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第二部 第一章 侵蝕
【幕間】豊島家、ある夜の話
しおりを挟む【幕間】豊島家、ある夜の話
豊島恵実子は現在、ごく普通の専業主婦である。以前は教師をしていたこともあるが、結婚して子供が生まれたのを契機に教師をすっぱり辞め、母親業に専念することを選んだ。彼女は、公務員の夫、悟志と二人の娘志帆海と裕海、そして歳の離れた長男輝海の5人家族だが、今年長女の志帆海が就職のため東京で暮らし始めたので、4人暮らしになったばかりだった。
4人での生活にようやく慣れた頃のある夜、恵実子がちょっと遅くなった夕食の片付けを終えて居間に戻ると、小学二年生の息子がテレビを夢中で見ていた。この日は夫は出張、下の娘は明日テストがあるとか言って、すでに自分の部屋に篭ってしまっていて、息子だけがぽつねんと、居間の床にクッションを敷き座っていた。彼はこうしてテレビを見ることが気に入っているらしい。
「こら、あっくん、とっくに9時過ぎとろうもん。寝る時間やろ!」
恵実子は息子の輝海の傍に座ると、何を見てるか番組のチェックをした。どうやらHNKの特集を見ているらしい。しかし、どう見ても7・8歳の男の子が喜んで見るような内容ではない。どこかの有名な医師が出てきて癌がどうのこうのと説明している。新聞のテレビ欄で確認すると、『癌治療最前線』と書いてある。
「あんた、何見とるん?」
恵実子は、画面を食い入るように見ている幼い息子の横顔を、まじまじと見ながら言った。
「なんね、お父さんが癌になったらいかんけん見とぉとね?」
しかし、息子は黙って首を横に振った。
「違うと? どっちにしろ、もう寝んと、また明日起きんってぐずるやろうもん? さっ、おふとん行こ」
恵実子はリモコンでテレビのスイッチを切ると息子を抱きかかえようとした。すると、いきなり息子が半べそをかきながら抗議を始めた。
「おっ、おかあさんは、ぼくがガンで死んでもいいって思っとぉと?」
「へ????」
子供は面白い。時折とんでもないことを言って大人を面食らわせることもよくある。恵実子の息子も例に漏れず……というか、上の子達と比べたらそういうことがずいぶんと多いような気がした。男の子のせいかしら? と恵実子は思った。まあ、そのおかげで退屈しない毎日を過ごせるのだが。
「何ね、あっくんは自分のために一所懸命見よっとね」
「うん」
輝海は、しかつめらしい顔をしながら答えた。
「わかったわかった。じゃ、おかあさんもあっくんが癌になったらイカンけん、いっしょに見ようかねえ」
恵実子は仕方なくテレビを点けると、輝海の横に並んで座った。しかし、昨夜寝るのが遅かったせいか、ものの十分もしないうちに、睡魔が襲ってきた。あくびを連発しながら、我が息子の様子を見ると、さっきまでの真剣さはどこへやらで、下を向いて船を漕いでいる。
(予想通りやね。でも、私の方が先に寝てしまいかねん状態やけど……)
恵実子の心配は当たらず、その後3分ほどで輝海は恵実子の膝を枕に夢の国で続きを見ていた。恵実子は輝海のふくふくした頬を人差し指で「ぷにっ」と押してみた。起きない。すでに爆睡状態である。
「よっしゃ、寝た!」
と、恵実子は輝海を「よっこらしょ」と抱え上げた。
よっこらしょ……、若い頃は滅多に言うことのなかったこの言葉を、最近は1日のうちに何度も言うようになったなと、恵実子は思った。年齢と共に年々体力が衰えてくる。それは仕方がないことだと恵実子は達観していた。
しかし、それでも自分の体力が衰えていることを実感してため息をつくこともある。恵実子は輝海を抱えて寝室に連れて行った。
「やっぱ、こういうときはお父さんが居らな困るねえ」
と、恵実子は独り言を言った。ようやく息子をベッドに寝かせると、幸せそうに眠るちょっぴりユニークな我が子の寝顔を見ながらしみじみと思った。
(でもさ、こういうのを『幸せ』っていうんだよね)
なんの変哲もない、日常の切片の積み重ね。悲しいことや辛い事も沢山ちりばめられているけれど、それでも平均すれば幸せのラインにいる。特別じゃないけれど平穏。
(だけど、これで充分!!)
