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第2話「隙が多いんだよねえ」
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――結局、閉店の十分前まで、客の流れが収まることはなかった。
都市エカルラートの夜空は遠い。星々のきらめきはどこへ消えたのか、藍色の空には煌々と輝く星が両手に収まるほどの数だけ輝いていた。弱々しい星の輝きは、家々や街灯の明かりで姿を隠している。
ここの夜空は随分と暗いな。ラズは藍色の暗闇を見つめながら、一つ白いため息をついた。冷たい音を立てて家々を通り抜ける北風が、冷えたラズの耳の輪郭を突き抜けた。じんと痺れるような痛みに、眉をひそめる。
店じまいにと、ラズは店のドアプレートをくるりと回転させ、オープンからクローズドへ切り替えた。鉄製のそれに指がかじかみ、人差し指同士をこすり合わせる。
今日一日の営業は終わったが、バレンタインは明日だ。彼にとっての"嫌な日"は、明日からが本番というとになる。
気が重い――ラズはもう一度白い息を吐き出すと、店の中へ足を踏み入れる。
扉を開けると、店の熱気とともに、店内を満たしていた甘ったるいチョコレートの香りがラズの鼻腔を刺激する。その様子に、ラズは眉をひそめた。普段ならばなんとも思わぬ香りだが、明日のことを思うと、気が沈んでくる。
明日の仕事、めんどくさいな。
ラズが頭をかくと、彼の表情とは正反対の明るい声が響いた。
「あ、ラズくん。今日もお疲れ様でした!」
いつの間にかホールの中央にいる少女が、ラズに向けて太陽のような笑みを浮かべる。ほうきを両手で握りしめ、疲れ知らずといった様子だ。
彼女は、リーゼロッテ・コルトレツィス。三年前からショコラトリー・ブリュールに雇われている。仕事は主に接客と裏方の雑務。職務内容、勤続歴ともにラズの後輩にあたるが、ラズは彼女から学ぶことが多い。接客態度に笑顔の作り方、手先の器用さや飲み込みの良さがそれに該当する。
彼女はとてもよく仕事ができた。その能力を買われてか、リーゼロッテは"ちゃんとした"常用雇用者だ。
日雇いのラズとは違って。
「ロッテもお疲れさま」
ラズが優しく声をかけと、彼女は、礼を言いながら軽く頭を下げた。腰まで届くほどの長髪が、彼女の動きに合わせてふわふわと揺れる。癖のある髪は少し重たそうだが、リーゼロッテの性格ととてもよく合っていると、ラズには思えた。
ラズはリーゼロッテに恋をしている。三年前、彼女がこの店に来たあの日から。
今でこそ、自分と同じショコラトリーの制服に身を包む彼女だが、初対面のあの日は異なった。
明らかにサイズが大きすぎる、安物のシャツ。長年使っていたせいか、ところどころにヨレが目立つ。これまたブカブカのズボンも、膝の辺りの布が薄く、切れてしまっていたし、かつて白かったであろう靴も、土の色を吸って茶色に変色していた。手にした鞄のひもは、根元がちぎれている。誰から見ても、貧乏人そのものだ。
だというのに、そのボロボロの服に身を包んだ少女は、笑顔を絶やさなかった。その見た目からは想像もできないほど、立ち居振る舞いといった所作がきちんとしているし、言葉遣いも決して汚くない。こちらを威嚇するような鋭い視線一つ見せない。服装と中身がひどく釣り合っていなかった。まるで、富裕層のお嬢様が、わざと貧乏人の格好をしているようにすら思える。
たまたまゼナイドとともに彼女の面接に立ち会ったラズは、その様子に唖然とした。彼女の話を聞けば聞くほど、リーゼロッテという人間が理解できなくなる。この世の闇を経験したはずの少女は、そんなものなど全く知らぬといった素振りを見せる。それがただただ眩しかった。
その混乱の最中、ラズはリーゼロッテに恋をした。ほとんど一目惚れのようなものだっただろう。
……ラズ本人がその感情に気づいたのは、それから一年経った後のことだったが。
都市エカルラートの夜空は遠い。星々のきらめきはどこへ消えたのか、藍色の空には煌々と輝く星が両手に収まるほどの数だけ輝いていた。弱々しい星の輝きは、家々や街灯の明かりで姿を隠している。
ここの夜空は随分と暗いな。ラズは藍色の暗闇を見つめながら、一つ白いため息をついた。冷たい音を立てて家々を通り抜ける北風が、冷えたラズの耳の輪郭を突き抜けた。じんと痺れるような痛みに、眉をひそめる。
店じまいにと、ラズは店のドアプレートをくるりと回転させ、オープンからクローズドへ切り替えた。鉄製のそれに指がかじかみ、人差し指同士をこすり合わせる。
今日一日の営業は終わったが、バレンタインは明日だ。彼にとっての"嫌な日"は、明日からが本番というとになる。
気が重い――ラズはもう一度白い息を吐き出すと、店の中へ足を踏み入れる。
扉を開けると、店の熱気とともに、店内を満たしていた甘ったるいチョコレートの香りがラズの鼻腔を刺激する。その様子に、ラズは眉をひそめた。普段ならばなんとも思わぬ香りだが、明日のことを思うと、気が沈んでくる。
明日の仕事、めんどくさいな。
ラズが頭をかくと、彼の表情とは正反対の明るい声が響いた。
「あ、ラズくん。今日もお疲れ様でした!」
いつの間にかホールの中央にいる少女が、ラズに向けて太陽のような笑みを浮かべる。ほうきを両手で握りしめ、疲れ知らずといった様子だ。
彼女は、リーゼロッテ・コルトレツィス。三年前からショコラトリー・ブリュールに雇われている。仕事は主に接客と裏方の雑務。職務内容、勤続歴ともにラズの後輩にあたるが、ラズは彼女から学ぶことが多い。接客態度に笑顔の作り方、手先の器用さや飲み込みの良さがそれに該当する。
彼女はとてもよく仕事ができた。その能力を買われてか、リーゼロッテは"ちゃんとした"常用雇用者だ。
日雇いのラズとは違って。
「ロッテもお疲れさま」
ラズが優しく声をかけと、彼女は、礼を言いながら軽く頭を下げた。腰まで届くほどの長髪が、彼女の動きに合わせてふわふわと揺れる。癖のある髪は少し重たそうだが、リーゼロッテの性格ととてもよく合っていると、ラズには思えた。
ラズはリーゼロッテに恋をしている。三年前、彼女がこの店に来たあの日から。
今でこそ、自分と同じショコラトリーの制服に身を包む彼女だが、初対面のあの日は異なった。
明らかにサイズが大きすぎる、安物のシャツ。長年使っていたせいか、ところどころにヨレが目立つ。これまたブカブカのズボンも、膝の辺りの布が薄く、切れてしまっていたし、かつて白かったであろう靴も、土の色を吸って茶色に変色していた。手にした鞄のひもは、根元がちぎれている。誰から見ても、貧乏人そのものだ。
だというのに、そのボロボロの服に身を包んだ少女は、笑顔を絶やさなかった。その見た目からは想像もできないほど、立ち居振る舞いといった所作がきちんとしているし、言葉遣いも決して汚くない。こちらを威嚇するような鋭い視線一つ見せない。服装と中身がひどく釣り合っていなかった。まるで、富裕層のお嬢様が、わざと貧乏人の格好をしているようにすら思える。
たまたまゼナイドとともに彼女の面接に立ち会ったラズは、その様子に唖然とした。彼女の話を聞けば聞くほど、リーゼロッテという人間が理解できなくなる。この世の闇を経験したはずの少女は、そんなものなど全く知らぬといった素振りを見せる。それがただただ眩しかった。
その混乱の最中、ラズはリーゼロッテに恋をした。ほとんど一目惚れのようなものだっただろう。
……ラズ本人がその感情に気づいたのは、それから一年経った後のことだったが。
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