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ヴィリディアンの街道2
50 腥風-1
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メルリアはゆっくりと、しかし控えめに街道を進んでいた。
早く先に進みたいという気持ちを抑え、あまり離れすぎてはいけないと、いつもより時間をかけて歩いて行く。
クライヴとはぐれてしまったら、彼に申し訳ない。
メルリアが不安になって振り返ると、クライヴからすぐに行くと声が聞こえた。まだギリギリ声が届く範囲だ。
その声に頷いたメルリアだったが、数歩進んだ後に、あれで伝わっただろうかと頭をひねった。
大きい声を出すのは得意ではない。
ジェスチャーでもすればよかった? 腕で丸とか? などと考えていると、どんよりと薄暗い雲が、左方からこちらへ向かっている事に気づく。
雲の速度は速く、メルリアの進む道へとあっという間に影を落とした。
風から湿気は感じないが、もしかしたら雨が降るのかもしれない。
メルリアは辺りを見回す。見えるのは、ただ続く街道の道だけ。近くに家らしき物は見当たらなかった。
目につくものといえば、左方へ枝分かれした道と、一本の看板。
旅人向けの宿の案内だろうか?
疑問に思ったメルリアは看板に駆け寄る。それは古びており、根元には新緑色のこけや木の幹に似た色のキノコが生えていた。ツタのような植物が絡まり、肝心な文字も読みづらい。
メルリアは看板に顔を近づけて目をこらした。
「『グローカス、セラドン方面は、道なり。この先は私有地につき立ち入り禁止』……?」
メルリアが進むべきだった方角には、開けた街道が広がっている。
対してこちらは、木が生い茂り薄暗く、不穏な空気が漂っていた。森への入り口にも思える。
森には近づいてはいけない――。この国に住む子どもならば、誰もが親に教わることの一つだ。
あの先へ向かおうとは思わないが、この辺りに土地を買うのはどんな人物なのか興味はあった。
建物の姿は見えない。やはり貴族といった金に余裕がある人物だろうか。
近くの宿酒場で聞いてみようかな、とメルリアは暗い森の奥を見つめながら思った。
ふと、自分の足下がやたらと暗い事に気づいた。
足下だけではない。
体も、
手も。
しかし、森へ続く道はこんなに地面の色は濃くなかった。
大きな影が落ちているのだ。
もっと厚い雲?
それとも大きな荷物を抱えた運び屋?
疑問に思っていると、人の足音が聞こえた。
右足と左足、交互に響く音のリズムがずいぶんと速いのは、その人物が走っているからだ。
「メルリア! 逃げろ!!」
切羽詰まった様子でクライヴが叫ぶ声が、街道に響いた。
事情が理解できないまま、メルリアは数歩後退した。逃げてはいけない方に向けて。
瞬間、獣のような呻き声が聞こえる。自分の背後からだ。メルリアは慌てて振り返り、それを目視する。途端に、喉の奥で細い悲鳴を上げた。
そこにあったのは、黒い影だった。
全長五メートルほどのそれは、メルリアとその周囲に大きな影を落としていた。それは両腕に強靱な爪を備え、輪郭はたき火の炎のように曖昧に揺らめく。
魔獣だ。
人を簡単に屠りとるという、恐ろしい化け物の。
その姿は何にでもなかったが、強いて言えば輪郭や造形は巨大な熊を思わせる。
右腹部の辺りが凹んだ形をしている様子が不自然ではあるが、魔獣はそれをものともしない。
二つの目のような赤い光が、メルリアの背中をギロリと捉えた。
メルリアは目を見開いたまま、瞬きすることもできず、ただその影を見上げる事しかできなかった。
足ががくがくと震える。思うように力が入らない。
腰が抜けてしまえばおしまいだと分かってはいた。
今のメルリアにできることは、ただ立ち尽くすことだけ。
魔獣は右腕を振り上げる。
爪先が周囲の景色を反射し、ギラリと鈍く光った。その爪先は視認しているが、どうすることもできない。
「間に合え――ッ!」
そんな時、体を思いきり突き飛ばされたような感覚があった。メルリアはその衝撃に目を閉じる。無意識からくる防衛本能だった。
空中に投げ出されたメルリアの体を、クライヴはしっかりと抱きかかえる。彼女の頭を抱えながら、歯を食いしばって着地に備えた。
最初の衝撃はリュックが受け止め、ゴロゴロと土の上を転がっていく。
その最中、二メートル先からは地鳴りのような音が聞こえた。地面がごうごうと揺れる。魔獣は叩き付けた腕をゆっくりと上げた。
傍らには、三本の線が延びている。ところどころは赤く濡れていた。
血だ。
クライヴにははっきりとそれが分かった。
振り上げた魔獣の爪にはびっしりと土がついている。その隙間からは、瞳のような赤い色が見て取れた。
早く先に進みたいという気持ちを抑え、あまり離れすぎてはいけないと、いつもより時間をかけて歩いて行く。
クライヴとはぐれてしまったら、彼に申し訳ない。
メルリアが不安になって振り返ると、クライヴからすぐに行くと声が聞こえた。まだギリギリ声が届く範囲だ。
その声に頷いたメルリアだったが、数歩進んだ後に、あれで伝わっただろうかと頭をひねった。
大きい声を出すのは得意ではない。
ジェスチャーでもすればよかった? 腕で丸とか? などと考えていると、どんよりと薄暗い雲が、左方からこちらへ向かっている事に気づく。
雲の速度は速く、メルリアの進む道へとあっという間に影を落とした。
風から湿気は感じないが、もしかしたら雨が降るのかもしれない。
メルリアは辺りを見回す。見えるのは、ただ続く街道の道だけ。近くに家らしき物は見当たらなかった。
目につくものといえば、左方へ枝分かれした道と、一本の看板。
旅人向けの宿の案内だろうか?
疑問に思ったメルリアは看板に駆け寄る。それは古びており、根元には新緑色のこけや木の幹に似た色のキノコが生えていた。ツタのような植物が絡まり、肝心な文字も読みづらい。
メルリアは看板に顔を近づけて目をこらした。
「『グローカス、セラドン方面は、道なり。この先は私有地につき立ち入り禁止』……?」
メルリアが進むべきだった方角には、開けた街道が広がっている。
対してこちらは、木が生い茂り薄暗く、不穏な空気が漂っていた。森への入り口にも思える。
森には近づいてはいけない――。この国に住む子どもならば、誰もが親に教わることの一つだ。
あの先へ向かおうとは思わないが、この辺りに土地を買うのはどんな人物なのか興味はあった。
建物の姿は見えない。やはり貴族といった金に余裕がある人物だろうか。
近くの宿酒場で聞いてみようかな、とメルリアは暗い森の奥を見つめながら思った。
ふと、自分の足下がやたらと暗い事に気づいた。
足下だけではない。
体も、
手も。
しかし、森へ続く道はこんなに地面の色は濃くなかった。
大きな影が落ちているのだ。
もっと厚い雲?
それとも大きな荷物を抱えた運び屋?
疑問に思っていると、人の足音が聞こえた。
右足と左足、交互に響く音のリズムがずいぶんと速いのは、その人物が走っているからだ。
「メルリア! 逃げろ!!」
切羽詰まった様子でクライヴが叫ぶ声が、街道に響いた。
事情が理解できないまま、メルリアは数歩後退した。逃げてはいけない方に向けて。
瞬間、獣のような呻き声が聞こえる。自分の背後からだ。メルリアは慌てて振り返り、それを目視する。途端に、喉の奥で細い悲鳴を上げた。
そこにあったのは、黒い影だった。
全長五メートルほどのそれは、メルリアとその周囲に大きな影を落としていた。それは両腕に強靱な爪を備え、輪郭はたき火の炎のように曖昧に揺らめく。
魔獣だ。
人を簡単に屠りとるという、恐ろしい化け物の。
その姿は何にでもなかったが、強いて言えば輪郭や造形は巨大な熊を思わせる。
右腹部の辺りが凹んだ形をしている様子が不自然ではあるが、魔獣はそれをものともしない。
二つの目のような赤い光が、メルリアの背中をギロリと捉えた。
メルリアは目を見開いたまま、瞬きすることもできず、ただその影を見上げる事しかできなかった。
足ががくがくと震える。思うように力が入らない。
腰が抜けてしまえばおしまいだと分かってはいた。
今のメルリアにできることは、ただ立ち尽くすことだけ。
魔獣は右腕を振り上げる。
爪先が周囲の景色を反射し、ギラリと鈍く光った。その爪先は視認しているが、どうすることもできない。
「間に合え――ッ!」
そんな時、体を思いきり突き飛ばされたような感覚があった。メルリアはその衝撃に目を閉じる。無意識からくる防衛本能だった。
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最初の衝撃はリュックが受け止め、ゴロゴロと土の上を転がっていく。
その最中、二メートル先からは地鳴りのような音が聞こえた。地面がごうごうと揺れる。魔獣は叩き付けた腕をゆっくりと上げた。
傍らには、三本の線が延びている。ところどころは赤く濡れていた。
血だ。
クライヴにははっきりとそれが分かった。
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