恵実子はそう思うと、輝海の頭を撫でて電気を消し、そうっと部屋を出た。
「さて、これからたまったDVDでも見るか!」
子供も寝たし、夫は出張だし……と、恵実子はつかの間の開放感に背伸びをして居間に向かった。
紅茶をたっぷりティーポットに用意して、お茶菓子も出して、さて何を見ようかとDVDを物色していたら娘の裕海が居間に入って来た。
「あ、DVD、私、『トータル・フィアーズ』がまた見たい! カップ持ってくるけん、ちょお待っとって」
「あんた、勉強は?」
「あ~、終わった終わった」
裕海はキッチンに行って自分のカップを持ってくると、母親の横にすわって勝手に紅茶を注ぎ始めた。
「『トータル・フィアーズ』やね。これ1本見たら、ちゃんと寝るとよ」
恵実子は、娘に夜更かししないように釘を刺した。
「わかった、わかった」
と、裕海が軽く返事をした。
(あまりアテにならんごたるね)
と、恵実子は思った。そして、母娘の映画鑑賞が始まった。中盤ほど見たところで、恵実子が言った。
「こわいね、核テロとか、ホントに出来るっちゃろか?」
「911テロとか現実にあったけんね。これも911の後に製作された映画やし。原作ではテロリストは中東関係のグループだったのを、洒落にならんからって極右団体に変更されたらしいよ」
と、裕海。好きなだけあって詳しい。
「そういやあ、日本でも世界に先駆けてサリンテロとかあったもんね」
「あまり、そういったもんで先駆けてほしくないなあ」
「あ、核爆発した!」
「これ、大統領もたいがいに放射線被曝しとるよなあ」
「死の灰、死の灰」
「平気で走り回っとぉやん、ジャック」
「あははは」
母娘で突っ込みを入れながら映画を見るのはそれなりに楽しい。そして、平和な豊島家の夜は更けていった。
豊島恵実子は現在、ごく普通の専業主婦である。以前は教師をしていたこともあるが、結婚して子供が生まれたのを契機に教師をすっぱり辞め、母親業に専念することを選んだ。彼女は、公務員の夫、悟志と二人の娘志帆海と裕海、そして歳の離れた長男輝海の5人家族だが、今年長女の志帆海が就職のため東京で暮らし始めたので、4人暮らしになったばかりだった。
4人での生活にようやく慣れた頃のある夜、恵実子がちょっと遅くなった夕食の片付けを終えて居間に戻ると、小学二年生の息子がテレビを夢中で見ていた。この日は夫は出張、下の娘は明日テストがあるとか言って、すでに自分の部屋に篭ってしまっていて、息子だけがぽつねんと、居間の床にクッションを敷き座っていた。彼はこうしてテレビを見ることが気に入っているらしい。
「こら、あっくん、とっくに9時過ぎとろうもん。寝る時間やろ!」
恵実子は息子の輝海の傍に座ると、何を見てるか番組のチェックをした。どうやらHNKの特集を見ているらしい。しかし、どう見ても7・8歳の男の子が喜んで見るような内容ではない。どこかの有名な医師が出てきて癌がどうのこうのと説明している。新聞のテレビ欄で確認すると、『癌治療最前線』と書いてある。
「あんた、何見とるん?」
恵実子は、画面を食い入るように見ている幼い息子の横顔を、まじまじと見ながら言った。
「なんね、お父さんが癌になったらいかんけん見とぉとね?」
しかし、息子は黙って首を横に振った。
「違うと? どっちにしろ、もう寝んと、また明日起きんってぐずるやろうもん? さっ、おふとん行こ」
恵実子はリモコンでテレビのスイッチを切ると息子を抱きかかえようとした。すると、いきなり息子が半べそをかきながら抗議を始めた。
「おっ、おかあさんは、ぼくがガンで死んでもいいって思っとぉと?」
「へ????」
子供は面白い。時折とんでもないことを言って大人を面食らわせることもよくある。恵実子の息子も例に漏れず……というか、上の子達と比べたらそういうことがずいぶんと多いような気がした。男の子のせいかしら? と恵実子は思った。まあ、そのおかげで退屈しない毎日を過ごせるのだが。
「何ね、あっくんは自分のために一所懸命見よっとね」
「うん」
輝海は、しかつめらしい顔をしながら答えた。
「わかったわかった。じゃ、おかあさんもあっくんが癌になったらイカンけん、いっしょに見ようかねえ」
恵実子は仕方なくテレビを点けると、輝海の横に並んで座った。しかし、昨夜寝るのが遅かったせいか、ものの十分もしないうちに、睡魔が襲ってきた。あくびを連発しながら、我が息子の様子を見ると、さっきまでの真剣さはどこへやらで、下を向いて船を漕いでいる。
(予想通りやね。でも、私の方が先に寝てしまいかねん状態やけど……)
恵実子の心配は当たらず、その後3分ほどで輝海は恵実子の膝を枕に夢の国で続きを見ていた。恵実子は輝海のふくふくした頬を人差し指で「ぷにっ」と押してみた。起きない。すでに爆睡状態である。
「よっしゃ、寝た!」
と、恵実子は輝海を「よっこらしょ」と抱え上げた。
よっこらしょ……、若い頃は滅多に言うことのなかったこの言葉を、最近は1日のうちに何度も言うようになったなと、恵実子は思った。年齢と共に年々体力が衰えてくる。それは仕方がないことだと恵実子は達観していた。
しかし、それでも自分の体力が衰えていることを実感してため息をつくこともある。恵実子は輝海を抱えて寝室に連れて行った。
「やっぱ、こういうときはお父さんが居らな困るねえ」
と、恵実子は独り言を言った。ようやく息子をベッドに寝かせると、幸せそうに眠るちょっぴりユニークな我が子の寝顔を見ながらしみじみと思った。
(でもさ、こういうのを『幸せ』っていうんだよね)
なんの変哲もない、日常の切片の積み重ね。悲しいことや辛い事も沢山ちりばめられているけれど、それでも平均すれば幸せのラインにいる。特別じゃないけれど平穏。
(だけど、これで充分!!)
恵実子はそう思うと、輝海の頭を撫でて電気を消し、そうっと部屋を出た。
「さて、これからたまったDVDでも見るか!」
子供も寝たし、夫は出張だし……と、恵実子はつかの間の開放感に背伸びをして居間に向かった。
紅茶をたっぷりティーポットに用意して、お茶菓子も出して、さて何を見ようかとDVDを物色していたら娘の裕海が居間に入って来た。
「あ、DVD、私、『トータル・フィアーズ』がまた見たい! カップ持ってくるけん、ちょお待っとって」
「あんた、勉強は?」
「あ~、終わった終わった」
裕海はキッチンに行って自分のカップを持ってくると、母親の横にすわって勝手に紅茶を注ぎ始めた。
「『トータル・フィアーズ』やね。これ1本見たら、ちゃんと寝るとよ」
恵実子は、娘に夜更かししないように釘を刺した。
「わかった、わかった」
と、裕海が軽く返事をした。
(あまりアテにならんごたるね)
と、恵実子は思った。そして、母娘の映画鑑賞が始まった。中盤ほど見たところで、恵実子が言った。
「こわいね、核テロとか、ホントに出来るっちゃろか?」
「911テロとか現実にあったけんね。これも911の後に製作された映画やし。原作ではテロリストは中東関係のグループだったのを、洒落にならんからって極右団体に変更されたらしいよ」
と、裕海。好きなだけあって詳しい。
「そういやあ、日本でも世界に先駆けてサリンテロとかあったもんね」
「あまり、そういったもんで先駆けてほしくないなあ」
「あ、核爆発した!」
「これ、大統領もたいがいに放射線被曝しとるよなあ」
「死の灰、死の灰」
「平気で走り回っとぉやん、ジャック」
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