57 / 197
都市ヴェルディグリ
36 弟子代理の日々6
しおりを挟む
その晩、メルリアは夜中に目を覚ました。
深い場所からゆっくりと浮上していくように、まどろんでいた意識が静かに覚醒していく。
あくびを一つこぼすと、メルリアは大きく瞼を開いた。
まるでぐっすりと眠れた朝のように頭がすっきりしていたし、目も冴えきっている。それは、しばらく眠れないことを意味していた。
メルリアはやむなくベッドから起き上がると、カーテンを人差し指でわずかに開く。
空の一番遠い場所には、丸い月が輝いていた。寝起きには眩しい輝きに、思わず目を細める。
今夜は満月だ。月明かりはどこか頼りないが、独特な柔らかさがある。
太陽の力強さとは違う、どこか落ち着く明かり。メルリアは月が好きだった。
それに――。
メルリアは静かに目を伏せる。
すると、水の流れる密やかな音が聞こえる気がした。
エピナールで見た湖の真ん中にぽっかりと浮かぶ丸い月。水面を鏡として、その姿をくっきりと映し出す。
あの場所で見た満月は、言葉にならない美しさがあった。
あの日の記憶を思い返すメルリアは、記憶の中で隣を見る。
そこにあるのは、静かにたたずむエルヴィーラの姿。あの景色が特別幻想的に思えたのは、エルヴィーラの存在も大きい。
――待っているわ。待つのは得意だから。
静かに笑うエルヴィーラの表情を思い出すと、胸の奥がぎゅっと締め付けられた。
その刺激に耐えかね、深く息をつく。ふと脳裏に浮かんだ感情を押し殺すようにかぶりを振った。
考えてはいけない、感じてはいけない。
会いたいならまだしも、寂しいと思ってはいけない。そう思ったら終わりだ。
メルリアは傍らにあるバッグを手に取る。
明かりをつけずに中を探り、手の感触を頼りにポーチを取り出した。
そこから四つ折りの紙を取り出し、質感を確かめるように指でなぞった。ゆっくりと開くと、月明かりを頼りにその文字に目を通した。
「グローカス、街外れ、アマルルアの宿を出て西……」
急ごしらえで書いたとは思えないほど綺麗な手跡だった。
メルリアは黒いインクを指でなぞりながら、なじみのない単語をぽつぽつと声に出す。
「『三十分ほどの上り坂の先、夜半の屋敷で待っている』、……お屋敷?」
メルリアはその言葉に目を丸くするが、しかしすぐ納得したように頷いた。
エルヴィーラのイメージと、屋敷のイメージが自然と重なったからだ。
やはり彼女はいい家のお嬢様だったのだ――メルリアは一人でうんうん頷いた。
エルヴィーラが持つ独特の雰囲気はもちろん、どこか儚い様子や、立ち居振る舞いは、高貴な身分を思わせるには十分すぎた。
どこか自分とは違う世界を生きているようだと感じられるほどに。
それなのに、懐かしい気がすると感じるのは図々しいだろうか。
メルリアは苦笑を浮かべる。けれど、それが悪いとは思っていなかった。
ふと、紙の端に文章が続いていると気づいたメルリアは親指を離す。
――追伸。エルヴィーラの傍にいてくれてありがとう。
今までの筆跡は非常に整っていたが、その一行だけほんのわずかな乱れがあった。
まるで書く事をためらったかのように、最初と最後の文字がどこか情けなく曲がっている。
メルリアはその様子に気づかぬまま、紙全体をぼうっと眺める。
しばらくそうした後、同じように四つ折りに畳んだ。
元あったようにポーチにしまい、リュックの中に戻す。
その動作ひとつひとつは、まるでガラス製品を扱うかのようにゆっくりとしていた。
「おばあちゃんのお父さん……か」
メルリアは呟く。
興味はあるが、メルリアは曾祖父のことを何も知らない。メルリアにとってはずっとずっと遠い存在だった。
ロバータから自身の母の話はたまに聞いていたが、父の話を聞く事はなかったし、そんな機会もなかった。
そもそもロバータが元気だった時は、祖母の両親という感覚がいまいちつかめなかったというのもある。
メルリアは再びベッドに横たわると、天井をぼんやり眺める。あっという間に目が暗闇に慣れ、木材独特の模様が渦を巻く。その一点を漠然と見つめた。
あのメモを渡してくれた男――シャムロックと、祖母の父とはどういう関係だったのだろう。
メルリアは記憶の底からシャムロックの顔を呼び起こす。
彼は三十代前半くらいの見た目だった。本人と関係があった、というのはあまり想像がつかない。
あの人の両親が世話になった?
昔はグローカスに住んでいた?
メルリアの思考がぐるぐる回り、やがてまとまりがつかなくなる。
視界に映る木の模様が、混沌とした思考と同調するように螺旋を描いて見えた。
メルリアはそのままゆっくりと目を閉じる。
途切れ途切れの意識の中、ようやく眠れると気づいた次の瞬間には眠りについていた。
深い場所からゆっくりと浮上していくように、まどろんでいた意識が静かに覚醒していく。
あくびを一つこぼすと、メルリアは大きく瞼を開いた。
まるでぐっすりと眠れた朝のように頭がすっきりしていたし、目も冴えきっている。それは、しばらく眠れないことを意味していた。
メルリアはやむなくベッドから起き上がると、カーテンを人差し指でわずかに開く。
空の一番遠い場所には、丸い月が輝いていた。寝起きには眩しい輝きに、思わず目を細める。
今夜は満月だ。月明かりはどこか頼りないが、独特な柔らかさがある。
太陽の力強さとは違う、どこか落ち着く明かり。メルリアは月が好きだった。
それに――。
メルリアは静かに目を伏せる。
すると、水の流れる密やかな音が聞こえる気がした。
エピナールで見た湖の真ん中にぽっかりと浮かぶ丸い月。水面を鏡として、その姿をくっきりと映し出す。
あの場所で見た満月は、言葉にならない美しさがあった。
あの日の記憶を思い返すメルリアは、記憶の中で隣を見る。
そこにあるのは、静かにたたずむエルヴィーラの姿。あの景色が特別幻想的に思えたのは、エルヴィーラの存在も大きい。
――待っているわ。待つのは得意だから。
静かに笑うエルヴィーラの表情を思い出すと、胸の奥がぎゅっと締め付けられた。
その刺激に耐えかね、深く息をつく。ふと脳裏に浮かんだ感情を押し殺すようにかぶりを振った。
考えてはいけない、感じてはいけない。
会いたいならまだしも、寂しいと思ってはいけない。そう思ったら終わりだ。
メルリアは傍らにあるバッグを手に取る。
明かりをつけずに中を探り、手の感触を頼りにポーチを取り出した。
そこから四つ折りの紙を取り出し、質感を確かめるように指でなぞった。ゆっくりと開くと、月明かりを頼りにその文字に目を通した。
「グローカス、街外れ、アマルルアの宿を出て西……」
急ごしらえで書いたとは思えないほど綺麗な手跡だった。
メルリアは黒いインクを指でなぞりながら、なじみのない単語をぽつぽつと声に出す。
「『三十分ほどの上り坂の先、夜半の屋敷で待っている』、……お屋敷?」
メルリアはその言葉に目を丸くするが、しかしすぐ納得したように頷いた。
エルヴィーラのイメージと、屋敷のイメージが自然と重なったからだ。
やはり彼女はいい家のお嬢様だったのだ――メルリアは一人でうんうん頷いた。
エルヴィーラが持つ独特の雰囲気はもちろん、どこか儚い様子や、立ち居振る舞いは、高貴な身分を思わせるには十分すぎた。
どこか自分とは違う世界を生きているようだと感じられるほどに。
それなのに、懐かしい気がすると感じるのは図々しいだろうか。
メルリアは苦笑を浮かべる。けれど、それが悪いとは思っていなかった。
ふと、紙の端に文章が続いていると気づいたメルリアは親指を離す。
――追伸。エルヴィーラの傍にいてくれてありがとう。
今までの筆跡は非常に整っていたが、その一行だけほんのわずかな乱れがあった。
まるで書く事をためらったかのように、最初と最後の文字がどこか情けなく曲がっている。
メルリアはその様子に気づかぬまま、紙全体をぼうっと眺める。
しばらくそうした後、同じように四つ折りに畳んだ。
元あったようにポーチにしまい、リュックの中に戻す。
その動作ひとつひとつは、まるでガラス製品を扱うかのようにゆっくりとしていた。
「おばあちゃんのお父さん……か」
メルリアは呟く。
興味はあるが、メルリアは曾祖父のことを何も知らない。メルリアにとってはずっとずっと遠い存在だった。
ロバータから自身の母の話はたまに聞いていたが、父の話を聞く事はなかったし、そんな機会もなかった。
そもそもロバータが元気だった時は、祖母の両親という感覚がいまいちつかめなかったというのもある。
メルリアは再びベッドに横たわると、天井をぼんやり眺める。あっという間に目が暗闇に慣れ、木材独特の模様が渦を巻く。その一点を漠然と見つめた。
あのメモを渡してくれた男――シャムロックと、祖母の父とはどういう関係だったのだろう。
メルリアは記憶の底からシャムロックの顔を呼び起こす。
彼は三十代前半くらいの見た目だった。本人と関係があった、というのはあまり想像がつかない。
あの人の両親が世話になった?
昔はグローカスに住んでいた?
メルリアの思考がぐるぐる回り、やがてまとまりがつかなくなる。
視界に映る木の模様が、混沌とした思考と同調するように螺旋を描いて見えた。
メルリアはそのままゆっくりと目を閉じる。
途切れ途切れの意識の中、ようやく眠れると気づいた次の瞬間には眠りについていた。
0
お気に入りに追加
0
あなたにおすすめの小説
日陰の下で笑う透明なへレニウム
たまかKindle
ファンタジー
※縦書きで読んで頂ければ幸いでございます。
花は、何処に生えるのか。
美しく逞しく咲こうとする花もコンクリートの上では咲けない。
花弁を開け、咲こうとも見えぬ場所では何も確認などできない。
都会からは、遥彼方にある自然に囲まれた島に一人、花を愛でる青年がいた。
ただ呑気にそして陽気にその島で暮らす彼。ただのんびりとうたた寝を謳歌する事が好きな彼が不慮の事故によりある世界に入り込んでしまう。
そこは、今まで暮らしてきた世界とはまるで違う世界‥‥異世界に勇者として召喚されてしまった。
淡々と訳のわからぬまま話が進むも何も上手くいかず。そしてあろう事か殺されたかけてしまう。そんな中ある一人の男に助けてもらい猶予を与えられた。
猶予はたったの10日。その短時間で勇者としての証明をしなければいけなくなった彼は、鍛錬に励むが‥‥‥‥
彼は我慢する。そして嘘を吐く。慣れたフリをしてまた作る。
見えぬ様、見せぬ様、抗おうとも。
君は妾の子だから、次男がちょうどいい
月山 歩
恋愛
侯爵家のマリアは婚約中だが、彼は王都に住み、彼女は片田舎で遠いため会ったことはなかった。でもある時、マリアは妾の子であると知られる。そんな娘は大事な子息とは結婚させられないと、病気療養中の次男との婚約に一方的に変えさせられる。そして次の日には、迎えの馬車がやって来た。
僕は君を思うと吐き気がする
月山 歩
恋愛
貧乏侯爵家だった私は、お金持ちの夫が亡くなると、次はその弟をあてがわれた。私は、母の生活の支援もしてもらいたいから、拒否できない。今度こそ、新しい夫に愛されてみたいけど、彼は、私を思うと吐き気がするそうです。再び白い結婚が始まった。


魔法が使えない令嬢は住んでいた小屋が燃えたので家出します
怠惰るウェイブ
ファンタジー
グレイの世界は狭く暗く何よりも灰色だった。
本来なら領主令嬢となるはずの彼女は領主邸で住むことを許されず、ボロ小屋で暮らしていた。
彼女はある日、棚から落ちてきた一冊の本によって人生が変わることになる。
世界が色づき始めた頃、ある事件をきっかけに少女は旅をすることにした。
喋ることのできないグレイは旅を通して自身の世界を色付けていく。
旦那様、前世の記憶を取り戻したので離縁させて頂きます
結城芙由奈@コミカライズ発売中
恋愛
【前世の記憶が戻ったので、貴方はもう用済みです】
ある日突然私は前世の記憶を取り戻し、今自分が置かれている結婚生活がとても理不尽な事に気が付いた。こんな夫ならもういらない。前世の知識を活用すれば、この世界でもきっと女1人で生きていけるはず。そして私はクズ夫に離婚届を突きつけた―。
子持ちの私は、夫に駆け落ちされました
月山 歩
恋愛
産まれたばかりの赤子を抱いた私は、砦に働きに行ったきり、帰って来ない夫を心配して、鍛錬場を訪れた。すると、夫の上司は夫が仕事中に駆け落ちしていなくなったことを教えてくれた。食べる物がなく、フラフラだった私は、その場で意識を失った。赤子を抱いた私を気の毒に思った公爵家でお世話になることに。

【完結】もう無理して私に笑いかけなくてもいいですよ?
冬馬亮
恋愛
公爵令嬢のエリーゼは、遅れて出席した夜会で、婚約者のオズワルドがエリーゼへの不満を口にするのを偶然耳にする。
オズワルドを愛していたエリーゼはひどくショックを受けるが、悩んだ末に婚約解消を決意する。
だが、喜んで受け入れると思っていたオズワルドが、なぜか婚約解消を拒否。関係の再構築を提案する。
その後、プレゼント攻撃や突撃訪問の日々が始まるが、オズワルドは別の令嬢をそばに置くようになり・・・
「彼女は友人の妹で、なんとも思ってない。オレが好きなのはエリーゼだ」
「私みたいな女に無理して笑いかけるのも限界だって夜会で愚痴をこぼしてたじゃないですか。よかったですね、これでもう、無理して私に笑いかけなくてよくなりましたよ」
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる