朝焼色の悪魔 Evolution

黒木 燐

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第二部 第四章 衝撃

4.涙色の笑顔

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 ギルフォードは、隔離病棟の前まで来ると、桜子を呼び止めた。桜子は母親と共に振り返った。若干遅れて、楓も振り返る。ギルフォードは桜子に近づくと、また目線の高さに跪いて言った。
「さ~ちゃん、ちょっとだけ聞いてください。おじいちゃんは重い病気で、前会った時よりもずいぶんと様子が変わっておられます。お話も上手く出来ないかもしれません」
 桜子は、一瞬戸惑ったがすぐに真剣な顔をして答えた。
「うん。わかった。さ~ちゃん、それでもおじいちゃんにあいたい。だいじょうぶ、さ~ちゃん、ちゃんとおみまいできるよ」
「いい子です」
 ギルフォードはにっこりと笑って言うと、桜子の頭を撫でてから立ち上がった。
「さ~ちゃん、じゃあ行きましょう。コズエさん、お呼び止めしてスミマセンでした」
 ギルフォードはそう言うと、ドアボーイの如くドアを開け三人を中に通した。続いて由利子が、最後にギルフォードが入って、ドアを閉めた。

 窪田たちは、若干渋滞した高速道路を通りながらも、滞りなく予定通りに宿に着いた。
 宿は、街よりも少し山際にあり、緑に囲まれた敷地内に部屋が独立した和風のコテージ風になっており、それぞれに露天風呂が付いていた。
 女将に案内された部屋に入って、歌恋は小さい歓声を上げた。
「きゃあ、ステキなお部屋!」
 そこは広い和室で、庭に面した掃出し窓からは洗練された日本庭園がまるで一幅の絵のように見えた。旅館でありながら、隠れ里のようなそのたたずまいは、自分達の旅にピッタリだと思った。
風呂は内風呂と露天風呂があり、もちろん両方ともかけ流しの天然温泉である。特に露天風呂はまるで森の中の天然温泉のようで、実に趣があった。
「栄太郎さん、ありがとう。わたし、こんなステキなところに泊まるのって初めてだわ!!」
 歌恋は、窪田の腕にしがみつきながら喜んで言った。女将はお茶を入れながら、いかにも訳ありそうな二人を見て曖昧な微笑を浮かべて言った。
「気に入ってくださって、とても嬉しいですわ。天気がよろしければもっと眺めも良いのですけれど……」
「いえいえ、女将、充分ですよ。これくらいの天気の方が侘び寂があってちょうどいいですよ」
 窪田は言った。女将は窪田の気遣いににっこりと笑いながら尋ねた。
「まだ日もお高いですけれど、これから観光をなさいますか?」
「はい。少し休んでから、いろいろまわってみます。せっかく有名な温泉地に来たのですし、ここには名所も沢山ありますから」
「では、お夕食は何時いつ頃までにご用意いたしましょうか?」
「そうですねえ……。では、七時くらいにお願いしましょうか」
「かしこまりました。あの、よろしければ、観光用にタクシーなどをご用意出来ますけど……」
「いえ、大丈夫ですよ。乗ってきた車で地図を見ながら回ってみますから」
 せっかくの申し出だが、窪田は断った。なにせ、初めて二人で旅行しているのだ。水入らずで楽しみたいではないか。
「それでは、何か御用がございましたら、内線でフロントまでお電話くだされば、いつでも対応いたします。では、わたくしはここで……」
 女将は、丁寧に頭を下げて礼をすると、すっと戸を閉めて去って行った。
 女将が行ってしまったのを確認すると、二人はほっとした表情をし、今まで座卓に向かい合って座っていたのを、どちらとも無く近寄って窓の方を向いて並んで座った。歌恋は窪田の腕を取って寄り添い、二人は美しい庭園とその背景の生垣を見ながら、しばしの間黙って座っていた。静かなゆったりとした時が流れた。しかし歌恋は、この束の間に独占した恋人の身体が少し熱いような気がした。
 
