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第二部 第五章 告知
7.ナガヌマ
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ギルフォードは、研究室に急ぐと教授室に飛び込んだ。和服姿だが、履物に合うものがなくて足元が靴下と革靴と言う妙ないでたちだった。
研究室には日曜とはいえ、数人の研究生達がおり、喧々囂囂と意見を交わしている。ここに集まって例の放送を見たらしい。学生の誰かの部屋に集まればいいようなものだが、よほどここの居心地がいいのだろう。しかし、教授の一風変わった姿を見て彼らの興味は一気にそっちに移り、今度は教授に向かって口々に言い始めた。
「やん、教授、渋~い。けど、靴はヘン」
「似合ってますよ、それ。靴がミスマッチだけど」
「うんうん、靴が変ヨ!」
「それよりその着物、どないされたんですか?」
如月の至極もっともな質問に紗弥が澄まして答えた。
「訪問先の人妻にいただいたのですわ」
「ええ~~~???」
学生達が一斉に驚いて言った。教授室からギルフォードのダメ出しする声がした。
「誤解されるような言い方をしないでちゃんと説明してくださいよ~、サヤさ~ん」
「あまりにも教授が無自覚だからですわ」
紗弥は少し苦情を言うと、学生達に向かって簡単に説明をした。
「な~んだ」
「ちょっと期待したのに」
「ね~!」
「とりあえず、履物、どうかした方がいいですよ」
「うんうん。せっかく似合ってるんだから、もったいないですう」
すると、教授室のドアが開いて、苦笑気味なギルフォードが姿を現した。御贔屓バンドのTシャツと年季の入ったGパンとドクターマーチンのブーツという、いつもの普段着に戻っていた。
「せっかくですから、今度、履物屋さんに行ってあつらえましょう。あ、サヤさん、キモノどうしときましょう?」
「はい。着物用のハンガーもいただいてますので、とりあえずかけておきましょう。明日、畳んでおきますわ」
紗弥はそういうと、教授室に入って行った。
「紗弥さんはそのままでいいんですか?」
「ええ、緊急に備えてスラックスのスーツにしたんですの」
紗弥が着物をかけながら言った。
「機動重視ですか。さすがですね。じゃ、行きましょうか」
それを聞いて、如月が素っ頓狂な声で言った。
「え~~~、先生、また出て行かれるんでっかぁ~? お帰りやなくて?」
「はい。また急用が出来たもので」
ギルフォードの様子に如月は何か感じたのだろう、ささっと近づいて小声で聞いた。
「まさか、まだ新しい感染者でっか?」
「まあ、そんなところです」ギルフォードがぼかして言った。「ですから、また遅くなりますので、戸締りと各事項の確認、よろしくお願いしますよ」
「また僕でっかぁ?」
「君が一番頼りになりますからね。お願いしますよ」
「そ、そうでっか? それやったら仕方ないでんなあ」
如月は、ギルフォードから頼りにされていると聞いて、内心嬉しそうに言った。しかし、ギルフォードが「ま、助教のヴィーラがアフリカから帰って来るまでの辛抱ですよ」と続けた事で、いきなり挙動不審に陥った。
「ああっ、ヴェラちゃん!! せっかく存在を忘れていたのに……。教授のアホたん」
そういうと、如月は頭を押さえながら何処かへ走り去ってしまった。ギルフォードはそれを見ながら、シマッタと言う顔をして言った。
「あ、ヴィーラが彼の天敵だったのを忘れてましたよ。悪いコトしましたね」
「そこら辺を駆け回ったらいずれ戻って来ますわ」
「あのね、逃げた飼い犬じゃないんだから……」
「それより、急がないと」
「そうでしたね。じゃあ、ごきげんよう。みなさんも早く帰るんですよ」
そういうや否や、二人はバタバタと研究室から出て行った。
ギルフォードが感対センターに到着したのと、紅美が運び込まれたのはほぼ同時だった。今までとは違い、感染者発生地とは全く無縁の場所から現れた初めての患者で、センター内はちょっとした騒ぎになっていた。とりあえずセンター長室に向かっていたギルフォードは、ちょうど部屋から出てきたばかりの高柳に鉢合わせた。
「おお、ギルフォード君か。またお呼び立てしてすまないね」
高柳は言った。ギルフォードは頭を横に振ると答えた。
「いえ、新しい感染者となれば、僕もゆっくりしているわけにもいきませんから」
「私もあれから帰ったばかりで仮眠しようと思った矢先でね」
「それはお気の毒でしたね」
「患者の名前は北山紅美で、もうすぐ多美山さんがいた部屋に到着する。君たちは窓の前で待機しておいてくれたまえ」
高柳はギルフォードの返事を待たずに走って行った。
「相変わらず忙しい方ですわね」
紗弥が、感心したようなあきれたような風情で言った。ギルフォードは肩をすくめた。
「ま、実際忙しいですから。ここの人員も増やさないといけませんねえ。とりあえず、病室の前で待っていましょう」
そう言うと、ギルフォードは病室に向かって歩きだした。
「遅いですわね」
紗弥が、すこし退屈したように言った。二人が病室の前に待機してから、すでに30分以上経過していた。
「まず、診察と治療が先ですからね。もう少し待ってください」
ギルフォードは組んでいた腕の左腕を解くと、その手で顔を覆いながら言い、その後曇りガラスを指でトンと叩いた。
「……とはいえ、確かに遅い上に何の連絡もないですね。何か問題があったんでしょうか」
少しして、スタッフステーションに二人組みの男が入ってきた。葛西とジュリアスである。葛西がギルフォードたちを見て驚いて言った。
「あれえ、アレク、紗弥さんまで、どうしてここに?」
「また発症者が現れたんです。しかも、今日情報募集した身元不明遺体の関係者らしいんです」
ギルフォードが答えた。
「そりゃ大変じゃないですか。でも、これで少しは感染ルートが判ってくるかも知れませんね」
「そうですね。ところで君たちの方は、何か成果はありましたか?」
「雑魚はよ~け採れたんだが、大物がなかなか採れんのだわ~」
と、ジュリアスがギルフォードに近づきながら肩をすくめて言った。大物と聞いてギルフォードが嫌な顔をして言った。
「いくら大物だからって、くれぐれも採れたモノを僕に見せないでくださいよ」
「でゃ~じょ~ぶやて。大物記念の虫拓なんか取ったりしにゃあからよぉ」
「笑えない冗談ですよ」
ギルフォードはえもいわれぬ苦笑を浮かべて言った。ジュリアスはそれを見てしみじみと言った。
「おみゃあ、こっちに来てほんに丸くなったにゃあ。以前のおみゃあにこういう冗談をゆーたら、ソッコーでグーで殴られるか、羽交い締めされとるところだわー」
