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第二部 第五章 告知
3.秋山家にて
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ギルフォードは問題の部屋に駆け込むと、多佳子が「兄さん、しっかりしてぇ」と叫びながら、必死で信之の身体を抱いて支えていた。姉の聡子の方は腰を抜かしたまま震えており、今にも倒れんばかりの状況だった。紗弥が聡子を介抱する為に駆け寄った。ギルフォードは多佳子の方に駆け寄り交代した。
「もう大丈夫です、任せて!」
ギルフォードは宙吊りになった男性の胴体を抱きかかえ、首を支えて体重が頸部にかからないようにした。大役から解放されて、多佳子はへなへなとその場に座り込んだ。
「まだ暖かい! サヤさん、頼みます!」
ギルフォードが言ったとほとんど同時に、紗弥は聡子を支えたまま、首にかけたネックレスの十字架部分から何かを引き抜き、首くくりの紐に向けて投げた。それは見事に紐に命中し若干向きを変えながら飛び、そのまま壁に突き刺さって止まった。ネックナイフだ。たがナイフが小型だったため切断には至らなかった。しかし、信之の体重で紐が完全に切れたため、がくんと彼の体重が一気にギルフォードにのしかかった。彼は信之の首に負担がかからないように抱きとめ、そっと畳の上に寝かせると、信之の肩を叩きながら声をかけた。
「アキヤマさん、アキヤマさん、わかりますか?」
意識がない。ギルフォードはすぐに気道確保に入った。頚骨の損傷を考えて頭部後屈ではなく下顎拳上、すなわち手であごを持ち上げて気道を確保する方法をで気道を確保する。鼻から出血はしているものの、幸い口腔内には異物はないようだ。しかし、心臓と呼吸は完全に停止していた。
「心肺停止! サヤさん、心肺蘇生法です」
「了解。教授、マスクですわ!」
紗弥が人工呼吸用マスクをギルフォードに投げ渡した。ギルフォードはすぐにそれを信之の顔に被せると、彼の鼻をつまんでから彼の口を自分の口でしっかりと覆い、2回息を吹き込んだ。それに合わせて信之の胸が膨らみ口から息が漏れた。
”よし、いいぞ”
彼はつぶやき、脈を確認した。やはりすでに止まっている。ギルフォードは心臓マッサージをするため、信之のシャツをはだけると肋骨を探って胸骨の中央に右手を置きその上から左手を載せて組み、ひじを伸ばしたまま腕を垂直にし、信之の上に覆いかぶさるような形で上半身の体重をかけて押した。4センチほど胸が下がると力を抜いてまたすぐに押す。1秒弱の間隔でそれを30回繰り返すと、また2回人工呼吸をして心臓マッサージを30回と繰り返す。脈を確認したが、まだ脈は戻らない。ギルフォードは、人工呼吸と心臓マッサージを繰り返した。
「発見したのは、どれくらい経ってからですか?」
ギルフォードは心臓マッサージをしながら姉妹に聞いた。聡子は紗弥が傍で介抱している状態で、とても答えられないが、ようやく我を取り戻した様子の多佳子が答えた。
「変な音がしたので気になって様子を見に来たら、兄が……。それで、とっさに抱きかかえて……。なので、ほんの今しがたではないかと……」
「じゃあ、あまり時間が経ってないですね。頚骨も折れてはいないようですし」
ギルフォードは、まだ蘇生の望みは充分にあると判断した。その間に救急車が到着、救急と消防隊員が駆け込んできた。その後から由利子がおっかなびっくりで入って来る。電話してから約5分。消防隊員が二人すぐさまギルフォードの傍に来て言った。
「代わります!」
「よろしくです」
ギルフォードはすぐに彼と交代すると、状況を説明した。
「縊首で心肺停止、発見後すぐに救出、その後CPRを続けていました。おそらく吊ってから間もないそうです」
「了解しました。警察へは?」
「電話しました。念のため警察にも通報するように言われたので」
部屋の隅にいる由利子が答えた。
消防隊員がCPRを続けながら、他の隊員が頸部を固定する。AEDを準備していた救急隊員が言った。
「パッドを貼ります」
すぐさま隊員たちは、AED担当の隊員が作業しやすいように避けた。
「秋山さん、AEDのパッドを貼りますからね、すみませんがシャツをまくりあげますよ」
意識不明の信之に、救急隊長が声をかける。
「大丈夫です。きっと助かりますよ」
ギルフォードは、蘇生処置を受ける信之を心配そうに見ている姉妹に言った。多佳子が深く礼をしながら言った。
「ありがとうございました。あなた方が来られなかったらどうなっていたやら……」
「いえ、あなたがとっさにお兄さんを支えたからですよ。それより気になるのは……」
ギルフォードは何かを言おうとしたが、その時救急隊員が姉妹に尋ねた。
「蘇生のため、電気ショックを行います。いいですか」
「はい、お願いしますっ」
二人が同時に答えた。AEDの音声が、除細動実施を告げる。救急隊長が言った。
「除細動を実施する。みんな、患者から離れて」