「おじいちゃん……!」
 桜子は、祖父との距離を遮るガラス窓の前に立って多美山を呼んだ。しかし、その後の言葉が続かなかった。ギルフォードが前もって言ったように、あまりにも様変わりをしていたからだ。
「おお……、桜か……。よう来てくれたなあ」
 多美山は、桜子の声を聞くと、ゆっくりとその方角を向いて言った。桜子はその声で祖父に間違いないと確信し、再び心配そうに声をかけた。
「おじいちゃん、おめめどうしたの?」
「病気でちょっと……な……。ばってん、おまえの顔は、よう覚えとおけん……目を瞑っていても……わかるばい。心配せんでん、よか」
「あのね、さ~ちゃんあれからすこし、せがのびたんだよ」
「そうか、来年は、小学生やもんな……」
 多美山はぎこちなく笑って言った。その硬い表情を見て、ギルフォードは不吉なものを感じた。アフリカで散々見てきた顔を思い出したからだ。おそらくもうすぐ表情を作ることが出来なくなるだろう……。そう思うと、ギルフォードは上を向き目を瞑った。ジュリアスと由利子がそれに気付いて心配そうにギルフォードを見、ついでお互いを見た。ジュリアスは由利子に向かって静かに首を横に振った。
 桜子は、防護服を着て祖父の傍に座っている人が、父親であることにやっと気がついて言った。
「パパ! パパはおじいちゃんのそばにいていいんだ」
「だって、パパはおじいちゃんの息子だもの」
 父親の幸雄は少しだけ笑って答えた。
「そのかっこうはなに?」
「変かい?」
「うん。なんか、へん……」
「でもね、これを着ないと病気が感染るかもしれないんだよ」
 それを聞いて桜子の顔がぱっと明るくなり、尋ねた。
「じゃあ、そのふくをきたら、はいれるの?」
「そうだよ。ただし、病院の人と特別に許可をもらった人だけだけどね。桜はまだ小さいからダメなんだ」
「そっか……」
 桜子はがっかりとして言った。しかし、気を取り直してまた祖父に向かって声をかけた。
「おじいちゃん、ごきぶんはいかがですか? どっかいたい?」
「桜が来たけん、今はいとぉなか。 ありがとうな……」
「おじいちゃん……」
 祖父に呼びかけ、また言葉に詰まる桜子に多美山が言った。
「なんや、泣きよぉとか、桜?」
「さ~ちゃん、なかないよ」
 桜子は、ぐっとこらえて言った。多美山は、またぎこちなく笑った。
「そうやな、桜は、強い子やもんな……。桜、元気……やったか?」
「うん」
「いい子に……しとったか?」
「……うん」
 桜子はちょっと間を置いて答えた。そこで梢が口を挟んだ。
「うそおっしゃい。この前なんか幼稚園で男の子と大ゲンカして……」
「だってあいつ、しんゆうのミキちゃんをいじめたんだもん」
「で、勝ったのか、桜?」
「うん!」
「そうか。ようやったな」
「もう、お義父さんったら……」
 梢に言われてしまったと思ったのか、多美山はすぐに付け加えた。
「だがな、桜。すぐに、手を出しちゃあ……いかんぞ。まずは、話し合いから……な」
「うん、わかった」
「いい子だ。……桜、元気でな」 
「うん」
「パパとママの言うことをよく聞くんだぞ」
「うん……。おじいちゃん、なんだかへんだよ」
「そうか?」
「うん」
 子供心に何か感じ取ったのか、頷いた後小さいかすれた声で言った。
「……しんじゃいやだ……」
「どうした? 聞こえんぞ?」
「おじいちゃん……、しんじゃいやだ……」
 桜子は少しかすれた声で言った。多美山は悲しそうに笑いながら言った。
「死なんよ……。だって、先生たちが、ついとる……やろう? それに、おまえが、小学校に上がるのも……見んといかん、からな……」
「うん」
「泣くな……、なあ、桜……」
「うん、……うん」
 桜子は頷きながら、右手の甲で涙を拭い、泣くまいと口を一文字に結んだ。その様子が見えたかのように、多美山はつぶやいた。
「強い子やなあ、桜は」
 その様子を見て桜子の涙を拭おうと、ハンカチを出して娘のそばに寄ろうとする梢を楓が止めた。
 桜子は、その後しばらく下を向いて黙っていたが、何かを思い出したように顔を上げて言った。
「……おっ、おじいちゃん……、あのね」
「なんや?」
「さ~ちゃん、おしょうがつにおじいちゃんにやくそくしたこと、ぜったいにまもるから」
「桜……、頼もしいなあ……。ばってん、それは、大人になって、から、決めて……いいとやけん」
「でも、さ~ちゃんきめたんだよ」
「そうか……。ありがとうな……。じゃあ、まず、自分のことを、『さ~ちゃん』って、いうとを……やめんと、なあ……」
「うん、わかった。さ~ちゃ……あたし、がんばるから……」
「おじいちゃんも、病気に、勝てるように……頑張るからな」
 多美山は、そういうとまたふっと笑った。その様子を見て、幸雄は言った。
「桜。おじいちゃん、そろそろきつそうだから、寝かせてあげようか」
「うん。そうだね……。おじいちゃん、またくるからね」
「おお、今日はありがとうな……」
 多美山は、そういうと天井の方を向き、ベッドに身体を沈めた。
「じゃあ、帰りましょう、桜」
「うん……」
 母親に促されながら、桜子は去り難そうに病室の祖父を見てから背を向けた。その時、多美山の声がした。
「桜、もう一度、顔を……見せてくれんか……」
 桜子は振り返ってまた窓に顔を近づけた。
「でも、おじいちゃん、おめめが……」
「大丈夫や。見えんでも、見えとるって、言うた……やろ?」
「おじいちゃん……」
「桜、笑っとおか?」
「……うん」
「そうか……、笑っとおか……。いい笑顔やなあ……」
 多美山はぎこちない笑みを浮かべてそう言うと、ふうっとため息をつき、そのまま静かになった。
「おっ、おじいちゃん!?」
「父さん!」
「大丈夫です」
 三原医師が言った。
「痛み止めを大量に投与していましたから、眠られただけですよ。よく今まで普通に話しておられました。すごい精神力です」
「父さん、そんなに桜に会いたかったんだね……」
 幸雄は父の方を見ながら言った。その父に、桜子が心配そうに声をかけた。
「パパ、……おじいちゃんは?」
「大丈夫だよ、眠っただけだから」
「そっか~、ああ、びっくりした」
 桜子は、ほっとして笑った。まだ目に涙の跡が残っていたが、多美山に見せてやりたいほど良い笑顔だった。

