朝焼色の悪魔 Evolution

黒木 燐

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第一部 第六章 暴走

4.イレギュラー

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 真樹村極美きわみは財布の中身を見てため息をついていた。
 帰りの旅費を引くと1000円にも満たない。彼女は20代後半、背が高く細身でかなり華のある美人だ。それもそのはず、今彼女は駆け出しのジャーナリストとして弱小週刊誌の記者をしているが、少し前まで「KIWAMI」という名でグラビアアイドルをしていた。しかし、チャンスに恵まれず鳴かず飛ばずだったグラビアの仕事に見切りをつけて、思い切って今の職業に転職したのだ。しかし、ほとんど枕営業でやっと入り込んだ今の仕事も鳴かず飛ばずは相変わらずで、実入りは以前よりかなり悪くなってしまった。
 今回もデスクに命令されて、K市の暴力団抗争の取材にはるばる九州まで行かされたのだが、命令された段階で既に出足から遅れており、後手後手に回ってろくな取材も出来ずに終わってしまった。ここまでされて流石の極美も、自分が厄介者扱いされていることに気がついた。
 彼女は腹が立ってなんとか一矢報いたいと思いつつ、どうしようもない現実に持って行き場の無い苛立ちを感じていた。このままおめおめと東京に帰るのか……。それとも自腹を切って取材費を出し、もう数日取材を続けるか……。そう考えながら、K駅のコンコースを歩いていると、昆布出汁ダシの美味しそうなにおいがした。見るとうどん屋の暖簾がかかっている。腹が減っては戦が出来ない。それにうどんなら安く食べられるだろう。そう彼女は考えて、うどん屋の暖簾をくぐった。
(肉うどん……。大エビ天ぷら2尾入りの上天ぷらうどん……、あ、蕎麦もあるじゃん)
 メニューを見ながら彼女はごくりと唾を飲み込み、朝から何も食べていなかったことにようやく気づいた。少しは栄養があるだろうと、ペットボトルのミルクティーを1本買って飲んだだけだ。極美は続けてメニューを見た。
(昆布うどんにワカメうどんって……ヘルシーじゃん。へ~え、ごぼう天うどんってのがある、何これ……、あ、練り物のごぼ天じゃなくて、切ったゴボウに衣をつけて揚げた天ぷらが入ってる。おいしそー)
 しかし、極美は財布の中身と相談した末に一番安いかけうどんを注文した。うどんはすぐに来た。来たうどんを見て極美はちょっと嬉しかった。ネギだけではなく、ペラペラのスライス状ではあるが縁が紅色の板かまぼこが2枚入っていて彩を添えていたからだ。かけ汁は関東に比べるとやはり色がかなり薄く関西風ではあるが、見た目ほど甘くはなく、昆布と鰹の出汁が効いていておいしい。極美はあっという間に平らげると、最後に水を一気飲みしてようやく人心地がついた。そしてしばらくここで休んでこれからのことを考えることにし、傍に置いてあるウォーターピッチャーからコップに水を注いだ。
 道は二つ。彼女は水をちびちび飲みながら改めて考えた。このまますごすごと帰るか、確率の低いスクープを求めて、自腹で取材を続行するか……。
 そんな中、極美は近くの席に座って話している、40代くらいの主婦らしき女性二人の話が耳に入った。
「ねえ、この前、ここから少し行ったところにある祭木公園で、ホームレスの大量死が見つかったやない?」
「4人が大量というかはともかく、気持ち悪い話ではあるね」
「あれね、暴行死っていう話やけど、実は伝染病じゃないかってウワサもあるとよ」
「ああ、アタシも聞いたことある、そのウワサ。早朝の公園に防護服を着た人がいっぱい居たとか、警官が他のホームレスにも熱を出したのがおらんか聞いて回っとったとか」
「実際数日間立ち入り禁止になっとったし消毒臭かったけんね。まあ、死体が四つも出たっちゃけん、それも不思議じゃなかばってんが」
