120 / 197
魔女の村ミスルトー
71 炎火-2
しおりを挟む
「俺も途中まで一緒に行かせてくれ」
先ほどの迷うように頼りない様子とは異なり、彼はじっとこちらの目を見ていた。
その問いを受け、メルリアは言葉を詰まらせた。普段ならすぐに大丈夫だと誘いを断るところだが、今日は違った。そこまでしてもらうのは悪いと思う。けれど、一人で街道を行くのは少し怖い。おずおずと顔を上げると、窺うような視線を向けた。
「……迷惑じゃない?」
「ああ」
しっかりとうなずくクライヴを見て、メルリアは胸の違和感――そこにある不快感が緩和されたような気がして、ほっとため息をつく。
二人の間に穏やかな風が抜ける。木の葉が舞い、湿気をはらんだ土の匂いが漂った。背中から吹く風は、目の前で燃え続けるたき火の炎を遠ざけた。わずかにそれが離れただけで、体の熱が一、二度下がったような感覚がある。クライヴは遠ざかる熱を見つめながら、手を組んだ。
「メルリアは探していた花が見つかったらどうするんだ?」
メルリアは言葉を失った。旅の終わりの後のことなど考えたこともなかったからだ。
ロバータが他界してから、まもなく三年が経つ。その間、メルリアは祖母との約束を叶えるためだけに精一杯生きてきた。エプリ食堂で働いて旅費を稼ぎ、ベラミントを出てからは花の手がかりを求める日々。あの約束を一日でも早く叶えたい。それだけだった。だから、本当に見つけた後のことは……。自分のためにやりたいことはない。いずれきちんとした仕事を探すべきだとは思っているが、その当ては何もない。働きたい職種も思い当たらない。メルリアの頭が、やがて真っ白になっていく。
「……考えたこと、なかった」
行き着く先がないことに気づいた途端、そう零していた。膝に置いた手をきゅっと掴むと、スカートに皺ができる。
漠然とした様子で告げるメルリアに対して、クライヴは深呼吸を繰り返していた。話題を切り出すために、ドクドクと脈打つ心臓を落ち着けるために。口の端が落ち着かぬように何度も形を変える。やがて意を決したクライヴは、すっと短く息を吸った。その一瞬、鼻腔を刺激する甘い匂い。砂糖菓子とも、お化けリンゴとも異なる、花の蜜に近いような。疑問には思ったが、それに構わず手を伸ばす。右手がメルリアの肩に触れ、その感触に彼女は顔を上げた。二人の目が合う。
「――ッ!」
「え……」
二人は驚きに目を見開いたが、両者とも動くことができない。
根元から崩れたたき火が、ひときわ大きな音を立てて火の粉をいくつも散らした。無数の粉が森の宵闇に吸い込まれて消えていく。炎の形がバランスを崩した右方へと湾曲し、そしてまた燃え続ける。
「く、そ……」
クライヴだけが感じている甘い匂いは、やがてむせ返るほど強く濃く変わる。喉の奥がじわりじわりと疼きはじめた。ここで彼はようやく理解する。あの症状だ、と。苦しげに目を細め、メルリアから手を離す。眉間に深い皺を寄せ、口元を手で押さえた。べっとりと湿った感触が気持ち悪い。肩で繰り返す呼吸は浅く、頬に汗が流れ落ちた。指の隙間からは荒い気息。それは言葉を失った獣のようだった。
「クライヴさん……?」
メルリアは恐る恐るクライヴに手を伸ばした。これに居合わせるのはもう三度目になる。彼に以前聞いた症状とはこの事だろう――様子のおかしい彼を気にかけるが、それを問うことはしなかった。彼に余裕がないのは、火を見るより明らかだ。
「水、持ってくるね?」
メルリアはゆっくりと立ち上がる。返事はない。苦痛に歪む表情を一瞥した後、彼に背を向けて歩き出した。瞬間、左腕が冷たい手に引っ張られる。衝撃に歩みを止めざるを得なくなった。クライヴの親指が、上腕骨を滑る。その力は強く、締め付けられるようにじんと痛んだ。
「俺が欲しいのは、水じゃない……」
聞こえた音は酷く掠れて、やつれ、普段のクライヴからは想像もできないほど疲れた声だった。
メルリアはその腕を振り払わなかった。じんわりと残る痛みに耐えながら、彼の様子を窺う。
「俺が欲しいのは……!」
絞り出すようなか細い声を漏らしたかと思うと、クライヴははっと目を見開く。突き放すように手を離すと、数歩後ずさった。荒い呼吸を繰り返したまま、背後を確認し、黙って走り去った。その動きに躊躇はない。その姿はあっという間に森の闇に紛れ消えていく。
勢いをなくしたたき火の炎が静かに揺れ、灰色の煙だけが空の穴に向かってか細く伸びていく。
メルリアはその場に立ち尽くした。
どうしたらいいのか分からなかった。
先ほどの迷うように頼りない様子とは異なり、彼はじっとこちらの目を見ていた。
その問いを受け、メルリアは言葉を詰まらせた。普段ならすぐに大丈夫だと誘いを断るところだが、今日は違った。そこまでしてもらうのは悪いと思う。けれど、一人で街道を行くのは少し怖い。おずおずと顔を上げると、窺うような視線を向けた。
「……迷惑じゃない?」
「ああ」
しっかりとうなずくクライヴを見て、メルリアは胸の違和感――そこにある不快感が緩和されたような気がして、ほっとため息をつく。
二人の間に穏やかな風が抜ける。木の葉が舞い、湿気をはらんだ土の匂いが漂った。背中から吹く風は、目の前で燃え続けるたき火の炎を遠ざけた。わずかにそれが離れただけで、体の熱が一、二度下がったような感覚がある。クライヴは遠ざかる熱を見つめながら、手を組んだ。
「メルリアは探していた花が見つかったらどうするんだ?」
メルリアは言葉を失った。旅の終わりの後のことなど考えたこともなかったからだ。
ロバータが他界してから、まもなく三年が経つ。その間、メルリアは祖母との約束を叶えるためだけに精一杯生きてきた。エプリ食堂で働いて旅費を稼ぎ、ベラミントを出てからは花の手がかりを求める日々。あの約束を一日でも早く叶えたい。それだけだった。だから、本当に見つけた後のことは……。自分のためにやりたいことはない。いずれきちんとした仕事を探すべきだとは思っているが、その当ては何もない。働きたい職種も思い当たらない。メルリアの頭が、やがて真っ白になっていく。
「……考えたこと、なかった」
行き着く先がないことに気づいた途端、そう零していた。膝に置いた手をきゅっと掴むと、スカートに皺ができる。
漠然とした様子で告げるメルリアに対して、クライヴは深呼吸を繰り返していた。話題を切り出すために、ドクドクと脈打つ心臓を落ち着けるために。口の端が落ち着かぬように何度も形を変える。やがて意を決したクライヴは、すっと短く息を吸った。その一瞬、鼻腔を刺激する甘い匂い。砂糖菓子とも、お化けリンゴとも異なる、花の蜜に近いような。疑問には思ったが、それに構わず手を伸ばす。右手がメルリアの肩に触れ、その感触に彼女は顔を上げた。二人の目が合う。
「――ッ!」
「え……」
二人は驚きに目を見開いたが、両者とも動くことができない。
根元から崩れたたき火が、ひときわ大きな音を立てて火の粉をいくつも散らした。無数の粉が森の宵闇に吸い込まれて消えていく。炎の形がバランスを崩した右方へと湾曲し、そしてまた燃え続ける。
「く、そ……」
クライヴだけが感じている甘い匂いは、やがてむせ返るほど強く濃く変わる。喉の奥がじわりじわりと疼きはじめた。ここで彼はようやく理解する。あの症状だ、と。苦しげに目を細め、メルリアから手を離す。眉間に深い皺を寄せ、口元を手で押さえた。べっとりと湿った感触が気持ち悪い。肩で繰り返す呼吸は浅く、頬に汗が流れ落ちた。指の隙間からは荒い気息。それは言葉を失った獣のようだった。
「クライヴさん……?」
メルリアは恐る恐るクライヴに手を伸ばした。これに居合わせるのはもう三度目になる。彼に以前聞いた症状とはこの事だろう――様子のおかしい彼を気にかけるが、それを問うことはしなかった。彼に余裕がないのは、火を見るより明らかだ。
「水、持ってくるね?」
メルリアはゆっくりと立ち上がる。返事はない。苦痛に歪む表情を一瞥した後、彼に背を向けて歩き出した。瞬間、左腕が冷たい手に引っ張られる。衝撃に歩みを止めざるを得なくなった。クライヴの親指が、上腕骨を滑る。その力は強く、締め付けられるようにじんと痛んだ。
「俺が欲しいのは、水じゃない……」
聞こえた音は酷く掠れて、やつれ、普段のクライヴからは想像もできないほど疲れた声だった。
メルリアはその腕を振り払わなかった。じんわりと残る痛みに耐えながら、彼の様子を窺う。
「俺が欲しいのは……!」
絞り出すようなか細い声を漏らしたかと思うと、クライヴははっと目を見開く。突き放すように手を離すと、数歩後ずさった。荒い呼吸を繰り返したまま、背後を確認し、黙って走り去った。その動きに躊躇はない。その姿はあっという間に森の闇に紛れ消えていく。
勢いをなくしたたき火の炎が静かに揺れ、灰色の煙だけが空の穴に向かってか細く伸びていく。
メルリアはその場に立ち尽くした。
どうしたらいいのか分からなかった。
0
お気に入りに追加
1
あなたにおすすめの小説
辻ヒーラー、謎のもふもふを拾う。社畜俺、ダンジョンから出てきたソレに懐かれたので配信をはじめます。
月ノ@最強付与術師の成長革命/発売中
ファンタジー
ブラック企業で働く社畜の辻風ハヤテは、ある日超人気ダンジョン配信者のひかるんがイレギュラーモンスターに襲われているところに遭遇する。
ひかるんに辻ヒールをして助けたハヤテは、偶然にもひかるんの配信に顔が映り込んでしまう。
ひかるんを助けた英雄であるハヤテは、辻ヒールのおじさんとして有名になってしまう。
ダンジョンから帰宅したハヤテは、後ろから謎のもふもふがついてきていることに気づく。
なんと、謎のもふもふの正体はダンジョンから出てきたモンスターだった。
もふもふは怪我をしていて、ハヤテに助けを求めてきた。
もふもふの怪我を治すと、懐いてきたので飼うことに。
モンスターをペットにしている動画を配信するハヤテ。
なんとペット動画に自分の顔が映り込んでしまう。
顔バレしたことで、世間に辻ヒールのおじさんだとバレてしまい……。
辻ヒールのおじさんがペット動画を出しているということで、またたくまに動画はバズっていくのだった。
他のサイトにも掲載
なろう日間1位
カクヨムブクマ7000
【超速爆速レベルアップ】~俺だけ入れるダンジョンはゴールドメタルスライムの狩り場でした~
シオヤマ琴@『最強最速』発売中
ファンタジー
ダンジョンが出現し20年。
木崎賢吾、22歳は子どもの頃からダンジョンに憧れていた。
しかし、ダンジョンは最初に足を踏み入れた者の所有物となるため、もうこの世界にはどこを探しても未発見のダンジョンなどないと思われていた。
そんな矢先、バイト帰りに彼が目にしたものは――。
【自分だけのダンジョンを夢見ていた青年のレベリング冒険譚が今幕を開ける!】
レベルを上げて通販で殴る~囮にされて落とし穴に落とされたが大幅レベルアップしてざまぁする。危険な封印ダンジョンも俺にかかればちょろいもんさ~
喰寝丸太
ファンタジー
異世界に転移した山田(やまだ) 無二(むに)はポーターの仕事をして早6年。
おっさんになってからも、冒険者になれずくすぶっていた。
ある日、モンスター無限増殖装置を誤って作動させたパーティは無二を囮にして逃げ出す。
落とし穴にも落とされ絶体絶命の無二。
機転を利かせ助かるも、そこはダンジョンボスの扉の前。
覚悟を決めてボスに挑む無二。
通販能力でからくも勝利する。
そして、ダンジョンコアの魔力を吸出し大幅レベルアップ。
アンデッドには聖水代わりに殺菌剤、光魔法代わりに紫外線ライト。
霧のモンスターには掃除機が大活躍。
異世界モンスターを現代製品の通販で殴る快進撃が始まった。
カクヨム、小説家になろう、アルファポリスに掲載しております。
異世界転生はどん底人生の始まり~一時停止とステータス強奪で快適な人生を掴み取る!
