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魔女の村ミスルトー
72 村の外れにて-1
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クライヴは魔女の村を走り続けていた。
ただただ人気のない場所へ。メルリアから離れることだけ考えて、どこへ続くか分からない道を行く。土の道をただひたすらに。
森の鳥が枝に飛び移り、音もなく雑草をかき分けた動物が、森の奥から彼を見る。彼も動物の気配は感じていたが、それに構う余裕はない。もっとも、向こうの方も彼を襲う理由はなかった。
喉の渇きは収まる気配がない。渇きは悪化し、喉の奥が痛むような不快感に襲われ続けていた。走り続けている今ですら、時折呼吸の方法を忘れそうになるほど。
――けれど、そんなことより。先ほど脳裏に浮かんだ映像を否定するように頭を振った。欲しいものを、と口にする時、メルリアの肌を鋭利な物で傷つけるような空想をしてしまった。自分が掴んでいた腕の部分を。想像してはいけないことだ。心にもないはずだった。それなのに。
「何が欲しいって言うんだ……!」
痛む喉を押さえ、無理矢理出した問いを答える者はいない。何も分からない。誰も知らない。ただ、一つ分かるのは、あのままでは、取り返しのつかないことが起きるかもしれなかった。だから走った。とにかくメルリアから離れて、一人で渇きが落ち着くまで待つほかない。これまで通りなら、朝になれば治まるだろうから。
やがて、土地を区切るような木製の柵の前にたどり着く。五メートルほどのそれは、蛇が這うような不思議な形をしている。魔女の村を覆う柵だ。これは村と外を覆う仕切りでもあり、結界でもある。
クライヴはその傍でくずおれる。柵に背中を預けると、わずかに軋みながらもその重みを静かに受け止めた。
喉が渇く。治まらない。飢えていると体が訴えてくる。とにかく欲しい、欲しい――答えのない体の訴えを、嫌というほど体で感じていた。汗を吸い尽くした衣類が肌にまとわりつく。自身の汗で服に大きな染みを作った。森を抜ける冷たい風が、体温を静かに奪っていく。それでも汗が引くには足りない。治まらない。呼吸も、喉の痛みも渇きも。なにも。
クライヴは頭を柵に預けた。自然と視線が上へ向き、見るつもりもなかった夜空を見上げる。広場とは異なり、このあたりは空を遮る木々が少ない。ここからは、夜空を照らす楕円の月も、その周りに耿耿と輝く星々も、はっきりと確認できる。魔女の村は暗く、街の中では肉眼で見ることが難しい弱い星の光もしっかりと捉えることができた。普段通りの体調だったのなら、これほど息をのむ美しい景色はないだろうと感動しただろう。しかし、今の彼は何の感情も抱かなかった。そのまま俯くと、背を丸める。じくじくと痛む喉の脇に手を当て、ひたすら症状が落ち着くのを待ち続けた。
……また謝らないといけない。言いたいことも言えなかった。けど、言わなかった方が正解だったのかもしれない。言うべきではなかったのかもしれない……。
クライヴは痛みに耐えるように瞼を固く閉ざす。額からにじんだ汗が、鼻筋の脇を通って流れ落ちた。今日の発作はすぐには落ち着かないだろう。
先の二回の発作はベッドに横になることでやり過ごした。やがて自然と眠気が訪れて、翌朝には症状が治まった。しかし今は外であるし、眠れる気配はない。頭ははっきりとしているし、痛みや渇きもくっきりと感じ取れた。喉が、その奥が、燃えるように熱い。それはやがて渇きを伴った痛みへと変化する。かと思えば痛みが引き熱を持ち、そして痛み出す――その繰り返しだった。今日は長くなりそうだと、諦めに似たため息を肺から吐き出した。
その音が消えた頃、静かな森の中に草土を踏みしめる足音が響いた。それは躊躇いがちに一度止まるが、やがて明確な意志を持ったものに変わり、クライヴのすぐ近くで消えた。続けて、窺うように静かな足音がもう一つ。
「なぜここに人間が? いや……」
「クライヴ?」
クライヴは傍で聞こえる人の話し声を、どこか遠くの世界の出来事だと錯覚していた。わざわざこんな場所に人が来るはずはないと思っていたし、それに構うだけの余裕もなかったからだ。だから知らない男の声には反応しなかったし、自分を呼ぶ聞いたことのある男の声にも反応できなかった。
二人は何やら深刻な声で話を続けているが、その言葉のどれも頭に入ってこない。普通であれば聞こえていたはずの距離であったし、子供でも理解できる内容であったにも拘わらず。
「レニー、コップ一杯分の飲み水を用意できるか?」
「すぐにできる」