バン!という音がして信之の身体が撥ねた。姉妹は抱き合って小さい悲鳴を上げた。
「ダメです!」
「2回目を実施!」
「了解」
「除細動、2回目を実施する。離れて!」
再びバンッ!と言う音がして、信之の身体が跳ね上がる。AEDのモニターから、ピッ……、ピッ……、ピッ……という規則正しい音が聞こえた。
「脈拍が戻りました!」
隊員が、力強い声で言った。
「よ、良かったぁ……」
姉妹は再びへなへなとその場に座り込むと、抱き合ってうれし泣きをした。その彼女らに救急隊長が言った。
「依然意識不明の重体です。予断は許されません。今から急いで救急病院に搬送します。付き添いの方はおられませんか?」
「私が行きます。妹です」
多佳子が名乗りを上げた。
「では、すぐに出れるように準備してください」
隊長は多佳子に言い、その後隊員たちに向かって命令した。
「よし、搬送準備! ロードアンドゴーだ! 急ぐぞ!!」
医師の指示の下で呼吸器がつけられた信之を、サブストレッチャーに載せ搬送する。門を出たところでメインストレッチャーに乗せかえられ、救急車内に搬入された。近所の人たちが様子を見に出てきて、あちこちでヒソヒソ話していた。一緒に救急車に乗り込んだ多佳子が言った。
「姉さん行って来るけんね。容態の変わったら電話するけん。家んことは頼んどくよ」
「うん。信之のこと、頼むね」
聡子が答える。
「出発します。ドアを閉めますから離れて」
言われて聡子は急いで門のほうに避けた。門扉の前ではギルフォードたちが、心配そうに立っていた。
後ろのドアが閉まり、サイレンが鳴った。信之の乗せられた救急車は搬送先の病院へ急ぐべく走り出した。消防隊の車も後に続いた。救急車が去り、サイレンの音が遠くなっても聡子はその場に立ち尽くしていた。ギルフォードが、そっと彼女の肩に手を置いて言った。
「きっと大丈夫です。風が出てきました。家に入りましょう」
聡子は頷いた。ギルフォードが聡子の肩を抱いて家の中へ誘導しようとしたとき、車が止まって二人組の男が降りてきた。それは由利子にはおなじみの顔だった。
「え、またぁ、ふっ○い君なの?」
由利子はうんざりして小声でつぶやいた。しかし、隣の紗弥には聞こえたらしい。かすかに「くふっ」と笑ったのを由利子は聞き逃さなかった。
「いやあ、篠原さん、またあなたにお会いしましたな」
ふっけ○君もとい、富田林が由利子に気がついて言った。由利子は焦った。なんて外聞の悪い。
「またあなたって、人聞きの悪いことを言わないでくださいな、富田林刑事」
「ああ、失敬失敬。例の事件がらみということで、僕らが派遣されましてね」
「えっと、じさ……」
増岡が言おうとすると、富田林が彼の横腹に軽く肘鉄を当てて言った。
「バカ! 声が大きい」
「すんません」
増岡の粗忽は相変わらずのようだ。二人の刑事は足早に近寄ってきた。声のトーンを落として富田林が言った。
「自殺未遂らしいということですが、すでに搬送されたようですな」
「はい」
聡子に変わってギルフォードが答えた。
「脈拍は戻りましたが、呼吸停止状態で搬送されました」
「おや、あなたが篠原さんの言っておられた大学の先生ですか」
富田林はギルフォードに上から下まで目を通して言った。
「はじめまして。県警の富田林です。多田美葉の事件からこっちも担当させられましてね」
「Q大のギルフォードです。こちらこそはじめまして」
「しかし、大変だったようですな、先生。自殺と聞かねば、あなたを容疑者と疑うところでしたよ」
「え?」
ギルフォードは下を向いてまじまじと自分の姿を見た。白いシャツに血がべっとりとついていた。さらに良く見ると、黒いスーツにもあちこち何かが染みになっていた。信之を正面から抱き留め支えていたので、大量の鼻血やら何やらが付着したらしい。
「サヤさ~ん。一張羅がナンカだらけになってマシタ」
いきなり情けない表情になって、ギルフォードは紗弥の方を見た。紗弥が若干すまなそうに答えた。
「申し訳ありません。気付いていたのですが、それどころではなくて……」
「首吊りはねえ……」
富田林が同情するように言った。
富田林と増岡のコンビは、現場を見て自殺未遂と判断、事件性は無いとして帰っていった。刑事達を見送ってから、聡子が洗面所で手を洗っているギルフォードのところにやってきた。
「おや、サトコさんでしたっけ。どうされました?」
鏡に映った聡子の姿を見て、ギルフォードは蛇口を閉めて振り返った。
「せっかく来ていただいたのに、こんなことになって申し訳ありません」
聡子は平身低頭謝った。
「いえ、そんな謝らないでください」
ギルフォードが恐縮して答える。聡子は改めてギルフォードの服を見ながら言った。
「ああ、ずいぶんと汚れちゃいましたね。何となくニオイも……。申し訳ありません。どうかお風呂にお入りください。着替え、信之のでとりあえず合いそうなのを探しておきます」
「そんな、気を遣わないでクダサイ」
