朝焼色の悪魔 Evolution

黒木 燐

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第二部 第二章 指南

6.七匹の子ヤギ

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 三人が去った後、残された女二人は拍子抜けしたような心持ちで、しばらく黙って酒を飲んでいた。最初に美葉が口を開いた。
「いきなり寂しくなっちゃったねえ……」
「そうやね……」
 由利子も頬杖を付きながら、冷酒を片手にぼそりと言った。美葉は3人が慌てて去って行った理由が気になるらしく、小声で訊いてきた。
「何があったんやろ。由利ちゃん知っとぉ?」
 仕方がないので由利子も小声で答える。
「警察関係のことみたいだから、よくわからんけど、仕事中に怪我をした葛西君の先輩の容態がよくないごたぁよ」
 詳しい内容を言うことができないので、説明もかなり大雑把だ。
「ふうん。警察官けいさつも大変やねえ」
 美葉は納得したようだった。由利子は考えていた。長沼間とギルフォードの会話から、美葉に対する張り込みも、この事件と関係しているように思えたのだが、それから類推すると、とんでもない結論に行き着くのだ。
(まさかね……)
 由利子は焦って否定した。しかし、やはり気になるので少し聞いてみることにした。
「ところで美葉、あれから彼氏だか元カレだかしらないけど、そいつから何か連絡はあったと?」
「ううん。あれから一向に連絡して来る気配はないよ」
「そう。いっそのことずっと連絡無ければいいのにね」
「相変わらず手厳しいなあ、由利ちゃんは」
 美葉は笑いながら言ったが、すぐに真面目な表情をして訊いた。
「カレのことはともかくさ、由利ちゃん、あの紗弥さんって人、何?」
「何って?」
 急に話が紗弥の方に向かったので、由利子は驚いて聞き返した。
「うん、迎えに来てくれて、最初、綺麗で感じのいい人だなって思ったんやけど、話しているうちにだんだん感じが悪くなってきて……」
「会話が噛み合わなかっただけじゃない? 教授秘書と一般会社のOLだし。そういえば、私も一対一で話したことないし」
「そうかな」
「そうだよ」
(ああ、だから最初ここに来た時、二人の空気が微妙だったんだ)
 由利子は、思い当たって納得した。
(まあ、どっちかって言うとミーハーな美葉と浮世離れした紗弥さんでは、話が合わないのも当然かもしれないな。紗弥さんのようなタイプはアレクと一緒で、美葉のように一見女々したタイプは苦手なのかもしれないし……)
「じゃ、由利ちゃん、今日は二人でしこたま飲もう!」
「え~っと、私、今週やたら飲んでいるような気がするけど……。って、あんた明日会社やん」
「あ、そうか。なんか感覚的に金曜日みたいな気がするよね。あはは、じゃ、適当に飲んで引き上げるか」
「そうやね」
 そう言うと、由利子は冷酒をく~っと空けると言った。
「大将、お代わりね」
「はいよっ! 今日も良い飲みっぷりやね、篠原のねえさん」
「だからその言い方はやめろって」
 由利子は左手で額を抱えながら、右手で主人に向けて裏手チョップのしぐさで突っ込んだ。