男の傍らで立つレニーは、その問いにうなずいた。素早く詠唱し、コップを右手に、水の入ったガラスのジャグを左手にと物質を転移させた。コップに水を適量注ぐと、黙って男に差し出した。
ただただ人気のない場所へ。メルリアから離れることだけ考えて、どこへ続くか分からない道を行く。土の道をただひたすらに。
森の鳥が枝に飛び移り、音もなく雑草をかき分けた動物が、森の奥から彼を見る。彼も動物の気配は感じていたが、それに構う余裕はない。もっとも、向こうの方も彼を襲う理由はなかった。
喉の渇きは収まる気配がない。渇きは悪化し、喉の奥が痛むような不快感に襲われ続けていた。走り続けている今ですら、時折呼吸の方法を忘れそうになるほど。
――けれど、そんなことより。先ほど脳裏に浮かんだ映像を否定するように頭を振った。欲しいものを、と口にする時、メルリアの肌を鋭利な物で傷つけるような空想をしてしまった。自分が掴んでいた腕の部分を。想像してはいけないことだ。心にもないはずだった。それなのに。
「何が欲しいって言うんだ……!」
痛む喉を押さえ、無理矢理出した問いを答える者はいない。何も分からない。誰も知らない。ただ、一つ分かるのは、あのままでは、取り返しのつかないことが起きるかもしれなかった。だから走った。とにかくメルリアから離れて、一人で渇きが落ち着くまで待つほかない。これまで通りなら、朝になれば治まるだろうから。
やがて、土地を区切るような木製の柵の前にたどり着く。五メートルほどのそれは、蛇が這うような不思議な形をしている。魔女の村を覆う柵だ。これは村と外を覆う仕切りでもあり、結界でもある。
クライヴはその傍でくずおれる。柵に背中を預けると、わずかに軋みながらもその重みを静かに受け止めた。
喉が渇く。治まらない。飢えていると体が訴えてくる。とにかく欲しい、欲しい――答えのない体の訴えを、嫌というほど体で感じていた。汗を吸い尽くした衣類が肌にまとわりつく。自身の汗で服に大きな染みを作った。森を抜ける冷たい風が、体温を静かに奪っていく。それでも汗が引くには足りない。治まらない。呼吸も、喉の痛みも渇きも。なにも。
クライヴは頭を柵に預けた。自然と視線が上へ向き、見るつもりもなかった夜空を見上げる。広場とは異なり、このあたりは空を遮る木々が少ない。ここからは、夜空を照らす楕円の月も、その周りに耿耿と輝く星々も、はっきりと確認できる。魔女の村は暗く、街の中では肉眼で見ることが難しい弱い星の光もしっかりと捉えることができた。普段通りの体調だったのなら、これほど息をのむ美しい景色はないだろうと感動しただろう。しかし、今の彼は何の感情も抱かなかった。そのまま俯くと、背を丸める。じくじくと痛む喉の脇に手を当て、ひたすら症状が落ち着くのを待ち続けた。
……また謝らないといけない。言いたいことも言えなかった。けど、言わなかった方が正解だったのかもしれない。言うべきではなかったのかもしれない……。
クライヴは痛みに耐えるように瞼を固く閉ざす。額からにじんだ汗が、鼻筋の脇を通って流れ落ちた。今日の発作はすぐには落ち着かないだろう。
先の二回の発作はベッドに横になることでやり過ごした。やがて自然と眠気が訪れて、翌朝には症状が治まった。しかし今は外であるし、眠れる気配はない。頭ははっきりとしているし、痛みや渇きもくっきりと感じ取れた。喉が、その奥が、燃えるように熱い。それはやがて渇きを伴った痛みへと変化する。かと思えば痛みが引き熱を持ち、そして痛み出す――その繰り返しだった。今日は長くなりそうだと、諦めに似たため息を肺から吐き出した。
その音が消えた頃、静かな森の中に草土を踏みしめる足音が響いた。それは躊躇いがちに一度止まるが、やがて明確な意志を持ったものに変わり、クライヴのすぐ近くで消えた。続けて、窺うように静かな足音がもう一つ。
「なぜここに人間が? いや……」
「クライヴ?」
クライヴは傍で聞こえる人の話し声を、どこか遠くの世界の出来事だと錯覚していた。わざわざこんな場所に人が来るはずはないと思っていたし、それに構うだけの余裕もなかったからだ。だから知らない男の声には反応しなかったし、自分を呼ぶ聞いたことのある男の声にも反応できなかった。
二人は何やら深刻な声で話を続けているが、その言葉のどれも頭に入ってこない。普通であれば聞こえていたはずの距離であったし、子供でも理解できる内容であったにも拘わらず。
「レニー、コップ一杯分の飲み水を用意できるか?」
「すぐにできる」
男の傍らで立つレニーは、その問いにうなずいた。素早く詠唱し、コップを右手に、水の入ったガラスのジャグを左手にと物質を転移させた。コップに水を適量注ぐと、黙って男に差し出した。
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