 ギルフォードたち三人は、多美山母子を見送るために待合室のエントランスで彼女らと向かい合っていた。梢がギルフォードに向かって言った。
「ありがとうございます。あなたの言うとおり桜子を義父ちちに会わせてやって良かったって、今はそう思っています」
「そうですか。良かった。でも、差し出がましいことをして申し訳ありませんでした」
「いえ、こちらこそ、失礼なことばかり言って……」
「いえいえ、気にしないで下さい」
「義父をよろしくお願いします」
 梢は丁寧に頭を下げて言った。
「今日は義父宅に泊まりますから、何かあったら連絡してくださいね。では、失礼します。桜、帰るわよ」
「あ、ちょっと……」
 ギルフォードは彼らを引き止め、中腰になって言った。
「さ~ちゃん、ちょっと来て」
「な~に?」
 桜子は走ってギルフォードのもとに来た。ギルフォードは跪くと小声で桜子に聞いた。
「おじいちゃんと何のお約束をしたの?」
「あのね……」
 桜子も小声で言った。
「ママがきいたらおこるからね、ナイショだよ……」
 そう前置きをして、桜子はギルフォードの耳元で何か囁き、すぐに母親の方に走った。桜子は母親と手をつなぐと、もう片方の手を振って言った。
「アレクおじちゃま、それからおねえちゃんと、くろいおにいちゃんも、ありがとう。さよなら、またね~」
 その後、もう一度手を振ると、桜子は祖母の手を握った。母と祖母も振り返って一礼し、三人は仲良く並んで帰って行った。ギルフォードは、由利子とジュリアスと共に手を振りながら言った。
「なんで、僕だけ『おじちゃま』なんでしょうねえ……」
「ど~せ、おみゃあが言わせたんだろ~がね」
 ジュリアスが、正面を向いたまま言った。
「言い方じゃあないですよ。何でふたりがおにいちゃんおねえちゃんで、僕だけが『オジサン』なのかと……。あまり歳は変わらないと思うんですけど……」
「『アレクおじちゃま』って言われて、まんざらじゃあなさそうだったけど?」
 と、由利子も正面を向いたままで言った。
「ところで……」
 由利子が、今度はギルフォードの方をチラ見して続けた。
「桜ちゃん、アレクになんて言ったのよ」
「おれも聞きてぇがや」
「まあ、ママに内緒っていうんだから、君達に言うぶんは構わないでしょう」
 ギルフォードは、ちょっとだけ微笑んで言った。
「さ~ちゃんは、『おじいちゃんのあとをついで、けいさつかんになる』って言ったんです。『パパがあとをつがなかったから、おじいちゃんがさびしそうだったから』って」
「そりゃあ、お母さんは怒りゃ~すわ。特に今はマズイがね」
 ジュリアスが言うと、由利子も続けて言った。
「桜ちゃん、意味わかって言ってるのかしら」
「さあ、どうでしょうねえ……。まあ、タミヤマさんが言ったように、大きくなってから決めることですから……」
 ギルフォードは一旦言葉を切ってから、桜子の後姿を見つめて言った。
「でも、頼もしいですね」
 三人の姿が門の外に消え、ギルフォードはそれを見届けて言った。
「さっ、戦場に戻りましょうか」
 ギルフォードは、身を翻して室内に入った。ジュリアスもその後に続く。由利子は、どんよりした空を見上げた。生ぬるい風が吹き、冷たいものが2・3頬に当たった。雨が降り始めたようだった。

