朝焼色の悪魔 Evolution

黒木 燐

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第一部 第四章 拡散

4.エンジェルストランペット

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 雅之は夕食後、久しぶりに自分の机の前に座った。夕食も、元気な時ほどは食べられなかったが、完食して母親を喜ばせた。
(明日は学校に行けそうだ)
 若干フラフラするものの、だいぶ気分がよくなったので、すでに明日は登校するつもりだった。入浴してさっぱりとし、明日の準備をしようとカバンに手をかけた雅之は、ハッとして中から携帯電話を取り出した。具合が悪くなってから、ずっとカバンの中に入れっぱなしだったことに気がついたからだ。開いて見ると友人からいくつか入っていた。雅之は友人からのメールを開いて読み始めたが、祐一からのメールは怖くて見ることが出来なかった。

 20XX年6月4日(火)

 翌朝、雅之が学校に行く準備をしていると、母親の美千代が心配して2階に上がってきた。
「まあちゃん、本当に大丈夫なの? お熱はもうないの?」
「うん、大丈夫だよ」
 雅之は答えた。実はまだ熱は37度を超えていたのだが、登校を止められそうなのでウソをついたのだ。
「そういえば、これはウワサなんだけど、西原さんちの祐一君? 警察にいるらしいわよ」
 雅之はそれを聞いて、頭から冷水を浴びせられたような気がした。
「え? どうして……?」
「詳しくは知らないわ。それで校長と担任の森川先生が警察に呼ばれたそうよ。……あら? まあちゃん、どうしたの?」
 美千代は、今にも倒れそうな息子の様子に驚いて言った。
「大丈夫だよ。ちょっとびっくりしただけだよ。二日も寝込んでたからだよきっと」
 雅之は動揺を誤魔化そうとして言った。
「ホントに学校に行って大丈夫なの? 無理しないほうがいいわ」
「大丈夫だって。僕は授業に遅れたくないんだよ! 着替えるから部屋から出てって」
 雅之は追い立てるように美千代を部屋の外に出し、急いで携帯電話の中の祐一からのメールを開いた。

 『明日朝、K駅前の交番に行く。雅之も来てくれ。待っとるから。』

 祐一らしい、実直なメールだった。
(祐ちゃん、オレが来ないからひとりで自首しに行ったんだ)
 雅之は愕然とした。早く自分が行って祐一の無実を証明しなければ。雅之はすぐに祐一にメールを送った。

 『祐ちゃんゴメン。オレ寝込んでて。今からそっちへいくけん待ってて。』

 雅之はメールの送信をした後、放置していたために電話の電池の残量が少なくなっていることに気が付いた。充電しておこうと充電器につないで机の上に置く。その後、レポート用紙を一枚剥ぎ取ると、それに走り書きをした。

 父さん、母さん、ごめんなさい。
 ぼく、とんでもないことをやっちゃったんです。祐一君はぼくのかわりに警察に行ったんです。祐一君を助けるために今から自首をしに行きます。親不孝を許してください。
 父さん、旅行に行く約束したのに行けなくなってごめんなさい。ぼくが帰ってきたら母さんと3人でいこうね。 まさゆき

 何故か雅之は自分の名前が漢字で書けなかったが、気にとめる様子もなく紙を半分に折り机の上に置いた。置手紙を書くのに少々時間を費やしたので、始業時間に間に合わなくなってしまったが、雅之はもう気にならなかった。すぐに着替えて家を出る準備をする。両腕が内出血で黒くなっているので、制服のシャツは長袖を選んだ。玄関まで行くと、母親が心配そうに立っていた。
「気分が悪くなったら、すぐに帰ってくるのよ、いいわね」
「大丈夫だよ、じゃ、行ってきます」
 雅之は出来るだけ元気に振舞って家を出た。

 由利子は、いつもより30分早い電車に乗った。警察に行く約束をしていたからだ。早めに家を出ようとすると、猫たちが玄関までついてきて、ふしぎそうな顔で彼女を見送った。

