178 / 197
夜半の屋敷
97 月夜鬼達の夜-1
しおりを挟む
夜の闇を密やかに照らす月は空の真上に昇り、夜の深さを物語る。月明かりを受け、窓枠の銀がそれを反射した。
客人の去ったリビングはしんと静まりかえっていた。用意された夕食はとうに片付けられ、広々としたテーブルにはワイングラスがふたつ。それぞれ注がれているのは赤ワインだ。グラスの縁で光る赤は、月夜鬼の瞳の色を思わせる。
部屋の隅には二つの人影があった。エルヴィーラはシャムロックの左肩に体を預けながら、ワイングラスのふちをじっと見つめていた。部屋の窓は開いていない。ここには風がない。室内灯は揺れない。ワイングラスが揺れるはずもない。ふちを煌めかせる光源がわずかに揺れて見えるのは、彼女の体が呼吸によって動いているせいだった。
エルヴィーラはその光源を見つめながら、ゆっくりと目を閉じた。
この部屋を訪ねてきたばかりのエルヴィーラの目は赤く、頬には涙を流した跡がいくつも残っていた。何かがあったことは明白だが、シャムロックはあえてそれに触れなかった。求めるように足早にこちらへ駆けてくる彼女を見て、ソファに一人分の空間を空けることはしたが。
エルヴィーラの状態に特別触れないのはウェンディも同じだった。彼女がシャムロックの隣に腰掛けるのを見るやいなや、ティーカートに用意してあったワイングラスを用意すると、エルヴィーラの気に入りの銘柄を注ぐ。一声かけることもせず、彼女は音もなくその場から立ち去った。
しばらくの静寂の後、シャムロックはエルヴィーラの表情を窺った。目を閉じたままだが、眠っている様子はない。彼女の呼吸は、彼女がここに来たばかりの時よりも、幾分か落ち着きを取り戻していた。
「落ち着いたか?」
エルヴィーラはその言葉にゆっくりと瞬きする。体は動かさない。先程と同じように、ワイングラスの縁の煌めきに目をやった。
「……シャムのこと、疑ってたわけじゃないわ」
彼の声から数拍空けて、ようやくエルヴィーラは口を開いた。ぽつりと言葉を零しながら、つい数刻前のことを回想する。
あの廊下の時間の後、自室でシャムロックと二人きりになったエルヴィーラは、心の内を震えた声で吐き出した。自分が人間でないことを知ったら、メルリアに嫌われてしまうかもしれない。避けられるかもしれない――と。今にも泣きそうな表情の彼女を見て、そんなことはないとシャムロックは優しく否定する。あの子はきっと怖がったりはしないよ、とも諭した。
ヴェルディグリでメルリアと会った時は、このまま三人で屋敷へ戻れたらと願った。その時は、月夜鬼であることを話す事になんの抵抗もなかった。だというのに、時間が経つにつれて、期待とともに不安も増していく。会えない時間が増えれば増えるほど、それは鮮明に心の内に現れた。あなたに会いたい、もっと話がしたい、あなたのことを知りたい。初めてできた人間の友達。だけどあなたが真実を知るのが怖い。怖がられるのが、怖い。その感情は、慰めであり真実をついた彼の言葉を信じ切れぬほど肥大化していた。
「……本当に身勝手」
己に向けてつぶやくと、エルヴィーラはため息をついた。音の余韻が闇に溶け消える。
慰めの言葉も素直に受け入れられなかった。本人からも、周りから否定された言葉も信じられなかった。けれど――。「最初から嫌いになれるはずがない」と笑ったメルリアの表情が、エルヴィーラの胸の奥に再び染み込んでくる。すっかり涙が引いたはずの目頭が熱を持った。
「この七日間、俺はメルリアと一緒にいたが……」
「七日も? シャムばっかりメルと一緒にいてずるいわ」
エルヴィーラはほんの少し上擦った声で割り込む。不満そうに眉をひそめた後、いたずらっぽく笑った。シャムロックに体を預けたまま、彼の表情を窺う。彼は困ったような笑みをしていた。
「その中で、あの子が本当に優しい子だと知った。裏表がないし、心の底から他人を思いやる事ができる。だからこそ、大丈夫だと思えたんだ」
