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第一部 第二章 胎動
3.公園の男
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(1)
「みんな死にかかっとるんや! はよう…早ゥせんと死んでしまう!」
オレンジ色の街灯の照らす公園で、男は必死の形相で言った。
「最初、杉やんが熱を出して倒れて…それから熱に浮かされて暴れ…て…みんなで止めた…んやけど……、杉やんは熱に浮かされたまま…どっかに行って…った。―――何日かして、その時止めた奴らが次々倒れて…な…とか動けるの・俺だけ…杉やん、変な病気にかかっと…や。一人もうは生きとrか…わk…早う医者に診tもらわんと…あいつら、イマは俺のカゾク…今度こそ助けナイと…。―――あんたら、ケイタイもっt…る…やろ?」
男は一気にしゃべろうとしていたが、息が切れてろれつもよく回らない状態だった。相手を楽勝と見てヤル気満々の雅之を抑えながらそれを聞いていた祐一は、気味悪く思いながら言った。
「あの、おじさん、救急車なら公衆電話でタダで呼べますよ」
「ここらは…え…駅まで行かんと…で・でんわ…ない…」
彼の言うとおりだった。近年携帯電話の普及でめっきり公衆電話の数が減っていた。
「早く…はやクして…みんナ・シンで…シマ…」
最初、ある程度の知的レベルを感じさせていた男の言葉が、急速に劣化していった。祐一は何か不吉なものを感じ取っていた。
「何、ワケのわからないコト言ってんだよ!」
雅之は怒鳴った。祐一は驚いた。こいつはこの異常な状況に何も危機感を感じていない。そもそもこんな病人を威嚇してどうするんだ? と、その時の一瞬の気の緩みから祐一は雅之から突き飛ばされてしまった。そのまま体勢を崩し地面に激しくしりもちをついた。突き飛ばされた時に雅之の手が顔に激しく当たり、鼻血がふきだした。
「西原くん!」
良夫が驚いて駆け寄り、すぐに祐一の鼻にハンカチを宛がった。
「やめろ、雅之! そんな病人をいたぶってなんが楽しいとか!?」
祐一は怒鳴ったが、すでにその時雅之は地べたにへたり込んでゼイゼイ言っている男を、容赦なく蹴り上げていた。男はもんどりうって倒れ、そのまま動かなくなった。(まさか、死んだのか?)祐一はぎょっとして男を良く見ると、ピクピク痙攣しているように見えた。生きてはいるようだが、かなり危険な状態みたいだ。救急車を呼ぶか?しかし、この状態をどう説明する…?
「なん寝とうとか!」
雅之は男の襟首をつかみ上げた。男は鼻と口から血を流していたがそれも気にならない様子で、襟首を捕まれたまま周囲を見回すと震えながら言った。
「あ…赤い! アカイ! ミンナアカイ…! チクショウ、オレまで…!」
「何わからん事言うとるんか!そりゃ、街灯の色が赤っぽいけんやろうが!」
怒鳴りながら殴ろうとする雅之を、今度は男が病人とは思えない力で突き飛ばした。雅之はなんとかバランスを取り倒れるのを免れた。
「ヤメロ!オレに近づくな!!」
男は怒鳴った。それが雅之を刺激してしまい、再度男を殴ろうとした。それを見ていた祐一と良夫は凍りついた。男が急に豹変んし「があッ!」と叫びながら、すごい勢いで雅之に襲い掛かったのだ。
「うわ!」
雅之は叫び、そのまましばらく男ともみ合いになった。祐一はとっさに雅之を助けに行こうとしたが、良夫が全身でしがみついている。
「西原くん、危ないからやめて! 秋山君は自業自得だもん、少しは痛い目にあったほうがいいんだ!」
確かに良夫の言うことは一理あるが、これはいわゆる『窮鼠猫を噛む』とは違うような気がした。その間に雅之はなんとか男から逃れていた。というより、男の方が雅之を放しそのまま力なく地面に座り込んだのだった。
「こいつ噛み付きやがった! それに手も!」
雅之の右手の甲には引っかかれたらしい二本の傷跡があり、かすかに血が流れている。
「どこを噛まれたんか?」
相変わらず良夫にしがみつかれた状態で祐一は聞いた。
「腕やけど、制服の上やったけん大したことない」
雅之はつっけんどんに言ったが、楽勝と思った相手に反撃され、驚きと怒りでかすかに震えていた。
「こんクズがぁ!!」
雅之は怒鳴ると、地面にへたり込んでいる男につかみかかった。
「おまえみたいなんは…。」
と、言いかけて雅之は言葉を飲んだ。男が「ゴボォッ!」と嫌な音を立ててどす黒い液体を吐いたからだ。それは普通の吐物とは違ったすさまじい悪臭がした。それは、ある臭いを嗅いだことのある人には思い当たる臭いだった。男の内臓は生きながら腐り始めているのだ。
「うわぁ~っ!」
雅之は驚いて飛びのいたが、すでに遅く制服のシャツにそれが飛び散った。
「な、なんやこれは!? 気色悪ッ!!」
それは雅之の手にもかかってしまったらしい。盛んに右手を腰の辺りで振っていた。男はそのまま倒れ、ゴボゴボと大量の黒い吐物を吐きながら激しく痙攣した。祐一は呆然としながらそれから目を離せなかった。気がつくと、彼にしがみついている良夫はすでにガタガタ震えており、恐怖でひきつける寸前のようだった。
「見たらイカン!」
祐一は良夫を引き寄せると男が視界に入らないよう抱きしめ、自分もぎゅっと目を閉じる。大人でも正視に耐えない光景である。中学生の彼らに耐えられる筈がなかった。
さすがの雅之もその場にヘタヘタと座り込んでしまった。いったい目の前で何が起きているかさっぱりわからなかった。男は痙攣しながら、両手で空をつかみ口をパクパクさせていた。それは何か言っているように…いや、誰かの名を呼んでいるように見えた。その後激しく弓なりにひきつけると、急に力が抜け手がぱたりと下に降りた。みるみる男の目から生きた光が失われ、体が弛緩していった。そして男はピクリとも動かなくなった。
祐一はおそるおそる目を開けて男の方を見た。彼は今静かに横たわり、虚ろになった目に街灯のオレンジ色の光が反射している。
――――死んだ…?
祐一は愕然とした。男のすぐ傍で、雅之が地面に座り込んで呆然と男の方を見つめていた。
(2)
美葉は、まだ泣き続けていた。ハンカチを握りしめ、声を出さずに肩をふるわせて泣いている。取り合えず気が済むまで泣かせて落ち着くのを待とう、そう思っていたのだが、なかなか泣き止みそうになかった。周りの客達がチラチラと様子を伺っているのがわかる。
(私が泣かしたように見えるかもしれないな~)
そう由利子は思うとかなり憂鬱になった。しかし、よく考えたら自分が泣かせたような気もしてきた。損な役回りである。美葉のように儚げで保護欲をそそるような女性に生まれたかったな、と、いつも思っていた。なんでこんなに強そうな外見に生まれたんだろう。昔二股をかけられて結局フラれた時もそうだった。「お前は強いから一人で生きていける。アイツは俺がいないとダメなんだ」という、数多の三文小説やドラマやマンガで使い古されて発酵しつくした陳腐な言葉を残して彼は去って行った。怒りや悲しみよりも、その芝居がかった恥ずかしいセリフにドン引きして彼を見送った、妙に冷静だった自分のことをふと思い出し、さらに憂鬱になった。
話の進展のなさに業を煮やした由利子はひとまず居酒屋を出ることにした。それで、半分ほどグラスに残った冷酒をグイッと呑み干してから言った。
「美葉、とりあえずここから出よ。ね、そうしよ!」
美葉は小さく頷いて、さっきまで握りしめていたハンカチで涙を拭きながらぼそりと言った。
「トイレでお化粧直してくる…」
そう言われて美葉の顔をよく見ると、確かに化粧が部分的に取れてすごいことになっていた。いつも薄化粧かすっぴんの時すらある由利子には有り得ない顔だったので、不思議やらおかしいやらで、多少引きつりながら由利子はなんとか答えた。
「行っておいで。お会計払っとくから……。出口の方で待ってるよ」
由利子は美葉と店を出て、駅に向かって歩いていた。出口でたっぷり15分待たされた由利子は、若干むすっとしており、美葉はその後を下を向いてとぼとぼと歩いていた。しばらくその状態で歩いていたが、だんだん美葉が可哀想になってきた由利子は、足を止めて振り返り美葉に手をさしのべた。
「美葉……」
由利子は再び優しく話しかけた。
「人ってさー、相談する時には大体自分ではどうするか決めてることが多いよね? だから、美葉も心の中では結果を出しているんじゃないかって思うんだけど……」
美葉は無言だった。由利子はさしのべた手で美葉の手を取り、並んで歩きながら続けて言った。
「美葉はさ、きっと誰かにこのことを聞いて欲しかったんだよね。ひょっとして、今までずっと誰にも言えなかったんじゃない?」
すると、由利子が握った美葉の手が小刻みに震え始めた。横を見ると、また大粒の涙を流しながら泣いている。
(げげ…しまった!)