 ギルフォードは感対センターの門に着くと、物々しい警備の中身分証を差し出した。確認後門が開き、ギルフォードたちの乗った車は中に通された。
「すごい警備ですわね」
「ミチヨのことがあってから、警備が厳重になりましたからね」
 ギルフォードは、緊張した面持ちで言った。駐車場に車を止めると、足早に多美山のいる特別病棟に向かった。
 隔離病室に隣接するスタッフステーションの前で、ギルフォードは葛西に言った。
「ジュン、君にとって辛い現実が待っているかもしれません。その時、もし君が平常心を保つ自信がないなら、黙ってこのまま帰ったほうが良いです。どうしますか」
「それなら最初からここには来ません。大丈夫です」
 葛西はきっぱりと言った。
「Good! では行きますよ」
 ギルフォードはドアをノックすると、部屋に入っていった。
「ギルフォードです。遅くなりました」
「お呼び出ししてすまんね、ギルフォード先生」
 高柳医師は、ギルフォードを迎えた。
「それで、タミヤマさんは?」
「今日の昼間までは、特に問題はなかったんだが、夕方から発熱をしていたらしい」
「体温は?」
「今のところ37度8分程度だが、これからおそらく上がっていくだろう。血液検査から、すでにウイルス感染の兆候が出ている」
「リバビリンは効かない可能性が高い……ということですね」
「うむ。ラッサに有効な抗ウイルス薬だし、感染の初期も初期だったから、ちったぁ期待はしたんだが……」
「敵は我々にそう簡単な解決はさせてくれそうにない、ということです。他の抗ウイルス薬を試してみるしかないですね」
「暗中模索だよ。中世の医者の気持ちがよくわかるね」
 葛西は、二人の会話を聞きながら、不安を募らせた。
「あの、アレク、すみません。多美さんとお話は出来ますか?」
「ああ、ジュン。ほっぽっててすみませんね。高柳先生、どうですか?」
「そうだな」
 そういうと、曇りガラスの大窓の傍に行き、壁のインターフォンを手にした。
「園山君。多美山さんはまだ起きておられるかな? そうか。そこを開けても大丈夫だな」
 そういうと、ギルフォードたちを大窓の傍まで手招きした。
「君は、葛西君……だったね。そこに立っておいで」
 高柳が壁のスイッチを押すと、曇りガラスが一瞬にして透明ガラスに変化した。
「通電すると、スモークガラスになる仕組みだよ」
 高柳は少し得意げに言うと、受話器を葛西に手渡した。
「オープンでも会話は出来るんだが、今日はこれでお話して」
「あ、すみません」葛西は高柳に礼を言うとすぐに病室に呼びかけた。「多美さん、大丈夫ですか?」
 多美山は、ベッドに横たわったまま葛西の方を向くと、笑顔で言った。
「おお、ジュンペイ。残念ながら、あまり気分はよくなかばってん、まあ、心配せんでんよか。こっちには優秀な先生方がおられっとやから」
「多美さん、すみません、僕……」
「何ば謝りよっとか、おまえは。これはおまえのせいやなか。ところで今日は楽しかったか?」
「はい」
「先生から、ちゃんとバイオテロの講義を受けたか?」
「はい……」
「そうか。俺の代わりにがんばってくれな。頼むぞ」
「そんな、多美さん。それじゃあ……」
「何ば言うとっとか。俺は必ず治って復帰するぞ。そん時はまたコンビを組もう。一緒にテロリスト共をやっつけよう。な?」
「は、はい!」
 葛西が返事をすると、多美山は満足そうに笑った。
「それと、多美さん。頼まれていた御守を買って来たんですけど……」
「ジュンペイ、ありがとうな。ばってん、もう外から簡単に物が持ち込めんごとなったったい」
「え? どうしてですか?」
 葛西の疑問にギルフォードが答えた。
「病室に雑菌を持ち込まないためですよ。患者はかなり免疫が落ちますから、二次感染のリスクを最小限に押さえるためです」
「そうですか……。せっかく買って来たのに……」
「ジュンペイ」気落ちする葛西に、多美山が声をかけた。「俺が治るまで、俺の代わりにおまえが持っといてくれ」
「それじゃ、意味がないような気がしますよ」
 葛西が、少し笑って答えた。
「笑ったな、ジュンペイ。そんでよか。見えない未来を悪い仮定を以って怖がったり悲しんだりしたらいかん。苦境に立った時、何をしていいかわからなくなったら、とりあえず笑ってみろ。そこの先生のごとな」
 葛西は多美山に言われてギルフォードの方を見た。ギルフォードは、忙しく他のスタッフと話し合いをしていた。
「葛西さん、多美山さんお疲れのようですから、そろそろこの辺でよろしいですか」
 病室の園山看護師が言った。
「あ、はい。すみません。……じゃあ、多美さん、お大事に」
「おう、ジュンペイ。おまえもがんばれよ。ただし、無茶をするんやなかぞ」
「はい」
 葛西が答え終わると同時に、無情にも窓が一瞬で曇りガラスに変わり、多美山との回線が途切れた。葛西は、窓に両手を突いてよりかかると、ぎゅっと両目を閉じた。その葛西の肩に誰かがそっと手を置いた。意外にもそれは紗弥だった。

 由利子は、ギルフォードに言われたとおり、タクシーで美葉のマンションの前まで行くと、美葉を部屋まで送り届けようとタクシーを待たせたままにして一緒に車を降りた。
「あ、ちょっと待ってね」
 美葉は、そういうとマンションの前に止まっている車の方に駆けて行った。由利子が後を追うと、美葉は車の運転手と親しげに話をしている。
「美葉ったら、危なかろうもん。ってこの車には見覚えがある! この人ひょっとして……」
「そうよ。警備課の松川さん。あれからなんとなく話しかけるようになっちゃって……」
「あのね~、それじゃ意味がないやろ~、あんたら」
「えへへ……」
 美葉は照れ笑いで誤魔化した。
「もう、さっさと部屋に帰るよっ、美葉!」
「は~い。じゃ~ね。がんばって張り込んでね」
 美葉は松川に手を振ると、由利子と並んでエントランスに入り、オートロックの入り口を通るとエレベーターに乗った。
「一人のときは、これ、使ったらイカンよ」と、由利子は言いながら、ふと気がついた。「あれ、見張り、もう一人のたけむらって人が居なかったな」
「今買いだしに行ってるって」
「そっか、張り込みも大変だね」
「あの松川って人、ちょっといい男でしょ?」
「またぁ、悪い癖が始まった。いい? これはアレクが今日言ったことやけど、どんな強い人でも隙を見せればやられるって。決して油断してはいけないって……。美葉は複数の男に襲われたって負けないかもしれないけど、例えば目の前で銃をぶっ放されたら避けられんやろ?」
「まあそうだけど……」
「人質とか取られた日には手も足も出なくなるやろ。バイオレン〇・ジャックじゃないんだから」
「わかったわかった。って、その例えはどうよ? そもそもどうやったらそういう状況になるのよ」
「だから、例えばだって……」
 その時エレベーターが美葉の部屋の階に着き、ドアが開いた。二人はそそくさと降り、美葉の部屋に向かった。まだ深夜には早いせいか、住人が彼氏と並んで歩いていくのとすれ違った。
「今からどっかに行くのかな?」
「コンビニでしょ。お酒でも切れたんじゃない?」
「もお、由利ちゃん基準でしょ、それ」
 美葉が笑いながら言った。
 部屋について美葉がドアを開けると、愛犬の美月が座って待っていた。彼女は美葉が帰ると喜んで尾をばたばたと振り、擦り寄った。その後に由利子にも軽い挨拶をしに来た。
「美月ちゃん、いつもお留守番お利口さんやねえ」
 由利子は、しゃがんで美月の頭を撫でた。
「あ、お茶でも飲んで行く? いっそ泊まってったら?」
「いや、タクシー待たせとるけん、すぐに帰るよ。ウチにも猫がいるしね。じゃ、また。今度はみんなで一緒に遊ぼうね」
「うん。楽しみにしとぉよ」
「じゃ」
 由利子は手を振るとドアを閉め、マンションの廊下を足早で歩いた。急ぎながら、何故か後ろ髪を引かれるような気がした。
(下に公安の人が見張ってるんだし、葛西君も大丈夫って言ってたし。頼りになりそうな長沼間(ながぬま)さんも事件自体から外された訳じゃなさそうだし、大丈夫よ)
 由利子は階段を駆け下りる間に気を取り直し、そのまま駆け足でタクシーまで急いだ。

 感対センターの廊下にある例の自販機コーナーで、紗弥と葛西がソファに座って紅茶とコーヒーを飲んでいた。ギルフォードが打ち合わせで忙しそうだったので、邪魔にならないように二人はスタッフセンターを出てここでギルフォードを待つことにしたのだ。
「落ち着きました?」
 紗弥が尋ねた。
「ええ」葛西はテレながら言った。「アレクにはああ言ったものの、ガラスが曇って多美さんの姿が見えなくなった途端、たまらなくなってしまって。情けないですね」
「そういうところが良いんだと思いますわ。だから、みんなあなたに好意を持ってくれるのだと」
「そうでしょうか」
「ええ。でも、気をつけないと、それは自分自身を危険に追い込む要因にもなりますわ。時には非情になることも必要です」
「僕に出来るでしょうか」
「無理ですわね、きっと」
 紗弥はキッパリと言った。
「はああ……」
 葛西はため息をついて、上半身を前に倒し膝の上にうつ伏せた。紗弥の答えがモロに応えたらしい。その横で、紗弥が珍しく感情を表し困惑したような表情で葛西を見ていた。

 由利子は、ようやく家に帰り着いた。部屋に入ると、すぐに騒ぐ猫たちにご飯を与える。そして自分用の紅茶を淹れミルクティーにした。ギルフォードと出会ってから、ミルクティーを飲む回数が確実に増えたように思われた。夏場はちゃぶ台代わりの炬燵テーブルの前に座り、ミルクティーを飲みながら、ようやくほっと一息入れた。そこに美葉から電話が入った。
「はい、美葉?」
「うん、帰り着いたかなって思ったけど、連絡が無いんで」
「さっき帰り着いたっちゃん。電話しようと思っとったところやったんよ」
「そっか。私は今お風呂から上がったとこ」
「私も今から入ろうかな~。今日はシャワーで済ませないで湯船にたっぷりお湯溜めて……」
「いい湯だな♪なんて歌いながら?」
「風邪ひくなよ、歯ぁ磨いたか?なんてね」
「ババンババンバンバン」
「あははは、懐かしい」
 由利子は美葉と他愛ない話を15分ほど続けた後、電話を終えた。
「さてっと、この紅茶を飲んだら、お風呂に入ろうっと」
 由利子の頭の中は、すでに入浴モードになっていた。

 美葉は、由利子との電話を終えると寝そべっていたソファから起き上がり、う~んと伸びをして立ち上がった。
「さぁてっと。コーヒーでも入れて、クッキーでも食べながらテレビ見ようっと」
 美葉はそう独り言を言うと、コーヒーを淹れるためにキッチンに向かった。その時、インターフォンが鳴った。
「こんな時間に誰かな?」
 時はすでに夜11時を過ぎていた。インターフォンからモニターを見る。
「ゆ、結城さん……」
 美葉は驚いた。美葉の反応に結城は不審そうな顔をして訊いた。
「どうしたの? 何を驚いてるんだい?」
「あ……、いえ、今まで音沙汰なくて、急に来られたから……。それに、髪も少し伸びて無精ヒゲも……」
「やだな、僕はヒゲが濃いから油断したらすぐに無精ヒゲ生えてたじゃない。それより、早く中に入れてよ。のどが乾いてるからなにか飲ませて」
「あ、あの、それより入り口ののオートロックのドア、どうやって通ったの?」
「ああ、ちょうど帰って来たカップルが居たから、一緒にいれてもらったんだよ」
「え? ……そう?」
  ああ、あの時見たカップルが丁度帰って来たんやね、と美葉は納得した。
「で、ここに来るまで誰にも声をかけられなかった?」
「全然。むしろ、こっちからご苦労さんって声をかけてやったくらいだよ」
「声をかけて何も言われなかった?」
「どうしてそんなこと聞くんだい?」
「あ…、ああ、たいしたことじゃないの」
 美葉は、なんとか誤魔化しながら、考えていた。
(それで、松川さんたちが何も言わなかったってことは、この人を探してるんじゃないってことよね。部屋に通して大丈夫だよね)
「とにかく開けてくれないかなあ。トイレにも行きたいんだ。ここで漏らしちゃうぞ~」
 結城は身体を揺らしながら、おどけて言った。
「もぉ、相変わらずオヤジやね。ちょっと待ってね」
 美葉はくすっと笑うと、玄関まで走って行き、ドアのチェーンを外そうとした。すると、美葉の後をついてきた美月が「ウ~!」と低く警戒のうなり声を上げた。
「こら、美月。相変わらず結城さんと相性が悪いね。いい子にしていなさい。ハウス!」
 美葉に命令されて、美月はすごすごと所定の場所に帰って行った。しかし、「美月の家」の前にいじけたように寝そべった美月だが、耳と目はじっと美葉の様子を伺っていた。
 美葉が結城を招き入れると、彼は彼女を見ながら眩しそうな笑顔で言った。
「美葉、久しぶりだね」
 そして、彼はいきなり美葉を抱きしめた。
