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都市ヴェルディグリ
26 陰雨に愁う3-2
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嬉しくないわけじゃないけど、どうしたらいいんだろう――悩んでいると、薔薇に似た花のような甘い香りが漂った。
それがメルリアの記憶に引っかかる。
この香り、知っている気がする。薔薇だけど薔薇じゃないような。
頑張れば思い出せる、けれどすぐには出てきそうにない――。
メルリアが悩んでいると、鍵が解錠される音が響いた。ゆっくりと扉が開く。シャワーと着替えを済ませた男は、その光景を見て静かにため息をついた。
「エルヴィーラ、あまりその子を困らせてはいけない。そのままでは話もできない」
「……分かったわ」
不本意だという顔と声をして、エルヴィーラはメルリアから離れた。先ほどと同じようにメルリアの隣に腰掛ける。男は部屋の隅にあった椅子を運び、ソファの向かいに置いた。
メルリアはソファに座ったまま、男の動きに注視した。
まず目につくのはその背の高さだ。シャノワールで会った時よりも近くにいるせいで、ずっと大きく見える。
次に気になったのは雰囲気。エルヴィーラ同様、この男もどこか不思議な雰囲気を纏っている。
また、彼も整った顔立ちをしていた。エルヴィーラと同じ真紅の瞳に、どこかオレンジがかった暗めの金髪。そしてやはりどこか懐かしい感覚。
疑問に思ったままその姿を目で追っていると、椅子に座った男と目が合う。
男は固まったような無表情を柔らかく変えると、静かに頭を下げた。
「ありがとう。エルヴィーラが世話になったな」
「い、いえ、私の方がとてもお世話になっていて……たくさんお話も聞いてもらいましたし」
抱きしめたぬいぐるみから片手を話し、その手を顔の前で振る。両手でそうできなかったのは、借り物を落としてしまいそうだと思ったからだ。
「そうだ、まだ名乗っていなかったな。俺はシャムロック。お前は?」
「メルリアといいます」
シャムロックの静かな言葉に、メルリアは慌てて頭を下げる。
彼に威圧感はなく、言葉の端々は柔らかい。しかしメルリアはどこか気が引き締まるようだと感じていた。先ほど見たシャムロックの身長のイメージが残っているせいである。
「……ん?」
ふと、シャムロックは何かに気づいたように小さく声を漏らす。
顎に手を当て、しばらく何かを考え込んだ後、メルリアの前に跪くように身をかがめた。
手袋の白が彼女の視界を一瞬かすめる。シャムロックは彼女の頬に触れ、メルリアの青い瞳をのぞき込むように見澄ました。わずかに居心地の悪さを感じつつも、メルリアは目をそらせない。
やがて男は満足したのか、手を離すと、再び向かいの椅子に腰掛ける。
「メルリア。祖父母の姓は分かるか?」
その言葉に、メルリアははっとする。隣に座るエルヴィーラと目が合う。彼女は開いた唇に人差し指を押し当て、驚いた様子だった。
「奇遇ね。シャムが来るちょっと前、そういう話をしていたところ」
その言葉に、シャムロックは「そうか」と短い返事を一つした。
メルリアは突然のことに驚きつつも、口を開く。
「祖母の父が外国の人で。旧姓が『ゼーベック』っていう話をしたんです」
メルリアがその名を口にすると、シャムロックの両眉が上がる。難しい表情を浮かべたまま、男は慎重に尋ねた。
「覚えているのは難しいかと思うが……。メルリアの曾祖父は、テオフィールという名ではないか?」
身を乗り出そうとするエルヴィーラに視線で待ったをかけた後、男は黙ってメルリアの言葉を待つ。
メルリアは考え込んだ。その言葉の響きを知っているような気がする。思い出せないこともないだろうが、すぐに返事をすることはできなかった。先ほどの香りのように、この記憶は曖昧だ。
メルリアが黙っていると、男は手帳にペンで文字を書き連ねていく。
「この文字に見覚えはないか?」
男は手帳をメルリアに向け、優しく問いかける。
手帳の一行目には、黒く濃いインクで「Theophil」と記されていた。
その文字を見た瞬間、メルリアははっと顔を上げた。その文字の並びには馴染みがある。シ
ャノワールにいた時に思い出した、ロバータとその両親を描いた絵画――枠外に記されていた文字がその一つだった。見慣れない綴りだったせいで当時読むことはできなかったが。
メルリアは目を閉じ、記憶の中からあの絵画のイメージを引っ張り出す。
彼女の視界は真っ黒だが、メルリアには確かにあの絵が見えていた。
幼い祖母の傍らに立つ、祖母の母と父の姿が。
「文字は知ってます……、えっと、祖母と祖母の両親を描いた絵画を見たことがあって」
膝に置いたぬいぐるみの腹を指でなぞりながら、脳内で絵画を見ながら言った。
「その枠外に文字があったんです。テオフィール? さんは、祖母の父の名前で。黒い髪の人だった、と思います」
絵の情報を伝え終わると、ゆっくり目を開く。これ以上伝えねばならぬ情報はもうないだろう。
メルリアは一度大きく深呼吸した後、改めてシャムロックに向き直る。シャムロックは眉間にしわを寄せ、難しい表情をしながら考え込んでいた。
その間、沈黙が続く。
メルリアはこの状況に耐えられなくなった。