「いえ、どうかシャワーだけでも……。事件後消毒されて、私たちも使ってますので安全ですから」
「わかりました。では、シャワーを使わせてもらいますね
ギルフォードはこれ以上断るのも失礼と思い、承諾した。
「スーツはクリーニングに出しますので……」
「いえ、お構いなく。ウォッシャブルなので家で洗います。なにかビニール袋を置いておいてください……、あ、そうだった」
ギルフォードは急いで玄関に戻り、すっかり忘れていた花束を持ってやってきた。
「ご霊前にお供えください。こんな物騒な格好でお渡しして申し訳ないケド」
「あら、まあまあ……、なんてステキな白百合のブーケ……。母が大好きだった花です。ありがとうございます」
聡子が涙ぐみながら言った。
ギルフォードがシャワーを終え、聡子に案内されて居間にいくと、紗弥と由利子が紅茶を飲んでくつろいでいた。しかし、ギルフォードの方を見て、二人は微妙な顔をした。
「やっぱ、ヘンですか?」
「『笑点』のTシャツはステキですが、ジャージのズボンが半端に短いですわね」
紗弥が言った。相変わらずの直球ストレートだ。
「困ったわねえ……。信之も背の高い方だったけど、やっぱり腰の高さかしら? 弟は短パンをはかなかったし、どうしましょう……。あ、ちょっと待ってくださいね。あれなら……」
そういうと、聡子はトントンと二階に上がって行った。しばらくして降りてくると、居間のドアから顔を出してギルフォードを呼んだ。
「ありましたわ、先生。ちょっとこちらにいらしてください」
「おや、なんですか?」
そう言いながらギルフォードは居間から出て聡子について行った。それを見ながら由利子が少し怪訝そうな表情で言った。
「何だろ?」
「まあ、教授が人妻に襲われることはないでしょうから、放っておいても大丈夫ですわ」
紗弥が、紅茶のカップを置きながら言った。
「いや、そんなことは心配していないから」
「そうですか? それにしてもヒマですわね。テレビをつけさせてもらいましょう」
「え? いいの?」
「ええ、先ほどお伺いしたところ了解していただきました。何か今日のことについてお知らせがあるかもしれませんでしょう?」
紗弥はそういうと、躊躇なくテレビをつけた。二人で報道番組を見ていると、家の中で悲鳴がした。
「何? テレビ……じゃないよね」
「家の中でしたわね。様子を見に行きましょう」
由利子と紗弥は居間を出て声のした部屋を探した。すると、なにやら二階から声がする。
「サトコさん、ステキです~。僕、コレ初めてです~」
「ちょ……、ちょっと待ってください、私、慣れてなくて……。それに、裾が乱れますよ」
二人は顔を見合わせた。
「何やってんだか……」
と、紗弥。
「行ってみよう」
由利子はそういうと階段を駆け上がり、声のする部屋の戸を開けた。そこは衣装部屋だったが、和服を着た男がうやうやしく跪きながら聡子の手を取り、ナイトよろしく手の甲にキスをしていた。由利子が半ば呆れて言った。
「何やってんすか、コラ」
「オー、ユリコ! 感謝のキスですよ」
「私、西洋風は慣れてなくて、それに、せっかくお着せしたお着物の裾が乱れるから……」
と、聡子が恥ずかしそうに言った。由利子と紗弥は肩をすくめて顔を見合わせた。
「見てクダサイ、ユリコ! 紗弥さん! キモノです! 一度着てみたかったんです!!」
ギルフォードは、彼女らに自分の着物姿を見せながら言った。由利子の冷たい視線に対して、ゴキゲンなハイテンションだ。ギルフォードは、さらに二人の前でくるりと回ってみせた。薄い緑色の地にグレーと茶縞柄の麻の長着で帯は茶色、長着の色はギルフォードの目の色に良く似合っていた。由利子の横で紗弥が小声で言った。
「もう、バカ……」
「意外と良くお似合いで……」
由利子はギルフォードのテンションに若干引き気味に答えたが、確かに文句なく似合っていた。着付けが上手いのだろう。若干裾と袖が短いが、おかしいほどではない。聡子がほっとしたように言った。
「ちょっと驚いたけど、こんなに喜んでいただいて嬉しいですよ。背の高かった祖父の夏用の着物があることに気がついて良かったですわ」
「サトコさん、本当にありがとうゴザイマス!!」
ギルフォードが感謝のハグをしようと聡子に近づいたので、聡子はまたきゃあと悲鳴を上げた。
「Alexander Ryan Guildford! いい加減になさいませ!!」
とうとう紗弥が最後の切り札、「|緊箍経(きんこきょう》」を唱えた。
「まったく。事情で遅れたとはいえ、昨日お葬式を終えたばかりのお宅ですのよ。しかも、今も弟さんが病院に運び込まれたばかりでしょう? 状況をわきまえてくださいませ」
居間に戻った三人は、来客用のソファに座っていた。ギルフォードは、紗弥に叱られてすっかりしゅんとしていた。
「そもそも、私たちは何をしに来たのですか」
「亡くなった方への御参りと、今日放送されることへの説明です」
「そうでしょう? なのに、アクシデントがあったとは言え、まだどれも遂行されていませんのよ」
「どうもスミマセン……」
ギルフォードは下を向いたまま、若干上目遣いで言った。
(やっぱり孫悟空と三蔵法師やね)
由利子は改めて思った。
しばらくすると、聡子がギルフォードの分の紅茶を運んで来た。ギルフォードがすぐに立ち上がって言った。
「先ほどはどうも、脅かしてスミマセンでした」
「いえ、お気になさらないでくださいな。おかげで私も気が紛れてよかったです。……イギリスの方とお聞きしていますので、ミルクティーにしてみたのですけれど、お口に合いますかしら?」
聡子は紅茶をテーブルに置きながら、少しはにかんだ笑顔で言った。
「いえいえ、ありがたくいただきます」
ギルフォードは座りなおすと、カップを手にして一口飲んでから、にっこり笑って言った。
「美味しいです。母が入れてくれたものと近い味で、スゴク懐かしいです」
「まあ、西洋の方はお上手ですわね」
「いえ、お世辞じゃないですよ」
そう言うとギルフォードは旨そうに紅茶を飲んでいたが、紗弥に突かれカップを置きながら言った。
「……あの、順番が後になってしまいましたけど、ご霊前にご焼香したいと思うのですが……」
ギルフォードは、まずひとつ目の目的遂行を申し出た。聡子は両手で口を覆い、やや涙ぐんで言った。
「ありがとうございます。故人たちも喜ぶと思います」
聡子の了解を得て、三人は立ち上がった。
祭壇のある部屋に行くと、三人はそれぞれお香を焚き手を合わせた。すでに祭壇には、ギルフォードが持って来た百合の花が飾ってあった。
祭壇にはやさしく笑う祖母の遺影と並べられた雅之の遺影があった。由利子は彼の顔を改めて見た。写真の雅之は、まだ少し幼さの残る顔で屈託なく笑っている。まだ14・5歳の普通の少年が、魔が差したとしか思えない殺人を犯し、結果、自らも命を落とすことになってしまった。さらにその結果、祖母や母までもが命を落とし、その後も多美山を含め、じわじわと犠牲者を出し続けている。
(巡る因果は糸車……か)
由利子は昔の人形劇の歌詞を思い出しながら、つくづくと運命の不思議さを思った。雅之の遺影の隣に、若干小さめの額に入った、中年と呼ぶにはまだ若い女性の写真が置いてあった。なかなかの美人で、おそらく母の美千代のものだろう。面影が雅之によく似ていた。まだ遺骨が帰ってないので葬儀は持ち越されたが、仮の葬儀は執り行われたのかもしれない。
(一体この人は、どんな思いでばら撒き屋になり、そしてあんな事件を起こしたのだろう……)
それを思うと、由利子はやりきれなかった。パーフェクトではなかったかもしれない。しかし、平凡だがそれなりに幸せな家庭だったにちがいない。それが、完膚なきまでに壊されてしまった。今生きているのは父親だけで、その彼も今は生死の境を彷徨っている。あのウイルスさえ撒かれなければ、例え雅之が事件を起こしていたとしても、この一家の状況はまったく違っていただろう。由利子は改めてウイルスを撒いた者たちに対して怒りを感じた。それは他の二人も同じだった。
「僕たちはあなた達の前で誓います。必ずウイルスとそれを撒いたテロリストを制圧します」
ギルフォードがまっすぐに祭壇を見ながら誓った。
「それではサトコさん、ノブユキさんが入院してしまいましたので、あなたにお話したいと思いますが、いいですか?」
居間に戻ると、ギルフォードは秋山家来訪の本題に入った。ギルフォードたちの前に座った聡子が答えた。
「はい。よろしくおねがいいたします」
「今日、夕方、テレビ・ラジオ・ネットを媒体に知事から重大なお話があります。それは、明日の新聞や、自治体の広報でも配布され、出来るだけ多くの人たちに知ってもらえるようにします」
「で、それと信之とどういう関係が……」
「はい。それが、ノブユキさんのご家族を奪ったウイルスについてのことだからです」
その時、聡子の携帯電話が着信を知らせた。
「あの、失礼ですが電話に……」
「遠慮なく出てください。ノブユキさんの容態でしょう?」
「すみません……」聡子は電話を取ると急いで耳に当てた。「もしもし、多佳子? 信之はどう?」
三人の間にも緊張が走った。
「え? え? そっそれで?」
聡子の目に、見る見る涙が浮かんだ。
「うん、わかった。あんたも気をしっかり持って。ええ、この後もお願いね」
聡子は電話を切ると、あふれる涙もそのままに言った。笑顔だった。
「信之が持ち直したそうです。救命処置が早かったからだそうで、もし脳に障害が出たとしても、軽度だろうということでした」
「そうですか! ああ、良かった」
ギルフォードがほっとした笑顔で言った。由利子は「やったね!」と言って紗弥と顔を見合わせ手を取り合って喜んだ。
「良かった、良かった……。みなさんのおかげです。ありがとうございました。これで信之まで失ったら、私たちは耐えられないところでした」
そこまで何とか言い終えると、聡子は泣き崩れた。
「サトコさん」
ギルフォードがフェミニストらしくすかさず立ち上がって隣に座り、聡子を落ち着かせようと肩に手を置いた。しかし、信之のこれからのことを考えるとギルフォードの胸中は複雑だった。果たして蘇生したことが、彼の為になったのだろうか……。由利子はギルフォードの表情が、一瞬辛そうに曇ったのを見逃さなかった。
「もう大丈夫です、任せて!」
ギルフォードは宙吊りになった男性の胴体を抱きかかえ、首を支えて体重が頸部にかからないようにした。大役から解放されて、多佳子はへなへなとその場に座り込んだ。
「まだ暖かい! サヤさん、頼みます!」
ギルフォードが言ったとほとんど同時に、紗弥は聡子を支えたまま、首にかけたネックレスの十字架部分から何かを引き抜き、首くくりの紐に向けて投げた。それは見事に紐に命中し若干向きを変えながら飛び、そのまま壁に突き刺さって止まった。ネックナイフだ。たがナイフが小型だったため切断には至らなかった。しかし、信之の体重で紐が完全に切れたため、がくんと彼の体重が一気にギルフォードにのしかかった。彼は信之の首に負担がかからないように抱きとめ、そっと畳の上に寝かせると、信之の肩を叩きながら声をかけた。
「アキヤマさん、アキヤマさん、わかりますか?」
意識がない。ギルフォードはすぐに気道確保に入った。頚骨の損傷を考えて頭部後屈ではなく下顎拳上、すなわち手であごを持ち上げて気道を確保する方法をで気道を確保する。鼻から出血はしているものの、幸い口腔内には異物はないようだ。しかし、心臓と呼吸は完全に停止していた。
「心肺停止! サヤさん、心肺蘇生法です」
「了解。教授、マスクですわ!」
紗弥が人工呼吸用マスクをギルフォードに投げ渡した。ギルフォードはすぐにそれを信之の顔に被せると、彼の鼻をつまんでから彼の口を自分の口でしっかりと覆い、2回息を吹き込んだ。それに合わせて信之の胸が膨らみ口から息が漏れた。
”よし、いいぞ”
彼はつぶやき、脈を確認した。やはりすでに止まっている。ギルフォードは心臓マッサージをするため、信之のシャツをはだけると肋骨を探って胸骨の中央に右手を置きその上から左手を載せて組み、ひじを伸ばしたまま腕を垂直にし、信之の上に覆いかぶさるような形で上半身の体重をかけて押した。4センチほど胸が下がると力を抜いてまたすぐに押す。1秒弱の間隔でそれを30回繰り返すと、また2回人工呼吸をして心臓マッサージを30回と繰り返す。脈を確認したが、まだ脈は戻らない。ギルフォードは、人工呼吸と心臓マッサージを繰り返した。
「発見したのは、どれくらい経ってからですか?」
ギルフォードは心臓マッサージをしながら姉妹に聞いた。聡子は紗弥が傍で介抱している状態で、とても答えられないが、ようやく我を取り戻した様子の多佳子が答えた。
「変な音がしたので気になって様子を見に来たら、兄が……。それで、とっさに抱きかかえて……。なので、ほんの今しがたではないかと……」
「じゃあ、あまり時間が経ってないですね。頚骨も折れてはいないようですし」
ギルフォードは、まだ蘇生の望みは充分にあると判断した。その間に救急車が到着、救急と消防隊員が駆け込んできた。その後から由利子がおっかなびっくりで入って来る。電話してから約5分。消防隊員が二人すぐさまギルフォードの傍に来て言った。
「代わります!」
「よろしくです」
ギルフォードはすぐに彼と交代すると、状況を説明した。
「縊首で心肺停止、発見後すぐに救出、その後CPRを続けていました。おそらく吊ってから間もないそうです」
「了解しました。警察へは?」
「電話しました。念のため警察にも通報するように言われたので」
部屋の隅にいる由利子が答えた。
消防隊員がCPRを続けながら、他の隊員が頸部を固定する。AEDを準備していた救急隊員が言った。
「パッドを貼ります」
すぐさま隊員たちは、AED担当の隊員が作業しやすいように避けた。
「秋山さん、AEDのパッドを貼りますからね、すみませんがシャツをまくりあげますよ」
意識不明の信之に、救急隊長が声をかける。
「大丈夫です。きっと助かりますよ」
ギルフォードは、蘇生処置を受ける信之を心配そうに見ている姉妹に言った。多佳子が深く礼をしながら言った。
「ありがとうございました。あなた方が来られなかったらどうなっていたやら……」
「いえ、あなたがとっさにお兄さんを支えたからですよ。それより気になるのは……」
ギルフォードは何かを言おうとしたが、その時救急隊員が姉妹に尋ねた。
「蘇生のため、電気ショックを行います。いいですか」
「はい、お願いしますっ」
二人が同時に答えた。AEDの音声が、除細動実施を告げる。救急隊長が言った。
「除細動を実施する。みんな、患者から離れて」
バン!という音がして信之の身体が撥ねた。姉妹は抱き合って小さい悲鳴を上げた。
「ダメです!」
「2回目を実施!」
「了解」
「除細動、2回目を実施する。離れて!」
再びバンッ!と言う音がして、信之の身体が跳ね上がる。AEDのモニターから、ピッ……、ピッ……、ピッ……という規則正しい音が聞こえた。