「苦労は人を丸くするんですよ」
「そんならその足もどけてくれ~せんかね」
ジュリアスが、自分の右足を指さしながら言った。葛西が一瞬吹き出しそうになったが、場所柄を考えてなんとかそれを押さえた。紗弥はと言うと、まったく無視を決め込んでいる。いつものことなのだろう。そんな時、病室のモニターから声がした。女性医師の山口の声だった。
「アレク先生、そこにおられますか?」
「あ、はいはい、いますよ」
「お疲れ様です。あの、こちらがちょっと取り込んでまして、アレク先生に状況説明をするために、今、センター長が向かっていますので」
山口の声の向こうで、女性の泣き声とそれをなだめる看護師の春野の声が聞こえた。
「何かあったのですか?」
「はい、患者さんがかなりショックを受けておられるので……」
「そうですか。それでは無理できませんね」
「ええ。もし、ご質問があるのでしたら、後日改めてになると思います」
「了解しました。では、タカヤナギ先生を待つことにします」
「すみません。とりあえず切ります」
「はい、お疲れ様でした」
そこでモニターの音声が切られた。
「泣き声がきこえましたね。大丈夫でしょうか……」
葛西が心配そうに言った。
ギルフォードたちは、再びセンター長室にいた。
彼らを迎えいれた高柳は、4人を座らせると言った。
「あちこち行かせてすまなかったね」
「いえ、気にしないでください」
ギルフォードが言った。
「タカヤナギ先生の方こそ、お疲れでしょう」
「私は大丈夫だ。まだまだ若いもんには負けんよ」
「頼もしいですね。ところで、何か問題が?」
「うむ。今回の患者はさっき言ったように北山紅美という女性だ。彼女は今日の放送を見て連絡をしたらしい。ところが、電話中に倒れ、驚いた職員が救急車を手配した。そして救急隊員たちが駆けつけ、下半身を血まみれにして倒れている彼女を発見したということだ」
「すでに、放血を? ……いえ、ちょっと待って……。ひょっとして彼女……」
「そうだ。身ごもっていた」
「では……」
「まず胎児が感染に耐えられなかったんだろう。すでに流産していたらしい」
「ひどい……。可愛そうに……」
真っ先にこう言ったのは葛西だった。紗弥も微妙に眉を寄せていた。
「彼女も妊娠かもしれないと気がついたのは、今日だったということだ。可愛そうに、彼女は子供とその父親になるはずだった男の二人を一度に亡くしたんだ。彼女は感染自体よりそっちの方のショックの方が大きいようだ。とても質問出来るような状態じゃなくてね」
「エボラ出血熱の場合も妊婦に感染した場合、まず胎児からやられてました。出血熱は妊婦に対して特にひどい仕打ちをします」
「そうらしいな。彼女の病状もかなり進んでいて、そのせいで出血が全然止まらなくてね、このままだと長くもたせることが難しそうなんだ」
「悠長なことは言ってられないですね。感染源の男が死んでしまったからには、彼女から話を聞かないことには……」
「うむ。どうしたものかと思ってね……」
「ところで……」
ジュリアスが口を開いた。「その遺体が北川さんのボーイ・フレンドだということの確証は?」
「北山だ。彼女が言った彼の身体の特徴がほぼ一致した。今、彼の両親に連絡を入れているから、彼らの証言ではっきりするだろう。まあ、彼女の感染で、ほぼ鉄板だと思っていいだろうがね」
「テッパン?」
と、聞きなれない言葉にギルフォードが首をひねって尋ねた。
「鉄の板、Iron plateだ。カタイということだよ。間違いないってことだ」
その時、突然内線が入った。山口医師からだった。
「高柳先生、今、長沼間さんという県警の方がこられて、北山さんに少しだけでいいからお話が聞きたいと……」
「公安の方ですよ」
ギルフォードが高柳に耳打ちをした。それを聞いて高柳は少し嫌な顔をしてから小声で言った。
「公安警察か、厄介だな」
その後山口に向かって
「わかった。ただし、質問は彼から直接ではなく私を通してからにすると伝えてくれ。私もすぐに病室の前まで行く。山口君、君はその間、北山さんをなんとか説得してくれないか」
と言うと、今度はまたギルフォードたちに向かって言った。
「とりあえず、またあちらに向かおうか。ところで知り合いなのかね?」
「ええまあ。僕の聴講生ですが」
「聴講生? まあいい。とにかく急いで行こう」
「ホントに行ったり来たりになりましたねえ」
と、ギルフォードがぼやいた。
長沼間は、高柳に挨拶と自己紹介をした後、共に現れたギルフォードを見て笑って言った。
「やあ、先生。いるかもしれないとは思っていたが、やはり居たな」
「もう嗅ぎ付けて来るなんて、さすが、行動が早いですね」
「ふん、やっと現れた潜在感染ルートの一部だからな。ここを引っ張らんとまた地下に潜ってしまう」
そう言うと、長沼間は高柳の方を向きなおして言った。
「さっさとお願いしますよ」
しかし、高柳は彼を制して言った。
「ちょっと待ってください。患者の意思を確かめてからです。今、医師の山口君が説得をしているところですから」
「悠長ですな」
長沼間が薄笑いを浮かべて言った。しかし、高柳はそれに動じずに答えた。
「ええ、ここにいるのは患者であって犯罪者ではありませんから。医師なら患者のことをまず考えるのが当然でしょう」
「ふん」
長沼間は鼻で言うと、まだ中の様子が見えない窓の方に向いた。
しばらくして、モニターから声がした。
「高柳先生、患者さんだいぶ落ち着かれました。短時間なら質問をお受けするそうです」
「よろしい。では、窓を『開けて』くれたまえ」
高柳の声と共に、窓が開いた。葛西は多美山のことを思い出して一瞬辛そうな顔をした。あれは、つい昨日の出来事なのだ。まだ記憶に生々しい。しかし、今ベッドに寝ているのは若い女性であった。彼女は憔悴しきっており、いつもの彼女を知る者は、おそらく言われるまで北山紅美とは思ってもみないだろう。
「北山さん」
高柳がマイクを持って言った。万一を考えて、病室の外からはマイクを通してからしか話せないように設定したのだ。
「具合が悪いのにすまないね。ちょっとだけ質問に付き合ってくださいね」
「すみません、わたし……」
「謝ることなんてないんだよ。ただ、君が答えてくれたことで、感染の流れが断ち切れるかもしれないんだ。君のような人を増やさないためにも、協力してくれますね?」
紅美は静かにコクリと頷いた。
「さあ、長沼間さん。そういうことだ。さて、質問は何かな?」
「単刀直入に聞こう。森田健二というド阿呆と付き合っていた女は他に複数いただろう。知っているだけ名前を教えろと聞いてくれ」
