幾望の色

西薗蛍

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魔女の村ミスルトー

60 クライヴとハル2-2

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「シーウェルさん、いつ本題に入るんですか?」
「あぁ、悪い……」

 いらだちに似た声に振り返ると、ハルがぶすっとした表情でクライヴを見ていた。こういうところは子供だなと口元だけで笑う。

「取り敢えず、ハルは会話自体は問題なくできるって事が分かったけど……。一番の問題は、やっぱり緊張のしすぎだと思うんだ」
「緊張? リタさんに対してですか?」

 クライヴはそうだと真っ直ぐにうなずく。
 ハルはその言葉を受け取ると、苦い表情を浮かべながら首をかしげた。かと思えば、ぼっと茹で蛸のように顔が真っ赤に染まる。焦点が定まらない様子で、ハルは空笑いした。否定も肯定もしない。心ここにあらずだ。

「きちんとした受け答えができないと、スタートラインに立つのも厳しいと思う。まずはお互いが、お互いのことを知るところからだろ?」

 リタはハルのことをあまりよく知らないようだし、とクライヴは付け足す。

 実際、リタは「ハルは先月来たばかり」と言っていた。たったひと月程度の付き合いであるし、この様子では、リタはこちらのことを何も知らないだろう――そこまで思いを巡らせ、クライヴははっと目を丸くする。そうして、地面に視線を向けた。その顔は険しい。自分はこの件について人に堂々と言えるような立場ではない。そう思ったからだ。
 クライヴの視界の中に、一足の靴が入る。その様子に顔を上げると、ハルが一歩前に出ていた。

「ぼくはリタさんのこと、よく知ってますけどね!」

 鼻息荒く宣言するハルは、右手に握りこぶしを一つ作って自慢げだ。

 情緒が全く安定しないな、とクライヴは考え込む。ふと、ハルの背筋がピンと真っ直ぐ伸びている事に気がついた。

「それだ!」
「はい?」

 ハルの素っ頓狂な声にかまわず、クライヴは彼の背中側に回った。右肩と背骨に手を置くと、真っ直ぐ伸びていた背筋がぐにゃりと曲がる。しかし、クライヴがその動きを抑えるように視線を正した。

「な、なんですか急に!」
「姿勢から変えてみるのがいいと思ったんだ。もう少し胸を張ってくれ」

 窮屈そうな表情を浮かべながらも、ハルは言われたとおり胸を張ってみせる。はじめはそわそわと視線を動かしていたハルだったが、呼吸を何度か繰り返した後、次第に落ち着いていく。

「……あ、なんだか胸の辺りがすっきりします」

 クライヴは元いた位置に戻ると、正面からハルを見た。彼の様子に満足げな笑みを零す。猫背気味だった彼の姿勢を正すことで、印象ががらりと変わったからだ。正面を向いている分、表情も明るく見える。深い呼吸ができている証拠に、規則的に胸が上下していた。呼吸が深いおかげで表情が穏やかに変わり、どこか優しそうな印象を与える。

 その人物の様子を印象づけるのは何も顔の表情だけではない。感情は体の動きや様子にも現れる。クライヴはそれを完全に理解していたわけではない。しかし、かつての経験から得た無意識がそうさせた。

「いいんじゃないか。すごく話しやすそうに見えるよ」

 その言葉に、ハルは目を輝かせた。明るい表情が加わったことにより、おどおどと暗く落ち着きのないハルが完全に変化した。クライヴは深く頷く。これでリタの前でも上がらずに振る舞えれば完璧だが、すぐにうまくはいかないだろう。それは分かっていた。

「今、すごく気分がいいです。これならなんでもうまくいきそう……!」

 ハルは右手を自分の腹の上に置くと、目一杯息を吸った。川の匂い、川辺に生える緑の少し生臭いにおい、風に乗って漂う爽やかな花の匂い、青々とした木々のすがすがしい匂い――それら全てが森の匂いとなって彼の鼻腔を刺激する。彼にとっては何ら変わりないいつもの空気であったが、今だけは特別心地のよいものだと感じられた。

 ハルは川辺に向かって、その空気と一緒に言葉を吐き出す。

「リタさんが、好きだぁあぁあーーっ!!」

 腹にたまった空気すべてを使ってハルが叫ぶと、木々の枝で休んでいた鳥達が一斉に外へ羽ばたいていく。川の穏やかな流れでかき消されるほど、その声は小さくなかったのだ。

 クライヴは、その声が広場まで届かないだろうかと必死に周囲を見回した。周りの人影はもちろん、広場に続く道に人が来ないかを入念に確認する。人らしい人の気配はなく、ほっと胸をなで下ろす。ハルの様子をうかがうと、彼は顔を真っ赤にしたまま、肩で荒い呼吸を繰り返している。少し前傾姿勢気味だが、胸を張ったままだ。言い切ったことに精一杯で、周囲の様子を気にも留めない。クライヴはそんなハルを見て肩を落とした。どうして自分の方がここまで周りを気にしているのだろう、と。

 鳥が森から姿を消し、辺りがしんと静まりかえる。その時、川向こうからぼとりと黒い影が落っこちた。その影は強打したらしい頭と尻をさする。人影だ。それはゆっくりと立ち上がると、一歩一歩こちらに近づいてくる。長髪の男のエルフだった。顔のほとんどが前髪で隠れ、後ろは腰を隠すほど。その様子にクライヴははっとする。彼は昨日、魔女の村で門番をしていたエルフだ。

 そのエルフは川辺のすぐ近くで立ち止まると、口をへの字に曲げ、ビシッと人差し指をハルに突き出す。

「うっせぇぞハル!!」

 川幅は飛び越えられるほど狭くはなく、周囲に橋はない。男は低く重い怒声を響かせた。

 その声にハルはびくっと反応した。赤面していた顔が徐々に青ざめたかと思うと、再び青くなった頬が赤面していく。ハルは目を白黒させながら、餌を待つ鯉のようにもごもごと口を動かした。言葉にならない掠れた音が口から漏れる。激しく動揺していた。

 ハルはガクガクと機械のような動きで顔を上げると、川向こうに立つ男の姿を見る。途端、慌てて彼に背を向けた。

「先輩すみませ――うぁあああぁああああ!!」

 謝罪の言葉を早々に切り上げ、ハルは広場の方へ向かって全速力で走って行く。

「おいハル!」

 クライヴの言葉に耳を傾ける余裕があるはずもなく、彼はあっという間に森の奥へ消えていく。このまま放っておくのも危険かもしれないと、クライヴも慌てて後を追った。

「ふん……」

 男は不服そうに鼻を鳴らすと、先ほどと同じように木に登った。太い枝の上で器用に足を伸ばすと、幹に背中を預けて目を閉じる。しんと静まりかえった川辺に、身を隠していた小鳥たちが降り立つ。水を飲み、虫を啄み、穏やかに囀りながらそれぞれの時を過ごす。

 川辺に静寂が戻った。
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