幾望の色

西薗蛍

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魔女の村ミスルトー

77 老婆の依頼

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 シャムロックの言葉通り、アラキナが頼んだ依頼は払暁まで要した。

 広場を包む重い霧は、二人を縁のない影へと変化させる。先の見えない濃霧の中、一つの明かりとなるのは一本のろうそく。それはテーブルの上で頼りなく揺れ、シャムロックの手元を照らした。肌にまとわりつく湿気に構わず、左手でペンを走らせる。羊皮紙に黒いインクの色が滲んだ。


 二人があの後向かったのは、魔女の村の南西だ。

 普段はエルフ以外は立ち入ることが許されないそこには、雪のような白い花が湖を囲むように咲き誇っている。花の様子がどこかおかしいと気づいたアラキナは、シャムロックに調査の手紙を寄越したのだ。

 ここミスルトーは古の時代からほとんど姿を変えていない。それ故、原種とも言える植物が山のように自生している。その一つの様子がおかしい――それは環境に適合した進化なのか、絶滅の予兆か。結果次第ではエルフにとって一大事である。


 シャムロックはペンを止めると、羊皮紙をアラキナに差し出す。誰が読んでも見間違うことはないだろうというほど形の整った字であった。それでいて速筆なのだから憎たらしいと、アラキナはつまらなそうに受け取った。

「――先ほども説明したが、これは進化の予兆に近い。こちらに自生している物とは違い、ミスルトーのものはエルフの魔力を帯びるようになったせいだな」

 調査の結果は危惧していたものではなかった。普通であれば安堵すべきだが、アラキナは驚くでもなく安心するでもなく皺皺の唇を尖らせる。

「想定通りか、つまらんのぅ。お主に恩が売れなくなるわい」

 羊皮紙をテーブルに置くと、足下の小石を重しにして、老婆は背もたれに寄りかかった。どうせそんなことだろうと思ったとふて腐れながら、間もなく朝が訪れるであろう空の穴を見上げる。月はどこかへ姿を隠し、星の輝きは頼りない。真っ黒な空を覆う色は黒と言うより藍色に近く、じっくりと夜が終わりへ向かってゆく。

「まあ……、それはさておき、今回はお主に売れる恩を見つけたがなぁ」

 その言葉に、シャムロックは顔を上げた。相変わらずアラキナはだらしなく椅子に体を預け、こちらには視線を合わせない。

 アラキナは昔から我を貫く性格だった。シャムロックはそれを心得ている。だからこそ、およそ話を聞く態度ではないと特別問いただしたり責め立てることはしなかった。

「クライヴがいたから俺を呼んだのではないのか?」

 シャムロックはペンを懐にしまい、もう一度問う。

 二度目の質問にも拘わらず、耳にたこができるといった風にアラキナは苦い顔を浮かべ、手をひらひらと振った。

「本当に偶然じゃあ。まあ? お主が来るまで足止めしといてやったのは儂じゃが?」

 感謝しろと老婆はもう一つ新しい恩を売った。

 その態度にやれやれと肩をすくめると、テーブルの脇に避けてあったグラスを手に取った。琥珀色のそれが霧の中に浮かび上がる。くっきりとした深い色は、余計な物が混じっていない事を意味している。アルコール度数四十二度のそれを含み、舌で転がすように味わう。鼻に抜ける麦の香りを楽しんだ。それは、アラキナが用意した今宵の報酬、アイリッシュウィスキー一杯分。その他の報酬は、交通費と彼に売った数々の恩から天引きされている。

 彼は表情一つ変えずに度数の高い酒を口にする。表情に酔中の色は見えない。代わりに、赤い瞳がわずかに揺れた。

「これもお主らの定めじゃのぅ」

 シャムロックは目を伏せた。その言葉の意味は、自分自身が一番理解している。エルヴィーラがメルリアと出会ったように、自分がクライヴと出会ったように、これは逃れられぬ定めなのだ。自分たちはそういうふうにできている。これを枷と思うことは少なくないが、今回ばかりは感謝しなくてはならないだろう。激しい喉の渇きを訴えていたクライヴの様子がそれを物語る。彼は自覚しないままどれだけ我慢していたのか。決して短い時間ではないだろうと推測はできた。後は、彼が自分の言葉を受け止められるかどうかにかかっている。

 グラスの中のアイリッシュウィスキーが静かに波紋を立てた。湿気を含んだアルコールの香りが漂う。吸い寄せられるように、シャムロックは再びグラスを傾けた。好きな味と共に、空腹が満たされる感覚を覚えた。

 東方の空が白みはじめる。霧はより深まり、土と草のにおいが強く変わった。全ての光を飲み込むような森の闇が次第に浅くなっていく。木々の緑は、まるで新緑を思わせるような若々しい色に染まった。

 魔女の村が朝を告げようとしていた。
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