「あれ以来、あの公園に近づく人もめっきり減ったけん」
「ここのバスセンター界隈にもホームレスの多かろうが。なんか気持ちの悪かばってんが」
「なんとかならんとかね、あん人たちゃ」
 極美のアンテナが何かを察知した。彼女は女性たちの席の近くに椅子ごと移動すると声をかけた。
「すみません、その話、詳しくお聞きしていいですか?」
「詳しくって言うたって、ウチらもそげん詳しいことは知らんとやけどねえ」
 女性達は、困惑したような表情でお互い顔を見合わせた。
 
 授業を終えた香菜は、途中まで同じ道の友だちと別れた後一人で自宅に向かっていた。その横に、一台の自動車が止まって中の女性が香菜に声をかけた。
「香菜ちゃん!? 西原香菜ちゃんでしょ?」
 香菜は振り返って首を傾げながら尋ねた。
「はい、そうですけど、あのぉ、おばちゃん、だれですか?」
「私? 私はあなたのお母様、真理子さんの友だちで、秋山美千代っていうの。それより、お兄さんの祐一君が大変なのよ」
「ええ!? おにいちゃんってば、またたおれちゃったんですか?」
「そうよ。それでお母さんに頼まれたの。一緒に来てくれる?」
「はい。ありがとうございます」
 香菜は、美千代が綺麗で優しそうな女性で母親の友だちと名乗り、さらに母親や兄の名前も知っていたので、安心して車に乗り込んでしまった。
 しばらく香菜は大人しく助手席に座っていたが、家では絶対に乗せてもらえない慣れない助手席と、なかなか目的地らしきところに着かないことから、不安になって恐る恐る美千代に尋ねた。
「あ、あのっ…、どこまで行くんですか?」
「お兄ちゃんの学校の近くの病院よ。学校の中で倒れたらしいの」
「じゃ、遠いからなかなかつかないですよね……。おにいちゃん、だいじょうぶかなあ? きのうはもうだいじょうぶって言ってたのに……」
「そうね……、大丈夫だといいわね」
 美千代はそっけなく答えた。美千代の態度に香菜は若干の不安を覚えたが、兄への心配が先立って美千代を疑うことは微塵もなかった。それより、香菜は美千代の顔色の悪さが気になった。この人、本当は気分が悪いんじゃないかしら……? 香菜はそう思ったが、気を遣って質問することを控えた。
 しばらく走って美千代はコンビニの前で車を止めた。
「祐一君の状態を尋ねて来るわね。……香菜ちゃん、携帯電話持ってる?」
「ううん、まだ持たせてくれないの。でも香菜今のところ無くても平気…です」
「そう、じゃ、そこの公衆電話でかけるから、そこで大人しく待っていてね」
 美千代はそう言うと、香菜を助手席に残して公衆電話に向かった。
 帰りのSHRの時間、校内放送が祐一に電話がかかっていることを告げた。祐一は担任に席を立つ許可をもらい、事務室に急いだ。事務の女性職員が祐一に言った。
「あ、西原君、なんか秋山雅之君の叔母っていう方からよ。秋山雅之君のお葬式のことでお知らせしたいことがあるって……。可愛そうに、雅之君……」
 彼女は何かを思い出したように涙ぐみながら事務室内に戻って行った。祐一は窓口にある電話に出て、恐る恐る言った。
「もしもし? 西原ですが」
「祐一君ね。久しぶりだわ。すっかり声も大人ねえ」
「え? なんですか?」
 祐一は、想像した電話の内容とのあまりの相違にいぶかしげに言った。
「うふふ。私……、雅之の母よ。昨日チラッと目が合ったわよねえ」
「やっぱりあれはおばさんだったんですか……。すみません、僕がついていながらあんなことに……」
 祐一は、彼なりの誠意を伝えた。しかし、相手はヒステリックに言った。
「いい加減なこと言わないでよ! 私のまあちゃんは死んでしまったの。あなたに謝ってもらっても帰ってこないのよ!!」
「………」
 祐一には返す言葉が無かった。
「今ね、誰と一緒だと思う?」
 美千代はさっきとはうって変わった落ち着いたトーンで尋ねた。祐一は状況が全く読めずに尋ね返した。