長沼間は、早速容赦ない質問をぶつけてきた。
「もう、そんなことまでわかっているんですか」
と、ギルフォードがあきれて聞いた。
「森田健二の失踪についての調書を見たんだ。タラシで有名でな、ひでぇ評判だったよ」
「こっちの会話が聞こえないようにして正解だったな」
高柳は独り言のように言うと、病室に向かって質問をした。
「早速、このようなことをお聞きするのは申し訳ないのですが……。森田健二君は……、え~、あなた以外の女性と、その、親密なお付き合いをしていたようですが、名前はわかりますか」
("タカヤナギ先生がこんなに戸惑っているのを見るのは初めてだな")
ギルフォードは、いつも流暢に話す高柳が言葉を選んで慎重に話す様子を見ながら思った。案外と気を使う男のようだ。しかし、当の紅美は、いきなり辛い質問をされて黙り込んでしまった。長沼間が気忙しそうに言った。
「早く答えるように言ってくれ」
「北山さん、辛いでしょうけれど大事なことなんです。答えてくれませんか?」
高柳は彼が出来る最大限の優しさを以って質問した。しかし紅美は、嗚咽を漏らしながら再び泣き始めた。
「ちょっと貸してくれ」
長沼間はそう言うと、いきなり高柳からマイクを奪い怒鳴った。
「メソメソするんじゃねぇ! 事態はもうあんただけの問題じゃなくなってるんだ。こうしている間にもどんどん感染が拡大しているんだぞ。子を失う母親をこれ以上増やしてもいいのか!?」
長沼間に怒鳴られて、紅美は一瞬呆然とした後さらに泣き出した。山口と春野が驚いて駆け寄った。
「ナガヌマさん!」
ギルフォードが素早く手を伸ばし、長沼間のマイクを持つ手を押さえて言った。
「気持ちはわかります。でも非道いことを言うのは……」
「ふん、俺を病室に入れなくて正解だな。中だったらあの女を締め上げていたかもしれん」
「ナガヌマさん……?」
「いいか、今は綺麗事を言っている時ではないんだぜ。あんた達だってわかってるんだろう?」
そう言いながら長沼間はギルフォードを振り切り、続けて紅美に何か言おうとしたが、紗弥が後ろから近づきマイクを取り上げ高柳に渡した。長沼間は驚いて振り向き、紗弥の顔をまじまじと見た。マイクを取り戻した高柳は、急いで紅美に声をかけた。
「北山さん、暴言を浴びせてしまって申し訳ない。大丈夫かね?」
「大丈夫です……」
紅美はなんとか平静に戻っていた。彼女は今度はしっかりと答え始めた。
「取り乱してすみません。そうですよね、あの人の言うとおり、ちゃんと答えないといけませんよね」
「決心してくれましたか。ありがとう」
「あの、でも、答えたら……彼女たちはどうなるんですか」
「おそらく強制隔離になるでしょうな。しかし、それは彼女らを守ることにもなるんですよ」
「私が教えたことは……」
「大丈夫、秘密は守られますよ」
「わかりました。お答えします」
紅美は意を決したように言うと、女性の名を3人挙げた。内二人が彼女と同じ大学だった。
「ただ、最近一度だけ知らない女性を連れ込んでいたことがあって……。その人だけは誰かわかりません。ごめんなさい……」
「北山さん、だから、謝らなくてもいいんです。君のせいじゃない」
「はい、でも……」
「いいんだよ。君はむしろ被害者の方なんだから。で、それは、ここ1・2週間位のことですか?」
「はい、確か先週の土曜日のことでした。そのことで大喧嘩になったので……」
「君も色々と大変だったんだね」
高柳から優しい言葉をかけられて、紅美の両目から再び大粒の涙が流れた。
「あらら、泣かないで、北山さん。あ、ちょっと待ってね」
そう言った後、高柳は長沼間の方を見て尋ねた。
「私からも質問していいかね?」
「何を質問するつもりです?」
「当然、健二と秋山美千代との関わりについてですよ」
「俺もそのつもりだったんでね。遠慮なく聞いてくれ」
高柳は、長沼間の先ほどの行動とその不躾な言い方に少なからず不快感を持ちながらも、それを押さえて紅美に質問をした。
「北山さん、その女性はお幾つくらいの方でしたか」
「多分、私より下の18くらいだったと思います……。ひょっとしたら、もっと下かも」
「そうですか……。それでは、彼が最近かなり年上の女性と付き合ったというようなことは……?」
「はい、これは噂でしか知りませんが、先週彼が30代の人妻のお相手をしてお小遣いをもらったと自慢していたとか……」
「それは、単なる噂なのかな? それとも……」
「……事実だと思います。私はそんなこと考えるのも嫌だったので、確認することはしなかったけど、そのお金で友だち数人を連れて遊びまわった挙句、さっき言った女性をお持ち帰りしたらしい……です」
そこまで聞いて、ギルフォードがあきれて言った。
「彼らは大学に何をしに行ってるんです?」
それを聞いて、長沼間が肩をすくめて言った。
「さあね。学問じゃないことは確かだな」
彼らの会話を余所に、高柳が質問を続けた。
「北山さん、その女性の手がかりになるようなことはご存じないですか? どんな些細なことでもいいですが」
「その女性については、本当にまったくわかりません。ごめんなさい。でも、何故この質問をされたかはわかります。その女性が、今日の放送で情報を求められていた人ではないかということですね……。彼女がこの病気を運んだと……」
「そのとおりです」
「お役に立てなくてすみません……」
と、紅美はまた謝りながら続けた。
「でも、その人を見た訳じゃないけど、多分その女性とあなた方の探してる女性は同じだと思います。放送を見てそんな気がしたんです。だから、連絡したんです。赤ちゃんだけでも守ろうと思って……。なのに……なのに、赤ちゃん死んじゃった……。私が守らなきゃいけなかったのに、私のせいで死んじゃった……」
紅美はとうとう耐えきれずに泣き崩れた。春野が再び紅美をなだめ、沈静剤を用意しながら山口が言った。
「すみません。もう限界なので、今すぐ全てを遮断します。後は後日お願いします」
その声が途切れるや否や、窓が曇り中が見えなくなった。皆が深刻な顔をしている中、長沼間が言った。
「センター長、今聴いた女達の名前を大学に確認して、すぐに彼女たちの隔離を手配してくれ。俺は彼女らからの新たな感染ルートと例の女と森田との接点を探るよう要請する。無理を言ってすまなかったな。じゃあ」
長沼間はきびすを返すとさっさと戸口に向かった。その後を葛西が追い、長沼間の背に向かって言った。
「長沼間さん!」
長沼間は足を止めたが、振り返らずに答えた。
「坊やか。なんだ? あんたには用はないが」
「彼女のせいじゃないでしょう!」