夢・風魔
ファンタジー
若くして死んだ男は、異世界に転生した。恵まれた環境とは程遠い、ダンジョンの上層部に作られた居住区画で孤児として暮らしていた。
ある日、ダンジョンモンスターが暴走するスタンピードが発生し、彼──リヴァは死の縁に立たされていた。
そこで前世の記憶を思い出し、同時に転生特典のスキルに目覚める。
視界に映る者全ての動きを停止させる『一時停止』。任意のステータスを一日に1だけ奪い取れる『ステータス強奪』。
二つのスキルを駆使し、リヴァは地上での暮らしを夢見て今日もダンジョンへと潜る。
*カクヨムでも先行更新しております。
異世界でぺったんこさん!〜無限収納5段階活用で無双する〜
KeyBow
ファンタジー
間もなく50歳になる銀行マンのおっさんは、高校生達の異世界召喚に巻き込まれた。
何故か若返り、他の召喚者と同じ高校生位の年齢になっていた。
召喚したのは、魔王を討ち滅ぼす為だと伝えられる。自分で2つのスキルを選ぶ事が出来ると言われ、おっさんが選んだのは無限収納と飛翔!
しかし召喚した者達はスキルを制御する為の装飾品と偽り、隷属の首輪を装着しようとしていた・・・
いち早くその嘘に気が付いたおっさんが1人の少女を連れて逃亡を図る。
その後おっさんは無限収納の5段階活用で無双する!・・・はずだ。
上空に飛び、そこから大きな岩を落として押しつぶす。やがて救った少女は口癖のように言う。
またぺったんこですか?・・・
超越者となったおっさんはマイペースに異世界を散策する
神尾優
ファンタジー
山田博(やまだひろし)42歳、独身は年齢制限十代の筈の勇者召喚に何故か選出され、そこで神様曰く大当たりのチートスキル【超越者】を引き当てる。他の勇者を大きく上回る力を手に入れた山田博は勇者の使命そっちのけで異世界の散策を始める。
他の作品の合間にノープランで書いている作品なのでストックが無くなった後は不規則投稿となります。1話の文字数はプロローグを除いて1000文字程です。
お前じゃないと、追い出されたが最強に成りました。ざまぁ~見ろ(笑)
いくみ
ファンタジー
お前じゃないと、追い出されたので楽しく復讐させて貰いますね。実は転生者で今世紀では貴族出身、前世の記憶が在る、今まで能力を隠して居たがもう我慢しなくて良いな、開き直った男が楽しくパーティーメンバーに復讐していく物語。
---------
掲載は不定期になります。
追記
「ざまぁ」までがかなり時間が掛かります。
お知らせ
カクヨム様でも掲載中です。
イケメン社長と私が結婚!?初めての『気持ちイイ』を体に教え込まれる!?
すずなり。
恋愛
ある日、彼氏が自分の住んでるアパートを引き払い、勝手に『同棲』を求めてきた。
「お前が働いてるんだから俺は家にいる。」
家事をするわけでもなく、食費をくれるわけでもなく・・・デートもしない。
「私は母親じゃない・・・!」
そう言って家を飛び出した。
夜遅く、何も持たず、靴も履かず・・・一人で泣きながら歩いてるとこを保護してくれた一人の人。
「何があった?送ってく。」
それはいつも仕事場のカフェに来てくれる常連さんだった。
「俺と・・・結婚してほしい。」
「!?」
突然の結婚の申し込み。彼のことは何も知らなかったけど・・・惹かれるのに時間はかからない。
かっこよくて・・優しくて・・・紳士な彼は私を心から愛してくれる。
そんな彼に、私は想いを返したい。
「俺に・・・全てを見せて。」
苦手意識の強かった『営み』。
彼の手によって私の感じ方が変わっていく・・・。
「いあぁぁぁっ・・!!」
「感じやすいんだな・・・。」
※お話は全て想像の世界のものです。現実世界とはなんら関係ありません。
※お話の中に出てくる病気、治療法などは想像のものとしてご覧ください。
※誤字脱字、表現不足は重々承知しております。日々精進してまいりますので温かく見ていただけると嬉しいです。
※コメントや感想は受け付けることができません。メンタルが薄氷なもので・・すみません。
それではお楽しみください。すずなり。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる