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魔女の村ミスルトー
57 薬について1-1
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リタは気が抜けたようにだらりと息を吐くと、ゆっくりと立ち上がった。
「さて……っと。手っ取り早く目を覚ましてもらうためには、やっぱり気付け薬が一番かなあ」
リタはきょろきょろと周囲を見回し、木の陰から細い枝を一本拾った。風で折れてしまったせいで、裂けた先端からは茅色が見て取れた。
四十センチほどあるそれを持つと、リタはその場にしゃがむ。避けた部分を地面に突き刺し、土にぐるりと大きな円を描いた。
「クライヴ。あの子ってお酒飲める年かなあ?」
眠ってるとよく分からないんだよねえ、とリタは笑う。対照的にクライヴは険しい顔のまま、首を横に振った。
「……分からない」
「そっかあ」
場の空気を壊しかねない声色の差ではあったが、リタはクライヴを責めることはなかった。彼の様子に飲まれることもない。
リタは木の棒をしっかり握りしめると、先ほど描いた円の中に旧いエルフの文字を記していく。
人間であるクライヴから見れば、それは何かの暗号のように見えた。
普段使っている文字とは似ても似つかない不思議な形だ――クライヴは瞬きひとつせず、ただただそれを見つめていた。珍しい文字だった。
リタは単語らしい塊を五つほど地面に記すと、額の汗を拭うような動作をしてから立ち上がった。
「ちょっと待ってて。ヴィヴさん――薬の調合に詳しい人に、これで大丈夫かどうか聞いてくるねー」
漠然と地面に視線を向け続けていたクライヴは、その言葉にはっと顔を上げた。木の棒を握りしめたまま、リタはぶらんぶらんと前後に揺らし右手を振っている。
クライヴは作り笑いを浮かべて頷くと、手を上げてそれに答えた。
軽やかな足音が遠ざかっていく。ざわざわと木々が揺れ、葉が擦れる音が広場に反響する。
森を吹き抜ける風は湿気をはらんでいた。六月の風だ。それは、地面の文字にほんのわずかな蓋を作る。
クライヴは相変わらず、その凹みを見ていた。
焦点が合わずに視界がぼやけていく。木の枝で作った文字の凹みが、やがて彼の記憶にある魔獣の爪痕へと変わる。胸の奥にずんとのしかかるような痛みを感じ、咄嗟にそれらから視線を逸らした。膝の上に置いた手を裏返し、骨張った自分の手のひらを見つめる。指先に線を引いたような傷跡が残っていた。それを忌々しそうに睨み、クライヴはきつく瞼を閉じた。
――メルリアの背後に魔獣がいたあの時。クライヴは全力で彼女の元へ駆け寄った。
一人で行かせてしまったことを激しく後悔しながらも、ただただ間に合うようにと切実に祈りながら。
魔獣が腕を振り上げると、その爪が太陽の光をギラリと反射する。メルリアは動けなかった。
時間がない。
クライヴはキッと強い視線で魔獣を睨む。距離はまだ縮まらず、叶わぬ願いであるのは誰が見ても明白だった。
彼もそれは理解していたが、立ち止まる選択肢はなかった。万が一の可能性に賭けたのだ。
意を決した途端、クライヴには周囲の景色が遅く感じた。魔獣の動きも、風の音も、聞こえる声も。
そのままメルリアに手が届き、突き飛ばす形で一撃をやり過ごしたのだ。
そこまで思い返し、クライヴはふっと苦笑を浮かべる。
あの距離だったのに、よく手が届いたものだ、と。火事場の馬鹿力、というものなのだろう。
不思議な感覚だったが、あれがあったからこそ自分は彼女を守れたと思っていた。
魔獣を倒したのはイリスとクロードの二人だが、少なくともあの一撃からは。衛兵じゃなくても、魔力がない自分でも、誰かを守ることができたのだと。
けれど、今はどうだろう?