 雅之が急いでいると、後ろから彼を呼ぶ声がした。
「雅之? 雅之やろ? おはよう。病気は大丈夫なんか? ひでぇ人相だぞ」
 振り向くと同じクラスの田村勝太だった。昨日の朝K駅で祐一に吊るし上げられた少年である。
「なんだ、勝太か」
「『なんだ勝太か』って、昨日の西原といい失礼なやっちゃな」
「ごめん。おはよう。マスクしとるけん、一瞬誰かと思ったんだよ」
「ああ~、そういや西原もマスクがどうの言うとったな。実はアレルギーらしくてさ」
「この時間に会うとは思わんかったし」
「ははっ、お互い遅刻やね。おれは常習やけど、雅之は病気やったけん遅刻しても大目に見てもらえるやろう。そういえば、西原、ホームレス殺しの件で自首したらしいな。ゴメンな、雅之、俺らお前を疑っとったんや」
「違うんだ、勝太。あれはオレがやったんだ。今から自首して祐ちゃんを助けに行く」
 雅之は素直に言った。
「やっぱそうやったんか。でも大丈夫や? まだ気分悪いんやろ? 今日は暑いのに長袖シャツだし顔色悪いし、白目もなんか黄色っぽいぜ」
「だけど、祐ちゃんを放ってはおけないよ」
「わかった。おれがついて行っちゃるけん」
「ありがとう」
 雅之と勝太は並んで歩き始めた。雅之はまた熱が上がっていると感じていた。しかし、祐一の為になんとしてもK署に行って自首しなければいけない……。すでに雅之には、最寄の警察に行くという、合理的な判断が出来なくなっていた。
 勝太は、歩きながら雅之に事件の経過を詳しく聞こうと思ったのだが、どうも雅之の話が要領を得ず困っていた。
(なんか小学生と話しているみたいやね。こいつはもう少し理路整然と話すヤツやなかったっけ?)
 勝太は思った。まだ熱が高いのだろうか? しかし、雅之はそんなそぶりも見せず機械的に歩いていた。

 美千代は雅之が出た後、心配になって彼の部屋をのぞいてみた。すると、机の上に携帯電話が充電されたままになって置いてある。
「あの子ったら、何かあったとき困るじゃない」
 そういいながら部屋に入った。雅之を追いかけて渡してこようか。今ならひょっとしたら電車に乗る前に間に合うかもしれない。そう思いつつ、電話の履歴を見た。いつもは触らせてもらえないので、中身が気になったのだ。もちろん学校から親に電話の管理をするように言われているのだが。メールを見ると、西原祐一からのメールがあった。心配になってそのメールを開いた美千代は驚いた。一瞬内容が把握できなかったが、机においてある置手紙を読んで、後頭部を打たれた様なショックを受けた。
「止めなきゃ」美千代はつぶやいた。「まあちゃんを止めて説得しなきゃ。きっと祐一君をかばうつもりなのよ!」
 美千代はそういうと、戸締りもそこそこに家を飛び出すと雅之の後を追った。追いかけながら大阪にいる夫に電話する。
「もしもし美千代? どうした?」
 信之は、朝早い時間の妻からの電話に驚いて電話に出た。夫は駅にいるらしい。周りがざわついており、構内アナウンスの声が聞こえる。
「あなた? あなた?……、雅之が、まあちゃんが……!」
 美千代は電話をかけたものの、なんと説明していいか混乱していた。
「雅之がどうした? 具合が良くないのか?」
「違うの、違うの……。いえ、今はとにかくまあちゃんを止めないと! 後でかけ直すわ」
 電話は唐突に切れた。妻からの尋常ならざる電話に信之は不安を隠せなかった。しばらく携帯電話を持ったまま考え込んでいたが、会社に連絡をとるため乗車客の列を離れた。

