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魔女の村ミスルトー
72 村の外れにて-2
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男は懐から小袋を取り出すと、その封を切って水の中に注ぎ入れる。何で混ぜなくても、あっという間に水となじんでいく。透明だった水は赤色と混ざり合い、コップの向こうに透けた指が見えないほどに濃く深く濁っていく。深紅の色だった。
男は頃合いを見計らうと、クライヴの傍で膝を折る。
「これが欲しいか?」
クライヴの耳にはその言葉がはっきりと届いた。先ほどまではどこか遠い世界の話だと感じていたというのに。ゆっくりと顔を上げると、そこには彼の知らない男がいた。男はこちらの様子を窺っているが、暗い服は夜の闇に溶け、月明かりを背にしていて判別できなかった。
しかし、今の彼にとってはそのどれもどうでもいいことだった。男のコップに揺れるもの以外は。視界に入った赤色を識別した途端、本能的に理解した。体が欲しいと訴えている物の正体はこれだと。その色に目を奪われ、無意識に喉を鳴らす。
「欲しい……」
たった一言、その問いにうなずいて答えた。普段からは想像もできないほど、遙かに低い声だった。
痛みや不快ではなく、期待で動悸が乱れていく。腕が勝手にそれへ伸びた。男からコップを奪い取るように手にしたが、男は表情一つ変えなかった。
クライヴはその赤を見つめる。水面に映る自分の顔はどこかぼうっとしていた。赤い水からは匂いないが、クライヴにとっては違う。そこには確かに甘い匂いがあった。それは酷く魅惑的な香りで、一瞬で虜になってしまうほどの。そのまま、そのコップを強く握りしめた。喉の熱はこれを飲めば消える、これが欲しい――体の衝動に突き動かされ、躊躇いなくグラスに口をつけた。渇きを満たすようにと勢いよく胃の底へ流し込む。味は薄いが、甘みと、舌に残る苦みのようなものがあった。嫌いな味ではない。たまに口にするアルコールの苦みによく似ている。
コップの水はみるみるうちに減っていき、あっという間に全てを飲み下す。コップを握りしめたまま、右手を地面に投げ出し、唇に残った水を舐めた。口の中に再び甘い味が広がる。悪くない、と思った。口の中に残った液体を唾液ごと飲み込む。もう一度喉仏が上下すると、喉の渇きがすっと消えていった。それは、今まで何を飲んでも満たされなかったものだ。
「……そういうことか」
男はクライヴの瞳と、水を飲み干す様を熟視し、淡々とつぶやいた。
「あ……、れ?」
何度か荒い呼吸を繰り返すと、乱れていた呼吸が平常へと戻っていく。頭の靄がすっかりと消え、二、三度まばたきをした。そうしてから喉に手を当てると、あの異常な渇きが治まっていることに気づく。喉を何か液体が通ったような感覚が残っている。口の中に残る苦みは強く、お世辞にも旨いとは言えない。いつの間にか手にしているグラスからは、毒々しいほど赤い色の水がこびりついている。
何を飲んでも満たされなかったというのに……それに、これは? クライヴは眉をひそめた。と、同時に、彼の外見にも現れていた異常が治まっていく。
ざわざわと木々が揺れ、森にも静かな風が吹いた。それによって、大量にかいた汗が体の熱を奪っていく。今度こそ汗を引くに足る心地よさだった。
「落ち着いたようだな」
正面から声が聞こえ、顔を上げる。そこには知らない男がいた。
逆光で表情はよく分からないが、月明かりに烟る髪は明るい色をしている。対して、衣服は暗い色だ。耳にエルフ特有の形がないから、この人物はエルフではないのだろう。
クライヴは周囲の様子を見回した。ここに来た理由は覚えている。走り続けていたらここにたどり着いたことも、この柵に背中を預けたことも、夜空を仰いだことも。けれど目の前にいる男に覚えはないし、手に持ったコップの事も記憶にない。落ち着かないように視線を動かしていると、男は続けた。
「念のため聞いておくが……。随分前から、なにをしても満たされない喉の渇きを感じていたのではないか?」
クライヴはその言葉に目を見開く。一拍置いてから、男に疑わしげな視線を送った。
しかし、男はその様子にも表情一つ変えない。男はクライヴの反応を同意と捉え、続ける。
「自分が何者か、理解しているか?」
「な――」
クライヴは何か否定の言葉を吐き出そうとして、やめた。頭の中に真っ先に浮かんだのは怒りの感情に近い。どうして周りはそんなことばかり言うのか。あの医者然り、魔術士然り。冷たい風がクライヴの体温を更に奪い、瞬発的に浮かんだ攻撃的な感情をも冷ましていく。認めるわけではない。認めたくはないが、あの発作の直後では――自分の悩みを瞬時に言い当てた人物の前では、否定する気になれなかった。
男は頃合いを見計らうと、クライヴの傍で膝を折る。
「これが欲しいか?」
クライヴの耳にはその言葉がはっきりと届いた。先ほどまではどこか遠い世界の話だと感じていたというのに。ゆっくりと顔を上げると、そこには彼の知らない男がいた。男はこちらの様子を窺っているが、暗い服は夜の闇に溶け、月明かりを背にしていて判別できなかった。
しかし、今の彼にとってはそのどれもどうでもいいことだった。男のコップに揺れるもの以外は。視界に入った赤色を識別した途端、本能的に理解した。体が欲しいと訴えている物の正体はこれだと。その色に目を奪われ、無意識に喉を鳴らす。
「欲しい……」
たった一言、その問いにうなずいて答えた。普段からは想像もできないほど、遙かに低い声だった。
痛みや不快ではなく、期待で動悸が乱れていく。腕が勝手にそれへ伸びた。男からコップを奪い取るように手にしたが、男は表情一つ変えなかった。
クライヴはその赤を見つめる。水面に映る自分の顔はどこかぼうっとしていた。赤い水からは匂いないが、クライヴにとっては違う。そこには確かに甘い匂いがあった。それは酷く魅惑的な香りで、一瞬で虜になってしまうほどの。そのまま、そのコップを強く握りしめた。喉の熱はこれを飲めば消える、これが欲しい――体の衝動に突き動かされ、躊躇いなくグラスに口をつけた。渇きを満たすようにと勢いよく胃の底へ流し込む。味は薄いが、甘みと、舌に残る苦みのようなものがあった。嫌いな味ではない。たまに口にするアルコールの苦みによく似ている。
コップの水はみるみるうちに減っていき、あっという間に全てを飲み下す。コップを握りしめたまま、右手を地面に投げ出し、唇に残った水を舐めた。口の中に再び甘い味が広がる。悪くない、と思った。口の中に残った液体を唾液ごと飲み込む。もう一度喉仏が上下すると、喉の渇きがすっと消えていった。それは、今まで何を飲んでも満たされなかったものだ。
「……そういうことか」
男はクライヴの瞳と、水を飲み干す様を熟視し、淡々とつぶやいた。
「あ……、れ?」
何度か荒い呼吸を繰り返すと、乱れていた呼吸が平常へと戻っていく。頭の靄がすっかりと消え、二、三度まばたきをした。そうしてから喉に手を当てると、あの異常な渇きが治まっていることに気づく。喉を何か液体が通ったような感覚が残っている。口の中に残る苦みは強く、お世辞にも旨いとは言えない。いつの間にか手にしているグラスからは、毒々しいほど赤い色の水がこびりついている。
何を飲んでも満たされなかったというのに……それに、これは? クライヴは眉をひそめた。と、同時に、彼の外見にも現れていた異常が治まっていく。
ざわざわと木々が揺れ、森にも静かな風が吹いた。それによって、大量にかいた汗が体の熱を奪っていく。今度こそ汗を引くに足る心地よさだった。
「落ち着いたようだな」
正面から声が聞こえ、顔を上げる。そこには知らない男がいた。
逆光で表情はよく分からないが、月明かりに烟る髪は明るい色をしている。対して、衣服は暗い色だ。耳にエルフ特有の形がないから、この人物はエルフではないのだろう。
クライヴは周囲の様子を見回した。ここに来た理由は覚えている。走り続けていたらここにたどり着いたことも、この柵に背中を預けたことも、夜空を仰いだことも。けれど目の前にいる男に覚えはないし、手に持ったコップの事も記憶にない。落ち着かないように視線を動かしていると、男は続けた。
「念のため聞いておくが……。随分前から、なにをしても満たされない喉の渇きを感じていたのではないか?」
クライヴはその言葉に目を見開く。一拍置いてから、男に疑わしげな視線を送った。
しかし、男はその様子にも表情一つ変えない。男はクライヴの反応を同意と捉え、続ける。
「自分が何者か、理解しているか?」
「な――」
クライヴは何か否定の言葉を吐き出そうとして、やめた。頭の中に真っ先に浮かんだのは怒りの感情に近い。どうして周りはそんなことばかり言うのか。あの医者然り、魔術士然り。冷たい風がクライヴの体温を更に奪い、瞬発的に浮かんだ攻撃的な感情をも冷ましていく。認めるわけではない。認めたくはないが、あの発作の直後では――自分の悩みを瞬時に言い当てた人物の前では、否定する気になれなかった。
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