と、由利子は思ったがすでに遅し、美葉は由利子にしがみついて号泣を始めた。
「そだよね。悲しいよね…今までよく我慢してたね、辛かったやろ……」
由利子は美葉の背中を軽く叩きながら、慰めた。こうなったら仕方がない。気の済むまで泣かせてやろう。由利子は腹を決めた。
(でもねえ、名前は由利子だけど、レズっ毛はないんだよね、私……)
行き交う人たちの視線を浴び、由利子は困惑しながら美葉の肩を抱き、繁華街の片隅で立ったまま困っていた。
由利子達の悲喜劇を余所に、こちらでは深刻な展開が続いていた。
倒れた男とその周りに少年が3人、公園のオレンジ色の街灯に照らされていた。少し向こうのとおりから車の音が聞こえたが、公園内は異様に静かだった。しかしその静寂はすぐに破られた。
「人殺し! 人殺し! この人は助けを求めてただけやろ、何でこんな非道い事せんといかんと!?」
最初に我に返った良夫が泣きながらヒステリックに叫び始めたのだ。雅之はその場に座り込んだまま、無言だった。まだショックから立ち直っていないのだ。相変わらず呆然と男の顔を見つめている。
「やめろ、ヨシオ!」
祐一は良夫を制止した。
「だ、だって、こんな…こんなの…ッ!」
「雅之だって、まさかこんな事になるなんて思わなかったんだ。とにかくこれからどうするか考えんと……」
祐一の切り替えは早かった。この状態では自分がしっかりしないと……。祐一は自分の冷淡とも思える冷静さに驚きながら考えを巡らした。
(どうする? 警察に連絡するか?)
祐一はポケットの中の携帯電話を握りしめた。しかし、直ぐに考えなおした。
(いや、ダメだ。それじゃ無関係の良夫にまで迷惑がかかる。あいつはオレが心配でついてきただけだ。巻き込んじゃだめだ。ここは逃げるしか……)
そこまで考えた時、「ひ…ひいっ…!」っという雅之のかすれた悲鳴が聞こえた。
見ると雅之は腰を抜かした状態のまま、這うようにそこから逃げようとしていた。ようやく我に返り、事の次第が理解できたらしい。
「待て、雅之! 落ち着け!」
祐一は叫んだが、雅之は何度か転びかけながら立ち上がり、かすれた悲鳴を上げながら逃げ出した。
「おい、そんな血まみれで何処に行くとや!」
祐一は雅之が放り出していたカバンをひっつかむと雅之を追って走り出した。
「そんな……! 西原君! あのおじさんはどうすると!?」
「あとで考えよう! 今は雅之を追うほうが先やろ!」
祐一は雅之の後を追って走り出した。
「おじさん、ごめんね! 後で誰か呼んでくるけんね……」
良夫はそう言いながら男の遺体に向かって手を合わせると、祐一の後に続いた。
雅之はすぐに見つかった。公園を出たところの電柱に咳き込みながらもたれかかっていたのだ。祐一は雅之に近づくと言った。
「バカやな。そんな血まみれのシャツなんか着たままで人前に出たりしたら、一発であやしまれるやろ。」
言いながら祐一は自分のシャツもあちこちに染みが付いているのに気がついた。手も血まみれになっている。雅之のせいで鼻血を出したことをすっかり忘れていた。冷静に見えても相当動揺しているようだ。無理もないことだが。祐一はこの分じゃ顔も相当汚れてるだろうと思いポケットに手を入れ、ハンカチを出そうとしたら、良夫が貸してくれたハンカチの血まみれになったのが出てきた。もう一度それをポケットにしまい、カバンから自分のハンカチをだして顔を拭いた。その後祐一は自分の制服のボタンを掛けながら雅之に言った。
「とりあえずおまえも上着のボタンを止めとけよ」
雅之は機械的に祐一の言うことを聞いて上着の前を合わせ始めた。
「西原君、顔、よく見たらまだ汚れとぉよ」と、良夫が指摘した。
「うん、どこかで顔を洗わんと帰れそうにないね。雅之のほうもなんとかせんと……」
祐一はため息をついた。
由利子と美葉は、再び駅に向かって歩いていた。美葉は泣くだけ泣いてだいぶ気が晴れたようだ。美葉は、由利子に寄りかかるようにして歩いていた。
「思い出したよ」
由利子が言った。
「10年前、あの馬鹿男にフラれた時、美葉が旅行やら映画やらに誘ってくれたんだよね。あれでだいぶ気が紛れたっけ」
「ほんとはね……」
美葉は言った。
「あの時、由利ちゃんが帰って来たみたいで嬉しかった。だからいっぱい誘ったの。……今日は由利ちゃんに会えてよかった。私、自分がホントは何をするべきかは判っとぉとやけど、ふんぎりがつかんやった。でも、やっとアイツに三行半突きつけてやる勇気が出た……」
「そっか、がんばれ美葉! そうだ、これからウチの近所にあるカラオケ屋に行かない?今日は朝まで歌いまくろう!」
由利子は提案した。
「うん、いいよ! 明日は休みだし」と、美葉。数年ぶりの友情復活であった。
二人は程なくして駅にたどり着いた。美葉は、
「由利ちゃんごめん、またお化粧なおしてきていいかな?」
と聞いてきた。実はさっきの惨状を見た由利子が、そうなる前に見栄え良く涙をぬぐってやったので、さっきよりずいぶんマシなのだが、それでもやはり気になるらしい。
「いいよ、行っておいで。私はここのベンチで待ってるから」由利子は快く答えた。
「じゃあ、ちょっと行ってくるね」
美葉は駅のトイレに走って行った。
(ああいうところがいつまでも女の子なのよね)
由利子は美葉の後ろ姿を見ていたが、すぐにベンチに座ると、さっき居酒屋で美葉を待っている間に読んでいた本の続きを読み始めた。
(さて、何分かかることやら。買っててよかったよ、これ)
美葉がトイレのそばまで行くと、隣の男子トイレに向かう中学か高校くらいの少年3人に遭遇した。
(一人は背が高いけど後の二人はまだ幼いから多分中学生よねえ。こんな時間にここらをうろうろしてるなんて…塾の帰りかしら? 中学生も大変よね)
美葉はそう思いながら彼らの顔をそれとなくうかがった。そのうちの一人は見たことがあるような顔だった。しかし、美葉はあまりジロジロ見るのもマズイと思ってそそくさと女子トイレに入った。
「みんな死にかかっとるんや! はよう…早ゥせんと死んでしまう!」
オレンジ色の街灯の照らす公園で、男は必死の形相で言った。
「最初、杉やんが熱を出して倒れて…それから熱に浮かされて暴れ…て…みんなで止めた…んやけど……、杉やんは熱に浮かされたまま…どっかに行って…った。―――何日かして、その時止めた奴らが次々倒れて…な…とか動けるの・俺だけ…杉やん、変な病気にかかっと…や。一人もうは生きとrか…わk…早う医者に診tもらわんと…あいつら、イマは俺のカゾク…今度こそ助けナイと…。―――あんたら、ケイタイもっt…る…やろ?」
男は一気にしゃべろうとしていたが、息が切れてろれつもよく回らない状態だった。相手を楽勝と見てヤル気満々の雅之を抑えながらそれを聞いていた祐一は、気味悪く思いながら言った。
「あの、おじさん、救急車なら公衆電話でタダで呼べますよ」
「ここらは…え…駅まで行かんと…で・でんわ…ない…」
彼の言うとおりだった。近年携帯電話の普及でめっきり公衆電話の数が減っていた。
「早く…はやクして…みんナ・シンで…シマ…」
最初、ある程度の知的レベルを感じさせていた男の言葉が、急速に劣化していった。祐一は何か不吉なものを感じ取っていた。
「何、ワケのわからないコト言ってんだよ!」
雅之は怒鳴った。祐一は驚いた。こいつはこの異常な状況に何も危機感を感じていない。そもそもこんな病人を威嚇してどうするんだ? と、その時の一瞬の気の緩みから祐一は雅之から突き飛ばされてしまった。そのまま体勢を崩し地面に激しくしりもちをついた。突き飛ばされた時に雅之の手が顔に激しく当たり、鼻血がふきだした。
「西原くん!」
良夫が驚いて駆け寄り、すぐに祐一の鼻にハンカチを宛がった。
「やめろ、雅之! そんな病人をいたぶってなんが楽しいとか!?」
祐一は怒鳴ったが、すでにその時雅之は地べたにへたり込んでゼイゼイ言っている男を、容赦なく蹴り上げていた。男はもんどりうって倒れ、そのまま動かなくなった。(まさか、死んだのか?)祐一はぎょっとして男を良く見ると、ピクピク痙攣しているように見えた。生きてはいるようだが、かなり危険な状態みたいだ。救急車を呼ぶか?しかし、この状態をどう説明する…?