「わかっている。悪いのはウイルスを撒いた馬鹿共とタラシのクソ野郎だ。両方とも許せねえよ。クソ野郎の方はくたばっちまったがな」
葛西は長沼間が両拳を握り締め、それが何故か小刻みに震えていることに気が付いた。
「じゃあ、なんであんな……」
「時間がねぇからだ。……じゃあな、急ぐんでな」
長沼間は振り返らないままそれだけ言うと、また歩き出した。が、数歩歩いて戸口の前でまた足を止めた。
「坊や、彼女に怒鳴ってすまなかったと伝えてくれ。それから、生きてくれ、と。」
そう長沼間は低くつぶやくと、スタッフステーションから出て行った。
葛西はすぐに皆のところに戻ると、ギルフォードに聞いた。
「長沼間さん、昔何かあったんですか?」
「どうして?」
ギルフォードは例のアルカイックスマイルを浮かべて聞き返した。
「いえ、なんかさっき鬼気迫るものがあったんで……」
「そうですか……」
「それに、今……、あっ、そうだ、伝えなきゃ。高柳先生、声だけでも部屋に伝えることが出来ますか?」
「ああ、聞いてみよう」
高柳は再度マイクを手にして山口に尋ねた。音声だけならということで、山口から許可が下りた。葛西がマイクを受け取り、やや緊張した面持ちで言った。
「あの、北山紅美さん、聞こえますか。さっきの怖いおじさんからの伝言です。『怒鳴ってすまなかった』それから、『生きてくれ』……。あの、僕からもお願いします。生きてください」
葛西はそう言いながら多美山のことを思い出していた。葛西はメガネを持ち上げ目元を袖口で拭うと、マイクを高柳に返した。
「もういいのかね?」
「はい」
葛西は照れくさそうに答えた。
ギルフォードたちは、駐車場に向かってセンターの廊下を歩いていた。
「ジュン、長沼間さんのこと聞いていましたね」
歩きながら、ギルフォードが葛西に声をかけた。
「はい。何か知ってるんですか?」
「ええ。彼は、あの地下鉄サリンテロで妹さんを亡くしています。正確には、それが元で自殺されたようです」
長沼間の悲しい過去に、葛西だけでなく紗弥やジュリアスも驚いてギルフォードの方を見た。
「そうだったんですか。それであんなに……」
「彼は当時既に今の職業についていて、ペーペーだった彼はO教団を調査するチームにいました。それなのに地下鉄テロを止めることが出来なかったことを悔やんでいます。妹さんの死も自分のせいだと思っているみたいで……」
「長沼間さんから聞いたんですか?」
「いえ、今回のテロの参考に、サリンテロについて改めて調べていたら、被害者の中に彼と同じ『長沼間』という名字の女性を見つけたんです。あの漢字を使う『ナガヌマ』は珍しいですから、調べたらすぐに彼の妹と言うことがわかりました。彼は僕がこのことを知っているとは思ってもいないでしょうね」
「なるほど、今度は未然に防ぐつもりが始まってまったじゃあ、そりゃ~焦るはずだわ~」
ジュリアスが納得して言った。
「行き過ぎにゃあとええけどな」
「僕もそれが心配なんですが……」
「でも」
と、葛西がしみじみ言った。
「それを考えると、あの『生きてくれ』というメッセージは重いですね」
「そうですね、本当に重いです。ジュンが言った『生きてください』もね」
ギルフォードはそう言うと、少し微笑み、続けた。
「二人の気持ちがキタヤマさんに通じるといいですね。ただ、伝わったからと言ってどうにかなる病気じゃないのが辛いところですが……」
「ええ……」
葛西がうつむき加減で言った。ギルフォードはそんな葛西を見ながら微笑まし気に笑うと、パン!と手を叩いた。
「さっ、元気出して帰りましょう。明日からはきっとものすごく忙しくなりますよ。みなさん、今日はゆっくり眠ってください。ほら、ジュンも元気出して」
そう言いながら、さりげなく葛西の肩に手を回した。それを見たジュリアスがすかさず言った。
「あ、こら、浮気はあかんでかんよ」
「おや、ばれてました~?」
そういうと、ギルフォードは廊下を駆けだした。
「おい、ちょこっと待て、アレックス!!」
と、すぐにジュリアスがその後を追った。残された葛西と紗弥は、お互いを見て肩をすくめあった。
「いったい何ですか、あれ?」
「さあ。犬も食わなさそうですけど。それにしても、廊下は走るものじゃありませんわ」
「じゃ、僕らはゆっくり行きましょうか」
「そうですわね」
紗弥が同意した。二人は並んで駐車場まで向かった。心なしか、紗弥が穏やかな微笑みを浮かべているように見えた。
紅美は虚ろな眼をして病室の天井を見ていた。出血はだいぶ治まったそうだが、このまま血が完全に止まらなかった場合、どうなるのだろうと思うとゾッとした。その反面、いっそ健二や赤ちゃんの所に行ってしまったほうが楽なのではないか、とも思っていた。
(だけど……)
紅美は思った。
(あの恐ろしげな男の人は、私に生きてくれと言ったらしい。それを伝言してくれた人も、同じことを言った。見ず知らずの私を、二人は励ましてくれた……)
紅美はそのまま目を閉じた。
(私がこのまま死んだら、彼らは悲しむだろうか……? )
閉じた眼から涙があふれ、顔の側面を伝って枕を濡らした。
あれからこのような展開になっているとは知らず、由利子は家でテレビを見ていた。あれから特に何か変わったような感じはしない。テレビ番組もいつもどおりで、相変わらずのバラエティ番組やドラマがひしめいていた。ただ、ニュースにおいて、例の告知が全国版で取り上げられていたのには、少し驚いた。それだけ非常事態なのだと改めて思った。
だが、これが明日以降どう影響するだろうかと思うと、由利子はかなり不安になった。また、ローカルニュースでも当然メインニュースで取り上げられており、町を歩く人のインタビューを交えて報道されていた。道行く人たちは、不安に思う者・楽観的観測の者・信じてない者・放送自体を知らない者等様々な反応だったが、特にパニックになっている様子は無い。ただ、危険地域とされた数箇所の地区は、人通りもほとんど無く静まりかえっていた。もっともそれらが住宅地で、日曜ゆえに通勤などの通行人が少ないということもその一因だろう。
由利子はふと気になって、ネットを立ち上げ有名巨大掲示板をチェックした。すると、ニュース速報板と新型感染症板にそれぞれ早々とスレッドが立っており、特に、新型感染症板ではトリインフルや新型インフルを差し置いて、プチ祭りになっていた。多くの住人達が、すわエボラ出血熱発生かと騒ぎ立てている。由利子は眉をひそめながらつぶやいた。
「う~ん、予想通りの反応っちゃ反応やけど、この騒ぎがネットからリアルに移行したら怖いな」
由利子はその後少し考え込んだが、うんと頷いて言った。