「どういうことですか?」
「今ね、香菜ちゃんと一緒よ。…赤ちゃんだったあの子がこんなに大きくなって、それにすっごく可愛いわ。私も二人目に女の子が欲しかったんだけど、ダメだったわ……」
「……? それで、なんで香菜がおばさんといるんですか?」
 祐一は不安になって聞いた。
「あの子、ホントに可愛いわ。危険な目にあわせたくないでしょ?」
「どういうことですか?」
 祐一は、高いところから下を見下ろした時のように、足下からのズシンという衝撃を感じ、一瞬倒れそうになった。
「祐一君、私ね、まあちゃんがホームレスを暴行したとかいうの、信じてないのよ。本当はあなたでしょ。私は騙されないわ」
「いえ、僕は嘘はつけません。それだけは事実なんです、おばさん……」
「いいわ。これから30分後、例の公園で会いましょ。待っているわ。そこでその時の説明をしてちょうだい。絶対にボロを出させてあげるわ」
「わかりました。わかりましたから、香菜を家に帰してやってください。香菜を人質にしなくても、必ず僕はそこに向かいますから」
 祐一は必死で懇願したが、美千代は頑として聞き入れなかった。
「そうだわ、念のためあなたの携帯番号を教えてちょうだい」
 祐一は仕方なく番号を教えた。
「いいわね、一人で来るのよ。香菜ちゃんを無事に返して欲しいでしょ?」
(無事に?)
 祐一はその言葉が引っかかった。まさか……?
「おばさん、ひょっとして……どこか具合が悪いんじゃないですか?」
「私の体調なんてあなたにはどうでもいいでしょ? ……それともあなた、何か知ってるの?」
「いえ、ただ、僕はギルフォードさんという人に……」
 その名前を聞いた美千代は、再び冷静さを欠いて言った。
「なんですって!? あの元米軍の恐ろしい細菌学者とお知り合いなのね。ほら、ひとつボロが出た。この決着は公園でつけましょう」
 そう言って美千代は電話を一方的に切った。
「はあ?」
 祐一は美千代の捨てゼリフの意味がわからずに、電話が切れた後も数秒間受話器を見つめていた。元米軍の恐ろしい細菌学者って何だよ……。
「西原君、どうだった?」
 事務の先生が出てきて尋ねてきたので、祐一は適当に答えて教室に戻った。帰りのHRはほとんど終わりつつあった。最後に礼をして今日のカリキュラムが終わった。皆が部活やら帰宅やらの準備や世間話でざわついている教室で、祐一は席に座り、机に両肘を着いて両手で顔を覆いながらさっきの電話について必死で考えた。とにかく香菜が心配だった。
 雅之のお母さんは、完全に何か誤解している。だけど、病気のことを何故か気がついていて、ギルフォードさんのことについても何か知っているらしい。祐一は考えると余計に何がなんだかわからなくなった。しかし、とにかく行って誤解だけは解かなければ。
(だけど、もしおばさんに雅之の病気が感染っていたら……)
 祐一はゾッとした。彼は彼なりにこの疫病について仮説を立てていたからだ。
(香菜……! 無事でいてくれ……)
 祐一は知らず知らずのうちに、両手を額のところで組んで何者かに祈っていた。
「西原君、どうしたと?」
 その声に祐一はハッとして顔を上げると、良夫が心配そうに顔を覗き込んでいた。
(しまった、厄介なヤツに気がつかれてしまった)
 祐一は思った。美千代は1人で来いと言った。状況を説明したら、良夫は絶対に付いて来たがるに違いない。だけど、それは香菜だけでなく良夫まで危険な目に遭わせる事になる。祐一は当惑しながら良夫の顔を見た。
 
 美千代は、車に戻ると香菜にコンビニで買った紙パックの100%オレンジジュースを与えた。
「さ、喉が渇いたでしょ、お飲みなさい」
「はい、ありがとうございます」
 香菜は素直にジュースを飲み始めた。美千代は自分用にスポーツ飲料を買っていた。しかし、彼女は一口飲むと、そのまま蓋を閉めてボトルホルダーにそれを置いてしまった。
 香菜はそれに気がついて美千代の顔をなんとなく見て驚いた。
