最後の演奏者

西薗蛍

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最後の演奏者

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 閉館後の市民ホールは閑散としている。

 ピアノの前に座った僕は、鍵盤だけをぼうっと眺めていた。支配人が帰るまで、残り時間は後三時間。
 それを過ぎれば、もうこのピアノで曲を演奏することはできない。このホールは、建物の老朽化と、利用者が減少のため、明日から取り壊し作業に入る。ピアノの行方は支配人が聞いていないようで分からない。だけど、市の懐に入るとか、譲る人がもう決まってるんだろうとか、あらかた察しはつく。

 つまり、五年前から関わりのあるこのホールとも、このピアノとも、あと少しでお別れなんだ。

 鍵盤に右手を置く。親指で音を控えめに鳴らした。子供が遊ぶような、そんな力の入り具合。当然音も小さいし、長くは続かずに途切れてしまう。折角最後なのだから、演奏しなければ勿体ない。一度息を吐いてから、ゆっくりと指を動かす。本来の速度よりは幾分も遅い。右手だけで、左手は入れない。これも悪くはないけれど、単調だ。

 家にあるピアノとは違い、ここのピアノが一番指に馴染む。それに、グランドピアノの音は、家にあるそれとは全く異なる。音の広がりもそうだし、低音の重さ、響き……。そりゃ、新しいピアノの方がより音はいいだろう。でも、手の感覚も、耳に馴染むのも、こっちだ。

 気づけば、僕は両手でピアノを弾いていた。幼馴染みから教えてもらった、ゲームの曲。普段、バイエルとかの練習用の曲や、クラシック音楽しか弾かない僕にそれは新鮮であったし、CDから聞こえる曲も、僕の好みだった。弾いた音が返ってくる。今の僕には、心地のいい音の並び。懐かしいな、なんて思っていると、目の前の扉が開く。

「やっぱり、この曲弾いてるんだね」

 顔を上げる。自然と、演奏する速度が遅くなった。この曲を僕に教えた張本人の一葉は、何かを抱えて、ゆっくりとこちらへ歩いてくる。気を遣っているのか、足音は殆どしなかった。ピアノの周りにしか電気を付けていないから、一葉が何を持っているかは分からない。けれど、ここに持ってくるものと言ったら、ある程度察しがつく。一葉が電気の当たる場所まで来てようやく、それが楽譜なのだという事に気付いた。

「結構、寂しいよね。奏多もそうでしょう? 音によく出てるよ」
「そういうものかね……」

 全く自覚がないが、一葉に言わせるとそうらしい。ただ、この曲を無意識に選んでいたという事、今、この曲の音が聞きたかったと思ったのは事実だった。

 一葉は、部屋の隅に畳んであったパイプ椅子を俺の近くに二脚広げた。片方には楽譜を置き、もう片方には一葉が座る。気がつけば、曲は二周していた。
 歌詞がないメロディの中で、一葉は一番目立つ音を口ずさんでいる。ピアノの音とは違う音が混じるけれど、僕はこれが嫌いではない。一葉の声は綺麗だ。だから、どちらかというと心地がいい。

「今日ね、『感謝』って言葉の入った曲の楽譜、持ってきたんだ」
「急には弾けないって言ってるだろ、お前はいつもそうだね」
「奏多の好きな曲があれば、弾けるかもしれないじゃない」

 二度目のループが終わった所で、僕は手を止める。すると一葉はここぞとばかりに立ち上がり、楽譜の一冊を僕に押し付けた。一葉は一葉で、楽譜をぱらぱらと読み流している。かなり無理矢理だとは思うけれど、一葉の考えていることに賛同できないわけじゃない。

 それに一葉の言う通り、好きな曲は趣味で楽譜を起こして弾いていた事もあった。
 この中のそれと上手く噛み合うかどうかは別として。

 知らないアーティストのページを飛ばし、知っているアーティストのページを読んでは、これは違うと飛ばし……。それを何ページか繰り返していると、見知った曲があった。これも、一葉から教えてもらった曲だ。僕も音が好みで、遊びで弾いていた事がある。

「一葉。これ、主旋律なら弾けるよ。伴奏は分からないけど」

 楽譜をひっくり返して一葉に見せると、一葉は優しく微笑む。僕は自分の膝の上に楽譜を置いた後、一葉に視線を合わせずに言った。

「一葉さ。これ、僕が弾いてる時に歌ってくれない?」
「勿論」

 顔は見えない。ただ、声の感じから、喜んで引き受けてくれたんだろうなって事だけは伝わってきた。

 それから、一葉と軽く打ち合わせをした。全体的な音の流れの確認と、全て通して演奏の二つ。幼馴染みだから、ある程度お互いの癖は知っている。
 そのおかげか、練習もスムーズだったと思う。楽譜も初心者向けで、流して弾いてみた程度では、さほど難しく感じなかった。伴奏がついてくるかどうかは不安ではあるけれど、これはやってしまうしかない。もうやり直している時間はないのだから。

 時計を確認し、一葉には少し離れた場所に立ってもらう。
 どうせ最後なら、もう演奏できないのなら、楽しい気持ちで最後を演奏したい。観客席に目を向ける。照明の差で、こちらからは椅子の有る無しすらよく見えなかった。誰もいないのは解っている。だけれど、そこに誰かがいると思って。

 楽譜の書かれたページに目を通し、鍵盤に指を置く。
 僕はこの瞬間が好きだった。張りつめた空気、自身の緊張感は苦手だけれど、大好きなピアノに触れられる瞬間だから。

 最初のレの音を弾けば、これ以上ないくらい僕に馴染んだ。
 音の透明感は弱いけれど、僕の耳に心地の良いピアノの音。それに加えて控えめだけれど心地のいい、一葉の歌声。無人だからこその静寂。
 あと数時間が終われば、もう二度と聞けないであろうその音は、切なくもあり、心地よくもあり、嬉しくもある。

 ただはっきりとわかるのは、今この瞬間が、僕にとっては幸せだった。
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