幾望の色

西薗蛍

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追加エピローグ「もうひとつの旅の終わり」

103 真実の夜-4

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 彼は立ち上がると、ティーカートの二段目にある木の小箱を取り出した。小箱は暗い焦げ茶色。特別な装飾はなく、木目の模様がただそこにある。直線のように見える曲線、歪な円が何段にも積み重なった様は、木の温かみそのものを表していた。

 シャムロックはそれをテーブルに置くと、ゆっくりと蓋を開ける。中に入っていたのは深紅の粉末と、小さな木のスプーンが一本。粉の色は月夜鬼の瞳の色によく似ていた。

「これはレーリンゼル。月夜鬼の主食でもあり、半夜の感じる喉の渇きを抑える」

 唐辛子の粉末を思わせるその色に、クライヴは顔をしかめた。しかし、鼻腔を刺激するのは辛みではなく甘み。シャムロックに例の飲み物を渡された時と――中庭にいた時に嗅いだ匂いと同じだ。

「庭で月満草を見ただろう? あれを加工して粉末にしたものだ」

 シャムロックは空のグラスを手に取ると、スプーン一杯分のレーリンゼルに、グラス七割ほどの水を足した。赤色が透明な水と混ざり合う。スプーンでかき混ぜる必要もなく、それは瞬く間に溶けていった。深紅色に染まったそれが、音を立てずにわずかに波打つ。

 クライヴには、その液体が周囲の光を全て飲み込むかのように見えた。さすがに目の錯覚だろうかと苦笑するが、見れば見るほどその感覚は現実味を帯びてくる。月夜鬼は夜を生きる種族だから、もしかして。

 疑問を問いかけず、その赤を見ていた。あの時とは異なり、自然にその色を見つめる事ができる。これが自分に必要な物だと判ると、なぜだか懐かしいような、安心するような感覚があった。

「飲むか?」

 クライヴが凝視していると、シャムロックはそっとグラスを指で押した。
 特別喉が渇くようなあの発作はない。疼くような痛みもない。だから必要ないはずだ……そう頭では理解していても、いらないと突き返す気にはならなかった。腹が減って欲しくないと願ったところで腹が減るように、いくら我慢したところ叩かれれば痛いように――抗えぬ体の反応なのだろう。

 クライヴは諦めて頷くと、グラスを手に取った。躊躇わずに口をつけ、喉を鳴らしながら胃の奥へ流し込む。今日ははっきりとその苦みを感じる事ができた。用意されたアイスティーとは異なる味だ。確かにしつこいような苦さはあるが、決定的に違うのはその質だ。こちらは強いアルコールの苦味に似ている。それはまるで味覚を麻痺させるほどに、舌全体に広がった。やがて体に吸収されると、その味は強く深く変わっていく。苦渋味に近いほど酷く濃い味であるにも拘わらず、美味いと感じてしまう。やはり自分は普通の人間じゃないんだ――と、胸中で己を客観視する部分が冷笑する。

 わずか残ったレーリンゼルの赤色がグラスの底を染める。酒に陶酔した人間がするように、グラスを揺らしてみた。そうしたところで、その蠱惑的な赤は薄らぐ気配がない。

「以前、メルリアがクライヴの症状のことを心配していた。病気ではないのか、と」
「メル……、が?」

 メルリアの名前に、思わずクライヴは顔を上げた。愛称で呼んでいいのかと尋ねたのは自分だというのに、その呼び方は気恥ずかしさが残る。グラスを置くと、膝の上で手を組んだ。両手を揉むように、右手左手とそれぞれに力を入れて握りしめる。

 この件ではメルリアに随分と迷惑をかけてしまった。しかし、気遣わせて申し訳ないという裏側に、未だに気にしてくれて嬉しいという感情がある事も確かだった。視線を下ろし、自分の手を見つめる。手のひらに浮かんだ汗が見えて、唇を固く結んだ。

「……俺は半夜で、メルは普通の女の子……か」

 窓に映った自分の表情を見た時、クライヴは胸の内を晒さなくて正解だったかもしれない、と思った。シャムロックから説明を聞いたところでその思いは変わらない。

 あの症状に悩まされているのは自分だけだ。不釣り合いであろうと、腹の底から深いため息をついた。

 カタリ、と静かな音を立てながら、木箱にゆっくり蓋を落とす。うなだれるクライヴを横目に、シャムロックは元あったようにティーカートへ木箱を戻した。

「その普通が何を指しているか知らないが、メルリアも半夜だ」
「え……」
「今頃は彼女の血縁――曾祖父に当たる月夜鬼と話をしているはずだ」

 金に赤の混じった橙色の瞳が見開かれ、驚愕に息が詰まった。

 この夜、一番の衝撃だった。
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