくを解放しなさい」
 言葉を解放されたアレックスが二人に言った。ジャコボはそれを見て肩をすぼめながらアルに言った。
「こんな風だよ」
「急ぎなさい。でないとあなたたち……」
「うるせぇ!!」
 ジャコボがいきなりアレックスの左頬を殴った。
「てめえ、自分の置かれている状況を考えやがれ!! 今ここで絞める事だって出来るんだぞ!!」
 ジャコボはそう言いながら片手でアレックスの首を掴んだ。アルが驚いてジャコボの手を掴んでいった。
「やめろ!! 商品に傷をつけるなっ。オヤジから半殺しの目に遭うぞっ。いいから手を離せ。ぼうや、おまえもだ。ジャコボの言うとおり、今置かれている状況を理解しろよ。いいから大人しくするんだ」
 アレックスは頬を押さえ大きく目を見開いていたが、こっくりと頷いた。
「よし、いい子だ。今ガムテを外してやるからな。食い込んでいるからちょっと痛いかもしれないが、我慢しろよ」
 アルはそう言いながら、まず手のガムテープを取る作業にかかった。
「へっ、さすが子持ちだな。ガキの扱いに慣れてらぁ」
「暴力のせいで妻子に逃げられたキサマとは違うんだよ。ここはもう俺だけで大丈夫だ。もういいから出て行け!!」
「何ぃ?」
「俺に逆らうのか?」
「てめえ!! ちょっとオヤジに気に入られているからって、いい気になりやがって」
「おまえに写真技術を教えてやっているのは誰だ?」
「わーったよ、センセイ。けっ、ニグロがっ!! f*** *** *** ****!!」
 ジャコボは捨てゼリフを吐いてバスルームから出て行った。アルはあきれながらため息をついた。
子供ガキに汚ぇ言葉セリフを聞かせるんじゃねえよ」
「あの、あの人今何て……?」
「おまえは知らなくていい。さあ、ガムテープを外したぞ。きつく縛られてたんで痣になってる。痛くないか?」
「はい」
「強いな、おまえ。じゃ、服を脱がせてやろうな」
「ぼく、一人で出来ます」
「そうか?」
 そういうと、アルはいきなりアレックスの身体を引き寄せた。
「あ、何を?」
(シッ!)
 彼は黙れという仕草をすると、耳元に口を近づけて囁いた。
「今は無理だが、隙を見て逃がしてやる。それまで何があってもがんばるんだぞ」
「アルさん……?」
 アルはすぐにアレックスから離れると、立ち上がって言った。
「じゃあ、着ている物はこの籠にいれてドアから外に出しな。俺は戸口で見張っているからよ」
 アルはそのままバスルームから出て行った。アレックスは服を脱いで籠に入れると、そっとドアから外に出した。
「OK、ぼうや。じゃあ鍵を閉めるからな。風呂から上がったら言ってくれ。バスタブの使い方はわかるか」
「はい」
「そうか。ガキのころ俺んちなんてシャワーしかなかったがな」
 アルはそう言いながらドアを閉めて、ぴしゃりと鍵をかけた。アレックスは、風呂に湯を貯める前に、水道から直接水を飲んだ。午後からずっと水分補給をしていない上に、猿轡のせいで唾液が流れ続けたため、かなり脱水が進んでおり、もう限界に近かった。水道の水はサビと若干黴臭い臭いがしたが、贅沢は言っていられなかった。
 結局アレックスはシャワーしか使えなかった。バスタブ内が汚くてとても使う気になれなかったからだ。
 
 その後がアレックスにとって本当の悪夢だった。
 彼は、裸のままバスタオルを被せられ、『オヤジ』と『グラン・マ』の前に引っ張り出された。その後素っ裸でベッドに寝かされ体中を調べられた。死にたいほどの屈辱だったが、アルの言葉を信じて彼はそれに耐えた。
「ふん。健康だし身体も綺麗だね。何箇所かの擦り傷と、あのジャコボの馬鹿のせいでついた頬と手足の痣はすぐに消えるだろうよ」
 グラン・マはそう言うと野卑な笑みを浮かべて続けた。
「しかし、洗ったらますます上玉に磨きがかかったねえ。着ているものも上っ面は泥だらけだったけど、後は綺麗なもんだったよ。しかも、全てがオーダーメードの高級品だ」
「おい、ぼうず。おまえ、本当は良い家の子だろ?」
 オヤジがアレックスの顔を掴んで引き寄せながら言った。
「脅迫したら良い金になるぜ、きっと。さあ、言いな。どこの子だ?」
 しかし、アレックスは言わない意思表示に、口をぎゅっと結んで反抗的な表情でオヤジを見た。
「何だ? このガキ、ずいぶん気が強そうだな。お仕置きされたいのか、あ~ん?」
「オヤジ、やめてくれよ。それにこの子は自分の家もわからないそうじゃないか」
 アルが止めると、グラン・マも同じく言った。
「アルのいうとおりだ、止めときな。もしそれで足がついて逮捕されたら、全員終身刑だよ。いつもどおり写真を撮って、闇ルートで斡旋してどっかのスキモノに売り払っておしまいさ」
「ちぇっ」
「ちぇっ、じゃないよ。さ、アルや、さっさとコイツを撮影うつしてやンな」
 グラン・マは、オヤジに解放さされた後、裸で不安そうにベッドに腰掛けたままのアレックスを指して言った。
「了解です。じゃ、ぼうや、はじめようか。そのままじゃ何だから、俺のシャツを着な」
 アレックスは、言われるままにアルが差し出した白いシャツに袖を通した。アルはそこでアレックスに言った。
「あ、ボタンは留めないで。前ははだ
けたままがいいや。袖口も折らないで、指先をちょっとだけ出して」
 それを見て、オヤジが口笛を吹いて言った。
「ヒュウ~、こりゃあ、素っ裸よりヤバくねぇか?」
「芸術と言ってくださいよ」
「気取るんじゃねぇよ。今のおまえは単なるポルノ写真家だろーが」
「とにかく、この子にはそういう行為は無しですからね。この子は綺麗なままの方が高く売れますよ」
「まあ、ここにはそういう趣味のヤツもいないだろうしな。まあいい、好きにやんな」
「はい。じゃあ、左頬にはジャコボの馬鹿に殴られた痣があるから、右側から撮ろうね。擦り傷が目立たないようにソフトフォーカスをかけて……。ライトは、そうだな。変に色がついたのより自然光に近いのがいいか」
 アルはブツブツいいながらもテキパキと準備をすると、カメラを抱えて再びアレックスの傍にやってきた。
「じゃ、ぼうや。撮るからそのままベッドに横になって。大丈夫、誰も変なコトしないから」
 アレックスは言われるままに、横になった。今はアルを信じて言うとおりにするしか、彼には選択肢はなかったのである。
 
 男達が酒を飲んで乱痴気騒ぎをしている。その食堂のテーブルの片隅にアレックスは座っていた。彼の目の前には、彼が今まで見たことも無いような料理が置かれていた。アルはアレックスが隣で縮こまっているのに気がついた。
「どうした? 連中の大騒ぎにあきれているのかい?」
「……ええ、それは、まあ……」
「メシ、ちゃんと食えよ。口に合わないかもしれないけど、食わないとこれからもたないぞ」
「あの、ごめんなさい。さっきからなんだかお腹の具合が……」
「腹を壊したのか? すまん。ずっと裸同然だったから……」
「違うと思います。のどが渇いてて、我慢出来なくて、お風呂で水道の水を飲んだんです。多分それで……」
「水道水で腹を壊したのか? これだから、おぼっちゃんは……」
「あの、トイレ……。もう限界。。。」
「わ~~~~っ、ちょっと待て」
 アルは焦ってアレックスを右わきに抱えると、トイレに走った。オヤジが驚いて声をかけた。
「どうしたい、アル?」
「おぼっちゃんが、御腹痛で~~~す」
 アルは、声だけ残して食堂から姿を消した。