「アレクに一応連絡しとこ。多分彼はそんなトコ見んやろうし」
由利子は早速携帯電話を取り出し、電話をかけ始めた。
研究室には日曜とはいえ、数人の研究生達がおり、喧々囂囂と意見を交わしている。ここに集まって例の放送を見たらしい。学生の誰かの部屋に集まればいいようなものだが、よほどここの居心地がいいのだろう。しかし、教授の一風変わった姿を見て彼らの興味は一気にそっちに移り、今度は教授に向かって口々に言い始めた。
「やん、教授、渋~い。けど、靴はヘン」
「似合ってますよ、それ。靴がミスマッチだけど」
「うんうん、靴が変ヨ!」
「それよりその着物、どないされたんですか?」
如月の至極もっともな質問に紗弥が澄まして答えた。
「訪問先の人妻にいただいたのですわ」
「ええ~~~???」
学生達が一斉に驚いて言った。教授室からギルフォードのダメ出しする声がした。
「誤解されるような言い方をしないでちゃんと説明してくださいよ~、サヤさ~ん」
「あまりにも教授が無自覚だからですわ」
紗弥は少し苦情を言うと、学生達に向かって簡単に説明をした。
「な~んだ」
「ちょっと期待したのに」
「ね~!」
「とりあえず、履物、どうかした方がいいですよ」
「うんうん。せっかく似合ってるんだから、もったいないですう」
すると、教授室のドアが開いて、苦笑気味なギルフォードが姿を現した。御贔屓バンドのTシャツと年季の入ったGパンとドクターマーチンのブーツという、いつもの普段着に戻っていた。
「せっかくですから、今度、履物屋さんに行ってあつらえましょう。あ、サヤさん、キモノどうしときましょう?」
「はい。着物用のハンガーもいただいてますので、とりあえずかけておきましょう。明日、畳んでおきますわ」
紗弥はそういうと、教授室に入って行った。
「紗弥さんはそのままでいいんですか?」
「ええ、緊急に備えてスラックスのスーツにしたんですの」
紗弥が着物をかけながら言った。
「機動重視ですか。さすがですね。じゃ、行きましょうか」
それを聞いて、如月が素っ頓狂な声で言った。
「え~~~、先生、また出て行かれるんでっかぁ~? お帰りやなくて?」
「はい。また急用が出来たもので」
ギルフォードの様子に如月は何か感じたのだろう、ささっと近づいて小声で聞いた。
「まさか、まだ新しい感染者でっか?」
「まあ、そんなところです」ギルフォードがぼかして言った。「ですから、また遅くなりますので、戸締りと各事項の確認、よろしくお願いしますよ」
「また僕でっかぁ?」
「君が一番頼りになりますからね。お願いしますよ」
「そ、そうでっか? それやったら仕方ないでんなあ」
如月は、ギルフォードから頼りにされていると聞いて、内心嬉しそうに言った。しかし、ギルフォードが「ま、助教のヴィーラがアフリカから帰って来るまでの辛抱ですよ」と続けた事で、いきなり挙動不審に陥った。
「ああっ、ヴェラちゃん!! せっかく存在を忘れていたのに……。教授のアホたん」
そういうと、如月は頭を押さえながら何処かへ走り去ってしまった。ギルフォードはそれを見ながら、シマッタと言う顔をして言った。
「あ、ヴィーラが彼の天敵だったのを忘れてましたよ。悪いコトしましたね」
「そこら辺を駆け回ったらいずれ戻って来ますわ」
「あのね、逃げた飼い犬じゃないんだから……」
「それより、急がないと」
「そうでしたね。じゃあ、ごきげんよう。みなさんも早く帰るんですよ」
そういうや否や、二人はバタバタと研究室から出て行った。
ギルフォードが感対センターに到着したのと、紅美が運び込まれたのはほぼ同時だった。今までとは違い、感染者発生地とは全く無縁の場所から現れた初めての患者で、センター内はちょっとした騒ぎになっていた。とりあえずセンター長室に向かっていたギルフォードは、ちょうど部屋から出てきたばかりの高柳に鉢合わせた。
「おお、ギルフォード君か。またお呼び立てしてすまないね」
高柳は言った。ギルフォードは頭を横に振ると答えた。
「いえ、新しい感染者となれば、僕もゆっくりしているわけにもいきませんから」
「私もあれから帰ったばかりで仮眠しようと思った矢先でね」
「それはお気の毒でしたね」
「患者の名前は北山紅美で、もうすぐ多美山さんがいた部屋に到着する。君たちは窓の前で待機しておいてくれたまえ」
高柳はギルフォードの返事を待たずに走って行った。
「相変わらず忙しい方ですわね」
紗弥が、感心したようなあきれたような風情で言った。ギルフォードは肩をすくめた。
「ま、実際忙しいですから。ここの人員も増やさないといけませんねえ。とりあえず、病室の前で待っていましょう」
そう言うと、ギルフォードは病室に向かって歩きだした。
「遅いですわね」
紗弥が、すこし退屈したように言った。二人が病室の前に待機してから、すでに30分以上経過していた。
「まず、診察と治療が先ですからね。もう少し待ってください」
ギルフォードは組んでいた腕の左腕を解くと、その手で顔を覆いながら言い、その後曇りガラスを指でトンと叩いた。
「……とはいえ、確かに遅い上に何の連絡もないですね。何か問題があったんでしょうか」
少しして、スタッフステーションに二人組みの男が入ってきた。葛西とジュリアスである。葛西がギルフォードたちを見て驚いて言った。
「あれえ、アレク、紗弥さんまで、どうしてここに?」
「また発症者が現れたんです。しかも、今日情報募集した身元不明遺体の関係者らしいんです」
ギルフォードが答えた。
「そりゃ大変じゃないですか。でも、これで少しは感染ルートが判ってくるかも知れませんね」
「そうですね。ところで君たちの方は、何か成果はありましたか?」
「雑魚はよ~け採れたんだが、大物がなかなか採れんのだわ~」
と、ジュリアスがギルフォードに近づきながら肩をすくめて言った。大物と聞いてギルフォードが嫌な顔をして言った。
「いくら大物だからって、くれぐれも採れたモノを僕に見せないでくださいよ」
「でゃ~じょ~ぶやて。大物記念の虫拓なんか取ったりしにゃあからよぉ」
「笑えない冗談ですよ」
ギルフォードはえもいわれぬ苦笑を浮かべて言った。ジュリアスはそれを見てしみじみと言った。
「おみゃあ、こっちに来てほんに丸くなったにゃあ。以前のおみゃあにこういう冗談をゆーたら、ソッコーでグーで殴られるか、羽交い締めされとるところだわー」
「苦労は人を丸くするんですよ」
「そんならその足もどけてくれ~せんかね」
