朝焼色の悪魔 Evolution

黒木 燐

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第一部 第六章 暴走

8.キープ・オン・ウォーキング

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 子供らの乗った救急車と、それを護衛するような形で警察車両が感染症対策センターまで向かった。生化学防護服を着たギルフォードは、紗弥と目的地で会う事にして葛西ら防護服組の警察官達と行動を共にした。
 ギルフォードは知り合いということで葛西の横に座らせてもらった。しかし、葛西は浮かない顔をして、ずっと押し黙っている。ギルフォードは、葛西の肩をぽんと叩いて尋ねた。
「ジュン、メガネに替えたんですか?」
「え……? あ、はい、今日コンタクトを落としちゃったんで……」
「そうですか、よく似合ってますよ」
 しかし、葛西はギルフォードのフリに応じず、また黙り込んでしまった。コンタクトレンズを落とした時……そう、今日多美山と強盗犯を追った時は、まさかこんなことになるとは思ってもいなかった。今日はいつもどおりに終わり、また、いつもと変わりない多忙な明日が訪れるはずであった。だが、多美山は、あの、実直な刑事は今、致死性のウイルス感染の危機にある。何故だ! 何でこんなことになってしまったんだ!? 葛西は今にも叫びたい気持ちだった。ギルフォードはしばらく黙って葛西の様子を見ていたが、とうとう我慢できずに声をかけた。
「ジュン、タミヤマさんが心配なんでしょう?」
「あ、はい……」
 葛西はそう言って少し黙ったものの、思い切って話を続けた。
「あの、……本当は僕が美千代を取り押さえに向かうべきだったんじゃないでしょうか……。僕の足なら間に合ったんじゃないかって思うと、なんか僕……悔しくて……」
 葛西は下を向いたまま、ギルフォードの方を見ずに答えた。
「タミヤマさんは、ミチヨさんの自殺を止めるのに失敗した時のリスクを考えて、自分より君の方が少年達を守れると判断したんだと思いますよ。僕は彼の判断は正しかったと思います」
 ギルフォードは葛西にそう説明したが、葛西は黙ったままじっとしている。ギルフォードは続けた。
「ジュン、終わってしまったことをいつまでも悔やんではいけません。君は少年達を守った。タミヤマさんはウイルスの拡散を最小限に留めた。二人とも立派に職務を全うしました。そうでしょ?」
 ギルフォードに諭されて、葛西はこっくりと首を縦に振ったが、やはり口をつぐんだまま足下をぼんやり眺めている。ギルフォードも仕方なく静かにしていた。しばらくして葛西が言った。
「アレク、この防護服ってすごく暑いですね。これから真夏に向かうのに、思いやられますよ」
「僕はアフリカや南米で何度も着ました。それも、もっと宇宙服みたいなやつで、その上十何年も前だから、今より出来も良くなくて……。感染の恐怖でなんとか脱ぎたい衝動を抑えていたくらいです」
「僕はこれでも絶えられないくらい辛いです。汗は拭けないしうっかりすると眼鏡は曇るし……。もう、こんなモノを着るような事態が起きないといいですが……」
 そういうと、葛西は深いため息をついた。その後、またしばし黙っていたが、いきなりギルフォードの方に向かうと、ゴーグル越しにまっすぐ彼を見て言った。
「アレク、いえ、ギルフォード先生、多美さんをお願いします。どうか助けてください」
 葛西の目は濡れていた。ギルフォードの目に一瞬悲しいような困ったような表情が浮かんで消え、その後少し寂しそうな笑顔を浮かべて言った。
「もし、タミヤマさんが発症に至った場合、僕もセンターのスタッフも、タミヤマさんと共にウイルスと戦います。決して望みを捨てません。それが僕たちの使命ですから。だから、ジュンもがんばってこのテロ事件を解決してください」
 葛西はハッとした。そうだ、僕は警察官だ。落ち込んでいる場合じゃない。事件は始まったばかりで、ウイルスもそれをばら撒いた犯人も野放しのままだ。
「そうでしたね。落ち込んでいる場合じゃなかったですね。また多美さんからどやされてしまうところだった。アレク、僕は警察官としてこの事件に全力で取り組みます。多美さんの事、よろしくお願いします」
 葛西は再びギルフォードをまっすぐに見て、しかし、力強い目をして言った。
 数十分後、彼等は感染症対策センターに到着した。センターの専用駐車場で、乗ってきた車両をグレーゾーンにして防護服を脱いだ。その後、防護服は滅菌、救急車と警察車両は徹底的に消毒された。