おかしなことを言ってしまっただろうか。何か失礼だっただろうか。ありもしない悪い思考が頭の中にこだまする。
膝に置いた手が、ふらふらと漂った。メルリアの感情と同調するように。
それがメルリアの記憶に引っかかる。
この香り、知っている気がする。薔薇だけど薔薇じゃないような。
頑張れば思い出せる、けれどすぐには出てきそうにない――。
メルリアが悩んでいると、鍵が解錠される音が響いた。ゆっくりと扉が開く。シャワーと着替えを済ませた男は、その光景を見て静かにため息をついた。
「エルヴィーラ、あまりその子を困らせてはいけない。そのままでは話もできない」
「……分かったわ」
不本意だという顔と声をして、エルヴィーラはメルリアから離れた。先ほどと同じようにメルリアの隣に腰掛ける。男は部屋の隅にあった椅子を運び、ソファの向かいに置いた。
メルリアはソファに座ったまま、男の動きに注視した。
まず目につくのはその背の高さだ。シャノワールで会った時よりも近くにいるせいで、ずっと大きく見える。
次に気になったのは雰囲気。エルヴィーラ同様、この男もどこか不思議な雰囲気を纏っている。
また、彼も整った顔立ちをしていた。エルヴィーラと同じ真紅の瞳に、どこかオレンジがかった暗めの金髪。そしてやはりどこか懐かしい感覚。
疑問に思ったままその姿を目で追っていると、椅子に座った男と目が合う。
男は固まったような無表情を柔らかく変えると、静かに頭を下げた。
「ありがとう。エルヴィーラが世話になったな」
「い、いえ、私の方がとてもお世話になっていて……たくさんお話も聞いてもらいましたし」
抱きしめたぬいぐるみから片手を話し、その手を顔の前で振る。両手でそうできなかったのは、借り物を落としてしまいそうだと思ったからだ。
「そうだ、まだ名乗っていなかったな。俺はシャムロック。お前は?」
「メルリアといいます」
シャムロックの静かな言葉に、メルリアは慌てて頭を下げる。
彼に威圧感はなく、言葉の端々は柔らかい。しかしメルリアはどこか気が引き締まるようだと感じていた。先ほど見たシャムロックの身長のイメージが残っているせいである。
「……ん?」
ふと、シャムロックは何かに気づいたように小さく声を漏らす。
顎に手を当て、しばらく何かを考え込んだ後、メルリアの前に跪くように身をかがめた。
手袋の白が彼女の視界を一瞬かすめる。シャムロックは彼女の頬に触れ、メルリアの青い瞳をのぞき込むように見澄ました。わずかに居心地の悪さを感じつつも、メルリアは目をそらせない。
やがて男は満足したのか、手を離すと、再び向かいの椅子に腰掛ける。
「メルリア。祖父母の姓は分かるか?」
その言葉に、メルリアははっとする。隣に座るエルヴィーラと目が合う。彼女は開いた唇に人差し指を押し当て、驚いた様子だった。
「奇遇ね。シャムが来るちょっと前、そういう話をしていたところ」
その言葉に、シャムロックは「そうか」と短い返事を一つした。
メルリアは突然のことに驚きつつも、口を開く。
「祖母の父が外国の人で。旧姓が『ゼーベック』っていう話をしたんです」
メルリアがその名を口にすると、シャムロックの両眉が上がる。難しい表情を浮かべたまま、男は慎重に尋ねた。
「覚えているのは難しいかと思うが……。メルリアの曾祖父は、テオフィールという名ではないか?」
身を乗り出そうとするエルヴィーラに視線で待ったをかけた後、男は黙ってメルリアの言葉を待つ。
メルリアは考え込んだ。その言葉の響きを知っているような気がする。思い出せないこともないだろうが、すぐに返事をすることはできなかった。先ほどの香りのように、この記憶は曖昧だ。
メルリアが黙っていると、男は手帳にペンで文字を書き連ねていく。
「この文字に見覚えはないか?」
男は手帳をメルリアに向け、優しく問いかける。
手帳の一行目には、黒く濃いインクで「Theophil」と記されていた。
その文字を見た瞬間、メルリアははっと顔を上げた。その文字の並びには馴染みがある。シ
ャノワールにいた時に思い出した、ロバータとその両親を描いた絵画――枠外に記されていた文字がその一つだった。見慣れない綴りだったせいで当時読むことはできなかったが。
メルリアは目を閉じ、記憶の中からあの絵画のイメージを引っ張り出す。
彼女の視界は真っ黒だが、メルリアには確かにあの絵が見えていた。
幼い祖母の傍らに立つ、祖母の母と父の姿が。
「文字は知ってます……、えっと、祖母と祖母の両親を描いた絵画を見たことがあって」
膝に置いたぬいぐるみの腹を指でなぞりながら、脳内で絵画を見ながら言った。
「その枠外に文字があったんです。テオフィール? さんは、祖母の父の名前で。黒い髪の人だった、と思います」
絵の情報を伝え終わると、ゆっくり目を開く。これ以上伝えねばならぬ情報はもうないだろう。
メルリアは一度大きく深呼吸した後、改めてシャムロックに向き直る。シャムロックは眉間にしわを寄せ、難しい表情をしながら考え込んでいた。
その間、沈黙が続く。
メルリアはこの状況に耐えられなくなった。
おかしなことを言ってしまっただろうか。何か失礼だっただろうか。ありもしない悪い思考が頭の中にこだまする。
膝に置いた手が、ふらふらと漂った。メルリアの感情と同調するように。
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