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魔女の村ミスルトー
60 クライヴとハル2-1
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クライヴはハルに半ば強引に連行され、村はずれの川の麓にいた。
「……ここなら大丈夫ですね」
ハルは周囲を注意深く見回した後、深いため息をついた。その音は川の流れに乗って消えていく。
人の足音に敏感に反応し、辺りで休んでいた野生のシカが軽やかに森の奥へと逃げていく。ちょうど川から顔を出している岩場にいた小鳥も同様に飛び立った。鳥は傍らの小枝に止まると、侵入者を伺うように二人の様子を監視する。
クライヴは川辺の景色にはっと息をのんだ。川の傍にしゃがむと、その様子をまじまじと観察する。川幅はあまり広くはないが、水深は大人の腰が浸かるほどであった。流れる水はとても清らかで、川の底に沈んでいる石や、そこに生えた深緑色の苔、川の流れに揺れる水草など、それらの色形がくっきりと見える。
この川に生きる魚はさぞ心地がいいだろうな、とクライヴは思った。それと同時に、アユやヤマメが釣れるのならば、とても質のいい魚と出会えそうだとも。手を浸すことすら躊躇われるほど、この川は澄んでいた。
「森林アユ……だっけ。それって、この川で釣れるのか?」
「え? あぁ、まあ……。確か今がいい時期だったとか言ってたような」
クライヴは不自然に揺れた水草の影に目をやった後、ゆったりと立ち上がる。周囲には森の緑が全面に広がり、耳を澄ませば遠くで小鳥の囀りが響く。湿った土の匂いは涼しさと夏の気配を感じさせた。傍らで流れる川の音のなんと心地のいいことか。
ここで何も考えずに釣りができたら、それほど贅沢な時間はないだろう。クライヴは清らかな空気を肺いっぱいに吸い込んだ。
その隣で、ハルはぺしゃりと気合いの入っていない力で手を叩いた。そうしてから、人差し指で彼の背中をつついた。力が弱すぎて気づかれない。もう一度、今度は爪を立てて。そうしてやっと、クライヴはハルに気がついた。名残惜しそうに川辺に視線を向けた後振り返ると、ハルは咳払いを一つした。
「そんなことよりシーウェルさん、ここなら声を出しても大丈夫です、誰かに聞かれずにすみます。川で音がかき消されますから」
そのためにわざわざここまで連れてきたのか、とクライヴは苦笑した。が、口には出さない。得策でないだろうと思ったからだ。あんなに熱中してリタのことを喋るハルだから、突然のアクシデントがあっては、先ほどの二の舞どころじゃすまなくなるだろう。それに、気配のない神出鬼没な老婆もいる。用心するに越したことはないだろう。
「それで、ぼくはどうしたらいいと思いますか?」
「どうしたら……か」
クライヴは漠然とした質問に考え込んだ。リタを目にした時のハルの態度から察するに、簡単に片付く問題ではないだろう。
「そもそも、ハルってリタ以外と喋るのは平気なのか?」
かなりのあがり症ではありそうだが、会話自体に問題があるとは思えなかった。
クライヴが疑問を投げかけると、ハルは明るい表情を一変させ、うつむきがちにつぶやく。
「基本的に他人と喋りたいとは思いません。エルフでも、人間でも。今みたいに目的があれば別ですが」
ハルが小石を川に向かって蹴り上げると、空に浮いた小石がまっすぐに川へ落ちた。軽快な音を立てて川底へ沈んでいく。鳥に狙われたと警戒した魚は水草を揺らしながら慌てて逃げていった。
「一人でいるのが好きなんです。誰かと何かをするのは嫌いですね。あ、リタさんなら話は別ですよ」
食い気味に否定しつつも、ハルの表情は不機嫌そのものだった。
クライヴは曖昧にうなずいてその言葉を受け止めながらも、なるほどと静かにうなずいた。