 雅之たちは、駅の近くの踏切まで来ていた。ここはまだ高架になっておらず、平日朝はいつも通勤客と自動車でごった返していた。雅之が不思議そうな顔をして言った。
「勝太、さっきからすごい朝焼けやけど、雨になるんかねえ」
「朝焼け? 何言ってんだよ、青空だし、全然普通に晴れとるやん」
「だって、周り中全部真っ赤だよ?」
 勝太は雅之の言葉にゾッとするものを感じていた。これは、きっと熱のせいに違いない。
「雅之、帰ったほうがいいよ。一度病院に行ってから出直そう? おれも付き合うけんさ、な?な?」
 勝太は雅之に言ったが、彼は言うことを聞かずどんどん先へ歩いて行った。その時警報が鳴り始め、数メートル先に見える遮断機がゆっくり下りるのが見えた。その警報の音に触発されたように雅之の様子がおかしくなった。
「赤い……。あっ!!」
 雅之は急に何かに怯え始め、何者かに追いかけられるように人ごみをかき分け先に進んだ。驚いて勝太が後を追う。
「雅之、待てって! 急にどうしたとや!!」
 強引に先に進もうとする二人の少年に押され、通勤の大人たちはいやな顔をしていたが、特に咎める様子はない。雅之は遮断機に遮られ、先に進めなくなった。カンカンと警報の音がヒステリックに鳴り響く中、逃げ場を探して雅之はキョロキョロしていた。
「雅之、どうしたんや!? 危ないからこっちに来いよ!」
 勝太の言葉に雅之は答えた。
「いやだ、あのおじさんが来る! オレを捕まえようとしているんだ」
 まったく意味不明な雅之の言葉を聞いて、勝太はインフルエンザ脳症で子供が異常行動を起こしたという話を思い出した。これがそうなんだろうか……。勝太は恐ろしくなった。なんとかしないと。
「赤い! 赤い! ……怖いよ、助けて!!」
 雅之はいきなりすごい勢いで遮断機をかいくぐり、線路に飛び出した。
「雅之ィ!! 危ない、特急電車が来よる!!」
 勝太は雅之を止めようと後を追って遮断機をくぐろうとしたが、誰かに手をぐいと引っ張られ阻止された。ぎょっとして、勝太は手を引っ張った人の方を見た。女性だったが、サングラスとマスクで顔はよくわからなかった。
「放してください! 雅之が死んでしまう!!」
「やめなさい。もう遅いわ」女は妙に冷静に言った。
「放してください! 放せってば! 放せぇ~~~~!!」
 勝太は女の手を振りほどこうともがいた。
「誰か、この子を抑えて! このままじゃこの子まで飛び出してしまうわ!」
 女の言葉に傍にいた男性会社員が二人がかりで勝太を押さえ込んだ。身動きできなくなって、勝太は空しく 線路の方を見た。踏切内、ひとり雅之は立っていた。あちこちからから悲鳴と「危ないから、戻れ!!」という叫び声が聞こえた。誰かが電車を止めるべく緊急ボタンを押しに走った。しかし、あまりにも電車との距離が近すぎた。電車の運転士はとうに雅之に気づき警笛を鳴らしている。
「放せえっ! 雅之!雅之ぃぃぃぃ――――!!!」
 勝太の悲鳴に近い叫び声が警笛にかき消された。雅之は、ゆっくりと電車の方を見た。車体はどんどん近づいて来る。しかし、雅之には何が起こっているかわからない様子だった。電車はすでに運転士の顔がわかるほどの距離になった。運転士は何かを叫びながら必死で電車を止めようとしていた。ブレーキの甲高い音が響き、レールと車輪の激しい摩擦による独特のにおいが当たりに経ちこめた。雅之は電車が迫って来るのをぼんやり見ていた。電車は真正面からぐんぐん近づいてくる。ほんの数秒間のことなのにそれは、まるで映画のスローモーションシーンのようだった。目前に巨大な電車の影が覆いかぶさろうとしたとき、初めて雅之は我に返った。自分の置かれた状況が飲み込めないまま、電車から逃れようとした次の瞬間、雅之は全身に凄まじい衝撃と激痛を感じ、そのまま頭の中が真っ白になり何もわからなくなった。
 凄まじいブレーキ音と警笛を響かせながら、電車は止まった。止まった後も警笛が鳴り響いていた。その音は、まるで巨大な管楽器が鳴り響いているようだった。
 