「なん寝とうとか!」
雅之は男の襟首をつかみ上げた。男は鼻と口から血を流していたがそれも気にならない様子で、襟首を捕まれたまま周囲を見回すと震えながら言った。
「あ…赤い! アカイ! ミンナアカイ…! チクショウ、オレまで…!」
「何わからん事言うとるんか!そりゃ、街灯の色が赤っぽいけんやろうが!」
怒鳴りながら殴ろうとする雅之を、今度は男が病人とは思えない力で突き飛ばした。雅之はなんとかバランスを取り倒れるのを免れた。
「ヤメロ!オレに近づくな!!」
男は怒鳴った。それが雅之を刺激してしまい、再度男を殴ろうとした。それを見ていた祐一と良夫は凍りついた。男が急に豹変んし「があッ!」と叫びながら、すごい勢いで雅之に襲い掛かったのだ。
「うわ!」
雅之は叫び、そのまましばらく男ともみ合いになった。祐一はとっさに雅之を助けに行こうとしたが、良夫が全身でしがみついている。
「西原くん、危ないからやめて! 秋山君は自業自得だもん、少しは痛い目にあったほうがいいんだ!」
確かに良夫の言うことは一理あるが、これはいわゆる『窮鼠猫を噛む』とは違うような気がした。その間に雅之はなんとか男から逃れていた。というより、男の方が雅之を放しそのまま力なく地面に座り込んだのだった。
「こいつ噛み付きやがった! それに手も!」
雅之の右手の甲には引っかかれたらしい二本の傷跡があり、かすかに血が流れている。
「どこを噛まれたんか?」
相変わらず良夫にしがみつかれた状態で祐一は聞いた。
「腕やけど、制服の上やったけん大したことない」
雅之はつっけんどんに言ったが、楽勝と思った相手に反撃され、驚きと怒りでかすかに震えていた。
「こんクズがぁ!!」
雅之は怒鳴ると、地面にへたり込んでいる男につかみかかった。
「おまえみたいなんは…。」
と、言いかけて雅之は言葉を飲んだ。男が「ゴボォッ!」と嫌な音を立ててどす黒い液体を吐いたからだ。それは普通の吐物とは違ったすさまじい悪臭がした。それは、ある臭いを嗅いだことのある人には思い当たる臭いだった。男の内臓は生きながら腐り始めているのだ。
「うわぁ~っ!」
雅之は驚いて飛びのいたが、すでに遅く制服のシャツにそれが飛び散った。
「な、なんやこれは!? 気色悪ッ!!」
それは雅之の手にもかかってしまったらしい。盛んに右手を腰の辺りで振っていた。男はそのまま倒れ、ゴボゴボと大量の黒い吐物を吐きながら激しく痙攣した。祐一は呆然としながらそれから目を離せなかった。気がつくと、彼にしがみついている良夫はすでにガタガタ震えており、恐怖でひきつける寸前のようだった。
「見たらイカン!」
祐一は良夫を引き寄せると男が視界に入らないよう抱きしめ、自分もぎゅっと目を閉じる。大人でも正視に耐えない光景である。中学生の彼らに耐えられる筈がなかった。
さすがの雅之もその場にヘタヘタと座り込んでしまった。いったい目の前で何が起きているかさっぱりわからなかった。男は痙攣しながら、両手で空をつかみ口をパクパクさせていた。それは何か言っているように…いや、誰かの名を呼んでいるように見えた。その後激しく弓なりにひきつけると、急に力が抜け手がぱたりと下に降りた。みるみる男の目から生きた光が失われ、体が弛緩していった。そして男はピクリとも動かなくなった。
祐一はおそるおそる目を開けて男の方を見た。彼は今静かに横たわり、虚ろになった目に街灯のオレンジ色の光が反射している。
――――死んだ…?
