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第3話「行事に乗せられるのは腹が立つんだよ」
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ラズはあっけにとられたまま、消えゆく彼女の背中を見送る。見送る、というより、眺めるだけ。返事も何もできなかった。ただただ、呼吸に合わせて白い息を吐き出すだけ。
やがて冷たい風がラズの体に吹き付ける。はっと我に返ると、真っ先に口の中の乾燥に気づいた。口を閉じて喉を鳴らし、額を右手の人差し指で押さえる。目を閉じると、真っ暗な視界に彼女の笑顔が広がった。
「全く、もう」
心臓の音が、耳のすぐそばまで聞こえる。左胸を探ると、暴れんばかりの速度で脈打っていた。うるさいな、と口の中でつぶやく。左胸あたりを握りしめると、手の形に服が引っ張られる。落ち着く気配はなかった。
「……帰るか」
白い息とともに吐き出し、ラズは振り返った。
すると、街灯の側でたたずむ人影に気がつく。それを視界に入れた途端、それがぬっと動き出した。それは両手を広げると、無遠慮に石畳をカツカツと踏みしめ、意志を持ってラズに近づいてくる。
「『ああ、分かった……。俺は、おまえのために無茶はしねぇ!』……って言うところだよ、そこは!」
夜の住宅街に、好き勝手な女の声が響く。
ラズを真似るように低い声で喋るその姿が、街灯の明かりに晒された。腰の上まである高さのポニーテールの少女が、腰に手を当て仁王立ちしていた。
紺色のロングコートと犬の形の耳当てに、黒い無地のマフラーを身につけている。冬の装いだ。
面倒なのが来たなあ、と、ラズは大げさにため息をついた。
「君、本当に気配ないよね。何しに来たの?」
「茶化しに」
偽りなく、きっぱりと本音をたたきつけた。
彼女はエイミー・レトリー。エカルラートタイムズに雇われている新聞記者で、グルメ欄を担当しているグルメリポーターである。リーゼロッテとは同じ年だ。
彼女がショコラトリー・ブリュールに初めて顔を出したのは、今から一年ほど前のことになる。店内での何気ない会話から、ラズがリーゼロッテに気があると勘付いてしまったエイミーは、ちょくちょく二人を――というより、ラズを煽りに来るのである。
彼女の厄介な点は、異常なほど鋭い直感力と、恋愛面に対する過剰な野次馬根性だ。後者だけならば軽くあしらえば済むのであるが、前者を併せ持っているから、厄介なことこの上ない。何気ない一言が本質を突いているし、現状をはっきりと捉えている。
吸血鬼の一部には、心を読める種類もいるという。エイミーはそういうのと同種なんじゃないか、とラズはわりと本気で思っていた。彼女は生まれも育ちも親も祖父もただの人間であるが。
ラズの、こいつ厄介だなあ、という表情をまるで気にも留めず、エイミーは軽やかに石畳を踏みしめた。
「明日はバレンタインじゃないかいっ? ここいらで、思いの丈をぶつけてみるいい機会じゃないかいっ!」
音階でも口ずさむような弾んだ声に、ラズの笑顔が固まっていく。
本当にめんどくさいな、と思った。
「さあ! 君の気持ちを! 彼女候補に! 将来の嫁に! ぶつけるといいよ!」
一言発するたびに、エイミーが一歩一歩ラズに近づいてくる。ラズは立ち止まらざるを得なくなり、ずいずいずいと押し寄せてくる厄介者の動きに注視していた。
やがて、先ほどリーゼロッテが踏み込んできた距離に、エイミーが踏み込んでくる。ラズの心臓はいつの間にか平常へ戻っていた。
どこかリラックスしているのか、それとも飽きているのか。否、呆れている。
想い人とそうでない人が踏み込んでくる距離感覚って、こんなに違うんだなあ――と、冷ややかな目でエイミーの情熱的な視線を受け止めた。
端から見たら男に詰め寄る女の様子そのものだが、説明するまでもなく、二人の間に愛はない。
あるのは鬱陶しいと、野次馬だけ。
ラズは一つため息をつくと、やれやれと頭を振る。
「行事に乗せられるのは腹が立つんだよ」
吐き捨てて立ち去ろうとすると、ううむ、とエイミーは腕を組んだ。
「ふーん……? そう思ってるのは君くらいじゃない? リーゼロッテってモテそうだけどねえ」
ラズの左足が、ピタリと止まる。
有名なショコラティエを抱えるショコラトリーで働いているせいか、リーゼロッテを始め、従業員はバレンタインにチョコレート菓子をもらうことはまずない。彼女は毎日のようにあの店で働いているし、従業員の男と恋愛的な意味で仲良くしている様子がないことは知っていた。
最近、うだつの上がらなそうな眼鏡の男子学生が、月二のペースでこの店に通っていることとか、リーゼロッテが応対すると挙動不審になるとか、自分が対応すると明らかに落ち込むとか、怪しい人物に関しては心当たりがある。けれど。