 電車の中で、由利子はドアの傍に立ち、本を読みながら通勤時間をやり過ごしていた。ふと、窓の外に違和感を感じてそっちをみた。対向の上り電車が駅でもない場所で止まっていた。あれっと思ってそのまま外を見ていると、後続の電車も何台か止まっている。
(事故かしら?)
 由利子は思った。他の乗客もざわざわし始め、由利子の乗った電車も徐々にスピードを落としているのがわかった。車内アナウンスが響いた。
「先ほど、B駅で人身事故が発生いたしました。そのため、列車の運行に支障が出始めております。この電 車もこれより徐行運転をいたしております。お急ぎのところ真に申し訳ありません。なお、電車の乗り継ぎ等、車内アナウンスや各駅の案内でご確認をお願いいたします」
(えええ~~~?)由利子は思った。(もう少しで着くのに……。でも、B駅って私の乗る駅の隣じゃない。いつもの時間に電車に乗っていたら、巻き込まれたかも知れないわね)
 電車は5分遅れで到着した。駅から出た由利子は、インターネットでゲットした地図を開いて言った。
「さあて、K署にはどう行ったらいいのかな?」

 祐一は、朝早くから取調室に呼ばれた。促されるままに席に着くと、前に若い刑事が座った。葛西刑事だ。彼は独身寮にいるため、早々に呼び出されたのだ。
「おはよう、西原君」
「おはようございます」
「昨日は眠れたかい?」
「いいえ……」
 祐一は素直に答えた。
「朝早くからすまないね。実は、急に確認したいことが出来たんだよ。実は今朝早く、君の友だちから電話があったんだ」
「友だちから?」祐一は、雅之からだろうかと期待した。
「佐々木良夫という君の同級生からだよ。彼が全部話してくれた。やったのは君じゃないんだね」
 祐一は黙っていた。
「どうして友だちを庇ったりしたの?」
 祐一は無言で下を向いた。
「代わりに君が罪を償ったって、友だちのためにはならないと思うよ」
「来ると……思ったんです」祐一はやっと口を開き、力のない声で言った。
「雅之……。僕が自首したらあいつも自首してくれると思ったんです……」
「そっか……。佐々木君が言ってたけど、秋山雅之君だっけ? 彼、熱を出して昨日から休んでいるそうだよ。だから、君が警察に来たことを知らないんじゃないか?」
 葛西は祐一を慰めた。
「佐々木君も今朝、君の事を聞いて、びっくりして警察に電話したんだって。佐々木君、詳しいことをちゃんと説明するって、今、こっちに向かってるそうだよ」
「そうですか……」
 祐一は、雅之がとうとう自首しなかったことに対して失望を隠せなかったが、熱を出しているということを聞いて、あの男の死に様を思い出し不吉な予感が頭をもたげた。 

 勝太は雅之が電車と衝突する寸前、顔をそむけ目をぎゅっと瞑り耳を覆った。それでもブレーキ音と何かがぶつかる嫌な音が聞こえた。電車は雅之の身体を巻き込みそのまま十数メートル走って止まった。電車の陰にうつ伏せになった雅之の身体が見えた。それは全く動かなかった。
「救急車を呼べ」
「いや、もう死んどるばい」
「駅員はまだや?」
 踏切り付近は騒然とした。勝太は止める手を振り切って雅之の傍に走っていった。すでにその周りには野次馬が集まりつつあり、車掌が人払いに躍起になっていた。雅之の傍にはもうさっきの女が座って、彼の身体を調べていた。手には手術用のような薄い手袋をしている。車掌が咎めようとすると女が言った。
「安心して。私は医者よ」
 車掌はそれを聞くと、それ以上彼女に質問しようとはしなかった。遅れて運転士が走ってきたが、その状況を見て呆然と立ち尽くしてしまった。しかし、すぐに先輩の車掌に叱咤され野次馬の整理に回った。車掌は場所を離れて無線で会社に状況を説明し始めた。
「だめね。即死だわ」
 女は立ち上がると頭を振って言った。勝太は呆然とした。うつぶせた雅之の周囲にはどす黒い血が広がっていた。普通の血となんか違う……。勝太は遠くの方でそう思った。頭が呆けたようになっていて思考が回らない。これは現実なのだろうか……。その時、勝太は野次馬のなかでスマートフォンを出し、雅之の写真を撮ろうとしている者を見つけた。
「やめろ! おれの友だちだぞ! 撮るなぁ!!!」
 勝太は叫んで雅之の体に覆いかぶさろうとしたが、女にまた止められた。
「困った風潮ね」
女は首に巻いたスカーフを取ると、ふゎっと広げて雅之の上半身にかけた。青い薔薇の花柄がデザインされた美しいスカーフだったが、雅之の身体にかけたとたんに、彼の流した血がじわじわと染みて薔薇をどす黒く染めた。しばらくして救急車とパトカーのサイレンが聞こえてきた。女は勝太を呼んで言った。
「ごらんなさい」
 女は再び雅之の傍に中腰になると彼の袖をめくって勝太にその腕を見せた。
「点々と内出血しているでしょう? これは事故のせいじゃないわ……。救急隊員が来たら、感染症の恐れがあるから必ず保健所に届けるように伝えなさい」
 そういうと、女はさっさと立ち去ってしまった。勝太は周りを見回した。近くの駅から派遣された応援の駅員たちが、野次馬を追い払っていた。勝太も追い払われそうになったので、あせって言った。
「僕は、彼の友人です。傍にいさせてください」
「友だち? では、この少年が飛び出した時の状況を説明できるかい」
 勝太はうなづき、雅之の方を見た。さっきまで話していた友の身体が物のように転がっていた。もう二度とこいつとは話すことが出来ないのだ。そう思い初めて今が現実だと実感した勝太は、顔を覆ってその場に座り込んだ。
「雅之~~~、なんでこんなことに……」
 そういうと、号泣を始めた。駅員は成す術なく傍に座って彼の肩に手を置いていた。
「すみません、すみません、傍に行かせてください!!」
女性の声が一際高く響いた。
「息子かも知れないんです」
 それは、雅之を追ってきた美千代だった。駅の傍まで来たが、事故現場の人ごみを見て嫌な予感がして必死でやってきたのだ。それに気がついた駅員が美千代を人垣から誘導した。美千代は少年の身体におそるおそる近づいた。スカーフに上半身を覆われていたが、その姿を見て美千代は直感した。力が抜けへたり込む美千代を駅員が支えた。もうひとりの駅員がスカーフをめくって美千代に顔を確認させる。美千代は両手で顔を覆いながら声を絞り出すように言った。
「息子の……雅之……です」
 その後、母親の悲鳴のような泣き声が事故現場に響いた。