「おばちゃん、すごい汗。だいじょうぶ? お熱があるんじゃないですか」
 香菜は美千代を心配して、母親がやるように彼女の額に手を伸ばした。
「触らないで!」
 美千代は香菜の手を跳ね除けた。香菜は予想外の仕打ちに怯えて泣きそうになった。
「ご、ごめんなさい。もし、風邪だったらいけないわ。香菜ちゃんに感染っちゃったら困るでしょ? おばちゃんもあなたのお母さんから怒られちゃう」
 美千代はそう言って取り繕いながら、ハンカチで自分の顔の汗を拭いた。香菜は、その言い訳を信じたらしく、こっくりと頷くと、またジュースの残りを飲み始めた。しかし今の出来事で、香菜の心に美千代に対する危険信号のようなものが生まれ始めていた。
「これから下の道は混み始めるから、高速を通るわよ」
 美千代は香菜に言った。
「…はい」
 香菜は、少し警戒したまま答えた。
 実は美千代は、さっきコンビニで借りたトイレで用を足した時の事で絶望感を感じていた。特に腹痛は感じなかったのだが、大量の黒いタール状の便が出たのだ。さらに手足に小さい内出血が見られた。それで驚いて両手の袖をめくると、点滴の跡に大きく内出血の染みが出来ていた。雅之とまったく同じ状態だ。顔も化粧でカバーされているが、よく見ると目の下に隈が出来ていて、昨日よりかなりやつれていた。香菜の手を跳ね除けたのも、とっさに感染の危険性を考えたからだ。
(私は本当に死んでしまうのだろうか……)
 美千代はその不安を振り払うように、車を飛ばした。

「あのね、西原君」
 良夫は、祐一の横にまた自分の椅子を持って来て座ると小声で話し始めた。
「ボクね、あのことについてギルフォードさんに電話してみたんだ。そしたら先に西原君も電話して来たって教えてくれたんだ」
「そうか……。で、どんな話をしたと?」
 祐一は、内心の心配をカンのいい良夫に気取られまいと、出来るだけ平静を装いながら、やはり小声で言った。
「多分、西原君と同じやと思うけど……」
 良夫はその後少し躊躇して言った。
「話の内容は誰にも言わないって、男同士の約束をしたけん、西原君にも言えんと」
「オレもだ」
 祐一は答えた。それに対して良夫は言った。
「でもね、ボクたち同じ事件に遭遇したやろ、だからそれについてお互いの意見を話すことは出来ると思うっちゃんね。でね、ボクが思ったこと言っていい?」
「ああ、いいよ」
 祐一はむしろ良夫の考えに興味を持って言った。良夫は続けた。
「あのホームレスの安田さん、やっぱり伝染病に罹っとって、あの時秋山君に感染った。それで、秋山君もきっとあのおじさんみたいに、訳わかんなくなって電車に飛び込んだんだって思う……」
「うん、オレの考えもだいたい同じだよ」
「でね、これはギルフォードさんから否定されたんやけど、ボクの考えではこの病気に罹った人はね……」
「何、さっきから二人でこそこそ話してるの?」 
 不意に二人の後で女の子の声がした。二人はぎょっとして振り向くと、女子のクラス委員長、錦織にしきおり彩夏あやかが立っていた。因みに男子は祐一である。
 彼女は東京から越してきた子で、容姿も綺麗だが言葉も綺麗な標準語を話した。彼女はツインテールにした長い真っ黒な髪を揺らしながら両手を腰に当てて言った。
「あなた達、最近アヤシイわよ」
「錦織さんってば、嫌だなあ、ヘンなこと言わないでよ。ひょっとして腐女子?」
 つられて祐一のしゃべり方までが標準語っぽくなった。
「あ、オレ、もう帰らなきゃ。じゃね、錦織さん」
 祐一は、そそくさと席を立つと彼女の傍をすり抜けて行った。良夫がその後を追う。
「待ってよ、まだ話の途中やろうもん」
「ちょっと、西原君ってば!」
 彩夏は祐一の背に向けて言ったが、彼は振り向きもせずに行ってしまった。
「もおっ、頑固者! トーヘンボク! 私だって話があったのに……」
 彩夏は少しふくれっ面をして言ったが、その後小声でつぶやいた。