祐一は愕然とした。男のすぐ傍で、雅之が地面に座り込んで呆然と男の方を見つめていた。
(2)
美葉は、まだ泣き続けていた。ハンカチを握りしめ、声を出さずに肩をふるわせて泣いている。取り合えず気が済むまで泣かせて落ち着くのを待とう、そう思っていたのだが、なかなか泣き止みそうになかった。周りの客達がチラチラと様子を伺っているのがわかる。
(私が泣かしたように見えるかもしれないな~)
そう由利子は思うとかなり憂鬱になった。しかし、よく考えたら自分が泣かせたような気もしてきた。損な役回りである。美葉のように儚げで保護欲をそそるような女性に生まれたかったな、と、いつも思っていた。なんでこんなに強そうな外見に生まれたんだろう。昔二股をかけられて結局フラれた時もそうだった。「お前は強いから一人で生きていける。アイツは俺がいないとダメなんだ」という、数多の三文小説やドラマやマンガで使い古されて発酵しつくした陳腐な言葉を残して彼は去って行った。怒りや悲しみよりも、その芝居がかった恥ずかしいセリフにドン引きして彼を見送った、妙に冷静だった自分のことをふと思い出し、さらに憂鬱になった。
話の進展のなさに業を煮やした由利子はひとまず居酒屋を出ることにした。それで、半分ほどグラスに残った冷酒をグイッと呑み干してから言った。
「美葉、とりあえずここから出よ。ね、そうしよ!」
美葉は小さく頷いて、さっきまで握りしめていたハンカチで涙を拭きながらぼそりと言った。
「トイレでお化粧直してくる…」
そう言われて美葉の顔をよく見ると、確かに化粧が部分的に取れてすごいことになっていた。いつも薄化粧かすっぴんの時すらある由利子には有り得ない顔だったので、不思議やらおかしいやらで、多少引きつりながら由利子はなんとか答えた。
「行っておいで。お会計払っとくから……。出口の方で待ってるよ」
由利子は美葉と店を出て、駅に向かって歩いていた。出口でたっぷり15分待たされた由利子は、若干むすっとしており、美葉はその後を下を向いてとぼとぼと歩いていた。しばらくその状態で歩いていたが、だんだん美葉が可哀想になってきた由利子は、足を止めて振り返り美葉に手をさしのべた。
「美葉……」
由利子は再び優しく話しかけた。
「人ってさー、相談する時には大体自分ではどうするか決めてることが多いよね? だから、美葉も心の中では結果を出しているんじゃないかって思うんだけど……」
美葉は無言だった。由利子はさしのべた手で美葉の手を取り、並んで歩きながら続けて言った。
「美葉はさ、きっと誰かにこのことを聞いて欲しかったんだよね。ひょっとして、今までずっと誰にも言えなかったんじゃない?」
すると、由利子が握った美葉の手が小刻みに震え始めた。横を見ると、また大粒の涙を流しながら泣いている。
(げげ…しまった!)
と、由利子は思ったがすでに遅し、美葉は由利子にしがみついて号泣を始めた。
「そだよね。悲しいよね…今までよく我慢してたね、辛かったやろ……」
由利子は美葉の背中を軽く叩きながら、慰めた。こうなったら仕方がない。気の済むまで泣かせてやろう。由利子は腹を決めた。
(でもねえ、名前は由利子だけど、レズっ毛はないんだよね、私……)
行き交う人たちの視線を浴び、由利子は困惑しながら美葉の肩を抱き、繁華街の片隅で立ったまま困っていた。
由利子達の悲喜劇を余所に、こちらでは深刻な展開が続いていた。
倒れた男とその周りに少年が3人、公園のオレンジ色の街灯に照らされていた。少し向こうのとおりから車の音が聞こえたが、公園内は異様に静かだった。しかしその静寂はすぐに破られた。
「人殺し! 人殺し! この人は助けを求めてただけやろ、何でこんな非道い事せんといかんと!?」
最初に我に返った良夫が泣きながらヒステリックに叫び始めたのだ。雅之はその場に座り込んだまま、無言だった。まだショックから立ち直っていないのだ。相変わらず呆然と男の顔を見つめている。
「やめろ、ヨシオ!」
祐一は良夫を制止した。
「だ、だって、こんな…こんなの…ッ!」
「雅之だって、まさかこんな事になるなんて思わなかったんだ。とにかくこれからどうするか考えんと……」
祐一の切り替えは早かった。この状態では自分がしっかりしないと……。祐一は自分の冷淡とも思える冷静さに驚きながら考えを巡らした。
(どうする? 警察に連絡するか?)