「脈拍が戻りました!」
隊員が、力強い声で言った。
「よ、良かったぁ……」
姉妹は再びへなへなとその場に座り込むと、抱き合ってうれし泣きをした。その彼女らに救急隊長が言った。
「依然意識不明の重体です。予断は許されません。今から急いで救急病院に搬送します。付き添いの方はおられませんか?」
「私が行きます。妹です」
多佳子が名乗りを上げた。
「では、すぐに出れるように準備してください」
隊長は多佳子に言い、その後隊員たちに向かって命令した。
「よし、搬送準備! ロードアンドゴーだ! 急ぐぞ!!」
医師の指示の下で呼吸器がつけられた信之を、サブストレッチャーに載せ搬送する。門を出たところでメインストレッチャーに乗せかえられ、救急車内に搬入された。近所の人たちが様子を見に出てきて、あちこちでヒソヒソ話していた。一緒に救急車に乗り込んだ多佳子が言った。
「姉さん行って来るけんね。容態の変わったら電話するけん。家んことは頼んどくよ」
「うん。信之のこと、頼むね」
聡子が答える。
「出発します。ドアを閉めますから離れて」
言われて聡子は急いで門のほうに避けた。門扉の前ではギルフォードたちが、心配そうに立っていた。
後ろのドアが閉まり、サイレンが鳴った。信之の乗せられた救急車は搬送先の病院へ急ぐべく走り出した。消防隊の車も後に続いた。救急車が去り、サイレンの音が遠くなっても聡子はその場に立ち尽くしていた。ギルフォードが、そっと彼女の肩に手を置いて言った。
「きっと大丈夫です。風が出てきました。家に入りましょう」
聡子は頷いた。ギルフォードが聡子の肩を抱いて家の中へ誘導しようとしたとき、車が止まって二人組の男が降りてきた。それは由利子にはおなじみの顔だった。
「え、またぁ、ふっ○い君なの?」
由利子はうんざりして小声でつぶやいた。しかし、隣の紗弥には聞こえたらしい。かすかに「くふっ」と笑ったのを由利子は聞き逃さなかった。
「いやあ、篠原さん、またあなたにお会いしましたな」
ふっけ○君もとい、富田林が由利子に気がついて言った。由利子は焦った。なんて外聞の悪い。
「またあなたって、人聞きの悪いことを言わないでくださいな、富田林刑事」
「ああ、失敬失敬。例の事件がらみということで、僕らが派遣されましてね」
「えっと、じさ……」
増岡が言おうとすると、富田林が彼の横腹に軽く肘鉄を当てて言った。
「バカ! 声が大きい」
「すんません」
増岡の粗忽は相変わらずのようだ。二人の刑事は足早に近寄ってきた。声のトーンを落として富田林が言った。
「自殺未遂らしいということですが、すでに搬送されたようですな」
「はい」
聡子に変わってギルフォードが答えた。
「脈拍は戻りましたが、呼吸停止状態で搬送されました」
「おや、あなたが篠原さんの言っておられた大学の先生ですか」
富田林はギルフォードに上から下まで目を通して言った。
「はじめまして。県警の富田林です。多田美葉の事件からこっちも担当させられましてね」
「Q大のギルフォードです。こちらこそはじめまして」
「しかし、大変だったようですな、先生。自殺と聞かねば、あなたを容疑者と疑うところでしたよ」
「え?」
ギルフォードは下を向いてまじまじと自分の姿を見た。白いシャツに血がべっとりとついていた。さらに良く見ると、黒いスーツにもあちこち何かが染みになっていた。信之を正面から抱き留め支えていたので、大量の鼻血やら何やらが付着したらしい。
「サヤさ~ん。一張羅がナンカだらけになってマシタ」
いきなり情けない表情になって、ギルフォードは紗弥の方を見た。紗弥が若干すまなそうに答えた。
「申し訳ありません。気付いていたのですが、それどころではなくて……」
「首吊りはねえ……」
富田林が同情するように言った。
富田林と増岡のコンビは、現場を見て自殺未遂と判断、事件性は無いとして帰っていった。刑事達を見送ってから、聡子が洗面所で手を洗っているギルフォードのところにやってきた。
「おや、サトコさんでしたっけ。どうされました?」
鏡に映った聡子の姿を見て、ギルフォードは蛇口を閉めて振り返った。
「せっかく来ていただいたのに、こんなことになって申し訳ありません」
聡子は平身低頭謝った。
「いえ、そんな謝らないでください」
ギルフォードが恐縮して答える。聡子は改めてギルフォードの服を見ながら言った。
「ああ、ずいぶんと汚れちゃいましたね。何となくニオイも……。申し訳ありません。どうかお風呂にお入りください。着替え、信之のでとりあえず合いそうなのを探しておきます」
「そんな、気を遣わないでクダサイ」
「いえ、どうかシャワーだけでも……。事件後消毒されて、私たちも使ってますので安全ですから」
「わかりました。では、シャワーを使わせてもらいますね
ギルフォードはこれ以上断るのも失礼と思い、承諾した。
「スーツはクリーニングに出しますので……」
「いえ、お構いなく。ウォッシャブルなので家で洗います。なにかビニール袋を置いておいてください……、あ、そうだった」