「ああ、美葉だ。美葉だ。ずっと会いたかったよ。ずっと後悔してた。妻のこと黙っててごめんな、騙すつもりじゃなかったんだ」
「結城さん……」
 美葉は、自分を騙していたこの男に対して、ついさっきまで抱いていた恨みや怒り・悲しみが、抱きしめられたことによって氷解していくのを感じた。結城の心臓の音や息遣いを聞いて、切なくなった。美葉は、一瞬自分も結城を抱きしめようとしたが、途中でその手を止めた。それからすぐに結城を軽く押しのけ、顔を赤らめて言った。
「結城さん、なんだか臭い」
「おっと、そうだった。ずっと風呂に入ってなかったんだ、僕。ちょっとトイレのついでにシャワーも使わせてくれない?」
「いいわよ。あ、私、今日湯船に浸かったから、お風呂にも入れるわよ。あ、ちょっと待って」
 そういうと、美葉は箪笥に向かい、タオルを出した。
「あ、そうだ。着替えの下着……。たしか随分前に置いて帰ったのがあったよね」
 美葉が抽斗(ひきだし)の中をごそごそと探すと、奥の方からビニール袋に入った男物の下着が出てきた。
「あ、あったあった。はい、どうぞ。 さすがに着替えの服はないから、今のままで我慢してね」
「ありがとう。これでさっぱり出来るよ。じゃあ、ちょっと入ってくるから」
「ええ、ごゆっくり。じゃ、私はコーヒー淹れて待っているわね」
「嬉しいね」
 そう言いながら、結城はバスルームに入っていった。しばらくすると、水音がし始めた。美葉はキッチンに向かい、コーヒーを淹れるため戸棚からフィルターを出そうと手を伸ばして、ふっと考えた。しばらくお風呂に入ってないって、どういうこと? それに、さっきインターフォンで結城が言った言葉。
『むしろ、こっちからご苦労さんって声をかけてやったくらいだ』
(確かに私は誰かに声をかけられなかったかって聞いたけど、普通ならなんて答える? 私なら……? そう、多分『いいえ。どうして?』。でも、彼の言い方は何? まるで張り込みを知ってたみたい……)
 そう思ったとたん、美葉の背に冷たいものが走った。
(私のバカ! 結城さん、なんでかわからないけど、張り込みのレクチャーが出来るほどそういうのに詳しかったじゃない! 声をかけたって、まさか……)
(どうしよう……。うちの中に入れちゃった……)
 美葉は、由利子が言ったギルフォードの言葉を思い出した。
『どんな強い人でも隙を見せればやられる。決して油断してはいけない』
 美葉は、手に取ったフィルターを放り出すと、居間まで携帯電話スマートフォンを取りに行った。急いで由利子に電話をかける。しかし、繋がらない。
「あ……、由利ちゃんも入浴中なんだ……!」
 美葉はつぶやくと、がっくりとソファにへたり込んだ。
(そうだ、メール! とにかくメール送っとこう!)
 美葉は気を取り直すと、また携帯電話に向かった。しかし、焦ってなかなか文字が打てない。
「もうっ、キーボードが小さすぎてタイポしてしまうっ! テンキー練習しとくんやった」
 美葉は、テンキーでの文字打ちが出来ない自分を呪った。パソコンのキーボードなら一瞬なのに!
 その時、後ろで男の声がした。
「誰に焦ってメールしてるんだい? 美葉?」
 ぎょっとして美葉が振り返った。そこには、全裸でまだ身体が濡れたままの結城が立っていた。手には、なにか黒い得物エモノのようなものを持っている。メールに四苦八苦していた美葉は、全く気配に気がつかなかったのだ。美葉はとっさにメールを下書きで保存し立ち上がったが、結城の様を見るなり電話を握りしめ目を見開いたまま、身動き出来なくなってしまった。

 時間はその少し前に戻る。
 松川は、買出しに出た武邑の帰りが遅いので、やきもきして待っていた。その時、電話に着信があった。長沼間からだ。急いで電話に出る。案の定、武邑が居ないことに対して大目玉を食らった。
「武邑は、後からこっ酷く説教をしてやる。とにかく、武邑が帰って来るまで油断するなよ。いいな。結城の顔はちゃんと覚えているだろうな」
「忘れませんよ。でも、あんなインテリそうな人がテロを画策しているなんて信じられません」
「馬鹿か、貴様。 アメリカの炭疽菌事件の犯人はどうだった? いや、それ以前にO教団のテロ事件に、どれだけのインテリと言われていた連中が関わっていたか知っているのか!?」
「す、すみません。勉強不足で……!」
「まったく、おまえら、普通の会社員リーマンにでもなっとれば良かったんだ。平和ボケしやがって、税金ドロボーが!! もういい。とにかく異状があったらすぐに連絡しろ、いいな。ターゲットになにかあったら、貴様ら二人まとめてひき肉にしてやるからな!!」
 長沼間は、一方的にまくし立てると電話を切ってしまった。
「はあ~。ああいうけど、何日もずっと異状なしだし、退屈だもんなあ……。ああ、家のベッドで寝てぇ……」
 そういうと、松川は大あくびをした。その時、窓を叩く音がしたので、松川はぎょっとしてそっちを振り向いた。そこには、中年の男らしい顔がのぞき込んでいた。しかし、松川の目には少し涙が浮かんでいるため、若干視界がかすんで見えた。もちろん、先ほどの大あくびのせいだった。しかもマンションの明かりで逆光気味で顔がよくわからない。松川は、焦って目をこすった。
「お疲れ様。退屈そうですね」
 男はそう声をかけると、にこっと笑って背を向けた。その時一瞬だが男の顔が見えた。松川はその瞬間たるんだ気持ちが一気に緊張するのがわかった。あいつだ!
 男の顔と姿を確認した松川は、驚いて車から降りようとした。中肉で背は高め、面長の顔で人好きのする知的な笑顔、写真より若干やつれ、長髪と無精ヒゲで容貌はかなり変わっているが、さんざっぱら写真で容姿を覚えさせられた、結城に間違いない。急いで車を降りながら、松川は悠々と歩いている男に声をかけた。
「そこのあなた、止まりなさい」
 男はゆっくりと振り向いた。監視カメラ対策なのか、すでに彼は大きめのマスクとサングラスで顔を隠していた。
「なにか御用でも?」
「警察です。少しお話を聞かせて……」
 その時、男がくくっと笑った。そのままきびすを返してマンションに駆け込もうとする。
「ま、待て!!」
 松川が結城を追おうとしたその瞬間、彼の後頭部に激痛が走った。そのまま松川の意識が途切れた。

「松川! しっかりしろ!!」
 松川は自分をゆり起こす声を聞いた。買出しから帰った武邑だった。松川は急いで時計を見た。まだ2分と経っていない。松川は立ち上がろうとして、うめき声を上げ後頭部を押さえた。大量の血で掌がべっとりと赤く染まった。
「ゆうき……いま……マンション……」
 松川はそれだけ言うと、また意識が遠くなるのを覚えた。
 
 武邑は松川が完全に気を失ったのを確認すると、「すまんが奴を追うぞ」と、彼を置いてマンションのエントランスに駆け込み怒鳴った。
「結城! 今日は逃がさんぞ! 貴様の不始末の報いを受けさせてやる!!」
 その時、男女の小さい悲鳴が聞こえた。声の方向を見た武邑は、信じられない光景を目撃した。オートロックのドアの前で、マスクとサングラスで顔を隠した男が気絶した女性を抱きかかえて立っており、足元には若い男が倒れていた。男の片手には、細長い黒い皮の袋のようなものが確認できた。
「スラッパー……! そんなもので人を……貴様ァッ!」
 武邑は、男に体当たりをかませようと突進した。しかし男はあろうことか、今抱きかかえていた女性を右手でつかみ、武邑に向かって物のように投げつけた。見た目からは考えられない力だった。武邑に女性の身体が直撃して、二人は重なったまま床に倒れた。女性の頭部が下顎に激突した直後に床からの強い衝撃と女性の荷重を受けて、武邑は全身が痺れ動けなくなった。その武邑の目に男がゆっくりと近づくのが見えた。男の靴の裏が自分の顔面に迫って来るのを、彼は成す術もなく見つめていた。男は武邑の顔を蹴り上げた。とどめが効いて武邑は声も立てずに意識を失った。
 男はカップルの部屋番号を押しオートロックのドアを開けると、3人の体を公共トイレの中に隠し悠々とエレベーターに乗った。

