幾望の色

西薗蛍

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追加エピローグ「もうひとつの旅の終わり」

102 街道の夜-1

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 ――それは三日前、夜半の屋敷へ向かう最中のこと。


 この夜、クライヴは中々寝付けなかった。

 ベッドに横になり、瞼を閉じるも、意識が沈むことはない。真っ黒な部屋で何度か瞬きを繰り返す。右の部屋からは静かな談笑の声が遠く、左の部屋からは大男を思わせる豪快ないびきの低音が聞こえてくる。耳障りな環境音にため息をつきながらも、なんとか眠らねばと寝返りを打った。

 やがて鼓動が落ち着くと、空っぽになった頭の中に、四時間前の記憶が蘇ってくる。

 グローカスへ誘った時のメルリアの姿や声、笑顔だ。以前のように発作に邪魔されなかった事はよかった。よかったのだが。脳裏に、「いいの?」と目を輝かせるメルリアの表情が浮かび上がる。あんなに眩しい笑顔を、自分に向けられるとは思わなかった。

 本当は、ミスルトーで言おうとした言葉のように……。メルリアの旅が決着した後、グローカスへ来ないかと誘うつもりだった。しかし、口をついて出た言葉は予定していたものとは違った。早まってしまった。メルリアは祖母との約束を大事にしている――それはよく理解していた。だから、違う言葉を伝えてしまった。

 持て余した右手でベッドシーツのしわを一つ伸ばした。

 恐らく自分はメルリアに嫌われてはいないのだろうし、警戒されている様子もないだろう。であれば、自分の気持ちを伝えるべきだろうか。いや、それは早急だろうか――。考えれば考えるほど、ほんのわずかに沈んだ意識が、より鮮明に変わっていく。気づけば眉間に皺が寄っていた。頭を空っぽにしなければ眠れないと分かってはいても、どうしても気になってしまう。

 試しに目を開けてみた。なんの抵抗もなく、なんの重みもなく、すんなり開いていく。ベッドシーツの白や床に置いた自分の鞄、カーテンのわずかな色の濃さなどもはっきりと見て取れる。

 眠れそうもない。ため息をつき、ゆっくりと体を起こした。力が抜けた足が重く熱い。体の方は十分に疲れていると主張してきた。もっとも、脳の方は眠る準備ができていないのだから、仕方がない。部屋の扉を静かに押し開け、階段を下りた。


 時刻は深夜一時をちょうど過ぎたばかり。

 酒場のフロアはしんと静まりかえっていた。

 街にある酒場とは異なり、街道に面する宿酒場は、大人数の利用は御法度だ。グループ利用は二名まで、迷惑行為をする客は客と見なさず即退出。夕食時の中年男のような面倒ごとは、この時間では許されない。

 客らしい客はおらず、受付の男がうつらうつらと船を漕ぐ。カウンターの奥でグラスを磨く初老のバーテンダーが、男を見てやれやれと肩をすくめた。

 宿酒場の扉が、古びた音を漏らしながら開いた。それに反応して、受付の男がぴんと背筋を伸ばす。

「い、いひゃっらいまひぇ」

 しかし男の声は弱々しいものであったし、ろれつは回っておらず、目もはっきりと開いていない。やがて男はうっすらと目を開くと、安心した笑みを浮かべて、再び船を漕ぎはじめた。

「おかえりなさい」

 受付がかけるべき言葉を、バーテンダーが口にした。客は静かに頷き、真っ直ぐにカウンターへ向かう。不意に、その足取りが止まった。その視線はバーカウンターの奥、宿泊部屋へ繋がる階段へ向く。

 ちょうど階段を下りてきたクライヴと、外から戻ってきたシャムロックの目が合った。

 メルリアのことで頭がいっぱいになっていたクライヴだったが、シャムロックの存在に気がつくと、緩んだ顔を強ばらせる。口を固く閉ざし、気を引き締めた。

 シャムロックは視線を逸らすと、カウンターの中央からやや右に逸れた椅子に腰掛けた。バーテンダーは手早く支度を済ませ、彼に琥珀色の酒が入ったグラスを差し出す。グラスに揺蕩うのは、濁りのない透明な氷だ。球体のそれは、グラスをくり抜いたかのように、底の琥珀色をありありと映し出す。静寂の中、その氷がパチパチと音を立て酒へ溶けゆく。それは火に焼べた薪が爆ぜるような音と似ていた。それをじっくりと目に焼き付けた後、彼はグラスに口をつけた。
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