幾望の色

西薗蛍

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ヴィリディアンの街道2

50 腥風-2

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 メルリアはクライヴに抱きかかえられたまま、ピクリとも動かない。

「なんなんだ、こいつ……!」

 土煙に咳き込みながら、クライヴは吐き捨てた。

 彼もこの国の人間だ。無論魔獣の存在は知っていた。
 見たことはなかったが、人並みに知識があるとは思っていた。

 だが、実際はどうだろうか。
 あやふやに揺れる輪郭に、二つの赤い瞳。血の滲んだ爪。本で見る物よりも、聞いた話よりも、ずっとおどろおどろしい。

 自分は衛兵ではないし、魔力は全くない。けれど、メルリアを守らなければならない。

 クライヴは腕の力を強める。擦った腕がじくりと痛むが、それには構わなかった。背中に脂汗が這う。魔獣の姿を睨み付けながら、メルリアの体を支える。そのまま、ゆっくりと上半身を起こした。

 魔獣の、ギロリと赤い視線がクライヴを捉える。
 同じようにそれを睨みつけながらも、彼の手は震えていた。

 まだ立てない。
 自分一人だったら這ってでも逃げられる。けど――。

 すぐ傍にいるメルリアに目を向けた。彼女は、ぐったりと体を投げ出したまま。動く気配は全くない。

 どうすべきか逡巡すると、突然魔獣が短いうめき声を上げた。

 クライヴは、その妙な音に眉をひそめる。魔獣は動こうともがくが、動作はやたら鈍い。

 ふと、頬を撫でる風が冷たい事に気づいた。周囲に冷気が漂っている。
 その風は前方からだ。魔獣の足下に霜が降りたかと思うと、足先から徐々に凍っていく。
 それが動こうともがくたび、ガリガリと音を立て、氷にひびが入った。

 しかしそれを許さぬように、ひび割れた部分から溶けた水が固まっていく。
 魔獣はやがてバランスを崩し、前方――街道のど真ん中に突っ伏した。
 好機だと言わんばかりに、地面から氷が広がり、その巨体を覆っていく。

「もう好き勝手やっちゃっていいんでしょ?」

 森の奥から女の声が聞こえる。黒いとんがり帽子をかぶった女が、木々をかき分け、森の中から顔を出した。
 膝丈まである雑草を容赦なく踏み荒らすと、手にした杖を魔獣へ向ける。口の中で何かをつぶやくと、魔獣の真上に、影とは違う色の黒い球体が浮かぶ。

「迷惑かけた事を詫びて散れ」

 女が杖を振り下ろすと、それは魔獣の体めがけてゆっくりと落ちていく。
 それが魔獣に触れた途端、辺りが白く光った。その光に、クライヴは咄嗟に瞼を固く閉ざした。目を開けていることができなかったのだ。

 魔獣に対峙する女は、その様子をただ黙って見つめていた。魔獣そのものを見下した目をしている。

 やがて、爆発物が爆ぜた時のように、そこから強い風が街道中へ、森の中へ吹き抜けていく。
 しかし、光と風だけで、爆発音はない。辺りに響いた音といえば、魔獣の断末魔だ。金切り声を響かせながら、影は魔術の闇に飲まれていく。

 白い光が収まると、その体は散り散りに大気へ溶け込んでいった。

 クライヴは、うるさく脈打つ心臓の音を聞きながら、恐る恐る瞼を開く。
 思わず息をのんだ。魔獣の姿が影も形もなくなっていたからだ。嘘のように姿を消した魔獣だが、地面にできた爪痕はそのまま残っている。あれは夢ではないのだ。

 魔獣の肉体が空に溶けた事を見送ってから、女は森の奥に手で合図した。
 すると、そこから眼鏡の男が静かに顔を出す。

 軽快な靴音を響かせながら、女は歩を進める。やがて、土をかぶったクライヴの傍で立ち止まった。

「――さーてと。あんた達、大丈夫?」

 杖の端に引っかかった木の葉を、女は手を使わずに振り落とす。

 いつの間にか街道を覆っていた暗い雲が晴れ、穏やかな青空が広がっていた。眩しい太陽の光が、女の腰まである長い銀髪を照らす。

 傷跡の残る地面を唖然と見つめるクライヴに、極めて明るく言い放った。

「もう大丈夫。あの魔獣は退治したわ」

 その言葉に、クライヴはやっと事情を飲み込んだ。しかしまだ落ち着いておらず、表情がこわばったままだ。

「ありがとう……君は?」
「あたしはイリス。イリス・ゾラよ!」
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