 美千代は搬送の途中で息を引き取った。致命傷を負ったウイルスに蝕まれた末期の体には、救急隊員たちの、せめて夫に会わせるまではという懸命な努力も通用しなかった。多美山は美千代の遺体に両手を合わせ、しばらくじっと動かなかったが、その後どっと疲れたように椅子に座って目を閉じた。彼は、じわじわと実感が湧いてくる恐怖と戦い始めていた。

 一方、祐一は搬送途中で目を覚ました。
「西原君、大丈夫?」
 彼を心配して横に座っていた良夫と彩夏が同時に声をかけ、その後お互いの顔を見て「ふん!」と言って顔をそむけた。祐一は彼らを無視して、その後ろにいた堤の方を見て何がどうなったか尋ねた。しかし、堤は優しく笑って「いいから今は寝ていなさい」とだけ言った。ふと見ると、堤の傍で香菜が下を向いたまま黙って座っており、堤は香菜に寄り添うように座って時折優しく声をかけている。祐一は堤が香菜に考慮しているのだと気がつき、「わかりました」と言って、また目を閉じた。

 美千代は感染症対策センターに搬入され、そこで死亡が確認された。
 子供らは感染症対策センターに着くと、簡単な調書を取られた。事情聴取は葛西と堤が行った。疲れているだろうからと、詳しい事情聴取は日を改めて行われることになった。すっかり夜が更けてしまったので、良夫と彩夏は堤が家まで送ることとなった。センターには祐一たちの両親がすでに待機していた。母親は祐一の顔を見るなり「バカッ!!」と怒鳴りつけ、彼の横っ面をひっぱたいたが、すぐにその場にへたりこむとおいおい泣き出した。
「母さん、何回も心配かけてごめん……、本当に、ごめん……」
 祐一は床に膝を着き、母親の肩に手を置いて何度も謝った。両目から涙がこぼれた。父親は声をかける機会を逸して、困ったように傍に立っていた。
 香菜は、発症していた美千代と長く一緒にいたので、可哀想ではあるが念のため両親とは直接会わせず、ガラス越しの対面となり、一週間ほどセンターで監視されることとなった。一週間というのは、今までの感染者が一週間以内に発症しているからだ。祐一が自分も長時間美千代と話したと申し出、一緒に隔離されることになった。香菜の話から美千代が彼女に触れておらず、香菜の感染リスクを当初考えられたよりもかなり低いだろうと判断された。
 香菜の話では、美千代は直接香菜には一切触れなかったようであった。それが、香菜に美千代に嫌われているという印象を与えていた。落ち込んでいる香菜に葛西が言った。
「香菜ちゃん、僕ね、君の話を聞いて思ったんだ。美千代さんは、ホントは君が大好きだったんだよ。だから病気を感染うつしたくなくて、君に絶対に触ろうとしなかったんだ」
 おそらく腰紐に関しても、と思ったが、葛西はそこまでは口に出さなかった。それを聞いて、香菜は急に美千代が心配になったらしく、葛西に容態を尋ねた。
「あの、おばちゃんは大丈夫ですか? 病気は重いんですか?」
 美千代の死と多美山の負傷は、香菜には伏せられていた。葛西はすぐに答えた。
「おばちゃんはね、あの後すぐに救急車で運ばれたから安心していいよ」
 香菜はそれを聞いて、ほっとした顔をしたが、今まで気を張り詰めていたのだろう、急に堰を切ったように泣き出した。祐一は妹をそっと抱いた。妹の暖かさが心に染みて、自分のせいで妹まで辛い思いをさせたという罪悪感が広がっていった。彼は妹を抱きしめて一緒に泣いた。
 香菜は、よほど疲れていたのだろう、祐一に抱かれたまま、いつの間にか泣き寝入りをしていた。涙を流し辛そうな表情のまま眠る香菜の顔を見て、葛西の胸は痛んだ。同時にテロリストに対する怒りが徐々に増大して行った。葛西はあのスパムメール事件の時のギルフォードの激しい怒りを理解した。
 祐一が落ち着いた頃を見計らって、葛西が言った。
「あのね、祐一君。自分を責めちゃダメだ。これは、全部病気のせいなんだ。そうだろ?」
「葛西さん」祐一は葛西に向かって改めて真剣に尋ねた。「その件でお聞きしたいことがあったんです。僕はずっと考えていたんですが、この病気は意図的にバラ撒かれたものじゃないですか?」
 祐一の言葉に葛西はぎょっとした。
「こんな疫病が自然発生するなんて、不自然だと思うんです。教えてください。僕にはもう知る権利があるはずです。お願いします」
 祐一に問い詰められて葛西は悩んだ。しかし、このまま彼に事実を隠したままでいると、彼はきっと自分に怒りの矛先を向けてしまうだろう。そして、真実を求めてまた危険に晒されるかもしれない。そう思った葛西は意を決して言った。
「わかった。誰にも言わないと約束できるなら教えよう」
「約束します。絶対に誰にも言いません」
 祐一は、まっすぐに葛西を見ながら間髪を入れず答えた。葛西は、うんと頷くと言った。
「詳しいことは話せないけどね、君の推理どおり、これは意図的にばら撒かれたウイルスによる感染症の可能性が高いそうだ。ただ、困ったことに、まだ誰が何の目的を持ってやっているのか、まったくわからない状態なんだよ」
「やはり、そうだったんですか」
「だから悪いのは君じゃない、こんな病気をばら撒いた連中だ。君らは被害者なんだ。雅之君や彼のお母さんを含めてね。いいかい、もう一度言うけど、決して君が悪いんじゃない。怒りの矛先を間違ってはいけないよ。いいね」
「はい」
 祐一は答えると、無意識のうちに妹を抱きしめた。