シャムロックは、先ほどまでメルリアが座っていたソファの空間を見つめた。自分を見る目も、クライヴを見る目も真っ直ぐだった。きっと、エルヴィーラを見る目も同じだったのだろう。
「うん……」
エルヴィーラはか細い声でうなずいた。そして、ゆっくりと上体を起こす。ソファに背筋を伸ばして腰掛けると、ウェンディの用意したワイングラスに手を伸ばした。赤ワインの深い色が鮮明に、ただそこにある。グラスを揺らせば、ふっと上ってくるアルコールとブドウの匂い。その中に、赤ワイン特有の苦みを思わせるものが混じった。エルヴィーラはその苦みが好きだ。目を細め、赤ワインと空気の境目だけを見つめる。
しばらくそうした後、グラスに口をつける。ほんのわずかな量を、舌の上で味わうように転がした。しばらくして飲み下すと、胃の中にすっと落ちていく。喉の渇きが治まるとともに、彼女に足りないものが満たされていく感覚があった。
客人の去ったリビングはしんと静まりかえっていた。用意された夕食はとうに片付けられ、広々としたテーブルにはワイングラスがふたつ。それぞれ注がれているのは赤ワインだ。グラスの縁で光る赤は、月夜鬼の瞳の色を思わせる。
部屋の隅には二つの人影があった。エルヴィーラはシャムロックの左肩に体を預けながら、ワイングラスのふちをじっと見つめていた。部屋の窓は開いていない。ここには風がない。室内灯は揺れない。ワイングラスが揺れるはずもない。ふちを煌めかせる光源がわずかに揺れて見えるのは、彼女の体が呼吸によって動いているせいだった。
エルヴィーラはその光源を見つめながら、ゆっくりと目を閉じた。
この部屋を訪ねてきたばかりのエルヴィーラの目は赤く、頬には涙を流した跡がいくつも残っていた。何かがあったことは明白だが、シャムロックはあえてそれに触れなかった。求めるように足早にこちらへ駆けてくる彼女を見て、ソファに一人分の空間を空けることはしたが。
エルヴィーラの状態に特別触れないのはウェンディも同じだった。彼女がシャムロックの隣に腰掛けるのを見るやいなや、ティーカートに用意してあったワイングラスを用意すると、エルヴィーラの気に入りの銘柄を注ぐ。一声かけることもせず、彼女は音もなくその場から立ち去った。
しばらくの静寂の後、シャムロックはエルヴィーラの表情を窺った。目を閉じたままだが、眠っている様子はない。彼女の呼吸は、彼女がここに来たばかりの時よりも、幾分か落ち着きを取り戻していた。
「落ち着いたか?」
エルヴィーラはその言葉にゆっくりと瞬きする。体は動かさない。先程と同じように、ワイングラスの縁の煌めきに目をやった。
「……シャムのこと、疑ってたわけじゃないわ」
彼の声から数拍空けて、ようやくエルヴィーラは口を開いた。ぽつりと言葉を零しながら、つい数刻前のことを回想する。
あの廊下の時間の後、自室でシャムロックと二人きりになったエルヴィーラは、心の内を震えた声で吐き出した。自分が人間でないことを知ったら、メルリアに嫌われてしまうかもしれない。避けられるかもしれない――と。今にも泣きそうな表情の彼女を見て、そんなことはないとシャムロックは優しく否定する。あの子はきっと怖がったりはしないよ、とも諭した。
ヴェルディグリでメルリアと会った時は、このまま三人で屋敷へ戻れたらと願った。その時は、月夜鬼であることを話す事になんの抵抗もなかった。だというのに、時間が経つにつれて、期待とともに不安も増していく。会えない時間が増えれば増えるほど、それは鮮明に心の内に現れた。あなたに会いたい、もっと話がしたい、あなたのことを知りたい。初めてできた人間の友達。だけどあなたが真実を知るのが怖い。怖がられるのが、怖い。その感情は、慰めであり真実をついた彼の言葉を信じ切れぬほど肥大化していた。
「……本当に身勝手」
己に向けてつぶやくと、エルヴィーラはため息をついた。音の余韻が闇に溶け消える。
慰めの言葉も素直に受け入れられなかった。本人からも、周りから否定された言葉も信じられなかった。けれど――。「最初から嫌いになれるはずがない」と笑ったメルリアの表情が、エルヴィーラの胸の奥に再び染み込んでくる。すっかり涙が引いたはずの目頭が熱を持った。
