幾望の色

西薗蛍

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都市ヴェルディグリ

38 時計の音-1

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  その朝、メルリアは異音に目を覚ました。

 カチ、カチ、カチ、と、規則的に鳴る音が聞こえる。
 メルリアはしばらく何のことか分からなかったが、意識が覚醒するにつれ、その正体を理解した。

 機械音――いや、時計の針の音だ。

 メルリアはゆっくりとベッドから起き上がり、半分しか開いていない目で部屋の壁を見回す。

 この部屋に時計はなかったはずだけれど――。視界に入るのは緑の小花柄の壁紙だけで、壁掛けの家具は存在しない。
 机の上にも時計はないし、メルリアが持っている時計はこんなに大きな音はしない。

 疑問に思いながらも、一つ大きなあくびをする。
 ベッドに座ったまま背を伸ばすと、間延びした低い鐘の音が響いた。
 大きな振り子時計が新しい時間を知らせる音だ。それは部屋の外から聞こえてくる。

 メルリアは扉の前に立つと、ドアノブに手をかける。ただ普通に廊下に出ればいいだけなのに、それができなかった。

 あり得ない空想が脳内に広がってしまったからだ。

 この外が工房じゃなくなっていたらどうしよう、とか、扉の前に時計が置いてあったらびっくりするな、だとか。

 深呼吸で軽く上がった息を整え、意を決してドアノブをひねった。

 見慣れた廊下の景色に、メルリアは安堵のため息を漏らす。
 空想は空想だ。あり得ないよねと苦笑し、メルリアは扉を閉めた。

 未だに時計の針の音は聞こえている。
 耳を澄ませると、音は階段を挟んだ左奥の部屋から聞こえてくる。

 そちらに視線を向けるが、近づきはしなかった。リビングと貸した部屋以外には絶対に入るな、と釘を刺されたからだ。
 実際、それぞれの部屋には鍵穴が存在し勝手に開ける事はできないのだが。

 メルリアは階段を下りる。聞こえる時計の針の音に合わせて、秒針が一つ進むたびに一段進む。

  自然と行動とリズムがあってしまった。そんな中、カチカチカチ、と、一秒に三回秒針が進む。
 勢いよく足が進み、メルリアは慌てて手すりを掴んだ。
 一階まで降りたメルリアは、階段の上を見上げた。

「……故障かな?」

 首を傾げて階段の奥を見る。秒針の音はやはり二階からだ。

 そういえば、とメルリアは玄関を見回す。

 ここに来たばかりの日、玄関から時計の音が聞こえた事を思い出したからだ。
 しかし、時計は見当たらなかった。



 ネフリティスは紅茶にミルクと少なめの砂糖をティーカップに落とすと、ティースプーンでかき混ぜた。

 濃い茶色と白色が混ざり合い、まろやかな薄茶色へと変わっていく。寝ぼけた顔で色の変化を眺めた後、できあがったミルクティーに口をつけた。

「たまにはミルク入りも悪くないな~……」

 ネフリティスはふあっと大きく口を開け、盛大にあくびをする。
 目に溜まった涙が頬を伝ったが、それをぬぐうことはしなかった。

 目は半分しか開いておらず、声も普段より高い。あくび直後のぼうっとした顔のまま、濃い緑色のカーテンを見つめている。

 誰がどう見ても寝不足だった。

「昨晩は、遅くまで作業されていたんですか?」

 メルリアは、焼けたばかりの目玉焼きとベーコンをネフリティスに出した。

「まあなあ」

 白身を突き刺そうとしたスプーンが、目測を誤って黄身の部分を突き刺す。

 半熟の黄身が、白身の上を通って皿の脇に流れ出した。
 ネフリティスは目の前で起きている惨事に五秒ほど遅れて気がつくと、眉間にしわが寄った。やってしまったという様子ではなく、明らかに不機嫌そうだった。

 その様子を見て、メルリアはよほど疲れているのだなと思った。
 彼女は目玉焼きの黄身は最後に残す主義だからだ。

「メルリア、今日は客が来る。日暮れまで帰ってくるな」
「はい! ……はい?」

 反射的に返事をしたメルリアだったが、最後の言葉を理解した直後にとぼけた声を重ねる。

 てっきり、三人分の昼食を用意しろだとか、来客の世話は任せたとか、そういう事を頼まれるのだとばかり思っていたからだ。

「えぇっと……お夕飯は」
「今日は一日暇をくれてやる。夕飯を作る必要もない、感謝しろ」
「はあ……」

 ネフリティスはもう一度大きなあくびをすると、クルミのパンをちぎって口に運んだ。がりがりと音を立てる。ずいぶんとゆっくりした咀嚼音が響いた。
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