ジュリアスが、自分の右足を指さしながら言った。葛西が一瞬吹き出しそうになったが、場所柄を考えてなんとかそれを押さえた。紗弥はと言うと、まったく無視を決め込んでいる。いつものことなのだろう。そんな時、病室のモニターから声がした。女性医師の山口の声だった。
「アレク先生、そこにおられますか?」
「あ、はいはい、いますよ」
「お疲れ様です。あの、こちらがちょっと取り込んでまして、アレク先生に状況説明をするために、今、センター長が向かっていますので」
山口の声の向こうで、女性の泣き声とそれをなだめる看護師の春野の声が聞こえた。
「何かあったのですか?」
「はい、患者さんがかなりショックを受けておられるので……」
「そうですか。それでは無理できませんね」
「ええ。もし、ご質問があるのでしたら、後日改めてになると思います」
「了解しました。では、タカヤナギ先生を待つことにします」
「すみません。とりあえず切ります」
「はい、お疲れ様でした」
そこでモニターの音声が切られた。
「泣き声がきこえましたね。大丈夫でしょうか……」
葛西が心配そうに言った。
ギルフォードたちは、再びセンター長室にいた。
彼らを迎えいれた高柳は、4人を座らせると言った。
「あちこち行かせてすまなかったね」
「いえ、気にしないでください」
ギルフォードが言った。
「タカヤナギ先生の方こそ、お疲れでしょう」
「私は大丈夫だ。まだまだ若いもんには負けんよ」
「頼もしいですね。ところで、何か問題が?」
「うむ。今回の患者はさっき言ったように北山紅美という女性だ。彼女は今日の放送を見て連絡をしたらしい。ところが、電話中に倒れ、驚いた職員が救急車を手配した。そして救急隊員たちが駆けつけ、下半身を血まみれにして倒れている彼女を発見したということだ」
「すでに、放血を? ……いえ、ちょっと待って……。ひょっとして彼女……」
「そうだ。身ごもっていた」
「では……」
「まず胎児が感染に耐えられなかったんだろう。すでに流産していたらしい」
「ひどい……。可愛そうに……」
真っ先にこう言ったのは葛西だった。紗弥も微妙に眉を寄せていた。
「彼女も妊娠かもしれないと気がついたのは、今日だったということだ。可愛そうに、彼女は子供とその父親になるはずだった男の二人を一度に亡くしたんだ。彼女は感染自体よりそっちの方のショックの方が大きいようだ。とても質問出来るような状態じゃなくてね」
「エボラ出血熱の場合も妊婦に感染した場合、まず胎児からやられてました。出血熱は妊婦に対して特にひどい仕打ちをします」
「そうらしいな。彼女の病状もかなり進んでいて、そのせいで出血が全然止まらなくてね、このままだと長くもたせることが難しそうなんだ」
「悠長なことは言ってられないですね。感染源の男が死んでしまったからには、彼女から話を聞かないことには……」
「うむ。どうしたものかと思ってね……」
「ところで……」
ジュリアスが口を開いた。「その遺体が北川さんのボーイ・フレンドだということの確証は?」
「北山だ。彼女が言った彼の身体の特徴がほぼ一致した。今、彼の両親に連絡を入れているから、彼らの証言ではっきりするだろう。まあ、彼女の感染で、ほぼ鉄板だと思っていいだろうがね」
「テッパン?」
と、聞きなれない言葉にギルフォードが首をひねって尋ねた。
「鉄の板、Iron plateだ。カタイということだよ。間違いないってことだ」
その時、突然内線が入った。山口医師からだった。
「高柳先生、今、長沼間さんという県警の方がこられて、北山さんに少しだけでいいからお話が聞きたいと……」
「公安の方ですよ」
ギルフォードが高柳に耳打ちをした。それを聞いて高柳は少し嫌な顔をしてから小声で言った。
「公安警察か、厄介だな」
その後山口に向かって
「わかった。ただし、質問は彼から直接ではなく私を通してからにすると伝えてくれ。私もすぐに病室の前まで行く。山口君、君はその間、北山さんをなんとか説得してくれないか」
と言うと、今度はまたギルフォードたちに向かって言った。
「とりあえず、またあちらに向かおうか。ところで知り合いなのかね?」
「ええまあ。僕の聴講生ですが」
「聴講生? まあいい。とにかく急いで行こう」
「ホントに行ったり来たりになりましたねえ」
と、ギルフォードがぼやいた。
長沼間は、高柳に挨拶と自己紹介をした後、共に現れたギルフォードを見て笑って言った。
「やあ、先生。いるかもしれないとは思っていたが、やはり居たな」
「もう嗅ぎ付けて来るなんて、さすが、行動が早いですね」
「ふん、やっと現れた潜在感染ルートの一部だからな。ここを引っ張らんとまた地下に潜ってしまう」
そう言うと、長沼間は高柳の方を向きなおして言った。
「さっさとお願いしますよ」
しかし、高柳は彼を制して言った。
「ちょっと待ってください。患者の意思を確かめてからです。今、医師の山口君が説得をしているところですから」
「悠長ですな」
長沼間が薄笑いを浮かべて言った。しかし、高柳はそれに動じずに答えた。
「ええ、ここにいるのは患者であって犯罪者ではありませんから。医師なら患者のことをまず考えるのが当然でしょう」
「ふん」
長沼間は鼻で言うと、まだ中の様子が見えない窓の方に向いた。
しばらくして、モニターから声がした。
「高柳先生、患者さんだいぶ落ち着かれました。短時間なら質問をお受けするそうです」
「よろしい。では、窓を『開けて』くれたまえ」
高柳の声と共に、窓が開いた。葛西は多美山のことを思い出して一瞬辛そうな顔をした。あれは、つい昨日の出来事なのだ。まだ記憶に生々しい。しかし、今ベッドに寝ているのは若い女性であった。彼女は憔悴しきっており、いつもの彼女を知る者は、おそらく言われるまで北山紅美とは思ってもみないだろう。
「北山さん」
高柳がマイクを持って言った。万一を考えて、病室の外からはマイクを通してからしか話せないように設定したのだ。
「具合が悪いのにすまないね。ちょっとだけ質問に付き合ってくださいね」
「すみません、わたし……」
「謝ることなんてないんだよ。ただ、君が答えてくれたことで、感染の流れが断ち切れるかもしれないんだ。君のような人を増やさないためにも、協力してくれますね?」
紅美は静かにコクリと頷いた。
「さあ、長沼間さん。そういうことだ。さて、質問は何かな?」
「単刀直入に聞こう。森田健二というド阿呆と付き合っていた女は他に複数いただろう。知っているだけ名前を教えろと聞いてくれ」
長沼間は、早速容赦ない質問をぶつけてきた。
「もう、そんなことまでわかっているんですか」
と、ギルフォードがあきれて聞いた。
「森田健二の失踪についての調書を見たんだ。タラシで有名でな、ひでぇ評判だったよ」
