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夜半の屋敷
88 連れ去った先に-2
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「判っているのだけれどね、全部。このまま知る方が正しいんだって」
エルヴィーラはかつて自分に投げかけられた優しい声を思い出しながら、鬱陶しそうに窓に体を預けた。ギィ、と音が立つが、その窓が開くことはない。伏し目がちにため息をつくその視線が、やがてメルリアの右手に向けられた。彼女の肌もまた、月明かりを反射して白く輝いている。
温かい手。綺麗に切りそろえられた爪に、丸みを帯びた手のひらの輪郭。かつての記憶が蘇り、エルヴィーラはふっと笑った。
「前みたいに……、一緒に逃げられたらいいのに」
頬に張り付く髪を再び耳の後ろにかけるが、数本耳の前に垂れ下がる。その髪に触れ、指でもてあそんだ。
「……こんなところにいたって、この前よりもずっとすぐに見つかるもの」
諦めたように笑い、長くしなやかな睫毛を閉じ合わせた。窓辺に寄りかかり、夜漏れ光る月明かりに照らされたエルヴィーラの姿は、まるで一幅の絵画のように美しい。透けるように白い肌も、癖のあるセミロングの髪も、整った顔立ちも、手袋の白色ですら。
メルリアはその姿に少し躊躇ってから、エルヴィーラに一歩一歩歩み寄る。
「私……。シャムロックさんと一緒にいる間、エルヴィーラさんのお話をたくさん聞きました」
「シャムが?」
ゆっくりと瞼が開き、深紅の瞳がメルリアの青く澄んだ瞳を捉えた。
「シャムロックさん、エルヴィーラさんのお話をする時、とても優しい表情をするんです。声や言葉の柔らかい感じもそうなんですけど……、エルヴィーラさんのことが大好きなんだって伝わってくるんです」
メルリアはミスルトーやここに来る道でのシャムロックの様子と、共にシャノワールへ行ったあの日のことを思い出していた。
店に飛び込むように入ってきたシャムロックは全身雨でずぶ濡れ、髪は顔に張り付き服も体にまとわりついていた。彼の背の高さも相まって、初対面であったあの時は怖いとしか思えなかった。けれど今は……。メルリアは当時の記憶をたぐり寄せる。店の奥にいるエルヴィーラに気づいた途端、シャムロックはほっと安堵の笑みを浮かべていた。その表情の温度は、シャムロックがエルヴィーラのことを語るものと同じだった。
「どうかしらね」
唇をつんと尖らせたエルヴィーラは、どこか突き放すような声色で言う。それはここにいない人物に向けられたものだ。だからメルリアは引き下がるつもりはなかった。なにか――なにかないか、と頭の中でシャムロックとの記憶を次々と思い浮かべると、頭の中にあるものが思い浮かぶ。慌ててリュックサックからポーチを探し出すと、四つ折りの紙を取り出した。折れた事による癖はついているものの、比較的綺麗に保たれていた。
「これ……、見て、ほしいんですけど」
その紙を大切そうに開くと、不機嫌面を浮かべるエルヴィーラへ手渡した。それはヴェルディグリでシャムロックから渡されたメモ書きである。夜半の屋敷へ続く、箇条書きのような道筋が書かれた部分は眉一つ動かさなかったエルヴィーラだが、紙の端にある追伸以降の言葉に目を通すと、深紅の瞳が揺らめいた。
「……これじゃまるで、私が子供みたいじゃない」
不服そうに眉をひそめるエルヴィーラだが、その表情は先ほどよりも幾分か明るい。もう一度その部分に目を通した後、エルヴィーラは紙を返した。メルリアは元あったように紙を折り目に沿って四つ折りにすると、大事そうにポーチの中にしまう。
エルヴィーラは廊下の奥に視線を向けた。今まで二人が通ってきた道だ。そこには暗闇が広がっている。その闇から顔を背けると、メルリアのすぐ隣に立った。エルヴィーラは先ほどのようにメルリアを抱き寄せ、細く長い腕を背中に回した。
「すぐに……色々、ほんとうの事を知るはずだけど……。私のこと、嫌いにならないでね」
エルヴィーラの心の内は月夜に暴かれるが、心の奥底を伝える声は弱々しく闇へ溶け消えていく。メルリアの視界の外で、エルヴィーラは静かに目を閉じた。肩が震える。メルリアを抱き留める腕にまるで力が入らない。平常を装うはずの声は上擦り乱れていた。
「エルヴィーラさん……?」
メルリアはその意図が分からない。エルヴィーラの肩がどうして震えているのかも分からない。ただ、一つだけはっきり言えることがある。
「エルヴィーラさんのこと、嫌いになんてなりません」