 多美山は、特別室に入れられ厳重な監視と試行錯誤の治療が開始されることとなった。彼が発症すれば、発症から経過が観察出来る患者第1号となる。人類が幸運であれば、これで有効な治療法が見つかるかもしれない。スタッフ達は、センター所長の高柳とギルフォードの指示の下、一縷の望みをかけて多美山の治療にあたるのである。

 怒涛の半日が一段落し、ギルフォードと紗弥は感染症対策センターの休憩室で自販機のドリンクを飲んでブレイクしていた。
「サヤさん、今日、僕は改めて自分の無力さを実感しました」
 自販機近くの長椅子に座って、ペットボトルのミルクティーを飲んでいたギルフォードは、こう言うと深いため息をついた。彼は、前のめりになって足を組み左ひざに左手で頬杖をつくと、右手で紅茶の残ったペットボトルを持ち何となくラベルを眺めながら続けた。
「子供たちを命がけで守った刑事さんの危機を目の前にして、何も出来ないのですから……」
 壁に寄りかかってストレートティーを飲んでいた紗弥は、ギルフォードの横に並んで座ると珍しく優しい声で言った。
「教授、焦らないで。新型のウイルスが厄介なことは、教授が一番ご存知じゃありませんか」
「ふふ……、慰めてくれてるんですか? サヤさん」
 ギルフォードは紗弥の方を見ると、少しだけ笑って言った。
「それも私の仕事ですから」
 紗弥は、正面を向いたまま答えた。少し照れくさそうな顔をしているような気がした。
「今日はホントに辛かったです。ジュンが捨てられた子犬がすがりつくような眼で、タミヤマさんを助けてくれって言うんです」
「あの、落ち込んだところはそこですか?」
 と、紗弥が訝しげな顔でギルフォードを見ると、彼は真面目な顔をして言った。
「いえ、思い出したんです」
 ギルフォードは、遠くを見るような目をして続けた。
「アフリカで、子供たちから、お父さんをお母さんを助けて、とかね、よく言われたんです。僕らが来たから助かるって、すがるような眼をして言うんです。辛かったですよ、彼等の目が期待から失望に変わっていくのを見るのは……。今日のジュンの眼が、もう、それと同じで……」
 その時、横の方で声がした。
「ギルフォード先生」
 ギルフォードは声の方を振り向き、紗弥は驚いて立ち上がった。声の主はセンター長の高柳だった。彼は50歳半ばで、一見俳優の故、平田昭彦のような渋い外見だが、意外とお茶目な面もある男だ。
「脅かしてすまんね。私もコーヒーを買いに来たんだが、なんとなく声をかけにくい雰囲気だったんで、そっと近づいて機会をうかがってたんだ」
 と、高柳はにっと笑って言った。
「そっと近づいてって、まるでライオンの狩りですね」
 ギルフォードは笑いながら言った。実際紗弥に気づかれずに近づくなんて、タダモノではない。
「珍しく落込んでいるようだね」
 高柳はそう言いながら自販機の前に行くと、ブラックの缶コーヒーを買った。そのままピシッと缶のフタを開けると一気飲みして、ふうと一息つき、ぽいと空き缶をゴミ箱に投げ込んだ。その後ギルフォードの前に立つと、白衣のポケットに両手を突っ込んで、なにやら神妙な顔をして言った。
「ギルフォード先生、君もご存知のように、森之内知事の就任後の重要な目標に新型インフルエンザやサーズ、エボラなどの外来感染症や某国のBCテロ対策があった。そのために知事は君の助言を乞い、君はそれに応えてくれた。その準備があったからこそ、今回のような対応が取れたわけだ。
 最悪の場合、広範囲に広がって表面化するまで気付かずにのほほんとしていて、気がついた時は手が付けられなくなっている可能性もあったんだよ。こんな仕事をしていると、たまに無力感に襲われるときもあるけど、君は君が思っているほど無力ではないってことさ」 
「タカヤナギ先生……」 
「まあ、弱気になるってことは、疲れている証拠さ。これからはもっと大変だ。今日は旨い物でも食って、ゆっくり風呂にでも浸かって寝るといい。じゃ、私はもうちょっとやることが残っているから失礼するよ」
 高柳は言いたいことだけいうと、きびすを返した。
「タカヤナギ先生、ありがとうございます」
 ギルフォードが高柳の後姿に向かって礼を言うと、彼は振り向かず右手を肩のところまでしゅたっと上げて答え、「おいら宇宙のパイロット♪」と、歌いながら去って行った。
「なんか、カッコつけなわりに変な先生ですわね」
「面白い先生です。じゃ、サヤさん。先生の言うとおりご飯を食べに行きましょう。今日は大変な目にあわせたから、オゴります。中華バイキングのお店でいいですか?」
「そうですわね。先生を破産させたくないからそれにしましょう」
 と、紗弥が言った。
「じゃ、行きましょうか。また後ろに乗せてくださいね。帰りは僕が運転しますから」
 二人は空きボトルをゴミ箱に捨てると、並んで廊下を歩いて夜間出口に向かった。
「あ、しまった」
 と、急にギルフォードが言った。
「ナガヌマさんを問い詰めるのをすっかり忘れてました!」
「あの状態では仕方なかったですわよ」
「そうですね。じゃ、早く中華屋さんに行きましょう」
 二人はガードマンに挨拶すると、センターの建物から出、駐輪場に向かった。
 