ギルフォードは急いで玄関に戻り、すっかり忘れていた花束を持ってやってきた。
「ご霊前にお供えください。こんな物騒な格好でお渡しして申し訳ないケド」
「あら、まあまあ……、なんてステキな白百合のブーケ……。母が大好きだった花です。ありがとうございます」
聡子が涙ぐみながら言った。
ギルフォードがシャワーを終え、聡子に案内されて居間にいくと、紗弥と由利子が紅茶を飲んでくつろいでいた。しかし、ギルフォードの方を見て、二人は微妙な顔をした。
「やっぱ、ヘンですか?」
「『笑点』のTシャツはステキですが、ジャージのズボンが半端に短いですわね」
紗弥が言った。相変わらずの直球ストレートだ。
「困ったわねえ……。信之も背の高い方だったけど、やっぱり腰の高さかしら? 弟は短パンをはかなかったし、どうしましょう……。あ、ちょっと待ってくださいね。あれなら……」
そういうと、聡子はトントンと二階に上がって行った。しばらくして降りてくると、居間のドアから顔を出してギルフォードを呼んだ。
「ありましたわ、先生。ちょっとこちらにいらしてください」
「おや、なんですか?」
そう言いながらギルフォードは居間から出て聡子について行った。それを見ながら由利子が少し怪訝そうな表情で言った。
「何だろ?」
「まあ、教授が人妻に襲われることはないでしょうから、放っておいても大丈夫ですわ」
紗弥が、紅茶のカップを置きながら言った。
「いや、そんなことは心配していないから」
「そうですか? それにしてもヒマですわね。テレビをつけさせてもらいましょう」
「え? いいの?」
「ええ、先ほどお伺いしたところ了解していただきました。何か今日のことについてお知らせがあるかもしれませんでしょう?」
紗弥はそういうと、躊躇なくテレビをつけた。二人で報道番組を見ていると、家の中で悲鳴がした。
「何? テレビ……じゃないよね」
「家の中でしたわね。様子を見に行きましょう」
由利子と紗弥は居間を出て声のした部屋を探した。すると、なにやら二階から声がする。
「サトコさん、ステキです~。僕、コレ初めてです~」
「ちょ……、ちょっと待ってください、私、慣れてなくて……。それに、裾が乱れますよ」
二人は顔を見合わせた。
「何やってんだか……」
と、紗弥。
「行ってみよう」
由利子はそういうと階段を駆け上がり、声のする部屋の戸を開けた。そこは衣装部屋だったが、和服を着た男がうやうやしく跪きながら聡子の手を取り、ナイトよろしく手の甲にキスをしていた。由利子が半ば呆れて言った。
「何やってんすか、コラ」
「オー、ユリコ! 感謝のキスですよ」
「私、西洋風は慣れてなくて、それに、せっかくお着せしたお着物の裾が乱れるから……」
と、聡子が恥ずかしそうに言った。由利子と紗弥は肩をすくめて顔を見合わせた。
「見てクダサイ、ユリコ! 紗弥さん! キモノです! 一度着てみたかったんです!!」
ギルフォードは、彼女らに自分の着物姿を見せながら言った。由利子の冷たい視線に対して、ゴキゲンなハイテンションだ。ギルフォードは、さらに二人の前でくるりと回ってみせた。薄い緑色の地にグレーと茶縞柄の麻の長着で帯は茶色、長着の色はギルフォードの目の色に良く似合っていた。由利子の横で紗弥が小声で言った。
「もう、バカ……」
「意外と良くお似合いで……」
由利子はギルフォードのテンションに若干引き気味に答えたが、確かに文句なく似合っていた。着付けが上手いのだろう。若干裾と袖が短いが、おかしいほどではない。聡子がほっとしたように言った。
「ちょっと驚いたけど、こんなに喜んでいただいて嬉しいですよ。背の高かった祖父の夏用の着物があることに気がついて良かったですわ」
「サトコさん、本当にありがとうゴザイマス!!」
ギルフォードが感謝のハグをしようと聡子に近づいたので、聡子はまたきゃあと悲鳴を上げた。
「Alexander Ryan Guildford! いい加減になさいませ!!」
とうとう紗弥が最後の切り札、「|緊箍経(きんこきょう》」を唱えた。
「まったく。事情で遅れたとはいえ、昨日お葬式を終えたばかりのお宅ですのよ。しかも、今も弟さんが病院に運び込まれたばかりでしょう? 状況をわきまえてくださいませ」
居間に戻った三人は、来客用のソファに座っていた。ギルフォードは、紗弥に叱られてすっかりしゅんとしていた。
「そもそも、私たちは何をしに来たのですか」
「亡くなった方への御参りと、今日放送されることへの説明です」
「そうでしょう? なのに、アクシデントがあったとは言え、まだどれも遂行されていませんのよ」
「どうもスミマセン……」
ギルフォードは下を向いたまま、若干上目遣いで言った。
(やっぱり孫悟空と三蔵法師やね)
由利子は改めて思った。
しばらくすると、聡子がギルフォードの分の紅茶を運んで来た。ギルフォードがすぐに立ち上がって言った。
「先ほどはどうも、脅かしてスミマセンでした」