 三人が戻ると、眠った多美山の傍で息子の幸雄が顔を覆いながらうつむいて座っていた。
「このまま、昏睡状態になるかも知れないということです」
 幸雄が誰にともなく言った。
「万一を考えて覚悟しておいてくださいと……」
「そうですか……」
 ギルフォードが言った。ほかにかける言葉が見つからなかった。幸雄は顔を上げてギルフォードたちに向かって言った。
「苦しんでいないということが救いです……。だけど、これから苦しむことになるのでしょうか」
 そう聞かれて、ギルフォードは何と言っていいか迷ったが、こう言うしかなかった。
「これは、未知のウイルスですし、実際に僕らが患者を見るのは、タミヤマさんが始めてなのです。申し訳ありませんが、何ともいえないというのが、正直なところです……」
「そうですか……」
 幸雄は、不安とも安堵ともとれない、曖昧な表情でギルフォードを見、ついで父親の顔を見た。しかし、多くの出血熱の経過を知るギルフォードやジュリアスは、辛い気持ちを抑えていた。
「もお、こんな時に、葛西君は何をしているんだよ……!」
 由利子は、葛西が一向に姿を現さず、連絡も入れてこないようなので、ずいぶん前からイライラしていたのだった。
「ユリコ。ジュンは、タミヤマさんとやる予定だった公園の事件の再調査を引き継ぐと言って、一人で調査をしているということですから」
「何も、こんな日にするこたあなかろ~もん! あのお子ちゃまわぁ~!」
「電話も電源を切っているか電波の届かないところにいるかで、通じないのですよ」
「もう、何なのよ」
「でもね、ユリコ、僕はジュンのやっていることは、無駄だとは思いません。テロ事件に関しては、……特に今のようにほとんど手がかりがない場合は、どんな些細な手がかりでもいいから、出来るだけ早く、少しでも多く情報を得るべきなのです。それが、どんな大きな情報に繋がるかわかりませんから。それが事前にわかっていた筈なのに阻止できなかったのが、9.11テロであり、サリンテロであるわけです」
「それはわかるけど……」
「ユリコ、ジュンはタミヤマさんの後を継ごうと、彼なりにがんばっているんです」
「だけどそれじゃあ……」
 そう言いながら、多美山の顔を見た由利子が「あら?」とつぶやいて、病室の三原医師に尋ねた。
「三原先生、多美山さん、眠っておられるんですよね?」
「はい」
「この会話は聞こえているんでしょうか?」
「ここには聞こえてますよ。でも、多美山さんは……。よく眠っておられますからねえ……」
「そうですか……? 今、多美山さんが、かすかに笑顔を浮かべられていたような気がしたものですから……」
 由利子は、改めて多美山の顔を見た。しかし、そこにはすでに笑顔はなく、多美山は無表情で静かに眠っていた。由利子にはそれが能面のように思えた。
「ああ、ギルフォード君、いたいた」
 と、そこへ高柳が両手を白衣のポケットに突っ込んだまま小走りでやってきた。
「例の蟲に食われたらしい遺体がもうひとつあったということで、鑑定して欲しいとさっきメールで資料が届いたんだが」
「なんですって? 他にもあったって、それは、いつ見つかったんですか?」
「なんでも、木曜の夕方らしい」
「一昨日ですか! じゃあ、昨日の遺体より早く見つかってたと言うことですね。何故すぐに報告がなかったんです?」
「C野署の管轄だったということで、事件のあったK市やF市から離れていることもあって、伝達が上手く行っていなかったらしいな」
「二日で虫食い遺体が二つですか……。もっと出てきそうな気がしてきました」
 ギルフォードが、またえもいわれぬ表情で言うと、横からジュリアスが言った。
「二体とも野ざらしになっとったってことですか?」
「ああ、そうらしいですな」
「ホームレスだったということですか?」
「一体についてはまだ資料をよく見てないので、わからんね。それを見せようとギルフォード君を探しとったわけだが、今度は幼女とよろしくやっていたらしいな」
「人をロリの犯罪者みたいに言わないでクダサイ!」
「とにかく来てくれたまえ」
 高柳はギルフォードの抗議を無視して言った。
「あ、キング先生と篠原さんも来てください。今はここに貼り付いていても仕方がないだろうし、特に篠原さんには、これからギルフォード君のサポートをするにあたっての勉強になるだろうからね」
「え? いいんですか?」
 由利子が自分を指差し驚いて言った。
「もちろんだ。さあ、三人とも来たまえ」
 高柳はそういうと、またすたすたと歩き始めた。ギルフォードもその後に続いた。
「由利子、行こまい」
 ジュリアスに促されて、由利子は彼らの後について行った。
 