「こっちの会話が聞こえないようにして正解だったな」
高柳は独り言のように言うと、病室に向かって質問をした。
「早速、このようなことをお聞きするのは申し訳ないのですが……。森田健二君は……、え~、あなた以外の女性と、その、親密なお付き合いをしていたようですが、名前はわかりますか」
("タカヤナギ先生がこんなに戸惑っているのを見るのは初めてだな")
ギルフォードは、いつも流暢に話す高柳が言葉を選んで慎重に話す様子を見ながら思った。案外と気を使う男のようだ。しかし、当の紅美は、いきなり辛い質問をされて黙り込んでしまった。長沼間が気忙しそうに言った。
「早く答えるように言ってくれ」
「北山さん、辛いでしょうけれど大事なことなんです。答えてくれませんか?」
高柳は彼が出来る最大限の優しさを以って質問した。しかし紅美は、嗚咽を漏らしながら再び泣き始めた。
「ちょっと貸してくれ」
長沼間はそう言うと、いきなり高柳からマイクを奪い怒鳴った。
「メソメソするんじゃねぇ! 事態はもうあんただけの問題じゃなくなってるんだ。こうしている間にもどんどん感染が拡大しているんだぞ。子を失う母親をこれ以上増やしてもいいのか!?」
長沼間に怒鳴られて、紅美は一瞬呆然とした後さらに泣き出した。山口と春野が驚いて駆け寄った。
「ナガヌマさん!」
ギルフォードが素早く手を伸ばし、長沼間のマイクを持つ手を押さえて言った。
「気持ちはわかります。でも非道いことを言うのは……」
「ふん、俺を病室に入れなくて正解だな。中だったらあの女を締め上げていたかもしれん」
「ナガヌマさん……?」
「いいか、今は綺麗事を言っている時ではないんだぜ。あんた達だってわかってるんだろう?」
そう言いながら長沼間はギルフォードを振り切り、続けて紅美に何か言おうとしたが、紗弥が後ろから近づきマイクを取り上げ高柳に渡した。長沼間は驚いて振り向き、紗弥の顔をまじまじと見た。マイクを取り戻した高柳は、急いで紅美に声をかけた。
「北山さん、暴言を浴びせてしまって申し訳ない。大丈夫かね?」
「大丈夫です……」
紅美はなんとか平静に戻っていた。彼女は今度はしっかりと答え始めた。
「取り乱してすみません。そうですよね、あの人の言うとおり、ちゃんと答えないといけませんよね」
「決心してくれましたか。ありがとう」
「あの、でも、答えたら……彼女たちはどうなるんですか」
「おそらく強制隔離になるでしょうな。しかし、それは彼女らを守ることにもなるんですよ」
「私が教えたことは……」
「大丈夫、秘密は守られますよ」
「わかりました。お答えします」
紅美は意を決したように言うと、女性の名を3人挙げた。内二人が彼女と同じ大学だった。
「ただ、最近一度だけ知らない女性を連れ込んでいたことがあって……。その人だけは誰かわかりません。ごめんなさい……」
「北山さん、だから、謝らなくてもいいんです。君のせいじゃない」
「はい、でも……」
「いいんだよ。君はむしろ被害者の方なんだから。で、それは、ここ1・2週間位のことですか?」
「はい、確か先週の土曜日のことでした。そのことで大喧嘩になったので……」
「君も色々と大変だったんだね」
高柳から優しい言葉をかけられて、紅美の両目から再び大粒の涙が流れた。
「あらら、泣かないで、北山さん。あ、ちょっと待ってね」
そう言った後、高柳は長沼間の方を見て尋ねた。
「私からも質問していいかね?」
「何を質問するつもりです?」
「当然、健二と秋山美千代との関わりについてですよ」
「俺もそのつもりだったんでね。遠慮なく聞いてくれ」
高柳は、長沼間の先ほどの行動とその不躾な言い方に少なからず不快感を持ちながらも、それを押さえて紅美に質問をした。
「北山さん、その女性はお幾つくらいの方でしたか」
「多分、私より下の18くらいだったと思います……。ひょっとしたら、もっと下かも」
「そうですか……。それでは、彼が最近かなり年上の女性と付き合ったというようなことは……?」
「はい、これは噂でしか知りませんが、先週彼が30代の人妻のお相手をしてお小遣いをもらったと自慢していたとか……」
「それは、単なる噂なのかな? それとも……」
「……事実だと思います。私はそんなこと考えるのも嫌だったので、確認することはしなかったけど、そのお金で友だち数人を連れて遊びまわった挙句、さっき言った女性をお持ち帰りしたらしい……です」
そこまで聞いて、ギルフォードがあきれて言った。
「彼らは大学に何をしに行ってるんです?」
それを聞いて、長沼間が肩をすくめて言った。
「さあね。学問じゃないことは確かだな」
彼らの会話を余所に、高柳が質問を続けた。
「北山さん、その女性の手がかりになるようなことはご存じないですか? どんな些細なことでもいいですが」
「その女性については、本当にまったくわかりません。ごめんなさい。でも、何故この質問をされたかはわかります。その女性が、今日の放送で情報を求められていた人ではないかということですね……。彼女がこの病気を運んだと……」
「そのとおりです」
「お役に立てなくてすみません……」
と、紅美はまた謝りながら続けた。
「でも、その人を見た訳じゃないけど、多分その女性とあなた方の探してる女性は同じだと思います。放送を見てそんな気がしたんです。だから、連絡したんです。赤ちゃんだけでも守ろうと思って……。なのに……なのに、赤ちゃん死んじゃった……。私が守らなきゃいけなかったのに、私のせいで死んじゃった……」
紅美はとうとう耐えきれずに泣き崩れた。春野が再び紅美をなだめ、沈静剤を用意しながら山口が言った。
「すみません。もう限界なので、今すぐ全てを遮断します。後は後日お願いします」
その声が途切れるや否や、窓が曇り中が見えなくなった。皆が深刻な顔をしている中、長沼間が言った。
「センター長、今聴いた女達の名前を大学に確認して、すぐに彼女たちの隔離を手配してくれ。俺は彼女らからの新たな感染ルートと例の女と森田との接点を探るよう要請する。無理を言ってすまなかったな。じゃあ」
長沼間はきびすを返すとさっさと戸口に向かった。その後を葛西が追い、長沼間の背に向かって言った。
「長沼間さん!」
長沼間は足を止めたが、振り返らずに答えた。
「坊やか。なんだ? あんたには用はないが」
「彼女のせいじゃないでしょう!」
「わかっている。悪いのはウイルスを撒いた馬鹿共とタラシのクソ野郎だ。両方とも許せねえよ。クソ野郎の方はくたばっちまったがな」
葛西は長沼間が両拳を握り締め、それが何故か小刻みに震えていることに気が付いた。
「じゃあ、なんであんな……」
「時間がねぇからだ。……じゃあな、急ぐんでな」
長沼間は振り返らないままそれだけ言うと、また歩き出した。が、数歩歩いて戸口の前でまた足を止めた。
「坊や、彼女に怒鳴ってすまなかったと伝えてくれ。それから、生きてくれ、と。」
そう長沼間は低くつぶやくと、スタッフステーションから出て行った。
葛西はすぐに皆のところに戻ると、ギルフォードに聞いた。
「長沼間さん、昔何かあったんですか?」
「どうして?」
ギルフォードは例のアルカイックスマイルを浮かべて聞き返した。
「いえ、なんかさっき鬼気迫るものがあったんで……」
「そうですか……」
「それに、今……、あっ、そうだ、伝えなきゃ。高柳先生、声だけでも部屋に伝えることが出来ますか?」
「ああ、聞いてみよう」
高柳は再度マイクを手にして山口に尋ねた。音声だけならということで、山口から許可が下りた。葛西がマイクを受け取り、やや緊張した面持ちで言った。
「あの、北山紅美さん、聞こえますか。さっきの怖いおじさんからの伝言です。『怒鳴ってすまなかった』それから、『生きてくれ』……。あの、僕からもお願いします。生きてください」
葛西はそう言いながら多美山のことを思い出していた。葛西はメガネを持ち上げ目元を袖口で拭うと、マイクを高柳に返した。
「もういいのかね?」
「はい」
葛西は照れくさそうに答えた。
ギルフォードたちは、駐車場に向かってセンターの廊下を歩いていた。
「ジュン、長沼間さんのこと聞いていましたね」
歩きながら、ギルフォードが葛西に声をかけた。
「はい。何か知ってるんですか?」
「ええ。彼は、あの地下鉄サリンテロで妹さんを亡くしています。正確には、それが元で自殺されたようです」
長沼間の悲しい過去に、葛西だけでなく紗弥やジュリアスも驚いてギルフォードの方を見た。
「そうだったんですか。それであんなに……」
「彼は当時既に今の職業についていて、ペーペーだった彼はO教団を調査するチームにいました。それなのに地下鉄テロを止めることが出来なかったことを悔やんでいます。妹さんの死も自分のせいだと思っているみたいで……」
「長沼間さんから聞いたんですか?」
「いえ、今回のテロの参考に、サリンテロについて改めて調べていたら、被害者の中に彼と同じ『長沼間』という名字の女性を見つけたんです。あの漢字を使う『ナガヌマ』は珍しいですから、調べたらすぐに彼の妹と言うことがわかりました。彼は僕がこのことを知っているとは思ってもいないでしょうね」
「なるほど、今度は未然に防ぐつもりが始まってまったじゃあ、そりゃ~焦るはずだわ~」
ジュリアスが納得して言った。
「行き過ぎにゃあとええけどな」
「僕もそれが心配なんですが……」
「でも」
と、葛西がしみじみ言った。
「それを考えると、あの『生きてくれ』というメッセージは重いですね」
「そうですね、本当に重いです。ジュンが言った『生きてください』もね」
ギルフォードはそう言うと、少し微笑み、続けた。
「二人の気持ちがキタヤマさんに通じるといいですね。ただ、伝わったからと言ってどうにかなる病気じゃないのが辛いところですが……」
「ええ……」
葛西がうつむき加減で言った。ギルフォードはそんな葛西を見ながら微笑まし気に笑うと、パン!と手を叩いた。
「さっ、元気出して帰りましょう。明日からはきっとものすごく忙しくなりますよ。みなさん、今日はゆっくり眠ってください。ほら、ジュンも元気出して」
そう言いながら、さりげなく葛西の肩に手を回した。それを見たジュリアスがすかさず言った。
「あ、こら、浮気はあかんでかんよ」
「おや、ばれてました~?」
そういうと、ギルフォードは廊下を駆けだした。
「おい、ちょこっと待て、アレックス!!」
と、すぐにジュリアスがその後を追った。残された葛西と紗弥は、お互いを見て肩をすくめあった。
「いったい何ですか、あれ?」
「さあ。犬も食わなさそうですけど。それにしても、廊下は走るものじゃありませんわ」
「じゃ、僕らはゆっくり行きましょうか」
「そうですわね」
紗弥が同意した。二人は並んで駐車場まで向かった。心なしか、紗弥が穏やかな微笑みを浮かべているように見えた。
紅美は虚ろな眼をして病室の天井を見ていた。出血はだいぶ治まったそうだが、このまま血が完全に止まらなかった場合、どうなるのだろうと思うとゾッとした。その反面、いっそ健二や赤ちゃんの所に行ってしまったほうが楽なのではないか、とも思っていた。
(だけど……)
紅美は思った。
(あの恐ろしげな男の人は、私に生きてくれと言ったらしい。それを伝言してくれた人も、同じことを言った。見ず知らずの私を、二人は励ましてくれた……)
紅美はそのまま目を閉じた。
(私がこのまま死んだら、彼らは悲しむだろうか……? )
閉じた眼から涙があふれ、顔の側面を伝って枕を濡らした。
あれからこのような展開になっているとは知らず、由利子は家でテレビを見ていた。あれから特に何か変わったような感じはしない。テレビ番組もいつもどおりで、相変わらずのバラエティ番組やドラマがひしめいていた。ただ、ニュースにおいて、例の告知が全国版で取り上げられていたのには、少し驚いた。それだけ非常事態なのだと改めて思った。
だが、これが明日以降どう影響するだろうかと思うと、由利子はかなり不安になった。また、ローカルニュースでも当然メインニュースで取り上げられており、町を歩く人のインタビューを交えて報道されていた。道行く人たちは、不安に思う者・楽観的観測の者・信じてない者・放送自体を知らない者等様々な反応だったが、特にパニックになっている様子は無い。ただ、危険地域とされた数箇所の地区は、人通りもほとんど無く静まりかえっていた。もっともそれらが住宅地で、日曜ゆえに通勤などの通行人が少ないということもその一因だろう。
由利子はふと気になって、ネットを立ち上げ有名巨大掲示板をチェックした。すると、ニュース速報板と新型感染症板にそれぞれ早々とスレッドが立っており、特に、新型感染症板ではトリインフルや新型インフルを差し置いて、プチ祭りになっていた。多くの住人達が、すわエボラ出血熱発生かと騒ぎ立てている。由利子は眉をひそめながらつぶやいた。
「う~ん、予想通りの反応っちゃ反応やけど、この騒ぎがネットからリアルに移行したら怖いな」
由利子はその後少し考え込んだが、うんと頷いて言った。
「アレクに一応連絡しとこ。多分彼はそんなトコ見んやろうし」
由利子は早速携帯電話を取り出し、電話をかけ始めた。
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