朝焼色の悪魔 Evolution

黒木 燐

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第二部 第三章 流転

1.愛憎~The man she loves to hate.

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20XX年6月14日(金)

 美葉失踪に関して、由利子は事情聴取を受けたが、ここに残っても由利子にはこれ以上もうどうしようもないので、後は警察に任せて今日はとりあえず家に帰ることとなった。

 由利子はそのままギルフォードに車で家まで送ってもらい、念のためボディガードとして部屋の前まで付いてきてもらった。普通ならお茶くらい振舞うのだけれど、なにぶん丑三つ時を過ぎている。ギルフォードは、くれぐれもこれから注意するように言って、部屋の前から去っていった。
 部屋に入るといつもの猫たちのお出迎えがない。少し不思議に思ったが、夜も遅いのでもう寝ているのだろうと、あまり気にせずに、まずトイレに向かった。ドアを開ける瞬間、美月を発見した時のことを思い出して少し躊躇した。当然何もない。用を済ませると、とりあえず部屋に向かった。走り回ったので、せっかくお風呂でさっぱりしていたのにもとの木阿弥である。とにかくもう一度シャワーを浴びて着替えようと思った。
 部屋に入って、照明をつけた。玄関の灯りを点けたままにしていたので、室内はそこまで真っ暗闇ではなかったが、やはりまぶしい。一瞬明るさで目がよく見えなかったがすぐに慣れた。
しかし、由利子はベッドの方を見て驚いた。美葉がベッドの横に座り、寄りかかって眠っていたのだ。猫たちも美葉に寄り添うように眠っている。
「美葉! 起きて! 起きなさい!!」
 由利子は美葉の傍に座ると彼女の肩をゆすぶった。
「あ……、由利ちゃん、おはよ」
「由利ちゃんおはようじゃないやろ!! ったぁくもう今まで何処におったと? なんで私の部屋にいるわけ?」
 心配した分、安堵でむしろ怒りが湧いてきた。由利子は美葉に問いつめようと改めてまっすぐ座りなおした。美葉は、眼をこすりながら言った。
「逃げて来たと。 あいつに誘拐されそうになったから、途中であいつを投げ飛ばしてタクシーでここまで来たんやけど……」
「そうならそうと、なんで連絡せんかったと!?」
「だって、スマホ壊されたし、電話番号全然覚えとらんし……」
「もう、アンタ、携帯電話に頼りすぎだよ」
「エヘヘ……」
 美葉は屈託のない顔をして笑った。由利子はやれやれという顔をしながら言った。
「それにね、危険な時は私より先に110番しなきゃあ……」
「うん、そうだよね。なんか気が動転しとって……」
「そうそう、美月はね、アレクが病院に連れて行ってくれたよ。安心して。さ、今日は疲れたやろ、ちゃんと寝て」
「ありがとう。でも、あのね、冷たいお茶が飲みたい。なんか喉が痛くてさ……」
「大変やったもんね。じゃ、はと麦茶でもついで来るから待っとって」
 由利子はすぐに麦茶をグラスについで持っていった。美葉は美味しそうにそれを飲んでいた。
「じゃあ、アレクと葛西君に電話して、とりあえず保護したって言っとくから……」
 由利子がそう言った直後、美葉がなんとなく怪訝そうな顔をしながら言った。
「あれぇ、由利ちゃん……、電気の色、変じゃない? さっきから何となく部屋が赤い色しとぉよ……」
 由利子は一瞬耳を疑った。
「あんた、まさか……」
 美葉はいきなり頭を押さえると苦しみだした。由利子は凍り付いたようにそれを見ていた。恐怖で身体が硬直してピクリとも動くことが出来なかった。美葉は由利子の方に手を伸ばし、苦しそうにあえいだ。その口からは、赤黒い血があふれ出した。
「痛いよ……苦しいよ……、助けて、助け……て……」
「美葉っ!!」
 由利子は、我に返って美葉に駆け寄ろうとしたが、何者かが前に立ちはだかった。
「危ないユリコ! 近寄ってはダメです」
「アレク、何でここへ?」
「嫌な予感がしたので戻って来ました。ユリコ、早く猫を連れて逃げなさい」
「だ、だって……」
「いいから行きなさい!!」
 ギルフォードはドアの方に由利子を突き飛ばした。由利子はドア横の壁に背中をしこたま打ち付けて、壁に張り付いたような形になった。その状態で、由利子は信じられないような状況を目の当たりにした。美葉があっと言う間に何か黒いモノに覆われたのだ。それは人型を形作ると突然飛散し、ギルフォードを襲った。ギルフォードは声を上げる暇もなく、それに飲み込まれた。
「アレクっ!! 美葉っ!! いやぁああ!!!」

 由利子は飛び起きた。
「美葉!! ……あれ? 美葉は? アレクも……何処?」
 由利子はきょろきょろと周りを見回した。しかし、時計の音が規則正しい音を立て、遠くから時折車の走る音が聞こえてくる以外は静かなものであった。
「夢……? はぁぁ、良かった……」
 由利子はほっとした。どうやら、ベッドに寄りかかって寝ていたのは由利子の方らしい。家に帰りついて安心したせいか、そのまま転寝うたたねをしてしまったのだ。しかし、一体どこからが夢なのかさっぱりわからなかった。時計を見ると、3時を過ぎていた。大して長い時間は眠ってはいなかったようだ。
「変だと思ったっちゃんね。美葉やアレクが私の部屋に勝手に入って来るとか……」
 由利子は、ふうっとため息をついて言った。
「美葉……。いったい何処に行ったんやろ……。もう、なんであいつは人に心配ばかりかけるかな……」
 そう言うと、体育座りで膝を抱えたまま、顔を伏せてもう一度深いため息をついた。視界がぼやけ、左目から涙がひとすじ頬を伝って流れた。猫たちが飼い主の様子に気がついて擦り寄ってきた。由利子は彼女らの頭を撫でながら言った。
「何? おまえたちも心配なん? ……ありがとね」
 その時、机の上で電話の震える音がした。振動音とはいえ静かな明け方に近い深夜では、かなり大きい音に聞こえ、由利子はドキッとした。ギルフォードからだった。手の甲で涙を拭いながら、急いで電話を取る。
「もしもし、由利子です」
「ハイ、ユリコ。こんな時間に電話をかけるのもどうかなと思ったんですが、早くお知らせした方がいいと思って……」
「大丈夫です」
 由利子は少し鼻を啜りながら答えた。
「おや、ひょっとして……、泣いてたのですか」
「あ、いえ、その、……美葉が帰って来ている夢を見て……」
「そうですか……。心配な時はそういう夢ばかり見ますよね。でも、警察とミハを信じて待ちましょう。希望を持って元気を出して」
「ありがとう、アレク。そう言えばあなた、夢の中で助けてくれたんだよ」
「おや、どんな夢でしたか?」
「それが……」
 由利子は夢の話をかいつまんで話した。ただし、最後の部分……ギルフォードたちが蟲に呑まれたところは、きっと嫌がるだろうと教えないことにした。
「そうですか。夢は不安を的確に表現します。ナガヌマさんの話から、ユウキという男がウイルスをばら撒いた犯人かもしれないと思った、そんなところから連想したんでしょう。……そうそう、本題を忘れるところでした。ミツキちゃんの容態が安定したそうです」
「え? ……ホントですか?」
「ええ、さっき電話がありました。幸い内臓には重篤な怪我はなかったそうです。背中の傷も、凶器が一旦首輪に当たって威力が減じられたので致命傷にならなかったんだろうということでした。それに体毛もショックを和らげますからね。まともに当たってたら、背骨が折れていたかもしれないということでした」
「背骨が……」
 由利子はゾッとした。と、同時に大事に至らなくて良かったとほっとした。
「じゃあ、助かるんですね!」
「まだ太鼓判は押せないということでしたが、当面の危機は乗り越えたということです」
「アレク、本当にありがとう。あなたが的確な措置をとってくれたおかげよ」
「いえ、それに偶然でしたが、僕が連れて行ったところがミツキちゃんの罹り付けの先生だったんですよ」
「そうだったんですか」
「とにかく彼は腕も良いし、信頼できる男です。これで心配がひとつ減りましたね。とにかく、今日はもうゆっくり休んでください」
「ええ、そうします」
「そうだ、もうひとつ。明日はお暇ですか?」
「暇も何も、暫定失業者ですから」
「あはは、暫定ですか。では、明日は感染症対策センターの方に来てもらえませんか」
「感染症対策センター?」
「はい、現在多美山さんが入院されている県の医療施設です。家でじっとしていても不安でしょ? これから君も頻繁に出入りするところですから、見学とご挨拶を兼ねて。午前中僕は講義があるので、午後からにしましょう。大丈夫、帰りはまたお送りしますから」
「わかりました。実は行ってみたかったんです、そういう所」
「OK、では、場所等はメールでお送りしておきますね」
「はい」
「では、また明日……」
「あ、そういえば葛西君は?」
「今日は、僕の部屋にお泊め……したかったのは山々でしたが、ナガヌマさんと県警本部の方に行きました。非常に残念です」
「それは良かった」
 由利子はくすくす笑いながら言った。
「え~っと……。まあ、いいですけどね。では、僕と違って君はミハの件で精神的にかなりダメージを受けていますから、ゆっくり眠ってください。寝る前にホットミルクなどのカフェインのない暖かいものを飲むといいですよ」
「ありがとう、やってみます。ではおやすみなさい」
「Good night!」
 ギルフォードとの電話が終わると、由利子はまたため息をついた。美葉の行方はわからないが、あの時点で殺されたり傷つけられてれて放置されたりしていなかったので、彼女が無事な可能性は高い。それに、なんとか美月は助かりそうだ。美葉は見かけに寄らず芯の強い女だ。あの恐ろしい事件から立ち直ったのだから。ギルフォードの言うように希望を持とう、由利子は自分に思い聞かせた。
 

 どうしてこんなことになったんだろう……。

 美葉は虚ろな眼でぼんやり考えていた。
 横にはかつて愛していた、今は憎むべき男がぐっすりと眠っていた。美葉ならば、逃げようと思えばさして難しい状況ではない。しかし、彼女は逃げることが出来なかった。

 数時間前……。

 美葉は、暗い場所で眼を覚ました。何か狭いところに寝かされているようだ。しかし彼女は、自分の置かれた状況がしばらく理解できなかった。一時的に記憶が飛んでいるらしい。
(今日は由利ちゃんと会って、確か私はうちに帰って……)
 考えているうちに、美葉はだんだんと記憶を取り戻した。
(そうだ、私はあの時首になにか当てられて、そのまま気が遠くなって……)
 美葉は、状況を把握しようとゆっくりと周囲を見まわした。どうやら車の中に居るようだ。後部座席のシートを倒して、寝かされている。とにかく身を起こそうとした美葉は、愕然とした。両手がヘッドレストに縛り付けられている。美葉は、必然的に万歳をしたような格好で寝かされていた。
「なに、これ?」
 美葉は、自分の置かれた状況に驚いて言った。運転席でFM局を聞きながら、缶コーヒーを片手にくつろいでいた結城が、その声に気がついて振り返った。張り付いた笑い仮面のような表情だった。一瞬目が合って、美葉はおぞましさに息を呑んだ。
「やあ、眼が覚めたかい?」
 結城が言った。
「すまないね。また暴れられると厄介だから、ちょっと自由を奪わせてもらったよ」
 そう言いながら結城は、運転席と助手席の間をするりと抜けて、美葉の横に座った。
「傍に来ないで! 早く私をうちに帰して! 早く病院に連れて行かないと、美月が死んじゃう!!」
「犬のことより自分の心配をしたらどう?」
 結城は笑いながら言うと、結城は美葉の上に覆いかぶさった。
「流石のおまえもこれでは何も出来ないよね」
 美葉は、とっさに膝蹴りを入れようと試みたが、狭い車内では簡単にはいかず、あっさり右膝を掴まれて押さえつけられてしまった。そのため、短めの黒いルームワンピースのすそがめくれ上がり、白い内腿がむき出しになった。
「なかなかいい格好だねえ」
 結城はまた笑いながら言うと、舐めるような目で美葉の身体を見た。
「久しぶりだね、美葉」
「触らないで! もうあんたなんか大っ嫌い!!」
 美葉は顔を背けながら言った。
「もう『ゆっちゃん』とは呼んでもらえないんだ。つれないねえ……。」
 結城は両手で美葉の顔を押さえて正面に向けた。
「今まで、数え切れないほど肌を合わせていたじゃないか。ほら、この唇も、他の部分も……」
 そう言いながら結城は美葉と唇を合わせたが、すぐにはじかれたように飛びのいた。
「おまえ、本当は気が強かったんだね」
 結城は唇を拭いながら言った。血が少し滲んでいた。美葉は低いが静かな声でいった。
「こんどやったら、本気で噛み千切ってやる」
「おお、怖いねえ……。だけど」結城はにやりと嗤った。「おまえは自分の立場がわかっていないね」
 結城は右手を伸ばして美葉の細い首を鷲づかみにした。
「ほぉら、こうやって殺すことだってできるんだよ」
 そういいながらゆっくりと美葉の首を締め上げた。気道と頚動脈が圧迫され眼と鼻の奥の内圧が上がり、頭の中が急激にもわっとした。自然に眼球と舌が飛び出しそうになる。
「苦しいだろ? 死ぬって苦しいんだ。でも、おまえは殺さないから安心して」
 結城はあっさりと手を離した。美葉は咳き込みながら言った。
「殺せば……いい……」
 ようやくそれだけ言うと、美葉は激しく咳き込んだ。咳がなんとか収まると美葉は続けた。
「あんたなんかと一緒にいるくらいなら死んだほうがマシよ。美月だってもう死んでるかもしれない」
「でも君が死んだら、君が大好きなあの『ゆりこ』とかいうお友だちは悲しむよね」
 結城は屈託なく笑いながら言った。美葉は一瞬眼を見開いた。
「おまえのような女の扱い方はよくわかっているんだ。おまえはきっと僕から逃げられない。良い事を教えてあげようね」
 結城は、楽しそうに言った。
「今ね、県下で密かに流行し始めている疫病はね、僕がやったんだよ」
「えきびょう? 何のこと?」
 美葉は、いきなり結城の口から疫病とか言う単語を聞き、寝耳に水できょとんとして尋ねた。
「伝染病さ。新種の出血熱だよ。まったく治療法のない……ね」
「出血熱……? ホントにそんなものが流行ってるの?」
「おや、君は、あの友人から聞いていないのかい? 親友なんだろ?」
「いくら親友だって、言えることといえないことがあるくらい私だってわかってる。それに由利ちゃんは人に情報を漏らすような軽薄な女じゃないもの。そんな恐ろしい病気だったら尚更よ」
「そうか、じゃあ、僕が教えてあげよう。この前、ホームレスが4・5人ほど公園で死んだ事件があっただろ? あれは僕がやったのさ」
「うそ……」
「残念ながら本当だよ。僕は、あの方に言われたとおりにウイルスを撒いたんだ。あの目障りで薄汚いホームレス共を掃除するために」
「どういうこと? それにあの方って?」
 美葉は、結城の言っていることが飲み込めずに訊いた。
「あの方……、偉大なる長兄さまだよ。この地球の救世主様だ。ウイルスで、人間を環境破壊させないレベルまで減らすんだよ。そして、選ばれた人間だけが生き残れるんだ」 
「は? 何それ……」
 美葉は、自分の状況を一瞬忘れて言った。アナクロいSFか、カルト特有の非科学的な妄想にしか聞こえなかったからだ。
「その実験を兼ねてね、こて試しにホームレスを掃除したのさ」
「何言ってるか理解出来ないわ」
 美葉は、なんとなく嫌な予感を感じながら言った。
「僕はね、僕を馬鹿にしたヤスとかいうホームレスに仕返しをしたかったんだ。そうしたら、あの方が言ったんだ。彼の仲間を強力な伝染病に罹らせれば、自然と安田という男も感染して死ぬだろうってね。それで、僕は実行したんだ。あの方の計画通りに。そして、みんな死んだ」
「酷い……。ホームレスの人たちだって、望んでホームレスになったわけじゃないのに……」
「今、警察ではテロとして扱われているだろう。すでに彼等以外の犠牲者が何人か出ているからね。その前に公安が何か情報を掴んでいたらしい。それで公安に追われる羽目になったんだ。もっとも、最初彼らはまだ僕が実行していないと思っていたらしいけどね」
「で、何故、由利ちゃんがそういうことを知っているっていうの?」
「ヒントはおまえも知ってるあの外人の大学教授さ。 あいつはバイオテロの専門家で、テロ対策のアドバイザーとして日本に呼ばれた男なんだ。何かトラブルがあってそれはほとんど反古状態になって、今はここの知事のために、新型インフルエンザ兼テロ対策のアドバイザーをしているらしいけど」
「アレクってそんなすごい人だったんだ……。それで、由利ちゃんが知っているって訳ね」
「すごい……か」
 結城はくっくっと嗤いながら言った。
「そうだね。だけどね、あの方によれば、あいつはこの疫病に何らかの形で関わっているそうだよ。本人は気がついていないようだけどね」
「どういうこと?」
「さあ、それ以上は僕にもわからないよ。でもね、あの教授は間違っている。これはバイオテロなんてチンケな犯罪じゃないんだ。地球にとって健全な環境を取り戻すための荒療治なんだ。僕らは世界を救うんだよ」
「何が世界を救うよ! あんたがやっていることは、ウイルスの恐怖で世界を操ろうとするテロそのものじゃない!!」
「黙れッ!!」
 結城は怒鳴りながら美葉の頬をひっぱたいた。美葉は頬を叩かれ顔を横に背けたが、すぐにキッと結城をにらみつけた。
「いつか隙を見つけてあんたを倒して、テロの実行犯として警察に突き出してやるから」
「勇ましいんだなあ、美葉は。これも新鮮でいいよ。ところでこれはわかるかな」
 結城は首にかけたペンダントをシャツの下から引っ張り出すと、鎖にぶら下がったペンダントヘッドを美葉の目の前にぶら下げた。銀製らしいシンプルな筒型のロケットペンダントだ。
「この中に入っているものは何だと思う?」
「知るわけないじゃない」
「特別に中を見せてあげよう」
 結城はルームライトを点けると、ロケットの中身を出して右手の親指と人差し指で持つと、美葉の目の前にかざした。密閉された半透明な青い樹脂のカプセルに、何か鞘型の種のようなものが入っている。ほんの1秒ほど見せて、すぐにロケットの中に戻すとライトを消し、すぐにペンダントをシャツの下に戻した。
「何だと思う?」
たね……?」
「ある意味近いけど、遠いね。これはある虫の卵だよ」
「卵? そんなじゃもう死んでるわね。それが何なの?」
「いや、生きているよ」
 結城は、平然として言った。それを聞いた美葉は、一瞬息を呑み無意識に身体を引いた。
「い、生きているの?」
「仮死状態みたいな状態だけどね。これは僕がばら撒いたウイルスを、もう少し強力にしたものに感染させた虫の卵だよ。樹脂のカプセルは、ウイルスが万一漏れないようにするためのものなんだ。これはね、切り札なんだ。あの方から、もし、計画が上手く行かなかった場合に追加で仕掛けるように渡されたんだ。この虫は従来型の何倍も生命力が強くてね、空気に触れると急速に孵化が始まる。孵った幼虫の中でウイルスも急速に増え、あちこちに散った幼虫やそれらから感染した仲間の虫から進化型のウイルスが撒き散らされるというわけなんだ」
 美葉は、ゾッとして身動き出来ずに結城の説明を聞いていた。
「僕は、あの方の御指令によりこれを適所に仕掛けるように言われている。これは僕とあの方だけの秘密さ。そして僕の他にこれを持っている者たちに僕が行動を起こすよう命令するんだ。日本中の数箇所で新たな疫病が発生するんだよ、美葉。でもね、もし君が僕から逃げ出したら、僕はすぐにこれを使うよ。或いは、これを奪って逃げたり僕を警察に売ろうとした場合は、すぐに仲間たちに僕から指令を出すよ。『種を撒け』ってね」
 美葉は相変わらず黙っていたが、徐々に呼吸が短く荒くなっていくのが暗い車内で伝わった。相当なショックを受けているのは明らかだった。
「言っとくけど、僕を殺してもダメだよ。僕から定期連絡が無い場合も、仲間が『種を撒く』ようになってるからね。だから、美葉、おまえは僕から逃げられないんだよ。だって、おまえの行動如何で、大勢の人たちが死んでしまうことになるんだからね。わかったら僕から逃げないって約束してくれるかい? おまえはずっと僕の傍にいるんだ」
 美葉は無言で頷いた。結城は満足して笑顔で続けた。
「じゃあ、次。僕の預けたCD-Rがどこにあるか教えてくれないか」
「私の部屋よ」
「うそをつくんじゃない。探したけど見つからなかったぞ」
「探し方が悪かったんじゃない?」
「いい加減にしろ。さっきはどこかに預けたって言ってただろ?」
 結城は問い詰めたが、美葉は答えようとしない。由利子に累が及ぶのを恐れたからだ。
「ふん」
 結城は鼻で笑うと、バッグから何か取り出した。
「じゃ、これはなにかわかるだろ?」
 それは、携帯電話くらいの大きさで黒っぽい色をして、先の方には2箇所電極がついていた。美葉が気を失った時首に当てられたものだった。美葉は、ややこわばった顔で結城を見た。
「そう、スタンガンだよ。これで隠し場所を訊くことにしようかな」
 結城はこれ見よがしにスタンガンを放電させた。凄まじい放電光とバチッという嫌な音がした。美葉は、顔を背け眼を瞑った。
「さあ、ちょっと試してみようか。どこがいい?」
 結城は美葉の上に馬乗りになって、笑い顔でスタンガンを美葉の額に当てた。そのままつぅーっと眉間から鼻・唇と伝いながら、ワンピース越しに胸を這わせ谷間あたりで一旦止め、電極を押し付けた。
「さてどうする? ここは心臓に一番近いんだけど」
 結城に聞かれたが、美葉は顔を背け眼を閉じたまま無言で通した。
「じゃ、先に行っちゃおか」
 スタンガンはまた美葉の身体を這いながら、次はへそのあたりに止まった。
「ここは、内臓との間が一番薄いところだからね、多分効くよ。でもやっぱり上の方に戻ろうか、それとももう少し下に行く? それも楽しいけど」
 美葉は、黙って耐えていた。それに美葉には考えがあった。放電する時には感電を恐れて自分から離れるだろう。その時隙が出来る。その時を狙って彼にもう一度蹴りを入れてやろう。逃げることは出来ないけれど、しばらくの間、結城を行動不能にしてやれるかも知れない。だが、事態は美葉の思惑を裏切った。結城がいきなりスタンガンを投げ出したからだ。
「や~めた。だって、今また気絶されたら、この後のお楽しみがなくなるからね。それに……、CD-Rの在処ありかは大体見当がついたからね」
 結城は貼り付いた笑顔で言った。
「おまえの愛する『ゆりちゃん』のところだろ?」
 美葉は、ギクッとして結城を見た。
「正解だね。おまえがあまりにも頑なだから、そうじゃないかって思ってさ。彼女のうちなら僕はもう知ってるから、いつでも取りにいけるよ」
 結城はニヤリと嗤って言った。美葉の顔色が蒼白になった。
「この前、マンションの下に行ってみたんだ。最近は住所さえわかれば、難なく目的地にたどり着けるから便利だね」
「ああっ、あの時由利ちゃんが電話で言ってた怪しい男、あれ、あんただったの!? 由利ちゃんに危害を加えたら承知しないから!!」
「だからおまえは僕に従うんだよ。わかったかい、美葉ちゃん。さて……」
 結城はまた美葉に覆いかぶさり、今度は美葉のルームワンピースを引き裂いた。
「や! 私の服……」
「大丈夫だよ」結城は言った。「おまえをトランクに入れて運ぶ時、ついでに着替えもいくつか選んで入れてきたからね。ダメだよ、自分が入るような大きいトランクを持ってちゃあ」
 結城はクスクス嗤いながら言った。
「さて、これからが本番だね。せっかくだからこのままがいいかな。刺激的なスタイルだしね」
 結城はにっと笑ってヘッドレストに縛られた美葉の手首に触れた。
 
 美葉はぼんやりと両手首を見つめた。縛られた跡にうっすらと血が滲んでいた。
(今日、私は何度後悔しただろう……)
 再び悔し涙が頬を伝った。シートに体育座りで膝を抱え、顔を埋めて美葉は声を押し殺して泣いた。泣きながら美葉は誓った。今日結城から聞いた話を、なんとかして必ずギルフォードに報せることを。彼がそれを知ることで、何らかの有効なテロ対策を考えてくれるだろうと美葉は考えた。そして、それは、この男への最大の復讐にもなるだろう。そのためには、この屈辱をじっと耐えてやる。美葉は顔を上げて窓の外を見た。外界は白々と夜が明けようとしていた。
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