「へえ、えーとこボンでもやっぱ腹下しするんだな。……おい、ジャコボ。アルが妙な動きをしないか見張っとけ」
「承知」
 ジャコボは嬉しそうにアルの後を追った。
 
「あれ? ここは?」
 アレックスは、粗末なベッドで目を覚ました。そこは、何となく酸っぱいような薬品臭いような独特の匂いが漂っていた。後ろを向いて、なにか作業をしていたアルが、気付いて振り返った。
「おっ、気がついたか」
 アルは、銀色の容器を手にしてやって来ると、その容器をサイドテーブルに置いて、ベッドサイドに座った。
「あの、ぼく、どうしてここに?」
「おまえ、出すモン出してほっとしたんだろ。俺が抱きかかえたらそのまま眠っちまったんだよ。ここは俺の部屋だ。ちったぁ安心して眠れるぜ。俺はソファにでも寝るから」
「そんな。ぼくが居候なんですから、ぼくがソファで……」
 アレックスは言いながら起き上がろうとした。アルは驚いてそれを止め、無理やり寝かせると言った。
「馬鹿野郎。病気の子をそんなとこに寝かせられるか。それに、おまえだって好きでここに来たわけじゃないだろ?」
「すみません」
「だから、気を使うなって、えっと、あれ、名前を聞いていなかったな。何て名だ?」
「……」
「ま、言いたくなかったらいいけどさ」
「アレクサンダー……です」
「アレクサンダー? あの大王様と同じ名前か。あっはは、こりゃあいいや」
「変ですか?」
「まあ、彼も金髪の美青年だったようだから、ガキの頃はおまえに似てたかもな。目はオッドアイだったって話だが」
「オッドアイ?」
「左右で目の色が違うんだ、ボウイみたいに。彼はブラウンとブルーだったかな」
「詳しいんですね」
「本が好きでね。特に歴史がさ。金がなくてハイスクールには行けなかったけど」
「………」
「そんな気の毒そうな目で見るなよ。却って惨めになるんだせ?」
「ごめんなさい」
「まあいいさ。じゃあ、愛称は俺と同じアルだな。アル・ジュニアだ。俺は、アルバート。改めてよろしくな、ジュニア」
 アルはそう言いながら右手を差し出した。アレックスも毛布から右手を出して彼の方に伸ばし、それを掴んで言った。
「はい。こちらこそ、よろしくです」
「じゃあ、俺はちょっと作業の続きがあるからな。寝ててイイぞ」
 彼はそういうと、ベッドサイドにおいていた銀色の容器を持って、流し台に向かった。
「お部屋に流し台があるんですね。その容器は何ですか?」
「ああ、これは1本用のフィルム現像器だよ。この中で、現像・定着・水洗が、しかも、明るいところでできるんだ。ま、フィルムを入れる時だけは光はご法度だけどね。」
「へえ、何だか判らないけど、すごそうですね」
「この部屋、変なにおいがしてるだろ? 現像液の臭いさ。そろそろ定着が終わるから、後は洗浄して乾燥させれば出来上がりだ。地下にちゃんとした写真室を作っているんだが、今日は1本だけだったし、おまえが心配だったんで、これですることにしたんだよ」
「それ、ぼくを撮ったフィルムですよね。一体あんな写真を何に使うんですか?」
 アルは答えなかった。
「それから、ぼく、これからどうなるんですか」
「…………」
 やはり、返事が無い。
「あの……」
「……あのな、おまえは知らない方がいいよ」
 アルは振り返って、手を拭きながらまたアレックスの方に歩いてきた。そして、彼の傍に手を付くと、顔を近づけて再び小声で言った。
「ジュニア、おまえは俺が絶対に逃がす。だから、先のことは心配するな」
「……はい」
 アレックスは小さく頷いた。
 
(中編に続く)
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