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第9章:再起編
動き始めた世界
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封印の中はラウフ・ソルブの鏡から漏れ出る瘴気で充満していた。やがて、溜まった淀みは形を成していく。黒い瘴気は徐々に実体を取り戻していった。数ヶ月後、瘴気が充満した結界の中でそれは産声を上げた。
それはすぐさま大きく成長し、美しい20歳位の青年になった。地面まで届く黒い髪。黒曜石の様な黒い瞳。背丈は2メートル近くある。青年は瘴気から一枚の黒い布を生み出すと、それで体を包んだ。そして、自分を覆う結界に右手を伸ばす。稲妻の様なものが触れた箇所を走り、青年は手を火傷する。だが痛みを感じていないのか、青年はその手をまた結界へと伸ばした。だがソールの張った結界は彼が外に出る事を阻んだ。何度も繰り返して、漸くその事を理解したのか、青年は結界に伸ばしていた右手を下ろした。
「な、なぜ結界の内側に人間が?」
ふと青年の耳に声が聞こえてきた。そちらを見ると40代後半の男が驚いた様子で青年を見ていた。そんな彼を見て、青年はニヤリと笑った。直後、凄まじい量の瘴気が彼の体から溢れ出し、ついには結界すらもすり抜けた。その瘴気はまるで意志を持っているかのように動き始め、あっという間に男を覆った。男は悲鳴を上げて逃げようとしたが、開いた口や鼻や耳にどんどん瘴気が入っていった。やがて男を覆っていた瘴気が全て体内に入り消え去った頃、地面には男が意識を失って倒れていた。
『行け』
男に向かって、青年がそう言うと男は幽鬼のように立ち上がり、どこかに向かって歩き始めた。
『さて、あの者らに譲った世界は今どうなっているのかのぅ』
自分の目となる道具を外に放った青年は、結界の外に広がる現在の世界を想像し、胸をときめかせた。
それがジンとイブリスが出会う数日前に起きた事だった。
~~~~~~~~~
あれからジンとイブリスは警備隊にアルツを引き渡した後、資料館に行く前に軽く食事を取る事にして、あるカフェのテラス席につき、雑談をしていた。
「リーラー?」
その苗字を聞いた途端、ジンの顔が歪む。
「ああ、それがどうかしたの?」
「……ディマン・リーラーという名に聞き覚えはあるか?」
彼の口から発せられる言葉には強い怒りの感情が含まれていた。突然の変化にイブリスは混乱する。20数年生きてきたが、これほどまでに強い怒りを感じた事はなかったからだ。冷や汗が流れ、背中が湿る。今にもその怒りが自分に向けられるのではないかという恐怖に怯えた。だがイブリスは勇気を出して努めて冷静に答える。
「それは10年以上前に行方不明になった兄の名前だが、どうしてその名を知っているんだ?」
その言葉に、ジンはボソリと呟いた。
「俺の全てを壊した男だ。そして、この手で初めて心の底から殺したいと願った男だ」
一体自分の兄はこの青年に何をしたのかという疑問がイブリスに湧き上がる。ここまで深い憎しみを持つには些細な嫌がらせ程度ではない。
「何があったか聞いてもいいか?」
イブリスが尋ねると、ジンはしばらく逡巡してから少しずつ話し始めた。それは彼女が想像する以上に悲惨な体験だった。
「奴と俺の全ての始まりは『生命置換』という邪法だった。オルフェンシアに罹った俺を救う為に、姉があの男の手によって魂を分けられる事になった。それが切掛けで、姉は魔人になるのが早まった。……俺がこの手で殺した。それから、何年か経って国に帰ってきた時、あいつは合成獣を作って人々を殺し、仲間を攫った。その仲間は魔人化実験に利用され、俺はそいつを殺した。その上あの男は俺の姉の複製体を作り、陵辱の限りを尽くし、あの人の尊厳を汚した……俺はこの手でまた姉を殺す事になった」
一言呟く毎にその瞳の奥にある怒りの炎が増していく。水の滴る音がして、ふとイブリスが音のした方を見ると、あまりに強く握りしめていたためか、ジンの両拳から血が流れていた。
「そして……あの男は俺から最も大切な人を奪った。あいつがシオンに魔人化実験をしなければ、きっと今もシオンには時間が残されていたはずだ。例え僅かな時間しか残っていなかったとしても、俺達の子供を抱く事すら出来ないなんて事はなかったんだ!」
吐き捨てるように語気を強めて言うジンに、イブリスは何を言えばいいのか分からなかった。幼い頃から会っていない兄がそれほどまでに非道な事をした事に驚愕しながらも、最後に見た兄の様子を思い出し、彼ならやるだろうという事をどこか納得している自分もいた。それほどまでに最後に会った彼は狂っていたからだ。
人を人として認識する事が出来ず、実験動物扱いし、強い承認欲求から狂気の研究が評価されない事に業を煮やし、最後はこの都市からも異端者として切り捨てられた。自分に対して向けられた深い憎悪の感情は今も彼女の心に棘のように刺さっている。
「……何を言っても慰めにはならない。だが、これだけは言わせてくれ。私の兄が君の人生を大きく変えてしまった事、本当にすまないと思っている。私に何か出来る事があるなら言ってくれ。可能な限り叶えるから」
イブリスがジンにしてやれる事などその程度しかなかった。ジンはしばらく心を落ち着かせる為か、目を閉じて深呼吸を何度も何度も繰り返した。やがて目を開けるとイブリスに尋ねた。
「あんたの研究では魔人を元に戻す事も可能なんだよな?」
「あ、ああ、さっきも言ったが理論上にはなるがな。ただ、計算した結果、それを可能とする為には最低でもこの大陸の10分の1を消せる程の莫大な力が必要のようだ。それと魔人と言ってもピンからキリまでいる。例えば最近動き出した四魔達にはどれほどの力が必要かなんて想像も出来ないがね。それこそかつて現れた龍魔が大陸ひとつを消し去ったような力が必要かもしれない」
計算に計算を重ねて得た結論だった。新たな何かが見つからない限り、その計算が覆る事はない。
「龍魔…… レヴィ、いやノヴァか。つまり【範囲】の権能か」
ボソリとジンは呟く。
「何か知っているのか?」
「いや、こちらの話だ。取り敢えず分かった。なら俺はどうにかしてその力を得ればいい訳だ。そうすれば法魔になったあいつを、シオンを救う事ができるんだな」
「ほ、法魔だって!? それはとてもじゃないが無理だ!」
イブリスは思わず立ち上がって、テラス席のテーブルを叩いた。周囲にいた客や通行人が驚いてイブリスの方も見る。それに気づいた彼女は咳払いを一つしてから着席した。
「法魔を元に戻すのは無理だ。この世界を壊す気か? 力の解放とコントロールをミスすれば辺り一面吹き飛ぶんだぞ。それに、どうやって法魔を捕まえるというんだ?」
魔物から元に戻す為に使うエネルギーが暴走すると、周囲を巻き込んで爆発するのは彼女の研究から判明している。小動物への実験でさえ50メートル圏内のものは吹き飛ぶのだ。つまり法魔を戻すのに失敗すれば彼女の言うように大陸そのものが消え去るだろう。
「どうにかして捕まえるさ。それに、失敗したら死ぬと言ったが、だからなんだ? あいつの犠牲で成り立つ世界なんか滅びてしまえばいい」
イブリスはジンの目の奥に潜む狂気にゾッとする。彼は本気で言っているのだという事がなんとなく分かってしまった。
「本当にそれでいいのか? 友人だって死んでしまうかもしれないんだぞ?」
「……どうでもいい」
「さっき子供の話をしていただろう? その子はいいのか?」
「どうせ死んでいるに決まっている。それか、碌でもない化け物になっているか。生きていたとしても俺達の子は普通じゃない。それならいっそ何も知らない内に死んでしまった方が良いはずだ」
ジンは知らない。シオンが最後の力を使って我が子を友人達に託した事を。魂を受け継いだのではなく、純粋な法魔の力を奪って生まれてきた事を。この彼の強い意志が世界をどれほど歪めていくか。何も知らない世界は一人の青年によって今、着実に滅びに向かい始めていた。
なんてね。
それはすぐさま大きく成長し、美しい20歳位の青年になった。地面まで届く黒い髪。黒曜石の様な黒い瞳。背丈は2メートル近くある。青年は瘴気から一枚の黒い布を生み出すと、それで体を包んだ。そして、自分を覆う結界に右手を伸ばす。稲妻の様なものが触れた箇所を走り、青年は手を火傷する。だが痛みを感じていないのか、青年はその手をまた結界へと伸ばした。だがソールの張った結界は彼が外に出る事を阻んだ。何度も繰り返して、漸くその事を理解したのか、青年は結界に伸ばしていた右手を下ろした。
「な、なぜ結界の内側に人間が?」
ふと青年の耳に声が聞こえてきた。そちらを見ると40代後半の男が驚いた様子で青年を見ていた。そんな彼を見て、青年はニヤリと笑った。直後、凄まじい量の瘴気が彼の体から溢れ出し、ついには結界すらもすり抜けた。その瘴気はまるで意志を持っているかのように動き始め、あっという間に男を覆った。男は悲鳴を上げて逃げようとしたが、開いた口や鼻や耳にどんどん瘴気が入っていった。やがて男を覆っていた瘴気が全て体内に入り消え去った頃、地面には男が意識を失って倒れていた。
『行け』
男に向かって、青年がそう言うと男は幽鬼のように立ち上がり、どこかに向かって歩き始めた。
『さて、あの者らに譲った世界は今どうなっているのかのぅ』
自分の目となる道具を外に放った青年は、結界の外に広がる現在の世界を想像し、胸をときめかせた。
それがジンとイブリスが出会う数日前に起きた事だった。
~~~~~~~~~
あれからジンとイブリスは警備隊にアルツを引き渡した後、資料館に行く前に軽く食事を取る事にして、あるカフェのテラス席につき、雑談をしていた。
「リーラー?」
その苗字を聞いた途端、ジンの顔が歪む。
「ああ、それがどうかしたの?」
「……ディマン・リーラーという名に聞き覚えはあるか?」
彼の口から発せられる言葉には強い怒りの感情が含まれていた。突然の変化にイブリスは混乱する。20数年生きてきたが、これほどまでに強い怒りを感じた事はなかったからだ。冷や汗が流れ、背中が湿る。今にもその怒りが自分に向けられるのではないかという恐怖に怯えた。だがイブリスは勇気を出して努めて冷静に答える。
「それは10年以上前に行方不明になった兄の名前だが、どうしてその名を知っているんだ?」
その言葉に、ジンはボソリと呟いた。
「俺の全てを壊した男だ。そして、この手で初めて心の底から殺したいと願った男だ」
一体自分の兄はこの青年に何をしたのかという疑問がイブリスに湧き上がる。ここまで深い憎しみを持つには些細な嫌がらせ程度ではない。
「何があったか聞いてもいいか?」
イブリスが尋ねると、ジンはしばらく逡巡してから少しずつ話し始めた。それは彼女が想像する以上に悲惨な体験だった。
「奴と俺の全ての始まりは『生命置換』という邪法だった。オルフェンシアに罹った俺を救う為に、姉があの男の手によって魂を分けられる事になった。それが切掛けで、姉は魔人になるのが早まった。……俺がこの手で殺した。それから、何年か経って国に帰ってきた時、あいつは合成獣を作って人々を殺し、仲間を攫った。その仲間は魔人化実験に利用され、俺はそいつを殺した。その上あの男は俺の姉の複製体を作り、陵辱の限りを尽くし、あの人の尊厳を汚した……俺はこの手でまた姉を殺す事になった」
一言呟く毎にその瞳の奥にある怒りの炎が増していく。水の滴る音がして、ふとイブリスが音のした方を見ると、あまりに強く握りしめていたためか、ジンの両拳から血が流れていた。
「そして……あの男は俺から最も大切な人を奪った。あいつがシオンに魔人化実験をしなければ、きっと今もシオンには時間が残されていたはずだ。例え僅かな時間しか残っていなかったとしても、俺達の子供を抱く事すら出来ないなんて事はなかったんだ!」