その学生を思い浮かべるやいなや、ラズは鼻で笑った。
「告白されたところで、あの鈍感娘が気づくかな」
やがて冷たい風がラズの体に吹き付ける。はっと我に返ると、真っ先に口の中の乾燥に気づいた。口を閉じて喉を鳴らし、額を右手の人差し指で押さえる。目を閉じると、真っ暗な視界に彼女の笑顔が広がった。
「全く、もう」
心臓の音が、耳のすぐそばまで聞こえる。左胸を探ると、暴れんばかりの速度で脈打っていた。うるさいな、と口の中でつぶやく。左胸あたりを握りしめると、手の形に服が引っ張られる。落ち着く気配はなかった。
「……帰るか」
白い息とともに吐き出し、ラズは振り返った。
すると、街灯の側でたたずむ人影に気がつく。それを視界に入れた途端、それがぬっと動き出した。それは両手を広げると、無遠慮に石畳をカツカツと踏みしめ、意志を持ってラズに近づいてくる。
「『ああ、分かった……。俺は、おまえのために無茶はしねぇ!』……って言うところだよ、そこは!」
夜の住宅街に、好き勝手な女の声が響く。
ラズを真似るように低い声で喋るその姿が、街灯の明かりに晒された。腰の上まである高さのポニーテールの少女が、腰に手を当て仁王立ちしていた。
紺色のロングコートと犬の形の耳当てに、黒い無地のマフラーを身につけている。冬の装いだ。
面倒なのが来たなあ、と、ラズは大げさにため息をついた。
「君、本当に気配ないよね。何しに来たの?」
「茶化しに」
偽りなく、きっぱりと本音をたたきつけた。
彼女はエイミー・レトリー。エカルラートタイムズに雇われている新聞記者で、グルメ欄を担当しているグルメリポーターである。リーゼロッテとは同じ年だ。
彼女がショコラトリー・ブリュールに初めて顔を出したのは、今から一年ほど前のことになる。店内での何気ない会話から、ラズがリーゼロッテに気があると勘付いてしまったエイミーは、ちょくちょく二人を――というより、ラズを煽りに来るのである。
彼女の厄介な点は、異常なほど鋭い直感力と、恋愛面に対する過剰な野次馬根性だ。後者だけならば軽くあしらえば済むのであるが、前者を併せ持っているから、厄介なことこの上ない。何気ない一言が本質を突いているし、現状をはっきりと捉えている。
吸血鬼の一部には、心を読める種類もいるという。エイミーはそういうのと同種なんじゃないか、とラズはわりと本気で思っていた。彼女は生まれも育ちも親も祖父もただの人間であるが。
ラズの、こいつ厄介だなあ、という表情をまるで気にも留めず、エイミーは軽やかに石畳を踏みしめた。
「明日はバレンタインじゃないかいっ? ここいらで、思いの丈をぶつけてみるいい機会じゃないかいっ!」
音階でも口ずさむような弾んだ声に、ラズの笑顔が固まっていく。
本当にめんどくさいな、と思った。
「さあ! 君の気持ちを! 彼女候補に! 将来の嫁に! ぶつけるといいよ!」
一言発するたびに、エイミーが一歩一歩ラズに近づいてくる。ラズは立ち止まらざるを得なくなり、ずいずいずいと押し寄せてくる厄介者の動きに注視していた。
やがて、先ほどリーゼロッテが踏み込んできた距離に、エイミーが踏み込んでくる。ラズの心臓はいつの間にか平常へ戻っていた。
どこかリラックスしているのか、それとも飽きているのか。否、呆れている。
想い人とそうでない人が踏み込んでくる距離感覚って、こんなに違うんだなあ――と、冷ややかな目でエイミーの情熱的な視線を受け止めた。
端から見たら男に詰め寄る女の様子そのものだが、説明するまでもなく、二人の間に愛はない。
あるのは鬱陶しいと、野次馬だけ。
ラズは一つため息をつくと、やれやれと頭を振る。
「行事に乗せられるのは腹が立つんだよ」
吐き捨てて立ち去ろうとすると、ううむ、とエイミーは腕を組んだ。
「ふーん……? そう思ってるのは君くらいじゃない? リーゼロッテってモテそうだけどねえ」
ラズの左足が、ピタリと止まる。
有名なショコラティエを抱えるショコラトリーで働いているせいか、リーゼロッテを始め、従業員はバレンタインにチョコレート菓子をもらうことはまずない。彼女は毎日のようにあの店で働いているし、従業員の男と恋愛的な意味で仲良くしている様子がないことは知っていた。
最近、うだつの上がらなそうな眼鏡の男子学生が、月二のペースでこの店に通っていることとか、リーゼロッテが応対すると挙動不審になるとか、自分が対応すると明らかに落ち込むとか、怪しい人物に関しては心当たりがある。けれど。
その学生を思い浮かべるやいなや、ラズは鼻で笑った。
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