「この七日間、俺はメルリアと一緒にいたが……」
「七日も? シャムばっかりメルと一緒にいてずるいわ」
エルヴィーラはほんの少し上擦った声で割り込む。不満そうに眉をひそめた後、いたずらっぽく笑った。シャムロックに体を預けたまま、彼の表情を窺う。彼は困ったような笑みをしていた。
「その中で、あの子が本当に優しい子だと知った。裏表がないし、心の底から他人を思いやる事ができる。だからこそ、大丈夫だと思えたんだ」
シャムロックは、先ほどまでメルリアが座っていたソファの空間を見つめた。自分を見る目も、クライヴを見る目も真っ直ぐだった。きっと、エルヴィーラを見る目も同じだったのだろう。
「うん……」
エルヴィーラはか細い声でうなずいた。そして、ゆっくりと上体を起こす。ソファに背筋を伸ばして腰掛けると、ウェンディの用意したワイングラスに手を伸ばした。赤ワインの深い色が鮮明に、ただそこにある。グラスを揺らせば、ふっと上ってくるアルコールとブドウの匂い。その中に、赤ワイン特有の苦みを思わせるものが混じった。エルヴィーラはその苦みが好きだ。目を細め、赤ワインと空気の境目だけを見つめる。
しばらくそうした後、グラスに口をつける。ほんのわずかな量を、舌の上で味わうように転がした。しばらくして飲み下すと、胃の中にすっと落ちていく。喉の渇きが治まるとともに、彼女に足りないものが満たされていく感覚があった。
0
お気に入りに追加
0
あなたにおすすめの小説
ちっちゃくなった俺の異世界攻略
鮨海
ファンタジー
あるとき神の采配により異世界へ行くことを決意した高校生の大輝は……ちっちゃくなってしまっていた!
精霊と神様からの贈り物、そして大輝の力が試される異世界の大冒険?が幕を開ける!
『異世界庭付き一戸建て』を相続した仲良し兄妹は今までの不幸にサヨナラしてスローライフを満喫できる、はず?
釈 余白(しやく)
ファンタジー
HOT 1位!ファンタジー 3位! ありがとうございます!
父親が不慮の事故で死亡したことで最後の肉親を失い残された高校生の小村雷人(こむら らいと)と小学生の真琴(まこと)の兄妹が聞かされたのは、父が家を担保に金を借りていたという絶望の事実だった。慣れ親しんだ自宅から早々の退去が必要となった二人は家の中で金目の物を探す。
その結果見つかったのは、僅かな現金に空の預金通帳といくつかの宝飾品、そして家の権利書と見知らぬ文字で書かれた書類くらいだった。謎の書類には祖父のサインが記されていたが内容は読めず、頼みの綱は挟まれていた弁護士の名刺だけだ。
最後の希望とも言える名刺の電話番号へ連絡した二人は、やってきた弁護士から契約書の内容を聞かされ唖然とする。それは祖父が遺産として残した『異世界トラス』にある土地と建物を孫へ渡すというものだった。もちろん現地へ行かなければ遺産は受け取れないが。兄妹には他に頼れるものがなく、思い切って異世界へと赴き新生活をスタートさせるのだった。
その他、多数投稿しています!
https://www.alphapolis.co.jp/author/detail/398438394

日本列島、時震により転移す!
黄昏人
ファンタジー
2023年(現在)、日本列島が後に時震と呼ばれる現象により、500年以上の時を超え1492年(過去)の世界に転移した。移転したのは本州、四国、九州とその周辺の島々であり、現在の日本は過去の時代に飛ばされ、過去の日本は現在の世界に飛ばされた。飛ばされた現在の日本はその文明を支え、国民を食わせるためには早急に莫大な資源と食料が必要である。過去の日本は現在の世界を意識できないが、取り残された北海道と沖縄は国富の大部分を失い、戦国日本を抱え途方にくれる。人々は、政府は何を思いどうふるまうのか。
辺境領主は大貴族に成り上がる! チート知識でのびのび領地経営します
潮ノ海月
ファンタジー
旧題:転生貴族の領地経営~チート知識を活用して、辺境領主は成り上がる!