祐一はポケットの中の携帯電話を握りしめた。しかし、直ぐに考えなおした。
(いや、ダメだ。それじゃ無関係の良夫にまで迷惑がかかる。あいつはオレが心配でついてきただけだ。巻き込んじゃだめだ。ここは逃げるしか……)
そこまで考えた時、「ひ…ひいっ…!」っという雅之のかすれた悲鳴が聞こえた。
見ると雅之は腰を抜かした状態のまま、這うようにそこから逃げようとしていた。ようやく我に返り、事の次第が理解できたらしい。
「待て、雅之! 落ち着け!」
祐一は叫んだが、雅之は何度か転びかけながら立ち上がり、かすれた悲鳴を上げながら逃げ出した。
「おい、そんな血まみれで何処に行くとや!」
祐一は雅之が放り出していたカバンをひっつかむと雅之を追って走り出した。
「そんな……! 西原君! あのおじさんはどうすると!?」
「あとで考えよう! 今は雅之を追うほうが先やろ!」
祐一は雅之の後を追って走り出した。
「おじさん、ごめんね! 後で誰か呼んでくるけんね……」
良夫はそう言いながら男の遺体に向かって手を合わせると、祐一の後に続いた。
雅之はすぐに見つかった。公園を出たところの電柱に咳き込みながらもたれかかっていたのだ。祐一は雅之に近づくと言った。
「バカやな。そんな血まみれのシャツなんか着たままで人前に出たりしたら、一発であやしまれるやろ。」
言いながら祐一は自分のシャツもあちこちに染みが付いているのに気がついた。手も血まみれになっている。雅之のせいで鼻血を出したことをすっかり忘れていた。冷静に見えても相当動揺しているようだ。無理もないことだが。祐一はこの分じゃ顔も相当汚れてるだろうと思いポケットに手を入れ、ハンカチを出そうとしたら、良夫が貸してくれたハンカチの血まみれになったのが出てきた。もう一度それをポケットにしまい、カバンから自分のハンカチをだして顔を拭いた。その後祐一は自分の制服のボタンを掛けながら雅之に言った。
「とりあえずおまえも上着のボタンを止めとけよ」
雅之は機械的に祐一の言うことを聞いて上着の前を合わせ始めた。
「西原君、顔、よく見たらまだ汚れとぉよ」と、良夫が指摘した。
「うん、どこかで顔を洗わんと帰れそうにないね。雅之のほうもなんとかせんと……」
祐一はため息をついた。
由利子と美葉は、再び駅に向かって歩いていた。美葉は泣くだけ泣いてだいぶ気が晴れたようだ。美葉は、由利子に寄りかかるようにして歩いていた。
「思い出したよ」
由利子が言った。
「10年前、あの馬鹿男にフラれた時、美葉が旅行やら映画やらに誘ってくれたんだよね。あれでだいぶ気が紛れたっけ」
「ほんとはね……」
美葉は言った。
「あの時、由利ちゃんが帰って来たみたいで嬉しかった。だからいっぱい誘ったの。……今日は由利ちゃんに会えてよかった。私、自分がホントは何をするべきかは判っとぉとやけど、ふんぎりがつかんやった。でも、やっとアイツに三行半突きつけてやる勇気が出た……」
「そっか、がんばれ美葉! そうだ、これからウチの近所にあるカラオケ屋に行かない?今日は朝まで歌いまくろう!」
由利子は提案した。
「うん、いいよ! 明日は休みだし」と、美葉。数年ぶりの友情復活であった。
二人は程なくして駅にたどり着いた。美葉は、
「由利ちゃんごめん、またお化粧なおしてきていいかな?」
と聞いてきた。実はさっきの惨状を見た由利子が、そうなる前に見栄え良く涙をぬぐってやったので、さっきよりずいぶんマシなのだが、それでもやはり気になるらしい。
「いいよ、行っておいで。私はここのベンチで待ってるから」由利子は快く答えた。
「じゃあ、ちょっと行ってくるね」
美葉は駅のトイレに走って行った。
(ああいうところがいつまでも女の子なのよね)
由利子は美葉の後ろ姿を見ていたが、すぐにベンチに座ると、さっき居酒屋で美葉を待っている間に読んでいた本の続きを読み始めた。
(さて、何分かかることやら。買っててよかったよ、これ)
美葉がトイレのそばまで行くと、隣の男子トイレに向かう中学か高校くらいの少年3人に遭遇した。
(一人は背が高いけど後の二人はまだ幼いから多分中学生よねえ。こんな時間にここらをうろうろしてるなんて…塾の帰りかしら? 中学生も大変よね)
美葉はそう思いながら彼らの顔をそれとなくうかがった。そのうちの一人は見たことがあるような顔だった。しかし、美葉はあまりジロジロ見るのもマズイと思ってそそくさと女子トイレに入った。
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しかしそれに対してか感染者も進化して困難な状況に拍車をかけてくる。
さらにそんな状態のなかでも、権益を求め人の足元をすくうため画策する者、理性をなくし欲望のままに動く者、この状況を利用すらして己の利益のみを求めて動く者らが牙をむき出しにしていきパニックは混迷を極める。
普通の高校生であったカナタもパニックに巻き込まれ、都市の一つに避難した。その都市の守備隊に仲間達と共に入り、第十一番隊として活動していく。様々な人と出会い、別れを繰り返しながら、感染者や都市外の略奪者などと戦い、都市同士の思惑に巻き込まれたりしながら日々を過ごしていた。
そして、やがて一つの真実に辿り着く。
それは大きな選択を迫られるものだった。
bio defence
※物語に出て来るすべての人名及び地名などの固有名詞はすべてフィクションです。作者の頭の中だけに存在するものであり、特定の人物や場所に対して何らかの意味合いを持たせたものではありません。
サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由
フルーツパフェ
大衆娯楽
クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。
トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。
いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。
考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。
赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。
言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。
たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。
ルーインド東京
SHUNJU
SF
2025年(令和7年)
東京オリンピックの開催から4年。
日本は疫病流行の完全終息を経て、今まで通りの日常へと戻っていった。
巣鴨に住むごく一般的な女子中学生、平井 遥は
ゴールデンウィークに家族みんなで大阪万博へ行く計画を立てていたが、
しかし、その前日に東京でM8.8の大規模な巨大地震が発生した。
首都機能存亡の危機に、彼女達は無事に生きられるのか・・・?
東京で大震災が発生し、首都機能が停止したら
どうなってしまうのかを知っていただくための震災シミュレーション小説。
※本作品は関東地方での巨大地震や首都機能麻痺を想定し、
膨大なリサーチと検証に基づいて制作された小説です。
尚、この物語はフィクションです。
実在の人物、団体、出来事等とは一切関係ありません。
※本作は複数の小説投稿サイトとの同時掲載となりますが、
当サイトの制限により、一部文章やセリフが他サイトと多少異なる場合があります。
©2021 SHUNJUPROJECT
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ゾンビのプロ セイヴィングロード
石井アドリー
SF
『丘口知夏』は地獄の三日間を独りで逃げ延びていた。
その道中で百貨店の屋上に住む集団に救われたものの、安息の日々は長く続かなかった。
梯子を昇れる個体が現れたことで、ついに屋上の中へ地獄が流れ込んでいく。
信頼していた人までもがゾンビとなった。大切な屋上が崩壊していく。彼女は何もかも諦めかけていた。
「俺はゾンビのプロだ」
自らをそう名乗った謎の筋肉男『谷口貴樹』はアクション映画の如く盛大にゾンビを殲滅した。
知夏はその姿に惹かれ奮い立った。この手で人を救うたいという願いを胸に、百貨店の屋上から小さな一歩を踏み出す。
その一歩が百貨店を盛大に救い出すことになるとは、彼女はまだ考えてもいなかった。
数を増やし成長までするゾンビの群れに挑み、大都会に取り残された人々を救っていく。
ゾンビのプロとその見習いの二人を軸にしたゾンビパンデミック長編。
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