「協力する仕事はやりたがらない」「常に一人でいる」「必要最低限の会話はする」と言っていたリタの言葉に説明がつく。ハルは自分に興味があること以外には全く興味がないのだろう。
「リタのことがなかったら、俺とも話したいとは思わないか?」
「そうですね。でも、今はリタさんのことがありますから、そうも言ってられませんけど!」
悪びれずきっぱりと言い切った。その態度にクライヴは苦笑いして頬をかいた。良くも悪くも正直で裏表がないのだろうが、こうもはっきり否定されると少しばかり心が痛む。それにやりづらい。
どうしたものかとクライヴは改めて相手の様子をうかがった。くすんだ深緑色の髪に幼い顔立ち。背も自分の肩に届かないほど低い。おどおどとした態度のせいで、余計小さくも見える。外見からは想像もできないが、ハルはかなり癖が強いのだろう。……しかし。
「今だって会話に問題ないんだし、リタ以外とも話そうと思えば話せるよな? 俺にだけじゃなくてもさ」
「まあ。……話したくはないですけど」
ハルは縮こまると、ぽつりと返事をつぶやいた。
クライヴはゆっくりと息を吐く。リタになると暴走しがち、それ以外の話題には消極的という面はあるが、彼はきちんと受け答えができる。会話という行為自体に対して、特に問題はないように思えた。
しかし……。クライヴは眉間に人差し指を当てる。頭全体がじんと重い。
リタの言う「ハルをなんとかしてほしい」という目的は達成できそうにない。本人にその意思はなさそうだからだ。彼女の名前を出せばやる気になる可能性は高いが、この手段は決して本人のためにはならない。リタにはきちんと事情を説明して、謝るしかないだろう。
クライヴは振り返る。森の枝枝の間から、ぼんやりとツリーハウスの影が見えた。
気付け薬ができればメルリアは目を覚ます――はずだ。
一瞬嫌な空想が脳裏をよぎるが、視線を足下に動かしてやり過ごす。エルフは知識が豊富な種族だと有名だ。だから大丈夫だ、と二回己に言い聞かせ、クライヴは顔を上げた。
「……ここなら大丈夫ですね」
ハルは周囲を注意深く見回した後、深いため息をついた。その音は川の流れに乗って消えていく。
人の足音に敏感に反応し、辺りで休んでいた野生のシカが軽やかに森の奥へと逃げていく。ちょうど川から顔を出している岩場にいた小鳥も同様に飛び立った。鳥は傍らの小枝に止まると、侵入者を伺うように二人の様子を監視する。
クライヴは川辺の景色にはっと息をのんだ。川の傍にしゃがむと、その様子をまじまじと観察する。川幅はあまり広くはないが、水深は大人の腰が浸かるほどであった。流れる水はとても清らかで、川の底に沈んでいる石や、そこに生えた深緑色の苔、川の流れに揺れる水草など、それらの色形がくっきりと見える。
この川に生きる魚はさぞ心地がいいだろうな、とクライヴは思った。それと同時に、アユやヤマメが釣れるのならば、とても質のいい魚と出会えそうだとも。手を浸すことすら躊躇われるほど、この川は澄んでいた。
「森林アユ……だっけ。それって、この川で釣れるのか?」
「え? あぁ、まあ……。確か今がいい時期だったとか言ってたような」
クライヴは不自然に揺れた水草の影に目をやった後、ゆったりと立ち上がる。周囲には森の緑が全面に広がり、耳を澄ませば遠くで小鳥の囀りが響く。湿った土の匂いは涼しさと夏の気配を感じさせた。傍らで流れる川の音のなんと心地のいいことか。
ここで何も考えずに釣りができたら、それほど贅沢な時間はないだろう。クライヴは清らかな空気を肺いっぱいに吸い込んだ。
その隣で、ハルはぺしゃりと気合いの入っていない力で手を叩いた。そうしてから、人差し指で彼の背中をつついた。力が弱すぎて気づかれない。もう一度、今度は爪を立てて。そうしてやっと、クライヴはハルに気がついた。名残惜しそうに川辺に視線を向けた後振り返ると、ハルは咳払いを一つした。
「そんなことよりシーウェルさん、ここなら声を出しても大丈夫です、誰かに聞かれずにすみます。川で音がかき消されますから」
そのためにわざわざここまで連れてきたのか、とクライヴは苦笑した。が、口には出さない。得策でないだろうと思ったからだ。あんなに熱中してリタのことを喋るハルだから、突然のアクシデントがあっては、先ほどの二の舞どころじゃすまなくなるだろう。それに、気配のない神出鬼没な老婆もいる。用心するに越したことはないだろう。
「それで、ぼくはどうしたらいいと思いますか?」
「どうしたら……か」
クライヴは漠然とした質問に考え込んだ。リタを目にした時のハルの態度から察するに、簡単に片付く問題ではないだろう。
「そもそも、ハルってリタ以外と喋るのは平気なのか?」
かなりのあがり症ではありそうだが、会話自体に問題があるとは思えなかった。
クライヴが疑問を投げかけると、ハルは明るい表情を一変させ、うつむきがちにつぶやく。
「基本的に他人と喋りたいとは思いません。エルフでも、人間でも。今みたいに目的があれば別ですが」
ハルが小石を川に向かって蹴り上げると、空に浮いた小石がまっすぐに川へ落ちた。軽快な音を立てて川底へ沈んでいく。鳥に狙われたと警戒した魚は水草を揺らしながら慌てて逃げていった。
「一人でいるのが好きなんです。誰かと何かをするのは嫌いですね。あ、リタさんなら話は別ですよ」
食い気味に否定しつつも、ハルの表情は不機嫌そのものだった。
クライヴは曖昧にうなずいてその言葉を受け止めながらも、なるほどと静かにうなずいた。
「協力する仕事はやりたがらない」「常に一人でいる」「必要最低限の会話はする」と言っていたリタの言葉に説明がつく。ハルは自分に興味があること以外には全く興味がないのだろう。
「リタのことがなかったら、俺とも話したいとは思わないか?」
「そうですね。でも、今はリタさんのことがありますから、そうも言ってられませんけど!」
悪びれずきっぱりと言い切った。その態度にクライヴは苦笑いして頬をかいた。良くも悪くも正直で裏表がないのだろうが、こうもはっきり否定されると少しばかり心が痛む。それにやりづらい。
どうしたものかとクライヴは改めて相手の様子をうかがった。くすんだ深緑色の髪に幼い顔立ち。背も自分の肩に届かないほど低い。おどおどとした態度のせいで、余計小さくも見える。外見からは想像もできないが、ハルはかなり癖が強いのだろう。……しかし。
「今だって会話に問題ないんだし、リタ以外とも話そうと思えば話せるよな? 俺にだけじゃなくてもさ」
「まあ。……話したくはないですけど」
ハルは縮こまると、ぽつりと返事をつぶやいた。
クライヴはゆっくりと息を吐く。リタになると暴走しがち、それ以外の話題には消極的という面はあるが、彼はきちんと受け答えができる。会話という行為自体に対して、特に問題はないように思えた。
しかし……。クライヴは眉間に人差し指を当てる。頭全体がじんと重い。
リタの言う「ハルをなんとかしてほしい」という目的は達成できそうにない。本人にその意思はなさそうだからだ。彼女の名前を出せばやる気になる可能性は高いが、この手段は決して本人のためにはならない。リタにはきちんと事情を説明して、謝るしかないだろう。
クライヴは振り返る。森の枝枝の間から、ぼんやりとツリーハウスの影が見えた。
気付け薬ができればメルリアは目を覚ます――はずだ。
一瞬嫌な空想が脳裏をよぎるが、視線を足下に動かしてやり過ごす。エルフは知識が豊富な種族だと有名だ。だから大丈夫だ、と二回己に言い聞かせ、クライヴは顔を上げた。
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