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都市ヴェルディグリ
40 銀髪の魔術士-3
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「時計の音が変だったって話をしたんです。朝、変な秒針の音を聞いたんですけど、そこに時計はないって言われて……。それどころか、秒針のある時計はここにはないって」
メルリアは朝の記憶を思い出しながら、ぽつぽつと話す。
確かに時計の針が動く音を聞いた。けれど、そんな時計はないと言われた。
ネフリティスの言葉が嘘だとは思えない。自分の耳も間違いだとは思わないが――。
やがて、メルリアは苦笑いした。
「私、疲れてたのかもしれないです。そもそも最初に聞こえた秒針の音、二階の奥の部屋からだったのに、廊下を出ても聞こえたんですから」
話半分で聞いていたイリスは、メルリアの目をじっと見つめた。
言葉の真意を探るように三秒ほど。
そうしてから、椅子に座り直す。ギィ、と不安定な音がした。
ビールジョッキに入った水に手をつけようとして、その手を引っ込める。
やけに静かなイリスに、メルリアは居心地が悪くなった。
やがて、背中のあたりに違和感を覚えた。
いたたまれない。
自分の聞き間違いだと話を終わらせようとすると、イリスが厳かに言う。
「それ、時の魔術の音よ」
「え……?」
首を傾げるメルリアを見るなり、イリスは一つ咳払いをした。
「人間の魔術は、エルフの魔法みたいに万能じゃないわ。人間は、この世に存在する元素の一つを操ることしかできない――そこまでは知っているわね?」
メルリアはうなずく。
人間の使える魔術というのは、エルフが扱えるものとは根本的に違うこと。
魔術はこの世界のあらゆる元素――地・水・風・火・光・闇――の力を操ることができること。人間一人が操れる元素は基本的にどれか一つだということ。
これらの知識は、魔力のあるなしに問わず、この国の人間なら誰しも知っていることだった。
「ごくまれに――それこそ、何百年かに一人いるかいないかって感じなんだけど、『時間』を操れる人間が生まれることがあるの」
イリスの傍らにあるビールジョッキが冷たい汗をかき、焦げ茶色のテーブルを、一滴、また一滴と濡らしていく。
「あんまり珍しいから、どういうことができるかははっきりと分かってないし、時を操れる人間の存在を知らない人も多いわ」
まあこれがエルフだったらそこまで珍しくないんだけどね、と付け加え、イリスは今度こそジョッキの水を飲む。
小指くらいの小さな氷が、ジョッキに当たり高い音を鳴らした。
メルリアは大口のマグカップを手に取る。すっかり冷め切った深緑色の薬草茶を見つめた。あまりにも色が深すぎるせいで、そこには何も映っていない。
イリスの言ったとおりなら、自分の聞き間違いではなかったし、ネフリティスが言っていたことも嘘ではないことになる。
それは構わない。けれど、あの家には自分とネフリティス以外いないはずだ。
だったら誰が? メルリアの中で一つ謎が増える。自分は魔力が一切ないから、自分だという可能性は絶対ない。
だとすれば――。
メルリアは顔を上げた。
「エルフの魔法って可能性はないんですか?」
「ないと断言できるわ。時の音がするのは魔術だけ――すなわち、人間だけってこと」
メルリアの問いを、イリスはきっぱりと否定した。
これにより、ネフリティス本人の術だという可能性は消えた。
ネフリティスはその音に気づいているのかどうか、二人だけで暮らしているはずなのに誰か入ってきたのかどうか、そもそもあの音が鳴る扉の先には何があるのか――考えれば考えるほど謎が増えるが、増えるばかりで疑問は消えない。
……分からない。
メルリアはマグカップに口をつけ、どろりと濃い薬草茶を口の中に流し込む。
鼻に抜ける香りは申し訳程度に爽やかだが、舌先に残るのは強い苦みだけだった。
「ってことは、メルリアを使ってるってヤツはエルフってこと?」
メルリアがうなずく。
すると、イリスは難しい顔をした。不安定な背もたれに全力で背を預け、体を伸ばす。
「わっっかんないわねー……。あたし、こういうの全然駄目だわ。クロがいればなぁ……」
はぁあ、と大げさにため息をつくと、イリスは天井に向かって伸ばしていた手を下ろす。
ギィギィと危ない音を耳に、天井のシミをぼーっと見つめていた。
「『クロ』さん……? お知り合いですか?」
「さっき言ってた相方。あいつ、呆れるくらい頭いいのよ……。あ、クロはあたしがつけた愛称。本名は『クロード』ね」
今日は日暮れまで仕事だしなぁ……とつぶやいてから五秒後。
勢いよく椅子に座り直し、ジョッキに三分の一ほど残っていた水を勢いよく飲み干した。
ぷはっとグラスから口を離すと、メルリアの目の前に人差し指を突き立てる。
「あたしから言えることはただ一つ!」
きっぱりとした口調に、メルリアの背筋がぐっと伸びる。すぐそばで椅子が軋むいやな音がした。
「危なくなったら逃げなさい」
「は、はい……!」
よし、とイリスは満足そうに笑うと、そういえばと付け加えた。
「それから、そのエルフを紹介したやつに文句言いなさい」
メルリアは、その言葉にはうなずくことができなかった。
メルリアは朝の記憶を思い出しながら、ぽつぽつと話す。
確かに時計の針が動く音を聞いた。けれど、そんな時計はないと言われた。
ネフリティスの言葉が嘘だとは思えない。自分の耳も間違いだとは思わないが――。
やがて、メルリアは苦笑いした。
「私、疲れてたのかもしれないです。そもそも最初に聞こえた秒針の音、二階の奥の部屋からだったのに、廊下を出ても聞こえたんですから」
話半分で聞いていたイリスは、メルリアの目をじっと見つめた。
言葉の真意を探るように三秒ほど。
そうしてから、椅子に座り直す。ギィ、と不安定な音がした。
ビールジョッキに入った水に手をつけようとして、その手を引っ込める。
やけに静かなイリスに、メルリアは居心地が悪くなった。
やがて、背中のあたりに違和感を覚えた。
いたたまれない。
自分の聞き間違いだと話を終わらせようとすると、イリスが厳かに言う。
「それ、時の魔術の音よ」
「え……?」
首を傾げるメルリアを見るなり、イリスは一つ咳払いをした。
「人間の魔術は、エルフの魔法みたいに万能じゃないわ。人間は、この世に存在する元素の一つを操ることしかできない――そこまでは知っているわね?」
メルリアはうなずく。
人間の使える魔術というのは、エルフが扱えるものとは根本的に違うこと。
魔術はこの世界のあらゆる元素――地・水・風・火・光・闇――の力を操ることができること。人間一人が操れる元素は基本的にどれか一つだということ。
これらの知識は、魔力のあるなしに問わず、この国の人間なら誰しも知っていることだった。
「ごくまれに――それこそ、何百年かに一人いるかいないかって感じなんだけど、『時間』を操れる人間が生まれることがあるの」
イリスの傍らにあるビールジョッキが冷たい汗をかき、焦げ茶色のテーブルを、一滴、また一滴と濡らしていく。
「あんまり珍しいから、どういうことができるかははっきりと分かってないし、時を操れる人間の存在を知らない人も多いわ」
まあこれがエルフだったらそこまで珍しくないんだけどね、と付け加え、イリスは今度こそジョッキの水を飲む。
小指くらいの小さな氷が、ジョッキに当たり高い音を鳴らした。
メルリアは大口のマグカップを手に取る。すっかり冷め切った深緑色の薬草茶を見つめた。あまりにも色が深すぎるせいで、そこには何も映っていない。
イリスの言ったとおりなら、自分の聞き間違いではなかったし、ネフリティスが言っていたことも嘘ではないことになる。
それは構わない。けれど、あの家には自分とネフリティス以外いないはずだ。
だったら誰が? メルリアの中で一つ謎が増える。自分は魔力が一切ないから、自分だという可能性は絶対ない。
だとすれば――。
メルリアは顔を上げた。
「エルフの魔法って可能性はないんですか?」
「ないと断言できるわ。時の音がするのは魔術だけ――すなわち、人間だけってこと」
メルリアの問いを、イリスはきっぱりと否定した。
これにより、ネフリティス本人の術だという可能性は消えた。
ネフリティスはその音に気づいているのかどうか、二人だけで暮らしているはずなのに誰か入ってきたのかどうか、そもそもあの音が鳴る扉の先には何があるのか――考えれば考えるほど謎が増えるが、増えるばかりで疑問は消えない。
……分からない。
メルリアはマグカップに口をつけ、どろりと濃い薬草茶を口の中に流し込む。
鼻に抜ける香りは申し訳程度に爽やかだが、舌先に残るのは強い苦みだけだった。
「ってことは、メルリアを使ってるってヤツはエルフってこと?」
メルリアがうなずく。
すると、イリスは難しい顔をした。不安定な背もたれに全力で背を預け、体を伸ばす。
「わっっかんないわねー……。あたし、こういうの全然駄目だわ。クロがいればなぁ……」
はぁあ、と大げさにため息をつくと、イリスは天井に向かって伸ばしていた手を下ろす。
ギィギィと危ない音を耳に、天井のシミをぼーっと見つめていた。
「『クロ』さん……? お知り合いですか?」
「さっき言ってた相方。あいつ、呆れるくらい頭いいのよ……。あ、クロはあたしがつけた愛称。本名は『クロード』ね」
今日は日暮れまで仕事だしなぁ……とつぶやいてから五秒後。
勢いよく椅子に座り直し、ジョッキに三分の一ほど残っていた水を勢いよく飲み干した。
ぷはっとグラスから口を離すと、メルリアの目の前に人差し指を突き立てる。
「あたしから言えることはただ一つ!」
きっぱりとした口調に、メルリアの背筋がぐっと伸びる。すぐそばで椅子が軋むいやな音がした。
「危なくなったら逃げなさい」
「は、はい……!」
よし、とイリスは満足そうに笑うと、そういえばと付け加えた。
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