「悪い子だなあ、美葉は。様子が変だと思ったら、やっぱり警察と繋がってたんだね」
 結城は笑いながら言った。美葉は目を見開いたまま首を横に振った。
「違うのか? まあいいや」
 結城は美葉の手から電話をもぎ取り、床に投げ捨てた。蓋が外れて電池が飛び出した。
「さて、預けたCD-Rを返してくれないか?」
 結城は、美葉に詰め寄ると彼女の身体を抱きよせようとした。その瞬間、結城の身体が空に舞った。結城は裸のまま、みっともなく床に投げつけられた。
「ぐう……、美葉、きさま……!?」
 結城は呻き声を上げながら言った。美葉のような小柄な女に投げ飛ばされるとは、夢にも思っていなかった。彼は美葉が合気道の有段者などとは全く知らされていなかった。美葉は、付き合う男に嫌われたくなくて、そんなそぶりは全く見せない女だったからだ。結城が床に倒れている間に、美葉は急いで携帯電話を拾い、電池を入れなおして再び由利子に電話をかけようした。しかし、まだ風呂から上がってないらしく、繋がらない。それで、美葉は書きかけのメールを送ることにした。読んでもほとんど意味不明だが、きっと由利子なら異変に気づいてくれる。美葉はそう確信したからだ。メールを送信した直後、体勢を立て直した結城が美葉を再び襲ってきた。手に持った黒い凶器を美葉に向けて振り下ろそうとした。避けきれない!! 美葉は次に来る衝撃を覚悟した。その時、凄まじい吼え声と共に、美月が結城に牙をむいて飛び掛った。美葉は驚いて愛犬を止めようと命令した。
「ダメ! 美月! ステイ!!」
 しかし、主人の危機を察した美月は、もはや美葉の言うことは聞こうとしなかった。だが、次の瞬間、ギャインという悲鳴と共に美月が床に転がった。結城が手に持った得物で美月を思い切り殴ったのだ。床に転がった美月は、それでも美葉を守るために必死の思いで立ち上がろうとした。その美月の腹を、結城は容赦なく蹴り付けた。美月は再びギャンという悲鳴を上げると、そのまま動かなくなった。その美月を結城はさらに蹴りつけようとした。
「やめてぇ!!」
 美葉は、結城に取りすがって止めた。
「お願い、もう止めて。もう逆らわないから。この子をこれ以上傷つけないで……!!」
 その時、玄関の戸を叩く音がした。
「多田さ~ん? なんか騒々しいって近くの数部屋から苦情が来てるけど、どうしたの? それに今犬の悲鳴がしなかった?」
「あ、は~い」
 美葉は返事をしながら結城を見た。
「行ってこい。怪しまれるとまずい。妙な事を言うと……、わかってるよな?」
 美葉は頷くと玄関に出て行った。
「あ、管理人さん。すみません。ちょっとお部屋の模様替えをしていたんです。そしたらさっき、うっかり犬の上に物を落としちゃって……」
「あらそうなの? 美月ちゃん、怪我しなかった?」
「大丈夫です。びっくりしただけみたい。もう終わりましたから。明日、皆さんにはお詫びに伺いますわ」
「そうね。あなたはしっかりしてるから大丈夫よね。じゃあね。もう、夜中に模様替えなんかしちゃあだめよ」
「すみません。おやすみなさい」
 美葉は、恐縮しつつドアをしめた。管理人は、少し首をかしげながら自室に戻って行った。
「管理人さんだったから、適当に誤魔化して来たわ」
 美葉は結城に告げ、彼には見向きもせずに美月の方に駆け寄った。辛うじて息はしているが、背中の毛に血が滲み、口と鼻からも血を流している。これは早く医者に見せないと危ないかもしれない……。美葉は美月を優しく撫でながら言った。
「ごめんね、美月。私のせいで……。アレクの言ったとおりだったね。私がバカだったよ……」
 美葉の目から涙があふれた。しかし、後悔しても時間は戻らない。美葉は結城に向かって言った。
「この子を動物病院に連れて行きます。急がないと……」
「あのCDを渡すんだ」
「ここにはないわ。ある場所に預けたの」
「どこだ、それは」
「病院が先よ。このままだと美月が死んでしまう!」
「ダメだ。そろそろ公安が動き出すかもしれない。さっさとここを出るぞ」
「どこにでも行けばいいじゃない! 人でなし!」
 美葉は結城に目もくれず、美月を撫でながら吐き捨てるように言った。
「おまえも一緒だよ」
「え?」
 驚いて振り向こうとした美葉は、首筋になにか当たるのを感じた。耳元でバチッと凄まじい音がして、そのまま気を失った。
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