 葛西はC川の遺体発見現場の対岸に立っていた。携帯電話スマートフォンを手に、盛んに風景と電話の画面を見比べている。
「ああ、だいたいここら辺から撮ったな」
 葛西は独り言をつぶやいた。携帯電話から例の動画を閲覧しつつ、動画がどこら辺から撮られたか確認していたのだ。葛西はあたりを見回した。河川堤防道路の下にいくつかの民家があった。しかし、そこからよりも、この道路を通るついでに撮影した可能性が高そうだった。映像のブレとやパンの仕方がいかにもそれっぽい。
(最終的には、ビニールシートで現場は全て目隠しされていたはずだ。ということと、映像撮影時のほんのりした明るさからいって、警察の到着後、比較的早い時間に撮影されたはずだ)
 と、葛西は判断した。
(しかし、ここは堤防道路で比較的交通量も多い。かなりの人が捜査中の警察官の姿を見たはずだ。しかも、奇妙な防護服を着た……。ということは、かなりの割合で、不審に思った人が居てもおかしくないけれど……)
 だけど、と葛西はさらに考えた。
(公園の事件での教訓もあって、今回はローカルニュースではあるけど、しっかりとニュースとして配信されたのだから、それを見た人はその疑問を自己解決しただろう。実際、今回の聞き込みでも、まだ妙な噂はたっていなかった。今現場を警戒中の警察官も、市民の疑問には率直に答えていると言っていたし。
 ということは、あの映像をアップした人はニュースを見ないか地元の人間じゃあないということだ。あの映像が、今度はネット上で広まって、全く関係ないところから煙が立つかもしれない)
 葛西の心に漠然とした不安がよぎった。
(それに、あの橋の上で撮影していた女。一番の不安要因はあいつだな)
 葛西はため息をついたが、とりあえず、堤防下の住人達に聞き込みをしようとその場を後にした。
 

 由利子は、三人のウイルス学者と共に、センター長室の応接セットに座っていた。ひどく場違いな気がしたが、これからの仕事のためと言われたならば仕方がない。
「ギルフォード君、これが資料だ。大丈夫、あの蟲の写真はないから。急いでプリントしたんで一部しかないから、悪いが三人で一緒に見てくれたまえ」
「これは、いつ送ってきたんです?」
 ギルフォードは、資料を受け取りながら尋ねた。
「午前11時頃、送っていいかという確認の電話があって、30分ほど前にメールで送って来ていた」
「大至急でまとめて送ったという感じですねえ」
 ギルフォードはそう言いながら、資料のファイルを開き、ざっとページをめくった。
「ああ、これは、やっぱりGに食害されたと思って間違いなさそうですね」
 ギルフォードは写真をいくつか見ながら言った。
「あのな、アレックス」ジュリアスは、少し困った表情で言いにくそうにしながら言った。「これ、言おうかどうか迷っとったんやけど、気付いてにゃあようなんで早めにゆーとくわ」
「なんですか、ジュリー」
「そのぉ、……Gってにゃあ止めたほうがええて。ギルフォードのGと被るだろーがね」
 それを聞いて、ギルフォードは一瞬ぽかんとして固まった。
「やっぱり気付いとらんかったんだな」
 ジュリアスがやれやれという表情で言った。由利子は、ギルフォードの狼狽振りがあまりにおかしくて吹き出しそうになり、あわてて両手で口を塞いだ。
「ま、とりあえず、私達はあれを『ムシ』と統一して呼ぶことにしよう。漢字では『虫』と言う字を三つ書く『蟲』と言う字だね」
 高柳が平常心のままフォローした。何事にも動じない男であった。
「さて」
 高柳は固まったままのギルフォードからファイルを奪うと、ジュリアスに渡して言った。
「キング先生、君も今朝見せたファイルでだいたいのことはわかると思うけれど、どう思われるか意見を聞きたい」
「あまり何度も見たいもんじゃにゃあですがね……」
 そう言いつつジュリアスはファイルを受け取った。
「由利子はどうするかね。見れるんなら一緒に見よまい」
「いいの?」
「おれは構わにゃあがね、おみゃあ次第だがや」
「わかった。見せて」
「でら惨い遺体だで用心して見てちょおよ。そーとーわやになっとるからよお」
「ハンカチ用意しとくから」
 由利子は言った。
「ほんじゃ、いくがね」
 ジュリアスはファイルを開いた。
「うわっ!」
 流石の由利子も驚愕の声を上げ、右手のハンカチで口を覆った。
「これが例の虫食い遺体……」
「大丈夫かね?」
「なんとか……」
 由利子は気丈にもそれから目をそらすまいとがんばった。
「おっけ~。流石アレックスが目をつけただけのことはあるがね」
 ジュリアスは親指を立てながら言った。
 遺体は出っ張った部分をほとんど蟲に食われ、特に顔はほとんど凹凸がなくなっていた。身長約170cm、18歳~50歳くらいの成人男性という程度しか判別が付かなかった。せいぜい着ている物の様子から、おそらく若い男だろうと推理できるくらいだった。
「こりゃあ、どう見ても今朝見た遺体と同じあんばいの遺体だがね。けどよぉ、着とるもんから考ぎゃあて、多分ホームレスじゃにゃあと思うわ。ほれ、よー見たら、ブランド物のええ時計をしとるがね。着る物もええもんみたいだでな。ひょっとして殺されて誰かに遺棄されたんじゃにゃあですか?」
「鑑識の調査報告には、腹に打撲跡があり、現場を検証した結果、軽い急ブレーキ跡が残っていたとある。ただ、死ぬような事故じゃなかっただろうということだが……」
「たしか、安田さんも少年が蹴った程度のショックで大出血を起こして死んでしもうたんでしょ? 多分それと同じやて思うわ。多分、事故にお~て死んだ彼を何者かが……まあ、多分加害者だろうけどな、草むらに隠して逃げたってとこでしょう」
「でも、見つかったのは県道でしょ? 何でそんな重病人がそんなところに居たのかしら」
 と、由利子がしごく真っ当な質問をした。
「推測だけどな、脳症をおこして無意識にうろついていたんじゃにゃあか?」
「秋山雅之君は、急に警報の鳴る踏切に向かって走って行ったそうだ。また、最初の感染犠牲者と考えられているホームレス、今は仮にAさんと呼ぼうか、彼は、高熱に浮かされながらも仲間4人が静止するのを振り切って姿を消したそうだ。そして、例の公園周辺から駅あたりを行動範囲としていた筈のAさんの遺体は、数キロ離れたC川中流で見つかった。それを考えると、この彼が県道をうろついていても不思議はないよ」
「そういうことですか……」
「感染者が行動範囲を広げるとゆ~ことは、ウイルスの広範囲な拡散に繋がるとゆ~ことだわ。信じられんことだて、アレックスも最初は否定してたけどよぉ、このウイルスは感染者を操っとる可能性があるんだわ」
「あんな遺伝子だけの半生物がですか?」
「うむ、ウイルスに意思があるとは思えんが、多美山さんが異常行動を起こした時のことを考えても、脳症発症時に結果的にそういう行動を起こしてる可能性はあるだろうな」
「そんな……」由利子はゾッとして言った。「じゃあ、彼の遺体を遺棄した人間にも感染している可能性があるんですね」
「もちろんそうだ」
「そーいやあ、発見者が蟲に咬まれたとかいうことはにゃあのかね?」
「咬む?」由利子が眉を寄せながら聞いた。
「今朝運ばれてきた患者は、遺体の発見時に蟲に咬まれて発症したらしいのだわ」
「ええっ?! ……最悪!」
 と、由利子は嫌悪感をあらわにして言った。
「大丈夫らしい。連れていた犬が威嚇したので反対方向に逃げたということだよ」
「そりゃあ、そのわんこに感謝しにゃあといけにゃあな、その人は」
「そうだな。だが、付近の住民に被害が出るかもしれん。近隣の徹底した消毒と、各家庭でのゴ……もとい、害虫退治を徹底させないといかんな」
「ほいで、この人がどういう経緯で感染したかということもつきとめにゃーといけにゃーがね」
「もちろん、それは重要なことだ。しかし、死者からそれを突き止めるのはむずかしいだろう。遺体を遺棄した可能性の人間を含めて公開捜査に踏み切る必要があるだろう」
「やっぱり、アレクの言うとおり、いい加減公表しないと現場も動きようがないですね……。知事は一体いつ公表するつもりなんだろう?」
「今夜……、遅くとも明日中にはすると言っていたが」
「そうですか……。でも、公表後の世間の反応を考えたら……。怖いですね」
 由利子は眉をひそめながら言った。
「だが……」高柳が腕を組みながら言った。
「これ以上野放しには出来んよ。今は確かに被害者は十人余りで、交通事故死に比べても微々たるものだが、これからどうなるか想像もつかないし、このままだとこっちも後手後手にしか動けんからね」
「そうですよね……。それにしても、アレクってば妙に大人しいけど、あのまま固まってる?」
「落ち込むのもいいが、いい加減浮上してくれんと困るのだが」
「いつもなら、うるさいくらいしゃべるのに、さっきからずっとうつむいたままだし、なんだか調子がくるってしまいますよ。ねぇ、高柳先生?」
「まったくだ。そもそもは、ギルフォード君の意見を聞こうと思ってたんだがね」
 由利子と高柳は、何故かジュリアスを見ながら言った。ジュリアスは肩をすくめ、
「しょうがにゃあて。おれの責任だてなんとかしよまい」
 というと立ち上がってギルフォードに近づいた。
「ほれアレックス、いい加減に浮上しや~て」
 そういうと、ジュリアスは右手の人差し指でギルフォードのあごをクイと持ち上げると、いきなり唇を合わせた。ジュリアスの衝撃行動に今度は高柳と由利子が固まった。いきなり眼前に出現した濃厚なキスシーンに、流石の高柳の目も点々になっている。
「うわぁ~!」
 約15秒後、ギルフォードが口を押さえながらソファから身を引いて言った。
「何デスカ、今のホンカクテキなキスは!!!」
「あ~、すまにゃあな~。おみゃ~さんを正気に戻すのはこれが一番だろ」
 と、ジュリアスはニッと笑いながら言った。
「イイ加減なコト言わないでクダサイ!! ミナサン、コノヒトは無差別テロ級のキス魔デスからねっ、ダイシキュウ気をツケてクダさい!!」
「アレク、日本語が変よ」
 我に返った由利子が、妙に冷静に言った。ついで、高柳があきれ果てたように言った。
「これだから欧米人は……。しかし、隠していないのは知っていたが、あまりにも大っぴらなのはどうかと思うがな。女性にこういうのが好きな人が多いと聞くが、篠原君、君はどうかね?」
「いやあ、私にはそんな嗜好はありませんから、萌えませんけどねえ……」
「なるほど、こういうのを『萌え』というのか」
 高柳が違う方向で感心しながらも言った。
「だが、やっぱり私にはわからんな」
「あ、萌えといえば、前の会社の同僚が好きだったな。しまった、写メ撮っとけば良かった!」
 由利子は悔しそうに指を鳴らして言った。
「まあ、経過はどうあれ……」高柳がまとめに入った。
「ギルフォード君も正気に戻ったことだし、話を続けようか」
「えっと……」
 ギルフォードは怪訝そうな顔をして言った。
「何の話でしたっけ」
「もう一度このファイルを見てから思い出したまえ」
 高柳がため息をついて言った。


*********************

 ギルフォード先生は気軽に頭を撫でていますが、普通の人がうっかりやると、子供は泣き親は怒り、動物からは威嚇されたり噛みつかれたりする怖れがあるので、気を付けでてね! 国によっては子供の頭をなでることがタブーなところもあります。
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 クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。  トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。  いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。  考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。  赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。  言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。  たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。

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