メルリアは眠ったまま目を覚まさない。リタの主観ではあるが、彼女から見れば彼女は起きたくないようだという。
それに。
最後に見たメルリアの表情が再びクライヴの脳裏をよぎった。
身の毛がよだつ思いをして、体も動かなかったのかもしれない。怖くて怖くて、どうしようもなかったのだとしたら。
――俺は守った気になってただけで、何もできてなかったんじゃないのか。
奥歯に力を入れると、クライヴは握り拳を作る。その勢いで膝を叩くと、骨がじわりと鈍く痺れた。衝撃が足先にまで走るが、そんな不快感はどうだっていい。
眉間に皺を寄せたまま、クライヴは静かに瞼を開く。
すると、随分と使い込まれた小さな靴が二足、目に入った。自分のものではない。
疑問に思いながら顔を上げると、そこにはエルフの少年が立っていた。
昨日のエルフとは異なり、随分と背が低い。顔立ちも幼く、人間でいえば十五歳くらいだろう。少年は細い木の枝を握ったまま、怖ず怖ずとクライヴを見ていた。
クライヴと視線が合うと、彼はぎゅっと目を閉じる。強く握った枝が、手元からポキリと折れる音がした。
おびえさせるような酷い顔をしていた?
それとも、ずっと前から俺を見ていた?
クライヴは頬をかいた。小さく喉を鳴らしたと同時に、やるせない感情を胸の奥に押し込む。
そうしてから、少年に笑顔を向けた。それは陰りのあるものだった。
「どうしたんだ?」
敵対心がないことを相手に伝えるべく、クライヴは明るい声を意識して言う。
すると、少年は慎重に目を開いた。その動きに合わせて、上がっていた肩が元の位置に戻っていく。手のひらからは、木の枝の欠片が塵のように落ちていく。
クライヴが態度を変えずに少年の言葉を待っていると、彼はため息をついて、今度は肩を落とした。
「あの……あなたが、昨日、ゾラさんとノルデさんに連れてこられたっていう……」
男にしては随分と高い声だった。彼はぼそぼそと小声で呟くように言う。
あちらこちらをきょろきょろと見回ようにクライヴを観察した。こちらを警戒しています、と体に書いてあるほど怪しい挙動だ。
無論、話を聞いているクライヴにそれが伝わらないはずもなく、挙動不審な少年に困っていた。咄嗟に腕を組みそうになるが、それを抑える。高圧的な態度と取られかねないと分かっていたからだ。
「さて……っと。手っ取り早く目を覚ましてもらうためには、やっぱり気付け薬が一番かなあ」
リタはきょろきょろと周囲を見回し、木の陰から細い枝を一本拾った。風で折れてしまったせいで、裂けた先端からは茅色が見て取れた。
四十センチほどあるそれを持つと、リタはその場にしゃがむ。避けた部分を地面に突き刺し、土にぐるりと大きな円を描いた。
「クライヴ。あの子ってお酒飲める年かなあ?」
眠ってるとよく分からないんだよねえ、とリタは笑う。対照的にクライヴは険しい顔のまま、首を横に振った。
「……分からない」
「そっかあ」
場の空気を壊しかねない声色の差ではあったが、リタはクライヴを責めることはなかった。彼の様子に飲まれることもない。
リタは木の棒をしっかり握りしめると、先ほど描いた円の中に旧いエルフの文字を記していく。
人間であるクライヴから見れば、それは何かの暗号のように見えた。
普段使っている文字とは似ても似つかない不思議な形だ――クライヴは瞬きひとつせず、ただただそれを見つめていた。珍しい文字だった。
リタは単語らしい塊を五つほど地面に記すと、額の汗を拭うような動作をしてから立ち上がった。
「ちょっと待ってて。ヴィヴさん――薬の調合に詳しい人に、これで大丈夫かどうか聞いてくるねー」
漠然と地面に視線を向け続けていたクライヴは、その言葉にはっと顔を上げた。木の棒を握りしめたまま、リタはぶらんぶらんと前後に揺らし右手を振っている。
クライヴは作り笑いを浮かべて頷くと、手を上げてそれに答えた。
軽やかな足音が遠ざかっていく。ざわざわと木々が揺れ、葉が擦れる音が広場に反響する。
森を吹き抜ける風は湿気をはらんでいた。六月の風だ。それは、地面の文字にほんのわずかな蓋を作る。
クライヴは相変わらず、その凹みを見ていた。
焦点が合わずに視界がぼやけていく。木の枝で作った文字の凹みが、やがて彼の記憶にある魔獣の爪痕へと変わる。胸の奥にずんとのしかかるような痛みを感じ、咄嗟にそれらから視線を逸らした。膝の上に置いた手を裏返し、骨張った自分の手のひらを見つめる。指先に線を引いたような傷跡が残っていた。それを忌々しそうに睨み、クライヴはきつく瞼を閉じた。
――メルリアの背後に魔獣がいたあの時。クライヴは全力で彼女の元へ駆け寄った。
一人で行かせてしまったことを激しく後悔しながらも、ただただ間に合うようにと切実に祈りながら。
魔獣が腕を振り上げると、その爪が太陽の光をギラリと反射する。メルリアは動けなかった。
時間がない。
クライヴはキッと強い視線で魔獣を睨む。距離はまだ縮まらず、叶わぬ願いであるのは誰が見ても明白だった。
彼もそれは理解していたが、立ち止まる選択肢はなかった。万が一の可能性に賭けたのだ。
意を決した途端、クライヴには周囲の景色が遅く感じた。魔獣の動きも、風の音も、聞こえる声も。
そのままメルリアに手が届き、突き飛ばす形で一撃をやり過ごしたのだ。
そこまで思い返し、クライヴはふっと苦笑を浮かべる。
あの距離だったのに、よく手が届いたものだ、と。火事場の馬鹿力、というものなのだろう。
不思議な感覚だったが、あれがあったからこそ自分は彼女を守れたと思っていた。
魔獣を倒したのはイリスとクロードの二人だが、少なくともあの一撃からは。衛兵じゃなくても、魔力がない自分でも、誰かを守ることができたのだと。
けれど、今はどうだろう?
メルリアは眠ったまま目を覚まさない。リタの主観ではあるが、彼女から見れば彼女は起きたくないようだという。
それに。
最後に見たメルリアの表情が再びクライヴの脳裏をよぎった。
身の毛がよだつ思いをして、体も動かなかったのかもしれない。怖くて怖くて、どうしようもなかったのだとしたら。
――俺は守った気になってただけで、何もできてなかったんじゃないのか。
奥歯に力を入れると、クライヴは握り拳を作る。その勢いで膝を叩くと、骨がじわりと鈍く痺れた。衝撃が足先にまで走るが、そんな不快感はどうだっていい。
眉間に皺を寄せたまま、クライヴは静かに瞼を開く。
すると、随分と使い込まれた小さな靴が二足、目に入った。自分のものではない。
疑問に思いながら顔を上げると、そこにはエルフの少年が立っていた。
昨日のエルフとは異なり、随分と背が低い。顔立ちも幼く、人間でいえば十五歳くらいだろう。少年は細い木の枝を握ったまま、怖ず怖ずとクライヴを見ていた。
クライヴと視線が合うと、彼はぎゅっと目を閉じる。強く握った枝が、手元からポキリと折れる音がした。
おびえさせるような酷い顔をしていた?
それとも、ずっと前から俺を見ていた?
クライヴは頬をかいた。小さく喉を鳴らしたと同時に、やるせない感情を胸の奥に押し込む。
そうしてから、少年に笑顔を向けた。それは陰りのあるものだった。
「どうしたんだ?」
敵対心がないことを相手に伝えるべく、クライヴは明るい声を意識して言う。
すると、少年は慎重に目を開いた。その動きに合わせて、上がっていた肩が元の位置に戻っていく。手のひらからは、木の枝の欠片が塵のように落ちていく。
クライヴが態度を変えずに少年の言葉を待っていると、彼はため息をついて、今度は肩を落とした。
「あの……あなたが、昨日、ゾラさんとノルデさんに連れてこられたっていう……」
男にしては随分と高い声だった。彼はぼそぼそと小声で呟くように言う。
あちらこちらをきょろきょろと見回ようにクライヴを観察した。こちらを警戒しています、と体に書いてあるほど怪しい挙動だ。
無論、話を聞いているクライヴにそれが伝わらないはずもなく、挙動不審な少年に困っていた。咄嗟に腕を組みそうになるが、それを抑える。高圧的な態度と取られかねないと分かっていたからだ。
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