 さて、忘れられないうちに、由利子の事についても少し触れておこう。
 
 辞表を提出した今日、会社の有志が急遽送別会を企画してくれ、もちろん由利子はそれに主賓として出席した。平日の、それも月曜日にも拘らず、思ったより人が集まって由利子の退職を惜しんでくれた。
 由利子はギルフォードや葛西が今日、大変な思いをしたなどと知る由もない。彼女は大いに飲み、大いに食べた。
 そして、2次会のカラオケ屋で不評を覚悟の半ば居直り状態で、アニメ『宝島』のオープニングテーマを歌ったら意外に評判がよく、それがきっかけで大アニメ祭りが始まって盛り上がりに盛り上がった。送別会は結局2時近くまで行われ、みんなへろへろになってそれぞれタクシーや代行運転を使って帰宅した。
 由利子は途中まで同じ方向に向かう人たちと一緒にタクシーに乗った。K市からストレートでタクシーを使うとバカ高くなってしまうからだ。由利子が社内で一番遠くから通っていたのである。
 皆が途中下車して1人になったタクシーの中、何故か由利子の頭の中で、『宝島』の歌が何度もリフレインしていた。
 由利子は、歌詞の言葉の意味をひとつひとつ考えながら、なんとなく涙が出そうになった。
(いけない、いけない。ナーバスになっちゃダメだ)
 由利子はそう思って違うことを考えようとした。
(そういえば……。外人なのにいつもアルカイックスマイルを浮かべているから気がつかなかったけど、アレクってあのアニメのジョン・シルバーにちょっと似ているかも)
「あの、お客さん?」
 その時、運転手が由利子に声をかけたので、彼女は我に返った。
「はい、何ですか?」
「すみません、あの、眠らないでくださいね。女性を起こすのは大変なんです。下手に触れると問題になることもあるんで」
「あ、ちょっと考え事をしてたんです。大丈夫ですよ。目は冴えてますから……」
「そうですか」
 運転手は安心したように言った。
(う~ん、アレクとシルバーが似てるって思うなんて、そーとー酔っているな……)
 由利子はそう思って苦笑した。由利子を乗せたタクシーは、深夜の道路を走り続けた。明かりも疎らになった寝静まった丑三つ時の街の道路は、異次元への通り道のようにも思えた。
(これからどうなるんだろう)
 由利子は、窓の外の闇を見つめながら、これからのことに漠然とした不安を感じていた。

(「第1部 第6章 暴走」 終わり)   
【第1部:終わり】 第2部へ続く

【追記】
 初出から10年以上経ち、アニメ「宝島」を由利子さんがリアルタイムで見た可能性が無くなってしまいました。再放送やネット配信で見たということでご了承ください。
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