 踏み切りの警報は機械的に絶え間なくなり続けていた。救急と警察が到着し、あちこちで光が点滅を始め、事故現場はさらに慌しくなっていった。 

 由利子はK署に到着し、応接室のようなところに通された。少し待つと、葛西が姿を現した。
「おはようございます」葛西は軽く頭を下げ挨拶した。
「あ、おはようございます」由利子も立ち上がり追って挨拶をする。葛西は前の席に座ると言った。
「葛西です。はじめまして。篠原さん……ですよね、朝早くからご足労願いまして申し訳ありません」
 と、葛西はまた頭を下げる。「実はですね、今朝から状況が変りまして……」
「え? と、言われますと?」
「一緒に事件現場の公園にいたという子から電話が入りまして、真犯人について新たな情報が入ったんですよ」
「はあ、ということは、私はもう用済みということですか?」
「とりあえず、この写真ですが見覚えありますか?」
 葛西は由利子に写真を見せた。見覚えの無い若い男が写っていた。
「違います。年上すぎますし、もっといい男でしたもの」
 うっかり由利子は言って、あせって口を押さえた。
「すみません、ちょっと試させていただきました。これはウチの署の新人警察官の写真です。本物はこれです」
「ふざけないでください」由利子は少しムッとして言った。
「すみません、相手が未成年なもので慎重にと思って……」
 葛西は頭を掻きながら言った。由利子は新たに出された写真を見て言った。
「この子は、後から駅のホームで例の少年といた子です。間違いありません」
「そうですか。今日の電話と辻褄が合いますねえ……」
 葛西はしばらく考えて言った。
「ところで篠原さん、今、断言されましたが、本当に顔を覚えたら絶対に忘れないのですか?」
「まず、忘れません」
「では、さっき見せた写真の警察官の顔も? 会ったらわかります?」
「写真なので実際に見たほどじゃないですけど、会えばわかると思います」
「へえ、すごいですねえ。僕にもそんな記憶力があればよかったのに」
「人の顔限定ですけどね。まあ、それはそれで困ったものなのですが」
「どうして? そんな能力があったらすごく役に立つと思うのだけど。これは僕が刑事だからそう思うのかもしれないけど……」
「困るのは、忘れたくても忘れられないことです。文字通り顔も見たくない人の顔まではっきり覚えてるんですから……」
「はあ、なるほど。そうですねえ。確かに小学校の頃僕をいじめた先生の顔とか思い出したくないもんなあ」
「刑事さん、いじめられてたんですか?」
 由利子は、屈託の無い葛西の言葉に驚いて言った。
「はあ、なんか僕が気に入らなかったみたいで」葛西は笑いながら言った。その時、多美山がばたばたと部屋に入って来た。
「おい、ジュンペイ! 大変なことになったぞ。今鉄道事故の連絡が入ったんだが、その被害者が例の秋山雅之らしい」
「なんですって?」
 葛西は立ち上がって言った。
「僕はさっきの写真の少年のところに行かねばなりません。ここで待っていていただけますか?」
「わかりました」
 由利子も予想外の展開にびっくりして、やや呆然としていた。あの事故はあの子が……?。由利子は驚くとともに何か妙な宿命のようなものを感じていた。

 葛西は急いで祐一のところに走った。祐一はもう事故の知らせを聞いており、蒼白な顔をして葛西を見ると言った。
「刑事さん、雅之が電車に轢かれたって本当ですか?」
「今、事実確認を急いでいるところだよ」
「預けてある僕の携帯電話を見せてください」
 葛西は近くの警察官の方を向き、持って来るようにたのんだ。警察官は了解し、すぐに祐一の電話をカバンごと持ってきた。祐一は電話を出すと、着信とメールをチェックした。やはり雅之からメールが来ていた。今朝だ。すぐに開いて内容を確認する。

 『祐ちゃんゴメン。オレ寝込んでて。今からそっちへいくけん待ってて。』

「雅之……ここに来ようとしていたんだ……なのに、なんで……」
 祐一は掠れた声で言い、よろよろと椅子に座ると電話を持ったまま机につっぷした。肩が小刻みに震えていた。
 葛西はその姿を見ながら、事故の情報が間違いであることを願った。 

 件(くだん)の女は事故現場から離れると、電話をかけはじめた。
「私です。例の少年が、今『炸裂』しました。おそらく……」
「そうか、やはり予定外に話が進んでしまったな」
「阻止できず、申し訳ありません。まさかあの人があんな……」
「気にするな。単に計画が早めに進むだけだ。『賽は投げられた』というわけだな。まあ、こんな地方で始まったのは想定外だが」
「申し訳ありません……」
「君が謝ることはない。すべては神の思し召しさ。さあ、早く帰ってきて状況を説明しておくれ」
「承知いたしました」
 女は携帯電話を閉じ、軽くため息をついた。
「本当に、どうしてこんなことに……」
 女はそういうと、遠くに見える事故現場の喧騒を思いながら顔を覆ったが、すぐに姿勢を正すと何かつぶやいた。女はその後しばらく歩き、ようやく見つけたタクシーに乗り込むと、JR駅まで行った。N鉄道の事故で電車に乗れなくなった人々が流れてきてごった返した駅の人ごみの中に消えていった。 
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