数多のものが闇夜に飲み込まれる屋敷に、その声は力強く、はっきりと響いた。隠すつもりもない、隠す必要もない確固たる意志。メルリアも同じように彼女の背中に腕を回した。寒さに震える体を温めるように、しっかりと抱き留める。
エルヴィーラはかつて自分に投げかけられた優しい声を思い出しながら、鬱陶しそうに窓に体を預けた。ギィ、と音が立つが、その窓が開くことはない。伏し目がちにため息をつくその視線が、やがてメルリアの右手に向けられた。彼女の肌もまた、月明かりを反射して白く輝いている。
温かい手。綺麗に切りそろえられた爪に、丸みを帯びた手のひらの輪郭。かつての記憶が蘇り、エルヴィーラはふっと笑った。
「前みたいに……、一緒に逃げられたらいいのに」
頬に張り付く髪を再び耳の後ろにかけるが、数本耳の前に垂れ下がる。その髪に触れ、指でもてあそんだ。
「……こんなところにいたって、この前よりもずっとすぐに見つかるもの」
諦めたように笑い、長くしなやかな睫毛を閉じ合わせた。窓辺に寄りかかり、夜漏れ光る月明かりに照らされたエルヴィーラの姿は、まるで一幅の絵画のように美しい。透けるように白い肌も、癖のあるセミロングの髪も、整った顔立ちも、手袋の白色ですら。
メルリアはその姿に少し躊躇ってから、エルヴィーラに一歩一歩歩み寄る。
「私……。シャムロックさんと一緒にいる間、エルヴィーラさんのお話をたくさん聞きました」
「シャムが?」
ゆっくりと瞼が開き、深紅の瞳がメルリアの青く澄んだ瞳を捉えた。
「シャムロックさん、エルヴィーラさんのお話をする時、とても優しい表情をするんです。声や言葉の柔らかい感じもそうなんですけど……、エルヴィーラさんのことが大好きなんだって伝わってくるんです」
メルリアはミスルトーやここに来る道でのシャムロックの様子と、共にシャノワールへ行ったあの日のことを思い出していた。
店に飛び込むように入ってきたシャムロックは全身雨でずぶ濡れ、髪は顔に張り付き服も体にまとわりついていた。彼の背の高さも相まって、初対面であったあの時は怖いとしか思えなかった。けれど今は……。メルリアは当時の記憶をたぐり寄せる。店の奥にいるエルヴィーラに気づいた途端、シャムロックはほっと安堵の笑みを浮かべていた。その表情の温度は、シャムロックがエルヴィーラのことを語るものと同じだった。
「どうかしらね」
唇をつんと尖らせたエルヴィーラは、どこか突き放すような声色で言う。それはここにいない人物に向けられたものだ。だからメルリアは引き下がるつもりはなかった。なにか――なにかないか、と頭の中でシャムロックとの記憶を次々と思い浮かべると、頭の中にあるものが思い浮かぶ。慌ててリュックサックからポーチを探し出すと、四つ折りの紙を取り出した。折れた事による癖はついているものの、比較的綺麗に保たれていた。
「これ……、見て、ほしいんですけど」
その紙を大切そうに開くと、不機嫌面を浮かべるエルヴィーラへ手渡した。それはヴェルディグリでシャムロックから渡されたメモ書きである。夜半の屋敷へ続く、箇条書きのような道筋が書かれた部分は眉一つ動かさなかったエルヴィーラだが、紙の端にある追伸以降の言葉に目を通すと、深紅の瞳が揺らめいた。
「……これじゃまるで、私が子供みたいじゃない」
不服そうに眉をひそめるエルヴィーラだが、その表情は先ほどよりも幾分か明るい。もう一度その部分に目を通した後、エルヴィーラは紙を返した。メルリアは元あったように紙を折り目に沿って四つ折りにすると、大事そうにポーチの中にしまう。
エルヴィーラは廊下の奥に視線を向けた。今まで二人が通ってきた道だ。そこには暗闇が広がっている。その闇から顔を背けると、メルリアのすぐ隣に立った。エルヴィーラは先ほどのようにメルリアを抱き寄せ、細く長い腕を背中に回した。
「すぐに……色々、ほんとうの事を知るはずだけど……。私のこと、嫌いにならないでね」
エルヴィーラの心の内は月夜に暴かれるが、心の奥底を伝える声は弱々しく闇へ溶け消えていく。メルリアの視界の外で、エルヴィーラは静かに目を閉じた。肩が震える。メルリアを抱き留める腕にまるで力が入らない。平常を装うはずの声は上擦り乱れていた。
「エルヴィーラさん……?」
メルリアはその意図が分からない。エルヴィーラの肩がどうして震えているのかも分からない。ただ、一つだけはっきり言えることがある。
「エルヴィーラさんのこと、嫌いになんてなりません」
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