「いえ、お気になさらないでくださいな。おかげで私も気が紛れてよかったです。……イギリスの方とお聞きしていますので、ミルクティーにしてみたのですけれど、お口に合いますかしら?」
聡子は紅茶をテーブルに置きながら、少しはにかんだ笑顔で言った。
「いえいえ、ありがたくいただきます」
ギルフォードは座りなおすと、カップを手にして一口飲んでから、にっこり笑って言った。
「美味しいです。母が入れてくれたものと近い味で、スゴク懐かしいです」
「まあ、西洋の方はお上手ですわね」
「いえ、お世辞じゃないですよ」
そう言うとギルフォードは旨そうに紅茶を飲んでいたが、紗弥に突かれカップを置きながら言った。
「……あの、順番が後になってしまいましたけど、ご霊前にご焼香したいと思うのですが……」
ギルフォードは、まずひとつ目の目的遂行を申し出た。聡子は両手で口を覆い、やや涙ぐんで言った。
「ありがとうございます。故人たちも喜ぶと思います」
聡子の了解を得て、三人は立ち上がった。
祭壇のある部屋に行くと、三人はそれぞれお香を焚き手を合わせた。すでに祭壇には、ギルフォードが持って来た百合の花が飾ってあった。
祭壇にはやさしく笑う祖母の遺影と並べられた雅之の遺影があった。由利子は彼の顔を改めて見た。写真の雅之は、まだ少し幼さの残る顔で屈託なく笑っている。まだ14・5歳の普通の少年が、魔が差したとしか思えない殺人を犯し、結果、自らも命を落とすことになってしまった。さらにその結果、祖母や母までもが命を落とし、その後も多美山を含め、じわじわと犠牲者を出し続けている。
(巡る因果は糸車……か)
由利子は昔の人形劇の歌詞を思い出しながら、つくづくと運命の不思議さを思った。雅之の遺影の隣に、若干小さめの額に入った、中年と呼ぶにはまだ若い女性の写真が置いてあった。なかなかの美人で、おそらく母の美千代のものだろう。面影が雅之によく似ていた。まだ遺骨が帰ってないので葬儀は持ち越されたが、仮の葬儀は執り行われたのかもしれない。
(一体この人は、どんな思いでばら撒き屋になり、そしてあんな事件を起こしたのだろう……)
それを思うと、由利子はやりきれなかった。パーフェクトではなかったかもしれない。しかし、平凡だがそれなりに幸せな家庭だったにちがいない。それが、完膚なきまでに壊されてしまった。今生きているのは父親だけで、その彼も今は生死の境を彷徨っている。あのウイルスさえ撒かれなければ、例え雅之が事件を起こしていたとしても、この一家の状況はまったく違っていただろう。由利子は改めてウイルスを撒いた者たちに対して怒りを感じた。それは他の二人も同じだった。
「僕たちはあなた達の前で誓います。必ずウイルスとそれを撒いたテロリストを制圧します」
ギルフォードがまっすぐに祭壇を見ながら誓った。
「それではサトコさん、ノブユキさんが入院してしまいましたので、あなたにお話したいと思いますが、いいですか?」
居間に戻ると、ギルフォードは秋山家来訪の本題に入った。ギルフォードたちの前に座った聡子が答えた。
「はい。よろしくおねがいいたします」
「今日、夕方、テレビ・ラジオ・ネットを媒体に知事から重大なお話があります。それは、明日の新聞や、自治体の広報でも配布され、出来るだけ多くの人たちに知ってもらえるようにします」
「で、それと信之とどういう関係が……」
「はい。それが、ノブユキさんのご家族を奪ったウイルスについてのことだからです」
その時、聡子の携帯電話が着信を知らせた。
「あの、失礼ですが電話に……」
「遠慮なく出てください。ノブユキさんの容態でしょう?」
「すみません……」聡子は電話を取ると急いで耳に当てた。「もしもし、多佳子? 信之はどう?」
三人の間にも緊張が走った。
「え? え? そっそれで?」
聡子の目に、見る見る涙が浮かんだ。
「うん、わかった。あんたも気をしっかり持って。ええ、この後もお願いね」
聡子は電話を切ると、あふれる涙もそのままに言った。笑顔だった。
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「そうですか! ああ、良かった」
ギルフォードがほっとした笑顔で言った。由利子は「やったね!」と言って紗弥と顔を見合わせ手を取り合って喜んだ。
「良かった、良かった……。みなさんのおかげです。ありがとうございました。これで信之まで失ったら、私たちは耐えられないところでした」
そこまで何とか言い終えると、聡子は泣き崩れた。
「サトコさん」
ギルフォードがフェミニストらしくすかさず立ち上がって隣に座り、聡子を落ち着かせようと肩に手を置いた。しかし、信之のこれからのことを考えるとギルフォードの胸中は複雑だった。果たして蘇生したことが、彼の為になったのだろうか……。由利子はギルフォードの表情が、一瞬辛そうに曇ったのを見逃さなかった。
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