「なんであんな風に言っちゃうんだ、バカ彩夏!」
 実は先週、彩夏は雅之の死後際限なく落ち込んでいく祐一を力づけようとして、つい、叱咤激励してしまったのである。つい、というのは叱咤激励の比率が「叱咤:激励=9:1」だったからだ。それで、その後何となく二人の間がギクシャクしてしまったので謝ろうと思っていたのだ。
 祐一にフラれた彩夏は、自分の席に着くと左手で頬杖をついてつまらなそうに足を組みながら、思った。
(何よ、チビの佐々木良夫なんかに懐かれちゃってさ、ホ~モ)
 しかし、その後祐一から『腐』と言われたことを思い出して、また落ち込んでしまった。
「待って! 待ってってば、西原君」
 良夫は、長い足でさっさと歩く祐一を駆け足で追いかけながら言った。
「あのさ、錦織さんと何かあったと?」
 祐一はそれを無視してさらに足早に歩いて行った。良夫は若干むっとしたが、気を取り直して本気でダッシュし祐一を追い越した。そのまま祐一の前に立ちふさがって言った。
「じゃ、なくてさっきの続き……やけど、さ……」
 良夫は息を切らしながらそこまで言うと、身体をくの字に曲げ両膝に手を置いてハアハアと息を荒げた。
「西原君さ……、足、速すぎる、よ」
そんな良夫を見ると、祐一はもう無視することが出来なくなった。まあいいや、こいつとはどうせ駅前で別れるんだし。祐一はそう考えると言った。
「ヨシオ、さっきの続き、オレが言ってみようか?」
「え?」
「病気が末期になって宿主に死期が近づくと、近くの人間に感染しようと宿主を操る・・・やろ?」
 良夫は驚いたように祐一を見た。
「うん! やっぱ西原君も同じ考えやったんやね。でも、ギルフォードさんには笑われちゃった。それこそまるでゲームや映画みたいだって。寄生虫にはそういうのがいるけど、遺伝子しか持たない、無生物と生物の中間の性質を持つウイルスには不可能だって」
「でも、あの状況を目の当たりにしたら、そう思ってしまうよな」
 祐一は言った。
「でね、ボクね、その遺伝子に仕掛けがあるっちゃないかって思うっちゃん」
「なるほどね……」
 そこまで話している間に二人はバス停に着いてしまった。
「あ、もう人がおるけん話はここまでやね」
 祐一が言った。
 駅に着いてバスから降り、祐一が今日は用があるからと良夫と別れようとした時、電話が入った。
「家からだ。なんやろ?」
 そういいながら、電話に出る。
「もしもし? どうしたん? メールじゃなくて電話って、なんかあったと? え? 香菜が帰って来ない?」
 もちろん祐一は香菜の帰らない理由を知っていた。しかし彼は、どう説明していいものか、それどころか言っていいものかすら迷った。
「う~ん、だけど母さん、今までだって何回か遅くなったことあったやろ? 猫拾って困ってたり、逆上がりが出来なくて放課後練習してたり……。下校時間までだってもうちょっとあるし、もう少し待ってみたらいいっちゃない? うん…、うん…、出来るだけオレも早く帰るけん、あまり心配せんどき」
 そう、母親をなだめると祐一は電話を切った。
(母さん、うそついてごめん。でも、オレだけで行かないと香菜が危険なんだ)
 電話をポケットにしまいながら、祐一は思った。しかし、良夫は彼の表情を見逃さなかった。
「西原君さ、今の話、なんか知ってるんとちがう?」
「オレが知るわけないやん。香菜の学校はオレん家から歩いて15分だぞ。こっからだとメチャクチャ遠いやん」
「だって、学校で西原君に電話があってからヘンなんやもん」
「考えすぎやって。じゃ、オレ、やっぱ妹が心配やけんもう帰るわ」
 そう言って、祐一はやや一方的に良夫と別れた。良夫は少しの間、そこに立ったまま途方にくれていたが、祐一の尾行をすることに決め、こっそりと彼の後を追った。
 
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