吐き捨てるように語気を強めて言うジンに、イブリスは何を言えばいいのか分からなかった。幼い頃から会っていない兄がそれほどまでに非道な事をした事に驚愕しながらも、最後に見た兄の様子を思い出し、彼ならやるだろうという事をどこか納得している自分もいた。それほどまでに最後に会った彼は狂っていたからだ。
人を人として認識する事が出来ず、実験動物扱いし、強い承認欲求から狂気の研究が評価されない事に業を煮やし、最後はこの都市からも異端者として切り捨てられた。自分に対して向けられた深い憎悪の感情は今も彼女の心に棘のように刺さっている。
「……何を言っても慰めにはならない。だが、これだけは言わせてくれ。私の兄が君の人生を大きく変えてしまった事、本当にすまないと思っている。私に何か出来る事があるなら言ってくれ。可能な限り叶えるから」
イブリスがジンにしてやれる事などその程度しかなかった。ジンはしばらく心を落ち着かせる為か、目を閉じて深呼吸を何度も何度も繰り返した。やがて目を開けるとイブリスに尋ねた。
「あんたの研究では魔人を元に戻す事も可能なんだよな?」
「あ、ああ、さっきも言ったが理論上にはなるがな。ただ、計算した結果、それを可能とする為には最低でもこの大陸の10分の1を消せる程の莫大な力が必要のようだ。それと魔人と言ってもピンからキリまでいる。例えば最近動き出した四魔達にはどれほどの力が必要かなんて想像も出来ないがね。それこそかつて現れた龍魔が大陸ひとつを消し去ったような力が必要かもしれない」
計算に計算を重ねて得た結論だった。新たな何かが見つからない限り、その計算が覆る事はない。
「龍魔…… レヴィ、いやノヴァか。つまり【範囲】の権能か」
ボソリとジンは呟く。
「何か知っているのか?」
「いや、こちらの話だ。取り敢えず分かった。なら俺はどうにかしてその力を得ればいい訳だ。そうすれば法魔になったあいつを、シオンを救う事ができるんだな」
「ほ、法魔だって!? それはとてもじゃないが無理だ!」
イブリスは思わず立ち上がって、テラス席のテーブルを叩いた。周囲にいた客や通行人が驚いてイブリスの方も見る。それに気づいた彼女は咳払いを一つしてから着席した。
「法魔を元に戻すのは無理だ。この世界を壊す気か? 力の解放とコントロールをミスすれば辺り一面吹き飛ぶんだぞ。それに、どうやって法魔を捕まえるというんだ?」
魔物から元に戻す為に使うエネルギーが暴走すると、周囲を巻き込んで爆発するのは彼女の研究から判明している。小動物への実験でさえ50メートル圏内のものは吹き飛ぶのだ。つまり法魔を戻すのに失敗すれば彼女の言うように大陸そのものが消え去るだろう。
「どうにかして捕まえるさ。それに、失敗したら死ぬと言ったが、だからなんだ? あいつの犠牲で成り立つ世界なんか滅びてしまえばいい」
イブリスはジンの目の奥に潜む狂気にゾッとする。彼は本気で言っているのだという事がなんとなく分かってしまった。
「本当にそれでいいのか? 友人だって死んでしまうかもしれないんだぞ?」
「……どうでもいい」
「さっき子供の話をしていただろう? その子はいいのか?」
「どうせ死んでいるに決まっている。それか、碌でもない化け物になっているか。生きていたとしても俺達の子は普通じゃない。それならいっそ何も知らない内に死んでしまった方が良いはずだ」
ジンは知らない。シオンが最後の力を使って我が子を友人達に託した事を。魂を受け継いだのではなく、純粋な法魔の力を奪って生まれてきた事を。この彼の強い意志が世界をどれほど歪めていくか。何も知らない世界は一人の青年によって今、着実に滅びに向かい始めていた。
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