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ヴィリディアンの街道3
83 宿酒場の夜-2
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やがて泥酔した父親が、娘と店主に連れられて宿泊部屋へ運ばれていく。俺の目が黒いうちは、などと引き摺られていく様に、客である男女一組がくすくすと笑う声が残った。木製のビアジョッキが椅子の下でごろごろと音を立てて転がった。その音が収まった頃、この場に平和が戻った。
「えっと……、どうかした? さっき、声をかけてくれたよね」
諦めかけていたクライヴは、突然の言葉に体を硬直させた。不自然なほどピンと背筋を伸ばす。咄嗟の行動で飲み込んだ唾液が気管に入り、深い咳を繰り返した。
「だ、大丈夫?」
クライヴは辛うじて頷いた。ひときわ大きい咳をすると、残りの水を一気に飲み干す。七杯目である。グラスには丸い氷がふたつ取り残され、涼しげな音を立てた。腹の底から空気を吐き出して、生理的に乱れた鼓動を整える。視線を右下に逸らしたまま、ぽつりと零した。
「シャムロックの話が終わった後、なんだけどさ」
クライヴは膝の上で手を揉み、余裕のないため息をついた。やがて意を決すると、顔を上げ、メルリアに真っ直ぐな視線を向けた。
「グローカスの街に、一緒に行かないか? 俺、あの街に住んでるんだ、だから二人で行けたら楽しいかと思うんだけ、ど……」
提案が次第に弱々しく、声も小さく頼りなく変わっていく。言葉が詰まり、視線が泳いだ。
クライヴは、頭の片隅で他人のことをどうこう言える立場にないなと苦笑したが、しかしそれに構うだけの余裕も、対策を講じるだけのゆとりもなかった。迷いと緊張に揺れる視界に入ってきたのは、瞳を輝かせるメルリアの笑顔だった。
「いいの?」
口の端が妙な軌道を描いて上がりそうになるのを必死に抑えて、クライヴはうなずく。
「グローカスはまだ行ったことないんだ。楽しみにしてるね!」
曇りのない真っ直ぐな笑顔に言葉が全て飲み込まれそうになるが、クライヴはそれをなんとか乗り越え、拙いながらも一つ言葉を返した。
「俺も、楽しみにしてるよ」
その声は随分と肩の力が入った固いものであったが、メルリアは気づかない。
また楽しみが一つ増えたと指折り数えながら、静かに目を閉じる。それを胸に押し当てながら、メルリアは微笑んだ。シャムロックが知るというあの花の話――それが終わったら、クライヴと共にグローカスを見て回る。そうしたら、また手がかりを求めて旅に出るのだろう。それに、グローカスは花の街だという。もしかしたら、街を回っているうちにも、意外なヒントが転がっているかもしれない。
――待っててね、おばあちゃん。
メルリアは大好きな祖母の顔を思い浮かべながら、ゆっくりと目を開く。すっかり冷め切った紅茶を啜ると、舌先に来る苦みの後に、溶けきらなかった砂糖の甘さが残った。
「えっと……、どうかした? さっき、声をかけてくれたよね」
諦めかけていたクライヴは、突然の言葉に体を硬直させた。不自然なほどピンと背筋を伸ばす。咄嗟の行動で飲み込んだ唾液が気管に入り、深い咳を繰り返した。
「だ、大丈夫?」
クライヴは辛うじて頷いた。ひときわ大きい咳をすると、残りの水を一気に飲み干す。七杯目である。グラスには丸い氷がふたつ取り残され、涼しげな音を立てた。腹の底から空気を吐き出して、生理的に乱れた鼓動を整える。視線を右下に逸らしたまま、ぽつりと零した。
「シャムロックの話が終わった後、なんだけどさ」
クライヴは膝の上で手を揉み、余裕のないため息をついた。やがて意を決すると、顔を上げ、メルリアに真っ直ぐな視線を向けた。
「グローカスの街に、一緒に行かないか? 俺、あの街に住んでるんだ、だから二人で行けたら楽しいかと思うんだけ、ど……」
提案が次第に弱々しく、声も小さく頼りなく変わっていく。言葉が詰まり、視線が泳いだ。
クライヴは、頭の片隅で他人のことをどうこう言える立場にないなと苦笑したが、しかしそれに構うだけの余裕も、対策を講じるだけのゆとりもなかった。迷いと緊張に揺れる視界に入ってきたのは、瞳を輝かせるメルリアの笑顔だった。
「いいの?」
口の端が妙な軌道を描いて上がりそうになるのを必死に抑えて、クライヴはうなずく。
「グローカスはまだ行ったことないんだ。楽しみにしてるね!」
曇りのない真っ直ぐな笑顔に言葉が全て飲み込まれそうになるが、クライヴはそれをなんとか乗り越え、拙いながらも一つ言葉を返した。
「俺も、楽しみにしてるよ」
その声は随分と肩の力が入った固いものであったが、メルリアは気づかない。
また楽しみが一つ増えたと指折り数えながら、静かに目を閉じる。それを胸に押し当てながら、メルリアは微笑んだ。シャムロックが知るというあの花の話――それが終わったら、クライヴと共にグローカスを見て回る。そうしたら、また手がかりを求めて旅に出るのだろう。それに、グローカスは花の街だという。もしかしたら、街を回っているうちにも、意外なヒントが転がっているかもしれない。
――待っててね、おばあちゃん。
メルリアは大好きな祖母の顔を思い浮かべながら、ゆっくりと目を開く。すっかり冷め切った紅茶を啜ると、舌先に来る苦みの後に、溶けきらなかった砂糖の甘さが残った。
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