トールデント帝国と国境を接していたフレンハイム子爵領の領主バルトハイドは、突如、侵攻を開始した帝国軍から領地を守るためにルッセン砦で迎撃に向かうが、守り切れず戦死してしまう。
領主バルトハイドが戦争で死亡した事で、唯一の後継者であったアクスが跡目を継ぐことになってしまう。
アクスの前世は日本人であり、争いごとが極端に苦手であったが、領民を守るために立ち上がることを決意する。
だが、兵士の証言からしてラッセル砦を陥落させた帝国軍の数は10倍以上であることが明らかになってしまう
完全に手詰まりの中で、アクスは日本人として暮らしてきた知識を活用し、さらには領都から避難してきた獣人や亜人を仲間に引き入れ秘策を練る。
果たしてアクスは帝国軍に勝利できるのか!?
これは転生貴族アクスが領地経営に奮闘し、大貴族へ成りあがる物語。

神様のミスで女に転生したようです
結城はる
ファンタジー
34歳独身の秋本修弥はごく普通の中小企業に勤めるサラリーマンであった。
いつも通り起床し朝食を食べ、会社へ通勤中だったがマンションの上から人が落下してきて下敷きとなってしまった……。
目が覚めると、目の前には絶世の美女が立っていた。
美女の話を聞くと、どうやら目の前にいる美女は神様であり私は死んでしまったということらしい
死んだことにより私の魂は地球とは別の世界に迷い込んだみたいなので、こっちの世界に転生させてくれるそうだ。
気がついたら、洞窟の中にいて転生されたことを確認する。
ん……、なんか違和感がある。股を触ってみるとあるべきものがない。
え……。
神様、私女になってるんですけどーーーー!!!
小説家になろうでも掲載しています。
URLはこちら→「https://ncode.syosetu.com/n7001ht/」

【完結】公爵家の末っ子娘は嘲笑う
たくみ
ファンタジー
圧倒的な力を持つ公爵家に生まれたアリスには優秀を通り越して天才といわれる6人の兄と姉、ちやほやされる同い年の腹違いの姉がいた。
アリスは彼らと比べられ、蔑まれていた。しかし、彼女は公爵家にふさわしい美貌、頭脳、魔力を持っていた。
ではなぜ周囲は彼女を蔑むのか?
それは彼女がそう振る舞っていたからに他ならない。そう…彼女は見る目のない人たちを陰で嘲笑うのが趣味だった。
自国の皇太子に婚約破棄され、隣国の王子に嫁ぐことになったアリス。王妃の息子たちは彼女を拒否した為、側室の息子に嫁ぐことになった。
このあつかいに笑みがこぼれるアリス。彼女の行動、趣味は国が変わろうと何も変わらない。
それにしても……なぜ人は見せかけの行動でこうも勘違いできるのだろう。
※小説家になろうさんで投稿始めました

コインランドリーの正しい使い方
菅井群青
恋愛
コインランドリーの乾燥機をかけた時のふわっと感が大好きで通う女と……なぜかコインランドリーに行くと寝れることに気が付いた男の話
「今日乾燥機回しに行かれるんですよね?」
「いや、めっちゃ外晴れてましたけど……」
コインランドリーの魔女と慕われ不眠症の改善のためになぜか付きまとわれる羽目になった。
「寝させてください……」
「いや、襲われてる感出すのだけはやめようか、うん」

番認定された王女は愛さない
青葉めいこ
恋愛
世界最強の帝国の統治者、竜帝は、よりによって爬虫類が生理的に駄目な弱小国の王女リーヴァを番認定し求婚してきた。
人間であるリーヴァには番という概念がなく相愛の婚約者シグルズもいる。何より、本性が爬虫類もどきの竜帝を絶対に愛せない。
けれど、リーヴァの本心を無視して竜帝との結婚を決められてしまう。
竜帝と結婚するくらいなら死を選ぼうとするリーヴァにシグルスはある提案をしてきた。
番を否定する意図はありません。
小説家になろうにも投稿しています。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる